朝吹真理子「きことわ」(第144回/2010年下半期)

本文より

貴子が足の全指をぞろぞろとうごかして永遠子の身体をつねる。「ひゃっ」と息がもれ、ふたりはぐにゃぐにゃにもつれあう。運転席の春子が振り返り、低い笑い声をまじえて、そうしていると、どちらの腕が貴子なのか永遠子なのかがわからなくなると言った。
「わたしたちにもわからない」
 貴子がそう言ってからまった足をくすぐると、永遠子がのけぞる。
「これはとわちゃんの足だった」
 にやにやと貴子が笑う。永遠子も、これはどっちの足だと、貴子の足をくすぐりかえす。貴子が永遠子の頬をかむ。永遠子が貴子の腕をかむ。たがいの歯形で頬も腕も赤らむ。素肌をあわせ、貴子の肌のうえに永遠子の肌がかさなり永遠子の肌のうえに貴子の肌がかさなる。しだいに二本ずつのたがいの腕や足、髪の毛や影までがしまいにたがいちがいにからまって、どちらがおたがいのものかわからなくなってゆく。

作品解説

 この小説は貴子と永遠子という2人の女性の25年振りの再会を描いています。25年前、貴子は小学3年生で永遠子は高校1年生。2人は貴子の家族が所有する別荘(神奈川県の葉山)で、おもに夏の間だけ数年間を一緒に遊んで過ごしました。同伴者は貴子の母の春子と、叔父の和雄です。失恋や裏切り、喪失といった苦い経験もなく、当時のことは、他愛ないけれどキラキラした美しい思い出として貴子と永遠子の記憶に刻まれています。しかし春子が死んでしまったために、2人は別荘を訪れることがなくなり、そのまま会うこともありませんでした。そして25年後、別荘を解体することが決まり、その整理のために2人は再会します。25年という歳月は2人を大人の女性に変えていました。永遠子は結婚し、小学3年生の子供がいます。育児ストレスにより、わが子を殺したい衝動に駆られたこともあります。また、母親が不倫していたこと、自分の妹(弟)になるはずだった子供を堕胎していたことも知っています。そして貴子は、母親を心臓病で喪っています。また、妻子のある男性と不倫関係になり、思いつめた末に心中計画まで立てたこともあります。
 といっても、この小説のポイントは、無垢な少女時代と世知辛い大人の世界を対比させることではありません。この小説の特色は、少女時代の思い出を過去の「事実」として描くのではなく、わざと正確さを欠いた曖昧なものとして描いていることです。作品の冒頭から、少女時代に海で遊んだ記憶が描かれますが、これは永遠子の夢として描かれています。夢の話ですので、読者はそれが実際に起こったことなのか判断がつきませんし、当の永遠子もそれが正確なのかどうか分かりません。また、貴子と永遠子の記憶は微妙に食い違っています。たとえば、25年前の同じ場所に、永遠子は道路反射鏡があったと記憶し、貴子はヒマワリが咲いていたと記憶しています。また、永遠子は氷雨が降っていたと記憶し、貴子は雪が降っていたと記憶しています。そのどちらが「正しい」のか、誰にも分からないのですね。過去の思い出をこのように曖昧なものとして描くことで、作品として抒情の厚みがでますし、事実と虚構(夢、思い込み)を不分明にすることで幽玄な雰囲気も立ちあがってきます。
 しかし貴子と永遠子はせっかく同じ時間、同じ空間を一緒に過ごしていたのに、2人の記憶がバラバラというのも悲しいですよね。作者はそのフォローもしっかり描き込んでいます。たとえば、少女時代の思い出において、貴子と永遠子が身体的に絡み合って一体化してしまう場面が何度も描かれます。ぐにゃぐにゃにもつれあって、どちらの腕と足か分からなくなったり、髪にブラシをかけあっていても、いつも2人の髪は絡まってしまいます。また、身体以外にも2人の運命的なつながりが描かれます。貴子は二階の屋根から落ちそうになったところを、永遠子から引っぱられて助けてもらった記憶を永遠子に語ります。永遠子はそのことを覚えていませんでしたが、その話を聞いた数時間後、携帯電話に気を取られて遮断機の下りた線路に踏み込もうとしたところを、何者かに髪を引っぱられて命を救われます。誰が引っぱったのか不明であり、一種の超常現象としてこの体験は描かれますが、あきらかに貴子と永遠子の強い結びつきを示すための演出ですよね。つまり、貴子と永遠子はバラバラのようでいて、つながっているようでもあります。なんとも絶妙なバランス感覚をもった作品です。

主な登場人物

■貴子(きこ)
33歳の女性。身長175㎝。東京都在住。最後に永遠子と会った時は小学3年生。中学の国語教師。独身で父親と2人暮らし。
■永遠子(とわこ)
40歳の女性。身長151.6㎝。逗子(神奈川県)在住。母親が貴子たちの別荘の管理人をしていた関係で、貴子と別荘で一緒に遊ぶようになる。最後に貴子と会った時は高校1年生。夫と娘と3人暮らし。
■春子
貴子の母。貴子と永遠子が最後に会った年の翌年の春に狭心症で死去(享年33)。夏に貴子を葉山の別荘に連れて行っていた。
■和雄
春子の1歳違いの弟。葉山の別荘で貴子、永遠子、春子に同伴していた。
■貴子の父
大学病院の外科医だったが、持病の腰痛が悪化したため、現在は製薬会社の研究所に勤めている。
■淑子
永遠子の母親。賃貸住宅の管理業をしている。
■百花(ももか)
永遠子の娘。小学3年生。







最終更新:2014年04月11日 17:40