藤野可織「爪と目」(第149回/2013年上半期)


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本文より

母の死は、事故として処理された。わたしは母の死因をことばで聞かされたことはない。わたしは母の声もおぼえていない。おぼえているのは、母の笑顔だ。母は笑い、わたしも笑っていたから、わたしたちのあいだにある窓ガラスは口元でぶわぶわと白く曇った。わたしたちはそれが可笑しくて、でも笑うといっそう曇っておたがいが隠れてしまうから、できるだけ笑いをこらえなくてはいけなかった。わたしは爪先立ち、顎を思い切り反らせて母を見上げていた。曇りの晴れていくガラスの向こうで、母はいくつもの部品の寄せ集めのように見えた。

作品解説

 この小説は分かりやすいようで分かりにくい作品です。強引に分かりやすく説明するなら、家事・育児に熱心だった母が死んで心に傷を負った3才の女児が、父の元不倫相手の継母に虐待を受けるものの、最後に残酷な復讐をするというストーリーになります。
 しかし、なかなか話は単純ではありません。まず、この継母(候補)の麻衣という女がそこまで悪人として描かれていません。男癖が悪かったり、家事・育児に興味がなかったりするのですが、類型的な悪人ではなく、単に世間に対する無関心・無気力が結果的に周囲に悪感情を持たせてしまうような、いわばごくありふれた〈嫌われやすいタイプの人〉として描かれています。そもそも父親も実母も、とりたてて善人として描かれているわけではありません。父親は元妻や麻衣、そして娘にも特に愛情を注いでいるわけではなく、平気で浮気を繰り返すような男です。また、実母に対する描写も辛口です。実母は存命中、自らのライフスタイルを写真と数行のテキストで披露するブログを管理していましたが、似たようなブログはネット上に数多くあり、自らの周囲をオシャレに飾り立て、それを外部に誇示しようという欲望をもった女性たちの一人、つまり群像の一人として描かれています。彼女の熱心だった家事・育児も、他人に誇示するためのオシャレなインテリア、オシャレな洋服、オシャレな食べ物として、なんだか皮肉っぽく描写されています。
 多くの読者が感じたことでしょうが、この作品の一番の悪人は3才児の陽奈ちゃんです。作品は陽奈が語り手であり、上記の麻衣、父親、実母の描写は彼女の視点で語られたものです。3才児であるにも拘らず、神の如き全知の語り手であり、彼女が知るはずもない他人の会話や心理までも平然と語っていきます。この時点で超現実的であり、ホラーですよね。彼女は目が良すぎるのであり、時間を超越して過去と未来すら見通す力も持っているようです。そんな彼女が唯一目を背ける(ふりをする)のが、実母の死です。実母はベランダで謎の死を遂げ、陽奈は確実に真相を知っていますが、決してそれを語ろうとしません。彼女が実母を殺したことをほのめかすような不穏な描写もあったりします。真相はともあれ、実母の死によって、陽奈は心に傷を負い(?)、ベランダに近づくことを異常なほどに拒絶するようになります。陽奈が麻衣に復讐するきっかけとなったのは、麻衣が突然来訪した浮気相手を部屋に入れるために、邪魔な陽奈をベランダへ無理やり追い出したことです。しかし陽奈の目はあまりにも澄明でした。そのベランダは心の傷を具現化するような暗く荒んだ空間ではなく、枯れかけた観葉植物が生き生きとよみがえる、明るくあたたかな空間でした。それでも陽奈はうなり声をあげて窓を叩き、翌日には復讐を決行します。
 つまりこの作品において、陽奈の復讐には動機が存在しないのです(みせかけの動機はいくらでも描かれていますが)。全知の視点を持った陽奈にとっては、麻衣も父親も実母も等しく不完全でありふれた人間にすぎません。ベランダすら凶々しい空間ではなく、ごくありふれた空間であることも知っています。すべてを許せる立場にありながら、それでも許さない、不条理な神のごとき3才児。その不穏さを楽しむ小説です。

主な登場人物

■陽奈(ひな)
作品の語り手。3歳の女児。母の死により心に傷を負っている(?)。
■麻衣
20代半ばの女性。通販会社の派遣社員。陽奈の父と不倫していたが、陽奈の母の死後、同居するようになる。
■陽奈の父
30代後半の男性。有名企業に勤めるサラリーマン。
■カナ(加奈?佳奈?)
陽奈の母。家事・育児に熱心だったが、ベランダで謎の死をとげる。生前、hina*mama という名前でブログを管理していた。
■古本屋の店長
麻衣の浮気相手。大学生の様な風貌だが、実際は麻衣より年上。
■麻衣の母
陽奈の育児などに関して麻衣にいろいろ忠告を与える。