田中慎弥「共喰い」(第146回/2011年下半期)


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本文より

 魚屋では仁子さんが、店の中に溜った水を外へ掻き出しているところだった。二人を見るなり手に持っていたバケツを放った。沈まずに、ゆっくりと漂った。魚が一匹も入っていない硝子ケースの上に、虎猫が居座っている。
 仁子さんは、血と腫れの引かない千種の顔を正面から見、遠馬を見て、
「さっきあの男、来たんよ。琴子さんおらんことなった言いよった。また、あの目になっちょった。あんたは、なんしよったんかね。」
「俺が、社に行っちょきゃよかった。」
「社でかね。社で、社であいつがこうしたんか。」とまた千種を見、「うちが最初に、なんとかしとくべきじゃったわ。」

作品解説

 舞台は昭和63年の夏、地方都市の「川辺」と呼ばれる地域です。「川辺」とは、上流の方は住宅地の下になり、下流の方は国道の下になるため、表面に露出しているのが二百メートルほどにすぎない川の沿岸にできた集落です。他の地域と比べて開発が遅れており、下水がそのまま川へ流れ込むような不潔で陰鬱な地域なのですが、しばしば近代文学で描かれるような、差別/排除という日本の村社会のドロドロした因習ではなく、汚れた川の自然描写と、村社会に還元されない個人の情念のドロドロが本作品の読みどころになります。
 主人公の遠馬は高校2年生で、父親の円(まどか)と、その愛人の琴子と3人で「川辺」に住んでいます。遠馬の実母の仁子は川を挟んで遠馬たちのすぐ近くの魚屋に住んでいます。本作品においては遠馬、円、仁子の3人の描写に特に力が入っているのですが、遠馬、円が非常に分かりやすい行動原理を持っているのに対し、仁子の行動原理は少し不可解なものになっています。仁子は遠馬を産んで1年ほどで家を出たのですが、それは円がセックスの際に暴力を振るうためでした。円の行動原理はこの性欲=暴力というシンプルなものであり、仁子に限らず、セックスの最中であれば誰であろうと(もちろん愛人の琴子にも)暴力を振るいますが、それ以外では暴力を振るうことはありません。円は自身のこの性癖について自省することなく、平然と生きているのですが、どうやらその性癖を受け継いでしまったらしい息子の遠馬は、ひどく苦悩します。遠馬は一つ年上の千種という女性と交際しており、何度もセックスを重ねているのですが、しばしば暴力への衝動に駆られ、ついには彼女の首を絞めてしまいます。彼は自分に流れる父の血を恐れるのですが、その父に対する嫌悪を醸成したのが他ならぬ実母の仁子なのです。
 仁子はたびたび円への憎悪を遠馬に語ります。もちろんセックス中の暴力についても生々しく語り、その円の血を遠馬が引き継いでいること、そして遠馬が確実に円と同じ道をたどることを不気味に予言します。仁子は戦争で右手を失った障害者なのですが、千種が決して美しい顔立ちとはいえないことと重ね合わせて、性欲さえ満たされれば、外見上の容姿などまったく問題としないところも円と遠馬の相似をみたのでしょう。そして仁子は遠馬が千種に対して暴力を振るったことも素早く察知し、自分が円に暴力を振るわれた際、本気で殺そうと思ったこと、やがて千種から復讐されることを覚悟するようにと遠馬に語ります。物語はここから急展開を迎え、愛人の琴子が妊娠したまま家出し、逆上した円が千種を強姦するという事件が起こります。そして円に復讐を決行したのは遠馬ではなく仁子でした。仁子は事件の報告を聞くや、すぐに家を飛び出して円を刺し殺します。ここにおいて、仁子が円に対して抱いていた憎悪・殺意が本物であったことが示されるわけです。
 この小説は遠馬が主人公であり、その仮想敵として円が描かれているのですが、そもそも両者の関係性を生成・助長したのが仁子であり、その終止符を打ったのも仁子ということになります。一見すると分かりやすい、父と子の相克のドラマを演出しておきながら、約20年越しの復讐によって一気に物語を支配してしまう仁子の圧倒的な存在感。物語の構図が分かりやすいようで分かりにくく、古いようで新しい、刺激的な作品です。

主な登場人物

■篠垣 遠馬(しのがき とおま)
高校2年生で17歳。千種と交際している。円と琴子と3人暮らし。
■篠垣 円(まどか)
遠馬の父。50歳近い。職業不詳。セックスの最中に相手に暴力を振るう性癖がある。
■仁子(じんこ)
遠馬の母。60歳近い。戦争中、空襲により右手を失い、義手をつけている。円と別れてすぐ近くの魚屋に一人で住み、経営もしている。
■会田 千種(あいだ ちぐさ)
高校3年生で、遠馬たちのすぐ近所に住んでいる。遠馬と交際している。
■琴子
円の愛人で一緒に住んでいる。35歳。飲み屋街の店で働いている。
■アパートの女
遠馬たちの家のすぐ近所に住んでいる売春婦。40歳くらい。