『笑顔』 第一章

これは、私が始めて道重さんに出会った時の話です。
それは私にとって「大切な存在」との出会い・・・
そして「笑顔」との出会い。


私がその「古本屋」でバイトしようと決めた理由は、実はあまり覚えていないんです。
でも、多分「本屋のバイトぐらいなら私にもできるかも」程度の考えだったと思います。

店に入ってみると、想像以上に狭くて薄暗い店内でしたけど、見た感じ誰もいませんでした。
お客さんはまだしも、店員さんの姿も見えません。

「ごめんくださーい」

声をかけましたが、返事がありません。何回か繰り返しても同じです。

本棚の少し奥にテーブルと椅子が見えたので、誰かが来るまで座って待たせてもらおうと思いました。
椅子を後ろに引いて、持っていたサイドバックを背もたれにかけてから、私はもう一度店内を見渡しました。
私以外誰もいない店内は、どこかシュールで・・・

まさか店員さん、店をほっぽってどこかに出掛けているんだろうか?
入り口が開いているのに店員さんが不在では、いつ泥棒が入るとも限らないじゃないか。

そんなことを考えつつ椅子に腰を預けた私は、小さくため息をつきました。

・・・こんな店でバイトして大丈夫かな・・・


少し不安になりつつテーブルの上を見ると、包み菓子が入ったかわいらしいカゴを見つけました。
実はここに来る前にあちこち歩き回っていて結構疲れていたので、
カゴの中から黄色いのを選んで、ひとつだけもらうことにしました。
袋から出して口に入れると、チョコレートの甘さが。
さらに噛んでみると、なかからとろりとしたものが。これは・・・はちみつ?

・・・おいしい。疲れが溶けるみたいだ。

私はもう少しだけ、とカゴから同じ色のを探しましたが、この味は今のがラストだったみたいでした。

少しがっかりしながらカゴの横を見てみると、そこには小さなノートパソコンがあり、蓋が開いている状態でした。

この店のパソコンかな?
・・・やっぱりこういう店でも、機械に強くないと駄目なのかな?

反対を向いているディスプレイを覗こうとして・・・

「あれ?」

パソコンの裏のテーブルの上に、読みかけの本がある事に気づきました。

それはかなりの分厚さの本で、開いているページの半分には少し大きめの文字の文章が、
もう半分には、挿絵が描かれているようでした。

「絵本・・・かな?」


その本に顔だけ近づけて見ようとして・・・でもすぐに本を手元に引き寄せて凝視していました。

なにこれ・・・すごい。

右側のページに描かれていた絵は黒い服の女の子が箒にまたがっている様子を表したもので、
その優しいタッチと細かい色使いに、思わず見入ってしまいました。

ページをぱらぱらとめくってみると、文章が載っている箇所はまばらで、
それ以外は全てが挿絵で構成されていました。
やっぱり絵本のようですが、それにしてもこの分厚さ。ざっと200ページはありそうです。
表紙を見てみると、先ほどの女の子の横顔が描かれている上にタイトルが表示されていました。

「・・・宅急便の話??」

再び本をめくってはじめの方から順に挿絵を眺めていくと、それだけでストーリーが頭に入ってくるようです。
たまに現れる文章であらすじを補完しながら、私はいつのまにかその本の中に引き込まれていきました。

その物語は、魔法使いの女の子が親元を離れて自立するために、慣れ親しんだ我が家を旅立つところから始まります。
箒にまたがり夜の空を飛ぶ彼女の傍らには、彼女のお目付け役の黒・・・

「・・・・猫・・・・」

私は無意識につぶやいていました。本から顔を上げて、前方のそれと目が合いながら。
テーブルの反対側から、頭だけを出して私をじっと見つめる目が一対。
それは、黒い色をした猫でした。


あまりの偶然に、私はそのまま微動だにできませんでした。

・・・絵本のキャラクターが、現実世界に召還された?

その黒猫も、大きな目でこちらを見つめたままぴくりとも動きません。
そのまま1分間くらいお互いを見つめ合っていたでしょうか。
猫は頭を下げてテーブルの向こう側に姿を消し、見えなくなりました。
私が慌てて立ち上がり反対側を覗くと、こちらと対になっている椅子の上で、覗いた私の顔を見上げています。

最初から、ここにいたのかな?

テーブルの死角になっていて気づかなかっただけで、私がここに座ってから今までの間ここで寝てただけかもしれないと思いました。

だとすれば、ここの店の飼い猫かな?

しかしふと、さっき咄嗟に浮かんだ発想が再び頭をよぎりました。

・・・もしこの猫が、本当にこの本から出てきたとしたら・・・

まさか。私は絵本を閉じ、表紙の上に右手のひらを乗せると、目を閉じて右手に集中してみました。

・・・・・

「なにも感じないか・・・」

その本からは、少しの魔力も感られず。どうやら魔導書の類ではなさそうです。

もしも魔法がかかった本の場合、今の方法で大抵は見分けがつけることができます。
・・・私も一応魔法使いの端くれ。それぐらいはわかるんですよ。


魔法の本でなければ、中のキャラクターが飛び出すなんてことがありえるはずがありません。

私は本から手を離し、猫に近づいてみました。
猫は椅子の上で姿勢を低くしたまま、ずっと私の顔を見つめています。

そんなに私の顔が、珍しい?

あなたは、ここの店の猫さん?

頭の中で語りかけてみましたが、黒猫はただただ私を見つめるばかり。
私はため息をつくと、自分の椅子に戻ろうとして・・・

あ、そうか。

再び猫の前に顔を近づけて・・・


『こんにちは』


と、猫語で話してみました。

直後私は、黒猫がその場で50センチくらいの高さまで飛び上がり、そのままテーブルの上に見事着地するのを
目の当たりにしました。


私がテーブルを見上げながら拍手するのを、黒猫の発する「声」がさえぎりました。

『猫の言葉っ話せるの!?』

その「にゃー」としか聞こえないはずの鳴き声に、私も同じく「にゃー」と返事をしました。

『話せるし、聞き取れるよ』

黒猫はそのままじっと動かず・・・つまりは驚いて呆然としているようです。
私は悪いことをしたと思って、謝りました。

『驚かせてごめんなさい』

私が頭を下げると、猫は再び自分の椅子に舞い降りてから言いました。

『あなた、魔道士なのね?』
『そう。あなたは、ここの店の猫?』
『・・・そうだよ』

それを聞いて、やっぱり絵本の黒猫とはただの偶然だったと思いました。
ホッとした私をやはりじっと見つめたまま、黒猫はまた話しかけてきました。

『で、あなたはここで何しているの?お客さん?』

その質問に、私はハッとここに来た理由を思い出しました。

『実は私、この店で働かせてもらおうと思って』


『働くって、バイトしたいってこと?』
『そう。だから店の人が現れるのを待ってたんだけど・・・』

猫はそれを聞くと、困惑した声で

『え?でも今この店、店員を募集していないけど』

私は、何を言われてるのかわからず。

『あの・・・募集してないと、雇ってもらえないんですか?』

その言葉がどれほどの常識外れだったかは、この時の私にはまだわからなかったんです。
そして、それは猫の常識からも相当外れているだろうことは、次の声にも滲み出ていました。

『・・・もしかして、箱入り娘なの?』
『箱?』
『お金持ちの娘さんってこと』
『そんなことは・・・』
『ま、いいよ』

猫は『はぁ』とため息をつきながら椅子から床に飛び降りると、こう教えてくれました。

『今この店には、私がひとりで店番。この店の店主は、この街の集会に出席してて留守。帰ってくるのは多分夕方だと思うけど、
もし帰ってきたとしてもあなたを雇ってくれるかはわからないわよ』
『はあ』
『それでもいいなら、ここで待ってれば?』

なんだか随分しっかりした猫さんだと思いながら、今更ながら自分は何にも知らないんだなと軽くショックを受けました。


それにしても、猫一匹に店番を任して留守って・・・
それでいて、バイトの必要がないって・・・
ホントにホントに大丈夫?この店。

この店の先行きと、そこで働こうとしている自分の未来にものすごい不安を感じてしまいました。
でも・・・だからと言って、私他に、なにもできないし。

『はあ、ありがとうございます・・・』

いつの間に敬語になりながらお礼を言いつつ、私が再び椅子に座ると、
猫は床の上で伸びを始め、体を丸めて目を瞑りました。

いいなあ・・・どこでも寝れて。

実は少し眠たかった私は、猫を羨ましそうに眺めながら・・・
ふと、猫になる魔法でも研究してみようかなぁという衝動に駆られました。
猫になれば、悩みとかも全部寝て忘れられるような気がして。

・・・でも、しないんだろうな、研究・・・

私は萎んでいく衝動を感じながら、目の前の絵本をめくりました。
とりあえず店主さんを待つことに決めた私は、本の続きを読もうとして・・・

『ねえ、あなた』

猫が目を瞑ったまま話しかけてきました。

『はい、なんですか?』
『名前、なんていうの?』


猫に名前を訊ねられてふと、これが噂に聞く「面接」というものかと、私は少し緊張しながら答えました。

『春菜といいます。飯窪春菜』

私は、『ふーん』とか『そうなんだ』とかの反応があるだろうと思っていましたが、

・・・・・・

なぜか返事が聞こえず、更にそのまま沈黙が続くだけでした。
私はもう少し待ってみましたが・・・繋がっていた電話が急に切れたかのように、
猫からの反応は無く。

『・・・あの?』

沈黙に耐えかねて声をかけても、猫は何も言わず微動だにせず。

目を瞑ったままの猫をしばらく見つめていましたが・・・

・・・もしかして、寝ちゃったのかな?

その結論に達したあと、そういえば私は「人間」ではなく、「猫」に話しかけてたんだということを思い出して、ひとりで納得していました。
私は今の面接の結果はどうだったんだろうと考えながら、改めて手元の絵本に目を向けて読み始めました。


読み始めると、私はすぐに本以外の世界が遠ざかっていくのを感じました。
物語が進み、魔法使いの女の子が新しく暮らすことになる港町や、居候させてもらうパン屋さんの描写が出てくるにつれ、
挿絵の不思議な魅力にどんどん引き付けられていきました。

・・・どうやったらこんな絵が描けるんだろう?

とにかくひとつひとつの挿絵が、鮮やかかつ繊細で「優しく」、大胆な色使いで「力強く」。

それは・・・それはまるで・・・

私は、ソレをそれ以上考えれば間違いなくハンカチを出してしまうことを悟って、思考を停止しました。
本から目を離し、少し上を向きながら違うことを思うことにしました。

私も・・・いつか・・・

いつか、描けるようになるんだろうか?

・・・描けるようになるんだろうか?

さっきの想いとは違う色の胸の痛みを小さく感じながら、もう何も考えないようにしよう、と小さく声に出しました。


私はため息をつきながら、腕時計で時間を確認しました。
「夕方」が何時かは知らないけど、少なくともあと2、3時間はありそうです。

『ねえ、あなた』

猫の声にそちらを向くと、顔だけあげてこちらを見上げています。

・・・さっき名前を聞いたんだから、名前で呼んでほしいなぁ。

『はい、なんですか?』

『えっと・・・その前に、敬語禁止』

そういえば猫に対して敬語を使う必要はなかったかもしれませんが、なんだかバイトの先輩に話しかけているような気がしてたのかも。
私は、猫の言葉でも敬語を使い分けれるなんて魔法ってホントに便利だな、なんて思いながら答えました。

『わかった。何?』
『後ろのバックの中身は、スケッチブック?』

そういって前足で私の椅子の背もたれを指差しました。
私が振り向くと、背もたれにかけていたサイドバックから、少しだけ長方形が顔を出しています。

『・・・そう』
『あなた、画家さん?』

ぐっと胸中の揺らめきを押さえながら、私は小さく答えました。

『・・・画家、志望』
『そう』


猫はそういうと、私の足元に近づいてきてから・・・

『スケッチブック、見せてほしいな』

と、私を真下から見上げました。
私は、まさかこんなところでそんなことを言われるとは思わず、どう答えていいかも分からず・・・しかも、猫に。

『どうしたの?』
『あ・・・いや』

私は少し迷ってから、後ろのバックからスケッチブックを取り出しました。
テーブルに置いてからページを開くと、猫がテーブルの上に飛び乗って来ました。

『・・・?何も描いてない?』

真っ白な画用紙を不思議そうな表情で見つめる猫に、私は答えました。

『全部、白紙だから』
『そうなの・・・』

私がスケッチブックを閉じて、バックに戻そうとした時・・・

『今、何か描ける?』

私はその言葉には反応せず、だけど私自身は胸の中で小さい反応をおこしつつ。
スケッチブックをしまってから猫の方を向き、早口で答えました。

『ごめん、今描けないんだ』
『描けない?』


私は、目を見開いて顔を見てくる猫に、もう一度同じ言葉を言いました。

『うん、描けない。ごめんね』

・・・もう、訊かないで。

私は絵本に手をのばし目を落とすと、猫が視界に入らないようにしました。

あまりの説明不足とぶっきらぼうな態度を心の中で謝罪しながら、自己嫌悪に浸っている私に・・・

猫から、予想外な声がかけられました。

『どこか、痛いの?』

私は一瞬われを忘れ、目の前の猫に視線を向けました。
猫は・・・「心配そうな顔」で私を見つめていました。

「え?」
『どこか、体のどこかが痛むの?』

私はその言葉の意図がわからず、ただ正直に答えました。

『ううん。全然痛くないよ。大丈夫』
『・・・そう』

猫は少しの間私の顔を見上げていましたが、ふいっとテーブルから降りると、さっき寝ていた位置に戻りました。


私は、猫がまた丸まって目を瞑るのを眺めながら、今の会話を反芻しつつ、自分自身に問いかけてみました。

・・・なんで、描けないんだろう。
・・・「痛い」って?
・・・私、痛そうに、してた?

答えが出ない問いの声を聞いていると、いつものネガティブな思考がじわじわと沸いて出て来ました。

自分は本当になにもできない。
色んな事も、覚えてられない。
魔法もたいして使えない。
描きたい絵も描けない。
おちこぼれ。おちこぼれ。おちこぼれ。

つぶれそうな心を感じながら、だめだ、考えるなと無理やり思考を払いのけ、目の前の絵本を読もうをしました。
しかし、もはや物語の内容はほとんど頭に入ってくることもなく。
絵本を一度閉じて、ページをパラパラ漫画のように流しながら、ぼんやりとそれを眺めることしかできませんでした。

だけど、私の目がそれを捕らえた時、パラパラは無意識に止まり・・・
私はページ戻すと、その挿絵を探してみました。
私の手が止まり、私はその絵をまじまじと見つめました。
そこには一人の女性が描かれていて・・・

「これ・・・」

その女性は、目の前の大きなキャンパスの上でデッサンを行っている最中であり、
その様子を魔法使いの女の子と黒猫が、座って眺めているという場面でした。
だけど、その挿絵はさっきパラパラしていた時に目に入った絵ではなく、私はその絵を改めて探しました。
ページを戻したり進めたりしていると、ようやく見たい挿絵が現れました。


「こんなこと・・・」

その挿絵の女性は、先ほどデッサンをしていたそれと同一人物でしたが、真っ白なキャンパスの前で座り込み、嘆き悲しんでいる様子でした。
私が文章を捜して読んでみると、この女性は「画家を目指す女性。女の子のよき理解者」と書かれていて、
先ほどのシーンは、「突然絵が描けなくなって、悩み苦しむ」彼女を描いたものでした。

私・・・私だ。
これは今の私、そのものだ。

私は、床で眠る黒猫とこの挿絵を交互に眺めながら、こんな偶然あるだろうかと考えました。


だけど、どんなに考えても「あるかもしれないし、ないかもしれない」程度の結論にしか辿り着きませんでした。
ふと、この猫にこの偶然の事を訊いてみようかと思いましたが、
寝ているのをわざわざ起こしてまでする質問でもないかも、と私が言い出せないでいると・・・

『どうしたの?』

と、猫は目を瞑ったまま声をかけてくれました。
私の視線を感じたのかもしれませんが、どうやら起きていたようです。
私は質問しようとして・・・そういえばこの猫の名前を聞いていなかった事に気付きました。

『えっと・・・そういえば』
『ん?』
『あなたの名前は、なんていうの?』

猫はその問いに、こちらを振り向き目を薄く開けて、少しの間私の顔を見ていましたが・・・

『・・・ジジ』
『え?』
『「ジジ」って、呼ばれてるわ』

そう答えました。

・・・え?
じじ・・・ジジって・・・
ジジって、この物語の・・・
それじゃ、やっぱり!?


私は絵本を見つめて、それから猫の方を見ました。
猫は私の顔をじっと見つめています。

やっぱり、やっぱりそうだ!

私は確信すると、椅子から立ち上がり猫の方へ駆け寄りました。
「ジジ」の目は、何かを私に期待しているように見えました。
私は思わず両手で「ジジ」の体を掴んでいました。

『ぐぇっ』
『あなた!あなたやっぱりあの絵本から出てきたのね!!』

私はそう叫んで、「ジジ」の顔に詰め寄りました。

『ちょっ・・・』
『「ジジ」って、絵本の黒猫と同じ名前じゃない!!』
『待っ・・・』

「ジジ」は、胴から下をじたばたしながら・・・しかし私は構わず続けました。

『一体どういうことなの!?私と同じ境遇の人が物語に出てくるのも、何かの魔法!?』
『は!?』


「ジジ」は一瞬キョトンとした顔をしましたが・・・だんだん目が白く変化していき、口を開けたまま震えだしました。
私はギョッとして・・・あっと手を放しました。いつの間に強く握りすぎていたようです。
「ジジ」は床に着地した後、すぐに本棚の後ろに隠れました。
私は謝ろうとして本棚の裏を覗くと、「ジジ」は姿勢を低くしてぜーぜー言いながら私を警戒している様子でした。

『ごめん、つい』
『・・・「つい」で殺されたら、たまったもんじゃないわよ!』

私が頭を下げて謝ると、「ジジ」はゆっくり近づいて来てくれました。良かった・・・
私たちが元のいた位置に戻る間にその「偶然」の事を話すと、「ジジ」は少し驚いた後にこう言いました。

『偶然よ』
『え・・・でも』
『確かに偶然にしてはちょっとできすぎな気がするけど、私は間違いなくこの店に昔からいたし、その絵本もただの本で、魔法の本ってわけじゃないわ』

「ジジ」は私にゆっくり言い聞かせるように話しながら、テーブルの上に飛び乗りました。

『だけど・・・あなたの名前と、それに画家さんの事も・・・』
『ま、偶然よ、偶然』
『でも・・・』
『ぐ・う・ぜ・ん!』


「ジジ」は私にそういい放つと、まだ納得がいかない私の顔を見上げながらこう続けました。

『それよりもあなた、さっきの』
『え?』
『その「画家」の話。つまり、あなたは今、絵が描けなくて困ってるのね』

私は「ジジ」の顔を見返しながら、ゆっくりと頷きました。

『・・・うん』
『描けないって、スランプって事?』

私は、首を振ろうとして・・・瞬間、今のこの状況はどういうことだろうと思いました。

ただの猫に、つらい悩みを聞いてもらう私。
いくら猫と話すことができるからといって・・・人としてどうだろう。
・・・そこまでは、いってはいけない気がする。

私は目線を下におろし、「ジジ」の顔を見ないようにしながら答えました。

『・・・大丈夫だよ』
『え?』
『大丈夫だから。大したことじゃないから』

・・・全然、大丈夫じゃない。

『なんとかなるから。気にしないで。放っておいて』

なんとか、ならなかった。ずっと。


私は自分の口から出てくる言葉を頭の中で否定しながら、胸の刺すような痛みと闘っていました。

私は・・・私は、ほんとに。
ほんとに、終わってる。
こんな・・・猫と気まずくなる女。
終わってる・・・

『大丈夫じゃ、ないわよ』

その声に、私は顔を上げて、少しぼやけた視界の中の黒いものを見ました。
その顔は見えませんでしたが、「ジジ」がこちらの目をまっすぐに見つめているのがわかりました。

『全っ然、大丈夫なわけないでしょう!そんな苦しそうな顔で!』
『・・・苦しそう?』
『そうよ、気付かなかった?自分の顔。この店に来て、ここに座った時からあなた、ずっとそんな顔してるわよ』

私は「ジジ」にそう言われて困惑しました。
自分の顔が今どんなふうに他人の目に映っているかなんて、しばらく考えたこともありませんでした。
それと同時に、自分の顔の事を悪く言われた事に戸惑い、私は目線を逸らしながら呟きました。

『・・・そんなこと言われても、生まれつきこんな顔なんだから仕方ないじゃない』
『そんなはずない!!』


私は今度こそ驚き、目の前の猫の顔をまじまじと見てしまいました。
「ジジ」は、相変わらずずっと私の目を見続けながら・・・その顔は、怒っている様に見えました。

『そんな・・・生まれつきそんな苦しそうな顔で生まれてくる人間が、いるはずがないじゃない』

私は茫然として、「ジジ」の顔を見続けました。
猫に怒られたことよりも、その猫の目が若干潤んでるように見えたことに、私の心は動揺し、どうすればいいのかわからなくなってしまいました。
私が黙っていると、「ジジ」は目線を下に逸らしながら言いました。

『・・・違うわよ』
『え?』
『表情の話。あなたの顔のつくりがおかしいって言ってるんじゃなくて、表情が・・・痛そうというか、辛そうに見えてたの』
『ああ・・・』
『ごめんなさい、変なこと言って』


私は、ついに猫に謝られてしまい、もうなんだかどうでもよくなった気がしました。
途端、心に溜まっていたガスが抜けていく感じがして、私はゆっくり息を吐き出した後に言いました。

『変だった?表情』
『うん』
『今も?』
『・・・ええ』

私は、両手で自分の顔をぐりぐりとこねくり回し、表情をほぐそうとしました。
「ジジ」をそれを見て、プッと吹き出しました。
私もつられて「笑おう」として・・・

・・・・・・・・・・・・・・・

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『ねえ、あなた』

私はその声に、頭の中の疑問符の群れを打ち消しつつ、目の前の「ジジ」を見ました。
「ジジ」は、私をまっすぐに見据えながらこう言いました。

『私にできること、ない?』

その聞きなれない言葉に、私は不思議な感覚に包まれました。

今、なんて?

『・・・え?』
『あなたの悩み、もう無理には訊かない。だけど、何かわたしにできることはない?』

私は、言葉を理解しようとして・・・もうとっくに理解しているのになにやってんだと思いました。


そうか・・・私、優しくされたのか。
・・・ずっと無かったかもしれない。誰かに優しくされるの。

『あ・・・』
『ん?』

私は、その親切を嬉しいと感じながらも、「ジジ」を「ただの猫」として人間扱いしなかったことを申し訳なく思いました。

そうだ、訊いて見よう。猫とか、人間とか、関係ない。

『わかったわ。ジジ、ちょっと教えて欲しい事があるの』
『何?』
『私、人を探しているの』
『・・・人?誰を?』

わたしは、深呼吸をした後、「ジジ」の目を見つめながら言いました。

『「道重さゆみ」って人、知ってる?』

 

第二章

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最終更新:2015年02月22日 12:34