円城塔「道化師の蝶」(第146回/2011年下半期)


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本文より

 以前は自分の書いた文字だけを読んで過ごしていたが、この記念館へやって来てから、他人の書いた文字も読むようになった。たとえば今のわたしは、昼間の男が残した原稿を机の前に広げている。友幸友幸ではないあの人物。そこに何が書かれているかはわからない。それはわたしの知らない言葉で、自分で書いたわけではない異国の言葉をきちんと読めるようになるためには、実際その地へ行かねばならない。
 それでも文字は作用する。紙質や、パルプの繊維、封筒の汚れと全く同じに。そこから得られる漠然とした印象を、目にしたままに書き記していく。

作品解説

 実業家であり、不動産業も営んでいたエイブラムスの部下が、ある家賃未払いの部屋に踏み込んだところ、多数の手芸用品と原稿の束を発見します。その残留品の混沌さに金の匂いをかぎつけたエイブラムスは、エージェントを雇って部屋の居住者の追跡を命じます。その居住者こそ友幸友幸と呼ばれる謎の作家(?)であり、世界中を転々とする友幸友幸とエイブラムスのイタチごっこが始まります。この小説はIからVまで5つの章で構成されており、Ⅰは友幸友幸が書いたとされる小説で、ⅡとⅣは友幸友幸を追跡するエージェント、ⅢとⅤは友幸友幸が語り手となっています。しかしなかなか難解な作品で、たとえばⅡにおいて友幸友幸は男性とされていますが、Ⅲ、Ⅳ、Ⅴでは女性になっています。そして友幸友幸を追跡するエイブラムスもⅠ、Ⅴでは男性ですが、Ⅱでは女性として描かれます。他にも設定がコロコロ変化するので読みにくいのですね。
 Ⅲにおいて友幸友幸の生活の実態が描かれますが、彼/彼女には放浪癖があり、世界各地で日中はもっぱら現地の伝統的な手芸を学習し、夜は現地の言葉での文章の執筆に勤しみます。アーティストのようでもありますが、彼/彼女には自身のオリジナル作品への意欲はなく、ただ現地の手芸を模倣し、耳にした会話をそのまま文章化するだけです。結果として20カ国以上の多種多様な手芸作品と多言語の原稿の束が残されます。手芸はともかく、20以上もの言語を習得するというのは相当な能力ですが、その代わりに土地を移動してしまうと、せっかく習得した手芸と言語は忘却してしまいます。覚えるのも早いですが、忘れるのも早いのですね。しかしその土地へ戻ってくると、ある程度記憶がよみがえるようです。友幸友幸にとって、土地・記憶は固く結ばれており、作品は現地でなければ書くことも読むこともできないということです。このような現地主義は、Ⅰに掲載されている友幸友幸が書いたとされる小説の重要なテーマにもなっています。小説にはエイブラムスが登場するのですが、彼/彼女は実業家であり、事業のための奇抜な着想・アイデアを常に求めています。しかし自分の頭で考えるのではなく、他人が浮かべた着想を捕虫網で捕まえるという奇癖を持っています。そして彼/彼女は飛行機で隣に座った乗客の「旅の間にしか読めない本があるとよい」という着想を捕まえ、「~で読むに限る」シリーズの出版で成功を収めます。たとえば「飛行機の中で読むに限る」という本であれば、実際に飛行機の中で読まなければ、本当の面白味は分からないというわけであり、前述の現地主義と絶妙にリンクしています。
 友幸友幸が世界各地で作った作品は、所詮模倣であり、短期間の滞在であるために熟練にはほど遠い未完成品にも見えます。しかし、本作品においてはこのような未完成品に対する肯定的なメッセージがあふれています。エイブラムスの死後も、友幸友幸の追跡および作品の収集は継続されるのですが、その資料はすべてエイブラムス私設記念館に集められます。そして他でもない友幸友幸本人が身分を隠して職員として記念館に就職するという皮肉な展開になるのですが、そこに収集される資料には他人の作品や、エージェントによる偽作が多数まぎれこんでいました(どうやらⅠの小説も偽作のようです)。つまり友幸友幸の作品だけでも多種多様なのに、そこに他人の創作物までまぎれこんでいよいよ混沌とした資料群となっているわけです。この記念館の収集物は、まさしく「道化師の蝶」という作品自体の象徴にもなっています。ときには矛盾も含んだ未完成の断片的イメージを積み重ねていく作法の小説。難解ではありますが、その荒唐無稽を楽しむ作品であり、テーマと構成がよく一致した作品といえます。

主な登場人物

■友幸友幸
本名不詳。性別不詳。友幸友幸という名前は仮名の一つにすぎない。世界各地を放浪している。
■A・A・エイブラムス
性別不詳。様々な事業を展開している実業家で資産家。
■エージェント
友幸友幸を追跡する目的でエイブラムスに雇われた人員。かなり多数のようだが、友幸友幸までたどりついた者はいない。
■鱗翅目研究者
老人。エイブラムスが捕まえた架空の蝶の鑑定をする。