黒田夏子「abさんご」(第148回/2012年下半期)


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本文より

家うちがつぎつぎと改変されていくのを, 繁忙者たちも利用しなかったわけではない. 通りぬけ自在だったぶようじんに門扉や裏木戸がとりつけられ, 洗面台や物干しが新しくされ, ふろがまの方式がかんべんになり, あちこちに安ものの日よけが掛けめぐらされた. 小いえはたちまち仮寓のすがしさをうしない, こうでしかないという卑しさがひしひしと固定していった. 住みうつって十ねんの者たちにはのがれようのないほんとうの転落がはじまり, 改変者にはひたすら功績感と所有感がつのっていった.

作品解説

 この小説は娘が語り手となって、父と継母との思い出を語ったものです。ストーリーは語り手の幼少期からほぼ時系列に沿って進行し、大まかな流れとしては、4歳の時に母が死去、5歳の時に疎開のため引っ越し、8歳の時に終戦(1945年)、15歳の時に後に継母となる家政婦が登場、22歳の時に就職のため家を出て自立、42歳の時に父が死去、となります。
 本作品の最も重要なポイントは、継母への嫉妬、憎しみです。語り手は富裕な家の生まれであり、継母は最初、家政婦として父娘の前に登場します(当時、家政婦は27歳、父は53歳、語り手は15歳)。家政婦は家に入って初めての食事の際、テーブルに3人分の皿をならべて父と娘を驚かせます。父と娘にとって、使用人は別の場所で食べるのが常識だったので、その厚かましさに驚いたのですね。語り手は初日から、この家政婦の言葉遣い、目つき、手つき、そのすべてに嫌悪を抱きます。家政婦は合理性、利便性を優先して日々の生活の改良に取り組んでいきますが、何事も変化を好まない語り手とは相性が合わなかったようです。また、家政婦は家に住み込んでまもなく、父への恋心を語り手に打ち明け、1年も経たないうちに家計の管理を任されていることから、父との関係を急速に深めていたことが推測されます。語り手は既に亡くなった実母に対しては少し冷淡にすぎるくらいなのですが、父へは強い愛情、共感を寄せており、その父を奪われることで、いよいよ家政婦への嫉妬、憎しみを募らせたようです。また、父と家政婦が並んでいたところ、他人が2人を親子と間違える場面も描かれます。2人の年齢差を考えるとごく自然な観察ですが、語り手にとって、母という不在のポストだけでなく、娘という自分のポストすら侵される苛立ちを感じたのではないでしょうか。
 この小説はあくまで娘の主観的な立場から語られていますので、客観的な立場から家政婦=継母を非難するのではなく、かなり歪んだ形でその悪口が語られることになります。家政婦=継母の振る舞いは戦後の新しい価値観を象徴するものとして、擁護しようと思えばいくらでも擁護できる性質のものです。そのためいっそう語り手の悪意が際立つのですね。しかしこの小説の特色は単に家政婦=継母への嫉妬、憎しみをネチネチ語ることではありません。語り手は家政婦=継母を「いなくなるはずの者」「外来者」「早晩通りすぎるはずの者」「金銭配分人」などと呼び、決して「母」という言葉で語ろうとはしません。一読すれば分かるように、この小説は横書き・ひらがなの多用・固有名詞の排除といった慣用的な日本語表現とはかけ離れた文体が使用されています。この小説の凄味は、「新しい日本語」「美しい日本語」といった崇高な理念ではなく、継母への悪意を最大限に発揮する目的で独自の文体を造りだしてしまったことにあります。庭に繁茂する雑草を刈り取った家政婦=継母は、語り手から「草ごろし」と呼ばれます。「草ごろし」などという冗談のような言葉が冗談でなくなる奇怪な言語空間。きわめて読みにくい文章ですが、空疎な実験精神ではなく、語り手の怨念が充満しています。悪意と知性の極限ともいうべき小説です。

主な登場人物

■語り手
性別に関する描写はないが女性と推測される。現在の年齢は不明だが、50代半ばを超えていることは確か。
■語り手の父
性別に関する描写はないが男性と推測される。70歳で家政婦と入籍。80歳で死去。
■家政婦
性別に関する描写はないが女性と推測される。27歳から語り手の家に家政婦として住み込む。44歳で語り手の父と入籍。
■語り手の母
性別に関する描写はないが女性と推測される。語り手が4歳の時に死去。享年不明。