「では・・・いきますよ?」
「・・・うん!」
私は、目の前に佇んでいる黒い猫の顔を真剣に見つめていた。
その猫の方も、とても緊張した顔をしているように見える。
私の部屋に流れる、しばしの沈黙。
その張り詰めた静寂が、猫の鳴き声によって破られた。
「にゃーー、にゃにゃにゃにゃっにゃー?」
私は、その鳴き声を最後まで聞き逃さなかった。
猫が、私の顔を心配そうに見上げている。
・・・大丈夫!
私は猫に向かって頷くと、口を開いた。
「にゃにゃーにゃーご、にゃんにゃんにゃー」
私の声に、猫は大きく目を見開いた。
そして・・・また、沈黙。
私は、心臓の音を聞きながら胸の中で祈った。
どうか・・・お願い!
そして・・・猫がゆっくりと口を開ける。
「・・・合格です」
その「通知」に、私の心が大きく弾けた。
「やったぁ!!!!」
「ぐえっ」
喜びの声を上げた私は、ついその猫の華奢な体を思いっきり抱きしめていた。
「やった!やったよ、はるなん!!」
「ちょっ・・・あやちょ・・・苦し・・・」
「あ、ごめん」
私が手を放すと、猫・・・はるなんはすとっと床に着地した。
そして、私を見上げるとやれやれと首を振りながらこう言った。
「まあ、一応合格ですが・・・少し聞き取りづらかったのは事実ですね。「五時」のところが、「五十時」のようにも聞こえました」
「そっか・・・まだまだ駄目かな」
私は少し落ち込んで呟くと、はるなんはすぐに否定してくれた。
「いえ、十分合格ラインです。ちゃんと意味が通じましたよ。よく頑張りましたね」
そして、ニコリと笑いながら・・・はるなんの体が一瞬光に包まれる。
その輝きが消え去ると、そこには人間の姿の彼女が立っていた。
「うん・・・ありがとう」
私はそうお礼を言って・・・改めてはるなんに抱きついた。
「わっ!?」
「ありがとう、はるなん!ずっと研究につきあってくれて!」
「・・・いえ、いいんです。私もお役に立てて本当に嬉しいです」
・・・はるなんと魔法の研究をするようになって、もうすぐ一年が経つ。
そう、一年もかけて・・・ようやく私は、ひとつの魔法が使えるようになった。
それは、「猫と話をする」魔法。
ここまで、本当に長かった。
全く魔法の基礎ができていない私に、はるなんは一から全てを教えてくれた。
私に見合う研究の仕方や、魔法の最低限の知識など、魔法を習得するために必要なことを、たくさん教えてくれたんだ。
それでもなかなか上達しない私だったが、お父さんの助けもあって少しずつ研究は進んだ。
・・・お父さんは、私が魔法を使いたいと言い出すのをずっと待ち望んでいたらしい。
生まれてからそれまで、私には決して魔法を勉強することを強要したことがなかったけど・・・
心の中では、やっぱり魔道士として魔法を使って欲しいと思っていたみたいだ。
はるなんとの魔法の研究は大変だったけど、とにかく新鮮でとても楽しかった。
そうしていくうちに、私は絵を描くのを控えて集中するまでになったのだ。
・・・とは言っても、一日中描いていた時間が半分に減っただけだが、それでも私には大きな変化だった。
そして、今日。
いよいよ最終試験を行った。その試験官は、はるなん。
はるなんが猫の姿になり、猫の鳴き声で私に質問する。
それを私が、「猫語」で答えるというシンプルな試験だ。
最初のはるなんの鳴き声は、「今の時間は、何時ですか?」という内容の質問だった。
それに対して、私は「今は、午後五時を過ぎたところです」と「猫語」で答えたつもりだった。
この一見簡単そうな問題は、実は難易度が高い。
「午後五時」のところが「五五五時」にならないようにするのが、結構難しいのだ。
・・・まあ、その部分に力を入れすぎて、「午後五十時」に聞こえてしまったみたいだった。
でも・・・とにかく。
私は・・・たったひとつだけでも・・・
魔法を、使えるようになったんだ!
私ははるなんから離れると、彼女の顔を改めて見つめた。
本当に嬉しそうに笑うはるなんの顔が、目の前にある。
・・・初めてはるなんの魔法を見たとき、私は本当に驚いた。
人間の姿から、黒猫に変身する彼女。
そういう「魔法らしい魔法」をまともに見たのは、それが初めてだったのだ。
お父さんは、何故か私の前では魔法を使わない。
使っても、「魔法道具」を使用するぐらいだ。でも、それらは全然魔法らしくない。
例えば、黒い円柱状の道具を顎に当てて髭を剃ったり(シェーバーでいい)、ガスコンロに小型の道具をかざして火をつけたり(ライターでいい)。
だから、はるなんの魔法を目の当たりにして、改めて魔法の凄さに気付かされた。
そして・・・私は、同時に・・・
私が魔法の研究をするなら、「これしかない」と思いついたんだ。
「・・・でも、あやちょ」
「え?」
目の前のはるなんがふと、私に向かって心配そうな顔をしながら質問してきた。
「やっぱり今更、ですけど・・・なんでこの魔法だったんですか?」
はるなんの質問の意味は、よくわかっている。
この魔法を研究している間、はるなんに何度も訊かれたことだからだ。
「猫と話したいなら、私と同じように「猫に変身する」魔法を研究した方が良かったんじゃないですか?それなら・・・」
はるなんが前に教えてくれたことだが、「猫と話せる」魔法も、「猫に変身する」魔法も、研究する手間や時間は同じくらいだそうだ。
だったら、「猫と話せる」だけの魔法よりも、猫と会話もできるようになる「猫に変身する」魔法の方が便利だ。
はるなんが私にそう言ってくれるのは、無理も無いかもしれない。
一年もかかってしまった研究だったが、その時間の大きさは、同じ時間一緒にいてくれたはるなんにはよくわかっているのだろう。
でも私は、はるなんに向かって頷いて見せた。
「うん・・・でも、いいの。この魔法で」
「そうですか・・・」
私の答えに、はるなんはあまり納得のいっていない顔をした。
「あなたがそういうなら、私はもう何も言いません」
そう言ってくれるはるなんに、私は内心申し訳なさそうに思った。
でも・・・これで、いい。
この魔法で。
私は、視線を壁に向けた。
そこには、「あの絵」が飾られている。
この魔法を応用すれば・・・
そして、その研究のプロセスを覚えておけば・・・
きっと、できるはず。
「あ、そうだ」
はるなんが手をぽんと叩いて、私は我に返った。
「え?」
「あやちょ、お父さんに言わなくていいんですか?」
「・・・あっ!!」
私は、思わず声を上げた。
そうだ!お父さん!
私・・・私!!
はるなんが笑顔になる。私は振り向いて、部屋のドアに駆け寄った。
扉を開け放つと、テーブルで紅茶を飲んでいたお父さんが目に入った。
お父さんが、こっちを向いて、私と目が合う。
その目は・・・とても、優しくて、力強かった。
私は胸がいっぱいになって、思いっきり叫んだ。
「私っ!魔法が使えるようになったよ!お父さん!!!」
「とても喜んでましたね、お父さん」
「うん!」
横を歩くはるなんに、私ははっきりした声で答えた。
私の家を出てはるなんと歩く門までの道は、時間的にはもう真っ暗なはずが、何故かうっすらと明るい。
そうか、星がいつもより綺麗に瞬いてるんだ。
空を見上げた私に、はるなんはこう言った。
「あんな嬉しそうなお父さん、初めて見たかもしれません」
「うん・・・私も、そう」
さっきのお父さんの笑顔を、思い浮かべる。
その笑顔は、私も嬉しかったけど・・・同時に、今まで魔法を避けてきた自分の事を考えて、少し胸が痛くなった。
もっと、早く・・・魔法に興味を持ったほうが良かったんだろうか。
でも、私はその考えを止めた。
だって・・・あのまま、私は一生魔法を研究しないまま終わってたかもしれない。
でもたったひとつでも、魔法が使えるようになったんだ。
・・・それで、いいんだ。
私たちは、ゆっくり歩きながら色んなことを話した。
はるなんの顔は暗くてうっすらしか見えないけど、その笑顔ははっきりとわかった。
「そう言えば、もうすぐお父さんの誕生日だな」
「ああ、そうでしたね」
「今年も、プレゼント考えないとな・・・」
「いつもは何をあげてるんですか?」
はるなんの質問に、私はちょっと考えた。
「ええっと、大したものはあげてないよ。予備の下着とか、靴下とか」
「ええ?・・・なんだか味気ないですね」
「まあ、日常的に使うものがいいかなって。お父さんも喜んでるし」
「そうですか・・・それじゃ私も何かプレゼントを考えておきますね」
そこで道が下り坂に差し掛かる。はるなんの口調が、ふと変わった。
「・・・いよいよ明日ですね」
私は、何の事を言っているのかすぐに分かった。
「うん・・・ちょっと緊張する」
「ちょっと」と言ったけど、実はかなり緊張していた。
はるなんはそれを感じ取って、私を勇気付けるように励ましてくれた。
「大丈夫ですよ!ちょっと行って、表彰されたらささっと帰ってくればいいんです!」
「そうなんだけど・・・やっぱり、初めてだから」
そう言って、私はため息をついた。
私の絵が、コンクールで入選した。
それも、この地区だけのじゃなく・・・もっと大きな絵画コンクールである。
この地区のコンクールに何度も応募しているうちに、その度に入選される私の絵が、更に上位の大会に出展されることになった。
そして・・・その大きな大会で、まさかの優秀賞をもらってしまったのだ。
私はただびっくりするだけだったが、お父さんもはるなんもかなり喜んでくれた。
でも・・・そこで、問題がでてきたのだ。
コンクールで賞をもらった作者は、表彰式に招待されるのだ。
そして、そのコンクールはこの地区の大会ではない。ということは、その表彰式に出るには当然この地区から出かける必要がある。
私は、生まれてから一度もこの地区から出たことがない。
外の世界・・・とは大げさだが、それがどういうところなのか全然想像がつかないのだ。
お父さんが付いてきてくれるからまだいいが、それでも・・・
「気をつけて行って来てくださいね」
「うん・・・でもその間は、はるなんと会えなくなっちゃうね」
私がそう言うと、はるなんは少し寂しそうに笑う声が聞こえた。
「まあ、少しの間ですよ。一生会えないわけじゃありません」
「うん、ごめんね」
「大丈夫ですよ。それに私の方も、これを機にちょっとしたいことがありますので」
・・・したいこと?
私は少し考えたが、なんとなくわかった気がした。
「あー、もしかして・・・道重さん探し?」
「はいっ!よくわかりましたね!!」
はるなんの声は、とても嬉しそうだ。
その反応に、私は少しだけ嫉妬してしまう。
・・・道重さん、か。
この一年、私ははるなんに「道重さん」という人物の事をさんざん吹き込まれた。
道重さんは、凄い。道重さんは、素晴らしい。道重さんは、最高だ。
なにがどう凄いのかは、はるなんの話からはイマイチわからなかった。
ただ、その道重さんはこの地区に住んでいるらしい。
そして、その道重さんを、はるなんはずっと捜しているそうだ。
はるなんにとって、その人は「神様」みたいなものらしい。
今まで一度も会ったことのない人のことに、そこまで憧れることができるなんて・・・
そんなふうに言われると、私もなんだか会いたくなってくる。
「でも、手がかりが見つかったの?」
「いえ・・・それが、全然・・・」
はるなんの声のトーンが、一気に下がる。
「でも・・・絶対にこの地区にいるはずなんです。私、いつか絶対に見つけてみせます!!」
「そうか・・・いつか会えるよ。そこまで会いたいなら」
「はい!」
意気込むはるなんに、私も励ましながら・・・気付くと、私達は門の前まで来ていた。
「それじゃ、また帰ってきたら会おうね」
「はい。くれぐれも緊張しすぎて失敗しないようにしてくださいね」
はるなんの声に、私は小さく頷いた。
門を開けて出て行くはるなんに、私は後ろから声をかけた。
「・・・はるなん!」
はるなんが、暗闇の中振り向く。
「はい?」
「あの・・・本当に」
私は、胸の内から湧き出る想いを、そのまま伝えた。
「本当に、ありがとう。はるなんのおかげで、私は魔法が使えるようになった」
「・・・いいんですよ」
私の言葉に、はるなんはゆっくりと、優しく答えた。
「だって、あなたは私の大切な友達なんですから」
その顔は、よく見えない。ただ・・・笑顔だということはわかる。
私は、更に湧き出てくる言葉に身を任せた。
「本当に、感謝してる。その・・・私も本当に・・・はるなん・・・」
「大丈夫です。言わなくてもわかってます」
はるなんは、そう言って私を見つめる気配があった。
「あなたの、その顔を見れば、わかります」
「・・・え?」
「ふふふ・・・」
はるなんが、微笑む。森の中の暗闇でも、彼女のほのかな体温を感じた。
「気付いてますか?」
はるなんのその言葉に、私はふと記憶が揺さぶられた。
「・・・何が?」
「なんでも、ありませんよ」
私の反応を楽しんでいるように、はるなんは呟いた。
「でも・・・それでいいんです」
そう言って、はるなんはまた後ろを振り向いた。
「さようなら、あやちょ」
「うん・・・またね、はるなん」
そして、はるなんは暗闇の中に消えていった。
私はその方向はじっと見つめながら、はるなんの言ったことを何度も咀嚼していた。
「うわぁ・・・」
私は、その人の多さに思わず声が漏れた。
受賞者の表彰式の会場は、大きな美術館だった。
私の住んでいる地区の美術館とは比べ物にならないくらい広々としていて、更にはキラキラ煌く豪華な飾りで光に溢れていた。
その美術館の入り口で、私は呆然としてしまった。
・・・これ全部、表彰式に出席する人たちなんだろうか?
ざっと、200人くらいはいるんだけど・・・
「おお、すごい人だな」
お父さんが隣で感嘆の声をあげる。
私は、慌ててお父さんの袖を引っ張った。
「ん?どうした彩花」
「・・・この人たちは全員、コンクールで入選した人たちなのかな?」
私の質問に、お父さんは眉をひそめた。
「そんなことはないだろ。表彰されるのはお前を含めて三、四人くらいなはずだ」
「さ・・・さんよにん!?」
「あとは、この表彰式に招待された客や美術関係のお偉いさんとかだと思うぞ」
・・・つまりここにいる人たちは、私が表彰されるのを見に来たのか。
私は・・・私は、とんでもないことをしてしまったのではないか?
あまりの事に、私は体が硬直してしまった。
「大丈夫か?彩花」
「・・・だいじょばない」
お父さんは私の様子を見て、ため息をついた。
「やれやれ、今からそんなんじゃ先が思いやられる。さあ、行くぞ」
「う、うん」
私はお父さんの横にくっついて、美術館の中に入っていった。
人の間を縫って進みながら、私は周りの人間の服装が目に入った。
皆、スーツやドレスでしっかりと着飾っている。
それは、この場所にとても馴染んでいて・・・
私は歩きながら、自分の着ている服を改めて確認してみた。
・・・ちゃんと、似合っているんだろうか?
それは、落ち着いた青色のワンピースで、胸元には小さな星型のブローチが付いている。
そして靴は、白いリボンがついた可愛いハイヒールを履いているのだ。
私の様子に、横を歩くお父さんが声をかけてきた。
「お前も、随分とオシャレができるようになったじゃないか。似合ってるぞ」
「そ、そうかな」
その褒め言葉に曖昧に答えながらも、私は内心落ち着かなかった。
・・・実はこの服は、はるなんから借りてきたものなのだ。
私が表彰式に出席する事を知ると、彼女はすぐに自分の服の中から私に似合いそうなものを選んで持ってきてくれた。
そして、あまり気が進まない私に、その服や小物を使って強引にコーディネートしてくれたのだ。
「駄目ですよぅ、ちゃんとした格好をして行かなきゃ。あやちょは美人さんなんだから、オシャレすれば誰よりも目立つこと間違いなしです!」
はるなんは「美人」の部分を否定しまくる私を無視して、目をギラギラさせながら私の着せ替えをしていった。
そして完成した私の格好を見て、はるなんは涙を流しながら(!)褒めちぎってくれたのだ。
「最高です!あのあやちょが、こんなオシャレに着飾る日が来るなんて!生きてて良かった!!」
「あの」の部分にひっかかりつつ、私はお礼を言ってその服一式を借りたのだ。
・・・いや、大丈夫。はるなんを信じよう。
私は、浮いていない。ここに、ちゃんと馴染んでる・・・はず。
会場になるホールの入り口に辿り着くと、お父さんは受付の人と話を始めた。
私はその様子を眺めながら、ふと周りを見渡した。
すると会場の奥の方に、絵が何枚か飾られているのを発見した。
私はお父さんに一言断って、ひとりで会場の中に入っていった。
会場の中は、更に沢山の人で埋まっていた。
私はなんとか奥まで進むと、そこにある絵を見渡す。
・・・あっ!あそこにいた!
私が壁際に駆け寄ると、そこには「優秀賞」と表示されたプレートの上に、私の絵が飾ってあった。
「良かった・・・ちゃんと、いたね」
私はホッとして、その絵にそっと触れた。
それは、『笑顔』の絵だった。
そう・・・この絵が、今回のコンクールで入選されたのだ。
・・・でもまさかこの絵が、そんなに評価されるなんて。
今までは、自分の絵を誰かの為に描いたことはなかった。全部、自分が描きたいからという理由だけで描いていたんだ。
なのに・・・
私は自分の中に、評価されて「嬉しい」という気持ちがあることに気付いていた。
・・・誰かに見てもらう為に絵を描くのも、いいのかもしれない。
私は「みんな」を見つめたあと、優しく話しかけた。
「こんな大きな大会で優秀賞だって。みんな、偉くなったねぇ」
ごく自然に、口からフフっと声が漏れた。「みんな」が笑ったように見えたのだ。
私はお父さんのところに戻ろうとして、ふと・・・もう一度自分の絵に向き直った。
そこに描かれた、「あの人」の顔を見つめる。
「・・・待ってて、もうすぐだからね」
私は、「フクダカノン」に話しかけていた。
でも、私の予想通り。絵からはなんの反応もなかった。
ふう・・・とため息をつくと、私はもう一度「みんな」に声をかけた。
「この表彰式が終わったら、一緒に帰ろうね」
表彰式は、あっという間に終わった。
その過程は、正直よく覚えていない。
名前が呼ばれて表彰状を受け取るだけのはずだったが、その間の記憶が吹っ飛んでいるのだ。
・・・あれだけ大勢の人の前に出たら、そりゃあそうなるよね。
はるなんのおかげで少しは対人恐怖症が緩和したと思っていたが、そうでもなかったみたいだ。
「・・・私、何か失敗してなかった?」
隣で座るお父さんに恐る恐る訊いてみると、笑顔とともにこう返って来た。
「全然大丈夫だったぞ。ただ、前に進む時に右手と右足が同時に出てたくらいかな」
・・・私はため息をついた。でも、もう終わったことだ。
表彰式の後、ソファーで落ち着いていた私達だったが、急にお父さんが呼ばれて行ってしまった。
大会の関係者の人が、私の今後について保護者と話をしたいらしい。
・・・別に本人に内緒で話さなくてもいいんじゃないだろうか。
私はすぐ近くに飾られた自分の絵を眺めながら待っていたが、お父さんはなかなか戻ってこなかった。
・・・早く、帰りたいんだけどな。
そう思いつつ、足をぶらつかせていると・・・
「とても、いい絵だ」
隣から声がして、私はチラッとその方向を見た。
さっきまでお父さんがいた場所に、ひとりのおじいさんが座っていたのだ。
あれ・・・いつの間に?
私がなんとなく顔を眺めていると、そのおじいさんはニコニコと笑顔で私の絵を見つめている。
「大したものだ。君のような少女が、よくこれを描けるものだ」
その言葉は、どうやら私に話しかけているみたいだった。
私は戸惑いつつも、慌てて返事をした。
「あ・・・はい、ありが、とう・・・ございます」
やはり初対面の人に対しては、口が上手くまわらない。
しかしおじいさんは私の方を見ることなく、じっと私の絵の方を見続けながらこう訊いてきた。
「君のこの絵は、誰かモデルがいるのかね?」
「えっ?」
そう言われて、私は少し考えた。なんで、そんなことを訊いてくるんだろう?
「・・・いえ、そういうのはなくて・・・私の想像です」
「ほう・・・」
おじいさんはそれを聞いて、驚いたような声を出した。そして、ようやく私の方を見た。
その顔は、ずっと笑顔のままだ。
「想像か、なるほど。本当に大したものだ」
「いえ・・・」
私はそう答えながら、視線を背けた。
おじいさんはまた絵の方を向いてしまい、私との会話は終わった。
そのまま、沈黙が流れる。私は落ち着かなかった。
知らない人と隣同士でずっと座っているのは、なんだか居心地が悪い。
・・・お父さん、まだかな。
私が、周りをキョロキョロ見渡していると、また隣から声が聞こえた。
「・・・君は、自分のお母さんの事を覚えているかね?」
・・・え?
私は、驚いてその人の顔をまじまじと見つめた。
おじいさんは、私の顔を見ていた。やはり、笑顔のままだ。
・・・何?
「お母さん」?
それって、私の母親のこと・・・だよね?
「・・・いえ、覚えていない・・・です」
私が躊躇いがちに呟くと、そのおじいさんはゆっくりと頷きながら言った。
「そうか。まあそうだろうな。君はまだ生まれて間もなかった」
「あの・・・それって」
私は、改めてその人の顔を見つめた。おじいさんは、ひとりで納得するように頷き続けている。
え・・・この人、私のことを知ってるの?
お母さんって・・・
私が不思議に思っていると、おじいさんはふっと立ち上がった。
「ありがとう。いいものを見せてもらったよ」
そう言うと、そのまま立ち去ろうとした。
「あっ・・・待って!」
私が慌てて呼び止めると、おじいさんはこちらを振り向かずに立ち止まった。
私は、その背中に問いかけた。
「あの・・・あなたは、誰なんですか?なんでお母さんのことを?」
しかし、おじいさんからの返事はない。何も言わずに立ったままだ。
私が追いかけようとして立ち上がりかけた時、おじいさんから声が聞こえた。
「私は、君のお父さんの「仲間」だ。昔のね」
「・・・仲間?」
それって・・・
私は続いて質問しようとしたが、その次の言葉に声を失った。
「君のお母さんがもういないのは、君のお父さんに・・・」
・・・・・・
・・・・・・
・・・え?
今、なんて言った?
・・・・・・
「おい彩花、どうした?」
私は、その声に我に返った。
お父さんが私の顔を覗き込んでいる。
「・・・え?」
「なにボーっとしてるんだ。話がようやく終わったよ」
お父さんは、やれやれと首を回しながら立っている。
私は慌てて、前の方に視線を向けた。
でも、もうそこにはさっきのおじいさんはいなかった。
「さあ帰るぞ。話の内容はあとでゆっくり教えるからな・・・彩花?」
「うん・・・帰ろう・・・」
私は、生返事をしながらも、さっきのおじいさんの言葉を頭の中で何度も繰り返していた。
帰りの電車の中で、お父さんは私にコンクールの責任者との話の内容を教えてくれた。
・・・でも私は、お父さんの話が全く頭に入ってこなかった。
『君のお母さんがもういないのは、君のお父さんに・・・』
・・・お父さんに、なんだというのか。
お父さんのせいで、お母さんがいない?
まさか・・・まさか・・・
お父さんに、殺されたとでもいうのか?
そんなはず、ありえない。
そんなはず・・・
・・・・・・
「・・・彩花、聞いているのか」
「・・・え?」
私がはっとして横を見る。お父さんが不思議そうに私を見ていた。
「なにかあったのか?さっきから様子がおかしいぞ」
「あ、うん・・・大丈夫」
そう言う私に、お父さんはやれやれと呟いた。
しばらく電車に揺られていると、お父さんは腕を組んだまま眠ってしまったようだ。
私は、その顔をじっと見つめる。
・・・お母さん、か。
私は、自分の母親のことを全く覚えていない。
私が生まれてすぐ、体調をくずしてそのまま亡くなったと聞いた。
それ以外、母親の事は何も知らないのだ。
私は、お父さんに声をかけた。
「・・・お父さん」
「ん?なんだ?」
どうやら起きていたようだ。目を瞑っていただけらしい。
私は少し間を置いて、お父さんに質問をした。
「お母さんって、どんな人だったの?」
お父さんは一瞬、驚いたように目を見開いた。
でもすぐに目を瞑って、息をつく。
「なんだ突然。今までそんな事、訊いた事もなかったじゃないか」
「うん・・・なんとなく」
私は、窓の外を見ながら答えた。そのまま、お父さんの返事を待つ。
「どんな人、か。うーん・・・説明が難しいな」
お父さんは小さく唸りながら、考え込んでいるようだったが・・・
「まあ、なんというか・・・凄い人だったな」
「・・・凄い人?」
「うん、そう。とにかく、凄い人だった」
・・・何だそりゃ。
「他には?」
「他?うーん、そうだなあ・・・あ」
お父さんは、何かを思いついたように手をぽんと叩いた。
「そういえば・・・」
「そういえば?」
「明太子スパゲティが、大好きだったな」
「・・・は?」
「まあ、そんな感じだ」
それを聞いて、私は内心がっかりした。
そういう事を訊きたいんじゃないんだけどな・・・
改めてお父さんが寝てしまうと、私は窓の外の景色を見ながら思いをはせた。
さっきのおじいさんの話は、本当のことだろうか?
・・・さっきの人は、お父さんを昔の「仲間」と言っていた。
仲間って・・・なんだろう。
私の記憶が、少し揺れる。
なんだか昔に、そんな事を思ったことがある気がした。
そして・・・
私は「仲間」という言葉を、やはり昔に誰かに言われたような気がした・・・
私は自分の家に帰ってきてからも、お父さんには美術館での出来事を黙っておいた。
理由は、自分でもわからない。本当は、すぐに言うべきなのかもしれない。
でも、どうしても私にはあの言葉がひっかかっていたのだ。
『君のお母さんがもういないのは、君のお父さんに・・・』
その言葉が本当なら、どう考えても・・・
お父さんが、お母さんを死なせた事になる。
でも、あのお父さんが、そんな事をするはずない。ありえない。
私にとっては、怪しい見知らぬ他人の言うことよりも、お父さんの事を信じるのは当然だった。
ただ・・・あのおじいさんは、こう言っていた。
『私は、君のお父さんの「仲間」だ。昔のね』
仲間。自分は、お父さんの仲間だったと。
そして、お父さんには確かにそういう人がいたのを思い出した。
『友達の代わりに、「仲間」はいたかな』
お父さんは昔、私にそう言っていたんだ。
そして・・・
『仲間?』
『ああ・・・魔道士協会にいたときにな』
・・・魔道士協会。
私の住む地区には存在しない、魔道士たちの組織。
お父さんは、ずっと昔そこで働いていたと聞いている。
・・・私は、その頃のお父さんの事を何も知らないのだ。
そして、お母さんの事も・・・
だから私は、お父さんにその事を直接訊くのが恐かった。
もし、万が一・・・それが本当のことだったらと思うと、訊く勇気が持てなかったのだ。
・・・正直、私はお母さんに対しては何の感情も湧かなかった。
全く記憶に無い母親なのだ。それは仕方が無いと思う。
ただ・・・お父さんを・・・
たったひとりで私を育ててくれた大好きなお父さんが、そんな事をしているはずがないと、信じたいだけなのだ。
そして、私にはそれとは別に気になっていることがあった。
それは、あのおじいさんの事だ。
例え本当にあの人がお父さんの昔の「仲間」だったとしても・・・
なぜ、そういう「事実」を私に伝えたんだろうか?
そして、なぜお父さんには姿を見せなかったんだろうか?
わからないことだらけだ・・・
私は、悶々としながら数日を過ごすことになった。
でもその一方で、次の休みを心待ちにしていた。
その日に、久しぶりにはるなんに会える。
この地区の外で見た色々なことを、話したくてたまらなかった。
そして、今私の中にあるもやもやを、彼女と一緒に過ごす事で忘れたかったのだ。
でも・・・ただ、その日を待つだけじゃ駄目だ。
私には、やるべきことがあった。
「ただいま!」
私は、学校から帰ってきた。
玄関を開けて、中に入る。リビングには、お父さんの姿が見えなかった。
自分の研究室にいるだろうと思って、私は洗面所に向かった。
手洗いを済ませて改めてリビングに入ると、テーブルの上に白い紙が置いてあるのに気付いた。
私がその紙を拾って中を確認すると、お父さんの字でこう書いてあった。
「急用ができた。夕飯は作ってあるから温めて食べておいてくれ」
・・・急用?
私は不思議に思った。
お父さんに「急用」ができたことが今までにあっただろうか?
少なくとも、私の記憶にはない。何の用だろうか?
ちょっと考えたが、答えは出ない。私は頭を振って、冷蔵庫の中を確認した。
大量の明太子スパゲティが、大皿に乗っている。
まあ、そのうち帰ってくるよね。
私にも、やることがあるのだ。
私は、自分の部屋に入ると、荷物を置いて準備を始めた。
魔法を研究するための道具を用意していく。
それらは、はるなんやお父さんから借りた魔法の機材だった。
「猫と話ができる」魔法の研究で使用したものだが、もちろん他の魔法を研究する事にも使える。
・・・私は、「絵と話ができる」魔法の研究にとりくんだ。
表彰式から帰ってきた日から、私はその研究を始めた。
それは、一年前からずっとやろうと決めていたことだった。
一年前の「あの日」以来、私は一度も「彼女」と話していない。
「フクダカノン」・・・絵の中の、彼女。
私は・・・私が彼女と話をすることができたのは、自分の魔法の力が無意識に現れたからだと信じている。
だから、ちゃんと魔法を研究して、自分でその力をコントロールできるようにしたかったのだ。
そうすれば、もう一度彼女と話ができるはず。
私は顔を上げて、「あの絵」を見つめた。
シンデレラのような服装をした「彼女」は、いつもと変わらない顔でそこにいた。
・・・話ができるようになったら・・・
彼女にもう一度、お礼が言いたい。
あなたのおかげで・・・はるなんと・・・
私は、作業に集中した。少しでも早く魔法を完成させたい。
しかし私の思惑と違って、研究はなかなか進まなかった。
でも、それはわかっていたことだった。
前の魔法の完成には、はるなんと二人一緒でも一年もかかったのだ。
いくら研究の仕方を覚えたとはいえ、ひとりでする分更に時間がかかる。
・・・この魔法をちゃんと使うために、私は魔法の事を学ぶ決心をした。
しかし魔法の知識が全くなかった私は、はるなんに魔法について自ら訊いたのだ。
はるなんは、自分の魔法を見せてくれた。そして猫に変身した彼女を見て、私は閃いたのだ。
「猫と話せる」魔法を使えるようになれば、「絵と話せる」魔法も覚えやすいかもしれない。
だから私は、「猫に変身する」魔法ではなくて、「猫と話せる」魔法の研究を選んだ。
同じく「話せないものと話す」魔法なら、研究の仕方や魔法の使い方に応用がきくと思ったんだ。
そして・・・実際に、二つの魔法はその研究方法がとてもよく似ていた。
だから、「猫と話せる」魔法を覚えたら、すぐにこの魔法の研究を始めるつもりだったのだ・・・
私はふと我に返った。
時計を確認して、私は驚いた。研究を始めて、もう二時間も経っていた。
かなり集中していたらしい。お父さんは、まだ帰ってきてないようだ。
私は立ち上がろうとして、ふらついた。足がしびれたみたいだ。
立ち損ねて、また座り込む。自分の足をぽんぽんと叩きながら、改めて研究道具を見渡した。
・・・魔法が完成するまでどれくらいかかるかな?
ふと・・・はるなんの顔が頭に浮んで、私はブンブンと打ち消した。
いや、研究を手伝って貰うのは駄目だ。
この魔法は、自分の力だけで完成させなきゃいけない。
なぜそう思うのか、自分でもわからなかった。
私は、再び「彼女」の顔を見た。
その顔を見ていると・・・なぜかこの絵のことをはるなんに言ってはいけない気がしてくるのだ。
思いにふけっていると、鈍い音が鳴った。
どうやら、私のお腹が悲鳴をあげたらしい。
私はゆっくり立ち上がった。足のしびれが薄くなっている。
部屋を出ようと、入り口に向かって行き・・・
ふと、立ち止まって後ろを振り返った。
・・・あれ?
私は、不思議な違和感を覚えた。
部屋の中を見渡す。
なんだろう・・・
何かが、おかしい。
その違和感の正体がわからないまま、少しの間その場に立ち尽くしていると・・・
突然、頭が重くなった。
「・・・え?」
私はその重さに耐え切れずに床に膝をつくと、前のめりに倒れこんでしまった。
自分に何が起きたのかわからない。倒れた時の痛みも、何故か感じなかった。
何・・・何なの!?
私は、そう叫んだはずだった。しかし、声になっていない。
状況を理解しようと、頭を働かせる。その頭が、さらに重くなっていく。
なん・・・で・・・
私の視界が薄まっていく。なんだか眠くて目が開けていられないように。
そして・・・
私の意識は、闇に溶けていった・・・