磯崎憲一郎「終の住処」(第141回/2009年上半期)

本文より

芝生の下には、子供の彼が寝転んで遊んだ三十年前と同じ小石や砂、割れた食器の破片などがいまでも埋まっているのかもしれなかったが、家族がこの家に越してくる前の、じっさいには経験しているはずのない記憶までがこうして次々によみがえってくるこの空間の不思議さだけは、彼などには一生かかっても解明できないような気がしていた。じっさいそれで何ら問題などなかった。彼が生きていくということはおそらく、生み出される実在しない記憶をそのまま受け入れることに他ならなかったのだ。

作品解説

 この小説は平凡なサラリーマンの半生を、独特の時間感覚で描いています。作品の冒頭近く、主人公は幻覚のような超現実的な場面に遭遇します。彼が見たのは、まるで巨大生物が暴れているかのように荒れ狂う沼と、その上で爆音を鳴らして低空に留まり続けるヘリコプターでした。これは分かりやすい「時計」の隠喩ですね。沼が文字盤で、ヘリのプロペラが時計の針をあらわしています。この不穏な時計のイメージがそのまま作品全体の雰囲気を支配することになります。
 この作品の特色は、未来と過去の概念が逆転していることです。つまり、未来とは無限の可能性に満ちたもので、過去とは既に選択されてしまった、ただ一つの事実というイメージが一般的ですが、この作品ではそれが逆転してしまっているわけです。主人公は製薬会社の営業マンで、最初はなかなか成績が伸びませんが、やがて成果を出し、順調に出世していきます。これについて主人公は自分の意志や努力ではなく、単に世間の好景気に誘導されたものだという認識に捕らわれます。また、妻との結婚についても、お互い30を過ぎていたということもあり、単に世間体に誘導されてのことであったと認識しています。つまり主人公は、起こるべくして起こった人生を歩んできたというわけです。また、妻は常に不機嫌で主人公は家庭内の不和に悩みます。主人公は自らの浮気が妻の不機嫌の原因であると推測します。しかし時系列的にいえば、結婚当初から、つまり主人公が浮気をはじめる前から妻は不機嫌でした。過去において浮気をしていなくても、未来において浮気をするという理由で現在の夫に不機嫌になるという、未来と過去の奇妙な逆転がここには描かれています。
 この歪んだ時間軸の中でも、まだ未成年の娘と、百年以上の耐久性を持つように設計された新しいマイホームだけは、主人公にとって未来の無限の可能性を持っていました。しかし作品の結末において、長期の海外出張から帰宅した主人公は愕然とします。そこに娘の姿はありませんでした。百年どころか、主人公と妻に残された時間は僅かであり、死に至るまでの年月を、その家で二人だけで過ごさなければならないという、確定してしまった「未来」だけがありました。
 一見、あまりに閉塞的すぎる結末のようにも見えますが、この作品においては未来の代わりに過去が無限の可能性を持つものとして描かれます。実家に戻った主人公が、不意に小学生の自分が家から飛び出してくる幻覚(?)を見て、郷愁の涙を流すシーンがありますが、その家は主人公が中学生になって引っ越してきたはずであり、小学生の自分の記憶は、いわば偽の記憶ということになります。しかし、このように次々と生み出される偽の記憶こそが無限の可能性、豊かな創造性を持っているわけです。この作品は平凡な男の半生を描いたものですが、ところどころに非現実的な妄想めいたエピソードが挿入されます。たとえば冒頭のヘリコプターであったり、月が常に満月であったり、妻と11年間も口を利かなかったり、浮気相手との奇妙な馴れ初めが描かれます。つまり、この作品はまるごと主人公の「過去」の回想であり、歪められた偽の記憶の物語というユニークな構成になっているわけです。起こるべくして起こる「未来」と、奔放に脚色されていく「過去」。常識的な時間感覚が揺さぶられる、刺激的な作品です。

主な登場人物

■彼
主人公。製薬会社の営業マン。三十歳をすぎて結婚。
■妻
三十歳をすぎて主人公と結婚。専業主婦(?)。
■娘
主人公夫婦の娘。
■黒いストッキングの女
主人公の浮気相手。主人公と同じ会社で働いている。
■サングラスの女
主人公の浮気相手。電車内で主人公と出会う。
■老建築家
主人公のマイホームの設計を依頼された建築家。老人で長身。
■取締役
主人公の勤める製薬会社の海外事業投資を管掌する取締役。
■米国の製薬会社の社長
主人公の勤める製薬会社に買収を仕掛けられた米国企業の社長。







最終更新:2014年04月11日 17:38