『笑顔』過去編 第五章


・・・・・・
・・・・・・

誰かが、私を呼んでいる。

・・・誰だろう?

・・・・・・テ

なんだか、懐かしい声だ。

・・・キ、・・・テ

・・・何?
聞こえないよ!

オ・キ・テ!!!


私は、目を開けた。
まず感じたのは、頭の痛みだった。
割れるように痛い。ひどい風邪を引いた時みたいな痛みだ。

次に感じたのは、熱さだった。
体が、熱い。
しかしそれは、同じく風邪を引いた時のような体の熱さではなかった。
もっと、強烈な・・・なんだか、燃やされているような・・・


私は、ゆっくり上半身を起こした。
頭の痛みでクラクラするが、意識の方ははっきりしてきた。体の熱さがそうさせる。

熱い・・・何で・・・何が?

ぼやけた赤い視界が、徐々に形を表していく。

その赤さが、炎によるものだと気付いた時・・・
私は、今置かれている状況を把握した。

私の部屋が、燃えていた。
そこにある、何もかもが燃えていた。
私の数少ない小物も、学校に持っていく荷物も、はるなんから借りた洋服も、魔法の研究機材も、全て。

私は、そのあまりにも日常からかけ離れた光景に、全く実感が湧かなかった。

・・・嘘・・・
燃えてる・・・
これは・・・現実なの・・・?

その状況で、私はただ呆然と自分の部屋が燃えているのを眺めていた。
しかし、体の燃えるような熱さの感覚が無視できないほどの痛みに変わってくると、無意識に体が動いた。

・・・早く・・・逃げないと・・・

思考が凍りついたまま、体だけがゆっくり動く。入り口のドアに向かって、私は這うように進んだ。


逃げなきゃ・・・逃げないと・・・
死んでしまう・・・私・・・
あ・・・わたし・・・
わたしが、燃えてしまう?

固まった思考が、ある事実を見つけ出した。

燃える。「わたし」が。
私の、絵が、燃えてしまう。

私の目が、壁をとらえる。

そこに飾ってあった私の絵は、その半分の姿が見えなかった。
そして、まだそこにある残り半分が、今まさに炎に包まれていたのだ。

その事実に対する恐怖に、私の細胞が一気に覚醒した。

「うわああああああああああああああああああああ!!!!」

悲鳴のような、咆哮のような声が口から吐き出された。

私の!!!私の絵が!!!「わたしたち」が!!!
燃えている!!!消えちゃう!!なくなっちゃう!!!

私は、無意識に動いていた。
一番近い壁に飾られた、一枚の燃えている絵にかけよる。
その絵に、私は体ごとぶつかった。衝撃で、その炎を消すつもりだった。


「・・・っ・・・熱・・・!」

そのあまりの高温に、自分の顔が歪むのがわかった。
その絵の炎は消えた。しかし、もうすでに残った部分は少ししかなく・・・

「あああああああああああ!!!!!」

私は、声にならない声をあげながら、残った絵に体当たりをしていった。
声を上げ続けなければ、その熱さで意識が飛んでしまいそうだったのだ。
水を用意する時間すら、もったいなかった。少しでも、早く火を消してやりたかった。
体当たりする度に、私の服が、体が焦げていく。それでも、私は構わずに続けた。
絵が燃えてしまう方が、自分が燃えるよりも、痛い。

それでも、それらは全て無駄になっていく。
木製の壁自体が燃えているのだ。絵を外さなければ、いずれ全て燃えてしまう。
しかし・・・絵を一枚ずつ外す時間は、もうなかった。

どうしよう・・・どうしよう・・・

私は、どうすればいいかを必死に考えながら、それでも絵にぶつかっていった。
段々、体中の痛みが薄れていく。感覚が麻痺しているのだろうか。


しかし更に勢いを増していく炎に、私はついに呆然と立ち尽くしてしまった。

このままじゃ、本当に全部燃えてしまう・・・
そうなったら、私は・・・
私は、心が死んでしまう!

不意に、呼吸が苦しくなってきた。部屋の酸素が、もうないのかもしれない。
私は立っていられなくなって、その場にしゃがみこんでしまった。
そのまま、体も動かなくなってしまった。全身の痛みが、これ以上動くことを拒否しているみたいだ。
もう、逃げることも出来なくなってしまった。

私・・・死ぬのかな・・・

そう思いながら、私は意識が朦朧としてくるのを感じた。

死にたく、ない・・・

みんな・・・

お父さん・・・
はるなん・・・

・・・・・・・・・・・
・・・・・・・・・・・


私は、燃えている自分の部屋の中で目が覚めた。

ゆっくりと、周りの様子を確認する。
今まさに、部屋が燃え尽くされようとしている。
その瞬間で・・・

全てが、止まっていた。

・・・何?

部屋を覆った炎は、その姿のまま動きを止めている。
バチバチと燃える音も、怖いくらいに聞こえない。
私は自分自身の動かない思考をそのままに、呆然と目の前を眺めていたが・・・

・・・痛くない・・・?

とても不思議だった。さっきまで全身を覆っていた強烈な火傷の痛みが、全く感じられない。
そして、意識を保てないほどの高温であるはずのこの部屋の中なのに、その熱さが消え失せていた。

・・・どうして・・・何が起こっているの?

「やっと起きたか」


私は、その声に振り返った。
そこには、笑顔があった。

「久しぶりね、あやちょ」

はるなんのつけたあだ名で、私を呼ぶ。

それは・・・「あの人」・・・
「フクダカノン」だった。

絵ではない。本物の人間だ。

あ・・・

私は呆然としながらも、その名前を呼ぼうとしたが・・・

・・・・・・?

口から出るべき言葉は、音を失っていた。声が出ない。
私は焦って何度も試したが、その言葉に音を伴うことが出来なかった。

なんで・・・?こんなときに!?

「ああ、大丈夫よ。あなたが思えば、私はわかる。ここはそういう場所だから」

そう言って、彼女は笑った。
私はなりゆきに付いていけずに、ただ立ち尽くしていたが・・・

「誰かが、あなたの存在を許せないみたいね」

笑みを浮かべたまま、彼女はそう言った。


・・・え?

「この火事は、誰かが意図的に仕掛けたもの。明らかに、殺意が込められている」

その言葉に、私は驚いた。
しかし、何故か恐怖を感じることができない。なんだか目覚めてから、自分の感覚が麻痺している気がする。

それは・・・一体誰がそんなことを?

私がそう「訊く」と、彼女はふふっと笑うだけだった。

「私があなたの前に現れたのは、あなたに伝えたい事があるからよ。そして、お別れを言いにね」

お別れ・・・

私はその言葉を聞いて、さっきまでの自分の絵の有様を思い出した。

「そう、あなたの絵はもう助けられない。もうどうしようもないの」

そう言いながら、彼女は首を振った。
だが、その顔は笑顔のままだ。最初からずっと、その表情は変わらなかった。

「そして、私の絵も消える。だから、お別れよ・・・あまり、時間もないしね」

・・・花音ちゃん!!

私は「叫んだ」。一年間抱いていた思いが、急激に溢れ出す。


私、あなたにお礼が言いたくて!
はるなんとのこと・・・
あなたのおかげで、私は変われた!
それに・・・あなたと話がもう一度したくて!
それに・・・それに、私・・・

私は混乱した。言いたい事が沢山あるのに、言葉を声にしないとなかなかまとまらない。

彼女は私の「声」を聞いて、笑顔が少し変化した。優しい笑顔だ。

「私の話を聞いて、あやちょ」

私は彼女の真剣な口調に、私はなんとか意識を集中させた。

「あなたは、今まで様々な笑顔を見てきたと思う。
楽しい時、嬉しい時、建て前の時・・・理由はそれぞれ違うけど、それらは決して悪いものじゃない」

・・・建て前の笑顔も?

「ふふ・・・建て前でも、相手との距離を測る為にするものだからね。悪気は無いの。あとはされた方の取り方よ」

そう言われて、私はなんだか複雑な心境になった。

「でも・・・ひとつ、覚えておいて欲しい笑顔があるの。それは・・・「悪意」の笑顔」

『悪意』・・・?

「そう。相手に、明らかな敵意を持って見せる「笑顔」があるのよ。ただ、それを見分けるのは難しいわ」

私は、今までに会ってきた人間の「笑顔」を思い浮かべた。

悪意・・・か。


「だから、あなたに伝えたいのは・・・笑顔の裏にある、その人の本当の心を見つける努力をしなさいってこと」

そして、彼女はにっこりと「笑顔」を見せた。

「表情に囚われず、人の本質を見抜く・・・笑顔をずっと作れなかったあなたこそ、出来るはずよ」

私は、いつの間にかその言葉を噛みしめていた。
声に出来ない分、自分の心に溜まっていく。

私の顔を見て、彼女は満足したように頷いた。

「それと最後に、あなたにお礼を言っておくわ」

・・・お礼?

私は不思議に思っていると、彼女は少し目を細めて横を向きながら言った。

「私の事を描いてくれて、ありがとう。とても可愛く表現されてて・・・うれしかったにょん」

少しおどけて言った言葉には、似合わない照れが見え隠れした。
私の胸が熱くなり、心の中で叫んだ。

花音ちゃん!あなたは、どうして私に色々教えてくれたの!?
あなたは・・・一体、なんなの!?

その「声」に、彼女は少し意地悪そうに笑って答えた。

「前に、言ったじゃない。私は、あなたの「仲間」だからよ」

仲間・・・仲間。
その言葉が、頭の中で交差する。


仲間って・・・仲間って、何なの?
わからない・・・わからないよ・・・

「「仲間」は「仲間」よ。それ以上でも、それ以下でもないわ」

その言葉に、私は思わず叫んでいた。

「私は!あなたの事を友達だと思ってたよ!花音ちゃん!!」

その私の声が、急に音を伴った。
彼女の顔が、初めて笑顔じゃなくなった。とても驚いている。
そして・・・一瞬赤みを帯びた頬で見せた笑顔は・・・

とても、美しかった。

「・・・お別れよ」

突然、部屋が白く輝きだした。
彼女の顔が、見えなくなる。

「花音ちゃん!」
「・・・あなただけは、死なせないわ」

彼女の声が、頭の中に鳴り響く。
そして、全てが白くなった世界で・・・

「いつか・・・あなたが私を忘れずに、また描いてくれたら・・・その時は・・・」

また会いましょう・・・

その言葉を最後に、私の意識は白く消え去った。


白い奔流を漂いながら、私は薄く溢れる記憶に身を任せた。

『気付いていますか?』

・・・はるなん・・・

わかったよ。私、気付いた。

私、笑えてたね。

ちゃんと、心から、笑えた。
はるなんの、おかげだよ。

『でも・・・それでいいんです』

そうだね・・・それでも、良かったんだね。
私が自分の笑顔に気付かないままなら、意識することなくいつまでも自然に笑えたかもしれない。

ありがとう・・・
はるなん・・・

『私、彩花さんの事、大好きです』

・・・・・・

私も・・・

大好きだよ・・・


・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・


・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

揺れるような優しい振動を感じて、私はうっすらと目を開けた。
視界がぼやけているが、頭の中は更にぼやけていた。

「彩花・・・大丈夫か?」

お父さんの声が、すぐそばで聞こえる。
私は、お父さんの肩にもたれかかっているようだった。

首を傾けてお父さんの方を見たかったが、ひどい痛みのせいで無理だった。
首だけではない・・・全身が、痛い。
私は力が入らずに、かすれた声を出した。

「こ・・・こ・・・は?」
「電車の中だ。まだ無理をするなよ」

お父さんの、心配そうな声が聞こえる。
少しでも動くと、全身が悲鳴をあげるように軋んだ。私は視線を前に向けたまま、呟くように質問した。

「なん・・・で・・・私・・・こんな・・・」
「覚えていないのか?火事のせいで、記憶が混乱しているのかも知れないな」
「・・・か・・・じ・・・?」

私の脳裏に炎の記憶が焼きついていた。

・・・ああ、そうか・・・
私の家が、燃えてしまったんだ・・・
でも・・・


「なんで・・・私・・・助か・・・たの?」
「それも覚えていないのか。お前は、家の外で倒れていたんだ。あちこちに火傷を負っていたが、すぐに医者に連れて行って手当てしてもらった」

私はそれを聞いて、自分の体のあちこちに白い包帯が巻いてあることに気付いた。

「命に別状がなくてよかった。しかし、もう住む家がなくなってしまった・・・だから、お父さんが昔住んでいた実家に向かっているんだ」

そう言ったお父さんの声には、疲れが滲んでいた。

私の住む場所が・・・なくなった・・・
ということは・・・やっぱり・・・

「私の・・・絵は・・・?」

お父さんに首を振る気配があった。

「やっぱり、覚えてないか。焼け跡を二人で探しただろう」

その言葉に、私はおぼろげながら昨日の記憶が蘇った。
私の部屋の焼け跡で、お父さんと一緒に残った絵がないか探し回ったのだ。
安静にしないといけなかったが、私はじっとしていられなかった。
・・・でも、それは無駄に終わった。
私の絵は、もう一枚も残っていなかったのだ。

私は家の焼け跡のそばで、お父さんにすがり付いて泣き叫んだ。
いつまでも、いつまでも。

「・・・そっか・・・もう、全部燃えちゃったんだね」
「ああ・・・」


私は電車に揺られながら、何故こんなことになったのかを考えた。
しかし、どんなに考えても・・・その答えはわからなかった。
前しか向けない私の固定された視線が、流れていく窓の外の風景を撫でて行く。
その景色はすでに自分の知らないものだった。

私・・・引っ越しちゃうんだ・・・

外の景色のように、今までの記憶が頭の中を流れていった。
何故か、悲しさや寂しさを感じなかった。ただ、胸の中に虚しさだけがあった。

少しの沈黙が流れる。電車の揺れる音だけが静かに耳に入った。

「・・・彩花」

ふと、お父さんが私を呼んだ。その声は、少しの躊躇いがあるように聞こえた。

「春菜くんのことは・・・落ち着いたら、必ず連絡をとれるようにするからな」

私はその言葉を聞いた後、しばらく何も言わなかった。
何も、言えなかったのだ。

「とりあえず今は、住む場所が最優先だからな」
「・・・お父さん」

私は、不思議に思って訊ねた。

「・・・ハルナくんって・・・誰?」


聞いた事の無い名前だった。お父さんの知り合いだろうか?
私は返事を待ったが、お父さんから来るはずの答えが、何故かなかなかこない。
しばらく無言が続いた後、お父さんはようやく返事をしてくれた。

「・・・いや、誰でもないよ。私の気のせいだったみたいだ」
「・・・そう」

再び、沈黙が訪れた。電車の音が、規則的に届いてくる。
私は自分の痛みと闘いながら、心の中の不思議な空白を感じていた。
その空白は、とても大きいくせに実体が見えない。空白だから当然だが。

・・・これは・・・なんだろう・・・?

「・・・そういえば」

ふと、お父さんが思い出したように呟いた。

「彩花が前に、「友達」と「仲間」との違いについて質問してたな。私はずっとその事を考えていたんだ」

突然そう言い出す。その声は、なんだか無理に明るく振舞おうとしているように聞こえた。
私はおぼろげな記憶を探ったが、あまり思い出せなかった。

「・・・そう、だっけ」
「ああ、私なりの解釈だが・・・聞いてくれるか?」

お父さんは咳払いをして、私にゆっくりと語り始めた。


「「友達」と「仲間」はどちらも人との関係性を表す言葉だが、そのあり方は似ているようで違う」

お父さんは、私の目の前にグーにした二つの拳を差し出した。
私は、動けない視線でそれを眺める。お父さんは私の状態を把握しているようだ。
その二つの拳が、寄り添うように近付いた。

「「友達」は、このように「心」を寄り添い合って生きていける関係だ。だが・・・」

両方の拳から、それぞれ人差し指が伸びた。そして、二本の指は別々の方向を向く。

「その生き方、進む道、目指すもの・・・そういう目的が、全く違う方向を向いているんだ。一方で・・・」

二つの拳が、少し離れる。

「「仲間」は、「心」がくっついているわけではない。それぞれの立場で、お互い干渉せずに生きている。そのかわり・・・」

二本の人差し指が、それぞれの場所にいながら同じ方向に向かって伸びた。

「その進む先が同じだ。目指しているものの種類が同じ・・・つまり、「同類」ってことだ」

お父さんはそう言うと、両腕を下ろした。
だが私が何も言わないので、そのまま話は続いた。

「このように、この二つは似ているようで全然違う。だが、この「友達」と「仲間」には、共通することがあるんだ」

少しの間があって、お父さんの息を軽く吸い込む音が聞こえた。

「それは・・・どちらも長く続くことによって、見えない「絆」が生まれるんだ。とても、とても強い「絆」がな」
「・・・きずな・・・」


私が呟くと、お父さんは頷いて体を揺らした。

「ま、そんなところかな」
「・・・そっか」

私は相槌をうちながら、何故お父さんが突然そんなことを言い出したのかがわからなかった。

「・・・でも私・・・友達も・・・仲間も・・・いないよ」

お父さんの笑い声が聞こえた。明るい声だ。

「そうだな。でも、いつか彩花にできるといいな。友達と・・・仲間が」
「・・・別に、いらないよ」

そう言い返して、私は目を瞑った。
そして、考えた。


そう・・・友達も、仲間も、私には必要ない。
今までだって、ひとりでやってきたんだ。

私には、やりたいことがある。
もっと絵の勉強がしたいんだ。
大きな絵画コンクールで、優秀賞だって取った。
私なら、もっともっと上手くなれるはず。

今まで描いた絵は全部燃えてしまったけど、それは仕方が無い。
どんな絵を描いたかも、あまり覚えてないのだ。
これから、もっと沢山の絵を描けばいい・・・


私は暗い視界の中で、徐々に眠りに落ちていくのを感じた。
電車の揺れが、それを助長していく。

何かの音が、聞こえた。
電車の音に混じって、別の音が聞こえる。
私は目を薄く開けた。

・・・なんだろう?

その音が、すぐ近くから聞こえる声だと気付いた。
それと同時に、電車の規則的な揺れとは違う不規則な振動を、私の半身が感じた。
それは、お父さんから伝わってくる振動だった。

・・・お父さん・・・?

私は、お父さんから伝わるその振動と声の正体に気付いた。
でも、「それ」が信じられなかった。眠りかけた意識が、完全に戻ってしまった。

・・・なんで・・・泣いてるの?

私はお父さんの顔を見ようとしたが、痛みでままならない。
不規則な揺れが、しばらく続いた。
私は、やっぱり顔を見れなくて良かったと思った。

見てはいけないものだと、無意識に悟ったのかもしれない。

その号泣の理由を訊けないまま、私たちの旅は終わりに近付いていった・・・


そして・・・

十年の月日が過ぎた。

私は、世界中を飛び回って絵画の修行をし続けていた。
もっと、もっと絵が上手くならなくてはいけない。
様々な被写体を見つけては、描いて、描いて、描きまくった。

孤独な旅だった。
友達と呼べる人間はおらず、仲間と呼べる人間もいない。
生まれてから一度もそんなものはいないのだから、もう慣れているだろう。
そう自分に言い聞かせても、心の奥底では寂しかった。

お父さんは、定期的に私に仕送りをしてくれていた。
しかし、高い画力を身につけて立派な画家になる・・・そうなるまで、お父さんの下には帰らないつもりだった。
なぜなら、一度でも帰ってしまったら、もう二度と旅立てないような気がしたからだ。
甘えていては、絵は上手くならない。そう信じていた。

もうすでに、十年近く父と会っていない。
でも・・・それが・・・

取り返しのつかないことだと、後に気付いた。


私は、お父さんの亡骸を呆然と見つめた。

辿り着いた時は、もう遅かった。
病院のベッドで、眠っているようにも見えるその死に顔を初めて見た時、私は気を失ってしまった。

父の死因は急病によるショック死と説明されたが、私にはどうでも良かった。
ただ、自分の中に後悔の念だけが膨らんでいく。

自分の事しか・・・考えてなかった・・・
お父さんを残して、十年も好きに生きてきたのは間違いだったんだ・・・

ごめん・・・お父さん・・・


私はそれからしばらくの間、廃人のような状態だった。
もう、なにもする気が起きない。
何かをしようとしても、お父さんの笑顔が頭に浮んでしまい、手が止まってしまうのだ。
絵も、描きたくなかった。私が絵を描いていたせいで、お父さんはひとり寂しく死んでいったんだ。
私はお父さんの実家で中に引きこもったまま、鉛筆を持つこともなく・・・
一ヶ月が過ぎていった。

その日、私はお父さんの遺品を整理する事に決めた。

・・・こんな生活を続けていてはいけない。
自分の気持ちも、整理しなければ先に進めない。

私はお父さんが生前使用していた部屋に、初めて入った。
それまでは、入ることを避けていた。どうしても、お父さんへの後悔の気持ちが溢れてしまうからだ。


部屋に入ってみると、懐かしい匂いがした。お父さんの匂いだ。
私は視界が滲んでくるのをぐっと堪えた。
部屋の中は、ひどくさっぱりとしたものだった。大した家具は、何も置いていない。
ただ、寝るためのベッドと、何冊かの本が立てられた棚が乗った木製の机が置いてあるだけだった。

私は収納スペースを確認してみたが、何着かの服や、愛用の魔法道具があるくらいだ。
とりあえずそれらを取り出して、段ボール箱に詰め始めた。

一通り詰め終わると、今度は机の上にあった棚や本に手を出す。
本の表紙を見てみると、どうやら魔法に関する本だということがわかった。

・・・「異空間」・・・「外宇宙」・・・?

本のタイトルにある単語に目を通しながら、私はお父さんが昔何の魔法を研究していたのか全く知らないことに気付いた。
どの本も難しい言葉の羅列だけで構成されていて、私は読んでみる気にはならなかった。

机の上が片付くと、今度は引き出しを開けてみた。
そこには・・・

「え・・・?」

私は思わず声が出ていた。
引き出しの中には、ひとつの小さな箱がぽつんと置かれていた。
他にはなにもない。ただその箱があるだけだ。
そしてその箱の上に、長方形の白い紙が貼り付けてあった。
私が紙をはがして確認すると、そこには手書きの文章が書いてあった。

「お父さんの字だ・・・」


見覚えのある字で、こう記されていた。


『私はもう長くない もうすぐお母さんに会える 
彩花へ 幸せになっておくれ 私を許しておくれ』


私は驚いた。これは、お父さんが死ぬ前に私に当てたメッセージだ。
胸に、強い痛みを感じた。

お父さんは自分の死期を悟っていた?
それなのに、私の幸せのことを思ってくれていた・・・

私は、涙が頬を伝うのを感じて、嗚咽が漏れ出す。

お父さん・・・お父さん・・・

その亡骸を見ても、泣けなかった。感情が麻痺していたんだと思う。
その分が・・・一ヶ月過ぎた今、破裂したのだ。
私は、しばらくそのまま泣いていた。
だが、少し気持ちが落ち着いてくると、この文章に不可解な事があるのに気付いた。

・・・「私を許しておくれ」?

どういうことだろう?
お父さんが、私に謝ることがあるというのか?
・・・全く、心当たりが無い。

私は袖で涙を拭うと、その紙が付いていた箱を見てみた。
それは可愛らしい柄の紙で包装がされていて、更には赤いリボンで包まれていた。

・・・プレゼント?


私は、リボンを解いて包装を丁寧に外した。
箱の蓋を開けて見ると、中にはまた紙が入っている。
その紙を取り出すと、下に収まっていたのは・・・

「ブレスレッド?」

手首に着けるアクセサリーだった。
とても落ち着いた色で、少し大きい。大人の男性用だろうか。
私は、上に入っていた紙を確認した。黄色い紙で、二つ折りになっている。
中には、可愛らしい字が書かれていた。それを読んで、私は首を傾げた。


『お父さんへ お誕生日おめでとうございます 
これからもよろしくお願いします     飯窪春菜』


飯窪・・・春菜・・・

誰だろう?
聞いた事がない。

私は、わけがわからなかった。
知らない人からの、お父さんへのプレゼント。
しかも、この「お父さん」というのが私の「お父さん」だとは限らない。
だとしたら、何故これを私のお父さんが持っていたんだろうか?

更に、お父さんからの私へのメッセージが、このプレゼントに付けてあった。
ならば、お父さんはこれを私に残したということだ。

私は、ブレスレッドを取り出した。
やはり、ちょっと大き     い


・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・


                                
・                ワ
・                タ
・                シ
・                ハ
・                                  
・                イ
・                イ                 
・                ク                 
・                ボ                 
・                ハ                 
・                ル                 
・                ナ                 

                              

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・


・・・・・・・・・

私は、我に返りました。
少しの間、ボーっとしていたようです。

・・・あれ?
私・・・何してたんだっけ?
確か、お父さんの部屋を片付けていて・・・それから・・・

ふと私は、床に落ちている物に気付きました。
ゆっくり屈んで、それを確認してみると・・・

・・・ブレスレッド?

更に私は、そのアクセサリーに黄色い紙が貼り付いているのに気付きました。
私はその紙に書いてあった内容に、一瞬首を傾げましたが・・・

「ああ、これは私がお父さんにあげたものだったんですね。昔のことだから忘れていました」

そう呟いて、うんうんと納得しました。
「飯窪春菜」と自分の名前が書いてあるし、それ以外考えられないからです。

私は屈んだままブレスレッドを段ボール箱にしまい込んで、立ち上がりました。
すると机の上にも、少し潰れた白い紙が落ちています。
私はため息をついてその紙も箱に放り込むと、部屋の中を見渡しました。

よし。これで終わりかな?

私は全ての片づけを終えると、段ボールに「処分」と手書きしてあった紙を貼り付けてから、それを持って部屋を出て行きました。
私は、自分の気持ちがすっきりしているのを感じて、やっぱりお父さんの荷物を整理して良かったと感じました。
泣いたことで、前に進めるようになったのかもしれません。
私の心に、少しだけ力が戻った気がしました。


そう感じるのと同時に・・・
私は、無性に絵が描きたくなりました。

・・・あ・・・

この一ヶ月の間、全く絵を描いていなかったのです。
その反動なのかもしれませんが、私の胸に突然湧き出た衝動の大きさに驚きました。

・・・そうだ。
やっぱり私は、絵を描かないと駄目な人間だ。

何も出来ない、どうしようもない私が、自信を持って言える唯一の特技・・・


私は段ボールをリビングに置くと、自分の部屋に戻ってスケッチブックを用意しました。
鉛筆を持って、その感触を味わいます。

・・・ズタズタだった私の心に、ジンと熱いものが溢れるのを感じました。
改めて私は、自分にとって絵画がどんなにかけがえの無いものなのかを実感させられました。

私は、やっぱり絵を描きたい。
私が幸せを感じるのは、この瞬間だけなんだ!

お父さん・・・
私を・・・見ていてね・・・


そして私は、その大きな喜びの衝動のままに、腕に力を伝わせたのです・・・


『笑顔』過去編 完


第四章  『笑顔』真相編→

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最終更新:2015年03月01日 10:46