小山田浩子「穴」(第150回/2013年下半期)

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***本文より >&bold(){ 私は穴に落ちた。脚からきれいに落ち、そのまますとんと穴の底に両足がついた。私は唖然として、唐突に私の視線よりもずっと高くなった草を見上げた。獣の尻は完全にその間に隠れ、しばらくがさがさと音がしていたがほどなく止んだ。} >&bold(){ 顔のすぐそば、穴の縁でコメツキムシが跳ね出した。跳び上がるたびにぱちっと硬い音がする。細長くて黒い背には浅い縦筋がいくつも走っている。頭部には曲がった触覚が見える。コメツキムシのどこがどう鳴っているのかはわからない。私の体はどこも痛くない。穴は胸くらいの高さで、ということは深さが一メートルかそこらはあるのだろう。私の体がすっぽり落ちこんで、体の周囲にはあまり余裕がない。まるで私のためにあつらえた落とし穴のようだった。} ***作品解説 この小説は夫の田舎に住むことになった女が、幽霊のような人物や動物に出会う不思議な体験を描いています。非現実的なストーリーですが、テーマは家族制度の変化という、身近でわかりやすいものとなっています。 主人公の松浦あさひは夫の転勤のために仕事をやめ、夫の実家の隣に引越したのですが、専業主婦としての日々は退屈なものでした。彼女は三十歳ですが子供はいませんし、近所には友人もいません。あさひは家にこもりがちになりますが、実家も含めて日中家にいるのは彼女と、どうやら認知症を患っているらしい義祖父だけです。夫も姑も舅も仕事が忙しく、彼女は次第に自らの怠惰に罪悪感を抱くようになります。 夏のある日、あさひはコンビニへ向かう途中、奇妙な獣を発見します。後を追って川の土手に踏み込んだところ、彼女は穴に落ちてしまいます。一人では抜け出すことができず危険な状況でしたが、たまたま通りかかった女性に救助されます。この穴が作品の中で重要な意味を持っているのですね。数日後、ふたたび獣を発見したあさひが後を追うと、見知らぬ男と遭遇します。男は饒舌で、自らがあさひの夫の兄、つまり義兄であること、二十年近く前に家出し、ずっと実家の裏の物置に住んでいること、あさひが落ちた穴が獣の掘った巣穴であることなどを語ります。ここにおいて、この小説における穴の象徴的意味が明らかになります。穴は獣にとって住居ですが、あさひにとっては自力で脱出することのできない死の空間です。つまり穴=家=死という隠喩になっているのですね。あさひは義兄がいることなど初耳で、その存在を疑います。ちょうどお盆の時期であることや、服装が学生そのものであることなどから、どうやら遠い昔に亡くなった幽霊であることが示唆されます。あさひは穴に落ちたことによって、死の世界の住人と交流しているわけです。 この作品の重要なポイントは、あさひと義兄の価値観のズレです。義兄の家出の原因は、家族制度に対する違和感でした。結婚して子供を生んで、一族を次の世代へ引き継がなければならない、その過剰な連帯感、使命感に嫌気がさしたのですね。義兄はそこから逃げたことに罪悪感を抱いていますが、あさひの罪悪感はもっとシンプルなものです。彼女は子供を欲しいと思っていませんし、夫や姑、舅からの圧力もありません。彼女はただ働かずに家にこもっていることに罪悪感を抱いており、義兄が感じていたような因習的な重圧とは無縁です。 そしてある日、義祖父が夜中に家を抜け出します。たまたま気付いたあさひが後を追いますが、義祖父はあさひと同じ場所で穴に入っていました。思わずあさひも傍にあった穴に入りますが、そこには獣がいました。あさひは獣に押し出されるかたちで外に出ると、義祖父を連れて家に帰ります。穴を本来の所有者の獣に返すことで、あさひは穴=家=死の住人ではなくなったようで、義兄の幽霊と会うこともなくなります。一方、穴に入った義祖父はその数日後、肺炎で亡くなります。あさひは義祖父の介護、葬儀の準備に甲斐甲斐しく働き、ようやく引きこもりを脱し、コンビニのバイトをはじめます。 義祖父が死に、あさひが仕事をはじめたことで、日中の家は空っぽになります。子供を生む意志は希薄であり、そもそもあさひと夫は不自然なほど会話が少なく、傍目には冷え切った関係のように見えます。少なくとも義兄が恐れ、逃げだした家族制度は緩やかに崩壊しています。家から逃げたにも拘わらず、義兄が家族と顔や仕草がそっくりであったことは悲劇ですが、あさひが小説の最後において、姑に顔が似ていることに気付くところは、もはや不条理です。家族制度の崩壊と呪縛をユニークな象徴技法で描いた、技巧の優れた小説です。 ***主な登場人物 ■松浦 あさひ 今年30歳になる女性。非正規で働いていたが、夫の宗明の転勤に伴い退職。 ■松浦 宗明 あさひの夫。実家のある田舎へと転勤になり、たまたま実家の隣の貸家が空いていたため引っ越すことになる。常に携帯電話をいじっている。 ■義兄 自称、宗明の兄だが正体不明。実家の裏の掘立小屋に20年近く住んでいるという。無職で独身。近所のコンビニと川原を遊び歩いている。 ■獣 謎の獣。黒い毛が生えていて中型犬より少し大きい。尻尾が長くて耳が丸い。蹄がある。 ■姑 宗明の母。定年間近だが、正社員として働いている。 ■舅 宗明の父。再雇用か役員待遇かで、まだ働いている。ゴルフや釣りが好きで、ほとんど外出している。 ■義祖父 宗明の祖父。足腰は強いが認知症らしく、雨の日でも庭に水撒きをしている。耳が遠い。 ■世羅 実家の隣に住む女性。穴に落ちたあさひを救助する。5歳の子供がいる。 ■同僚の女 あさひの元職場の同僚で3歳年上。彼氏と同棲している。 ----
***本文より >&bold(){ 私は穴に落ちた。脚からきれいに落ち、そのまますとんと穴の底に両足がついた。私は唖然として、唐突に私の視線よりもずっと高くなった草を見上げた。獣の尻は完全にその間に隠れ、しばらくがさがさと音がしていたがほどなく止んだ。} >&bold(){ 顔のすぐそば、穴の縁でコメツキムシが跳ね出した。跳び上がるたびにぱちっと硬い音がする。細長くて黒い背には浅い縦筋がいくつも走っている。頭部には曲がった触覚が見える。コメツキムシのどこがどう鳴っているのかはわからない。私の体はどこも痛くない。穴は胸くらいの高さで、ということは深さが一メートルかそこらはあるのだろう。私の体がすっぽり落ちこんで、体の周囲にはあまり余裕がない。まるで私のためにあつらえた落とし穴のようだった。} ***作品解説  この小説は夫の田舎に住むことになった女が、幽霊のような人物や動物に出会う不思議な体験を描いています。非現実的なストーリーですが、テーマは家族制度の変化という、身近でわかりやすいものとなっています。 主人公の松浦あさひは夫の転勤のために仕事をやめ、夫の実家の隣に引越したのですが、専業主婦としての日々は退屈なものでした。彼女は三十歳ですが子供はいませんし、近所には友人もいません。あさひは家にこもりがちになりますが、実家も含めて日中家にいるのは彼女と、どうやら認知症を患っているらしい義祖父だけです。夫も姑も舅も仕事が忙しく、彼女は次第に自らの怠惰に罪悪感を抱くようになります。  夏のある日、あさひはコンビニへ向かう途中、奇妙な獣を発見します。後を追って川の土手に踏み込んだところ、彼女は穴に落ちてしまいます。一人では抜け出すことができず危険な状況でしたが、たまたま通りかかった女性に救助されます。この穴が作品の中で重要な意味を持っているのですね。数日後、ふたたび獣を発見したあさひが後を追うと、見知らぬ男と遭遇します。男は饒舌で、自らがあさひの夫の兄、つまり義兄であること、二十年近く前に家出し、ずっと実家の裏の物置に住んでいること、あさひが落ちた穴が獣の掘った巣穴であることなどを語ります。ここにおいて、この小説における穴の象徴的意味が明らかになります。穴は獣にとって住居ですが、あさひにとっては自力で脱出することのできない死の空間です。つまり穴=家=死という隠喩になっているのですね。あさひは義兄がいることなど初耳で、その存在を疑います。ちょうどお盆の時期であることや、服装が学生そのものであることなどから、どうやら遠い昔に亡くなった幽霊であることが示唆されます。あさひは穴に落ちたことによって、死の世界の住人と交流しているわけです。  この作品の重要なポイントは、あさひと義兄の価値観のズレです。義兄の家出の原因は、家族制度に対する違和感でした。結婚して子供を生んで、一族を次の世代へ引き継がなければならない、その過剰な連帯感、使命感に嫌気がさしたのですね。義兄はそこから逃げたことに罪悪感を抱いていますが、あさひの罪悪感はもっとシンプルなものです。彼女は子供を欲しいと思っていませんし、夫や姑、舅からの圧力もありません。彼女はただ働かずに家にこもっていることに罪悪感を抱いており、義兄が感じていたような因習的な重圧とは無縁です。  そしてある日、義祖父が夜中に家を抜け出します。たまたま気付いたあさひが後を追いますが、義祖父はあさひと同じ場所で穴に入っていました。思わずあさひも傍にあった穴に入りますが、そこには獣がいました。あさひは獣に押し出されるかたちで外に出ると、義祖父を連れて家に帰ります。穴を本来の所有者の獣に返すことで、あさひは穴=家=死の住人ではなくなったようで、義兄の幽霊と会うこともなくなります。一方、穴に入った義祖父はその数日後、肺炎で亡くなります。あさひは義祖父の介護、葬儀の準備に甲斐甲斐しく働き、ようやく引きこもりを脱し、コンビニのバイトをはじめます。  義祖父が死に、あさひが仕事をはじめたことで、日中の家は空っぽになります。子供を生む意志は希薄であり、そもそもあさひと夫は不自然なほど会話が少なく、傍目には冷え切った関係のように見えます。少なくとも義兄が恐れ、逃げだした家族制度は緩やかに崩壊しています。家から逃げたにも拘わらず、義兄が家族と顔や仕草がそっくりであったことは悲劇ですが、あさひが小説の最後において、姑に顔が似ていることに気付くところは、もはや不条理です。家族制度の崩壊と呪縛をユニークな象徴技法で描いた、技巧の優れた小説です。 ***主な登場人物 ■松浦 あさひ 今年30歳になる女性。非正規で働いていたが、夫の宗明の転勤に伴い退職。 ■松浦 宗明 あさひの夫。実家のある田舎へと転勤になり、たまたま実家の隣の貸家が空いていたため引っ越すことになる。常に携帯電話をいじっている。 ■義兄 自称、宗明の兄だが正体不明。実家の裏の掘立小屋に20年近く住んでいるという。無職で独身。近所のコンビニと川原を遊び歩いている。 ■獣 謎の獣。黒い毛が生えていて中型犬より少し大きい。尻尾が長くて耳が丸い。蹄がある。 ■姑 宗明の母。定年間近だが、正社員として働いている。 ■舅 宗明の父。再雇用か役員待遇かで、まだ働いている。ゴルフや釣りが好きで、ほとんど外出している。 ■義祖父 宗明の祖父。足腰は強いが認知症らしく、雨の日でも庭に水撒きをしている。耳が遠い。 ■世羅 実家の隣に住む女性。穴に落ちたあさひを救助する。5歳の子供がいる。 ■同僚の女 あさひの元職場の同僚で3歳年上。彼氏と同棲している。 ----

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