黒猫の追憶


――年に一度、大熱を出して寝込むことがある。
――独りベッドで身体をギュッと丸め、ただひたすらに回復の時を待つ。
――朦朧とした意識の中で、いつも必ずある夢を見る。
――いや違う。いつも必ずある夢を見ていたことを思い出す。
――それは私が、夢の中だけでもまた会いたいと心の奥底で願っていたあのお方の記憶。
――そして、夢の中でも二度と体感したくはないと怯えるあの日の記憶……。





いつの頃からはわかりません。
私は、使い魔としてご主人様にお仕えしていました。
それ以前の記憶はないので、きっとご主人様に直接見いだされたか召喚されたのでしょう。


ご主人様はとってもお優しい方です。
使い魔といっても所詮はただの黒猫、簡単な魔法が使える程度で
私ができるお手伝いなどたかが知れたもの。
それでもご主人様は、こんな私に仕事一つ頼むのにも丁寧に導いてくださいます。
そして私が仕事の完了を報告すると、暖かく微笑んで、

「ありがとうはるなん」

と、私の頭をワシャワシャとかき混ぜるように撫でてくださるのです。
ご主人様のヒンヤリとした掌の感触が大好きで、
いつも私は仕事を頼まれることを心待ちにしていました。


ご主人様はとってもお美しい方です。
緑の黒髪というのでしょうか。輝くような張りのある長髪に目を奪われます。
そして整った顔立ちと、中でも存在を主張してやまない大きな瞳。
穏やかなその瞳は、目と目が合うとそのまま引き込まれてしまいそうな吸引力があり、
深遠なる宇宙に取り込まれたような不思議な感覚に陥ります。

ご主人様を一言で表現すれば「大人の女性」であり、私にとってはまさに憧れの存在なのです。


ご主人様はとってもおかしな方です。
せっかくの美貌がありながら、まったくそれに頓着しません。
化粧っ気もまったくなく、服装もほとんど地味なローブのみ。
美しい長髪を梳かすことはよくされているのですが、
それもお手入れというよりご主人様にとっての精神統一法の一つという具合で、
作業中は心ここにあらずとなっている時がほとんどです。

それでもこれだけお美しいのですから奇跡的なのですが、
私などは、なんかもったいないななんて思ってしまいます。

ご主人様は俗事と関わることを好まれず、人里離れた険しい山脈の一角に
ひっそりと研究施設を設け、そこに住まうのはご主人様と使い魔である私のみ。
そしてそこで研究しているのは、宇宙の謎についてです。
ご主人様は研究により、無限の宇宙から力を得る術を会得されています。
そのため凡百の魔道士とは比べ物にならないほどの力を持つと同時に、
よく交信と称し、一点を見つめたままボーっと固まる姿が日常となっていました。

魔道士というのものは、一般の人から見ると多かれ少なかれおかしな習性を
持ち合わせているものでしょうけど、その中でもご主人様のそれは
群を抜いているのではないかななんて感じることもよくあります。
でもそれがご主人様らしくて、私はご主人様のことが大好きなのです。

 

――あのお方とともに暮らす日常。
――平穏と幸せに満ちた日々。
――そして、もう二度と戻れない日々……。





ご主人様の使い魔として私が任された一番の仕事。
それが、情報の整理です。
俗事に一切関心を持たないご主人様に代わり、
いつご主人様に訊ねられてもお答えできるように、世の中の情報を把握しておくのです。

そのためにご主人様から預けられたのが、魔法のパソコンでした。
このパソコンは、世の中のありとあらゆる出来事をリアルタイムで年表化していきます。
もし気になる事象を見つけたら、その項目をクリックすればより詳細な情報も得られます。

私はパソコンの情報を、時間に余裕のあるときいつも読み込むことによって、
ご主人様からの質問にいつでも対応できる準備をしていました。
私はこの作業によって、情報の整理と取捨選択を見極める能力を
身につけることができたのだと思います。


とは言え、ご主人様から世の中のことを訊ねられることはほとんどありませんし、
「大国同士が戦争に突入した」だの、
「魔道士間の抗争激化で危険水域に達している」だの、
世間的には大ニュースであっても、それがご主人様の興味を引くことはありません。
ご主人様が求めるのは、いつもふとした瞬間のふとした情報ばかり。

「ねえはるなん、今の季節って何だったっけ?」

そんなことをいきなり訊ねてくるのがご主人様なのです。

「今はもう春ですよ、ご主人様」

「ふーん、もう春だったんだ。それは知らなかったよ。
今頃だとどんな花が咲いてるかな?」

「そうですねぇ。まだ桜にはちょっと早いですし……。
そうだ、こぶしの花なんかちょうど見頃だと思います。
清楚さと力強さを兼ね備えた綺麗な花で、私も大好きなんですけど」

私の返答に、ご主人様は何かを思いついたようにニッコリと微笑みました。

「そうか、はるなんが大好きな花なんだ。うん、それはいいね」

そして、ありがとうはるなんと私の頭をクシャクシャと撫でると、
なにやらブツブツ呟きながら研究室へと戻っていかれました。


翌日のことでした。

「ねぇはるなん、ちょっとお茶しようか」

やけに楽しそうなご主人様に指定された部屋は、
普段ご主人様が芸術活動に勤しむため利用しているアトリエでした。

いつもお茶の時はリビングか書斎でまったりと紅茶を飲むのに、
いきなりアトリエだなんてまたご主人様の気まぐれが発動したのかな。
なんて思いながらアトリエに入室した私は、目の前に広がる光景に驚嘆しました。

いつも薄暗く雑多なものが溢れ手狭なはずのアトリエが、
広々とした庭園へと姿を変えていたのです。

抜けるような青空。暖かな陽光。緩やかに風に靡く草原。遠くから響く小鳥の囀り。

どこをどう見てもこれが室内とは到底思えません。

庭園中央の木蔭にはモダンなテーブルが設置され、
テーブルを守るかのごとく枝を伸ばした木には綺麗な花が一面に咲き誇っています。
その花を目にした瞬間、私はご主人様の意図にようやく気付きました。

「これは……こぶしの花」

「そう、こぶしの花。はるなんの言うとおり力強い純白の光を放つ綺麗な花だね」

「もしかしてわざわざ私のために、このこぶしの木をご用意くださったのですか?」


「どうにもアトリエの中が殺風景で味気ないなと思っていてね。
せっかくだから衣替えしようかなと考えてたのよ。
だからこぶしの木はそのついでって感じかな。はるなんが大好きだという花も見たかったし」

「ありがとうございます。ついででも本当に嬉しいです!」

こぶしの花の側で大きく深呼吸して、甘い香りを胸一杯に取り込みます。

ご主人様の研究所で生まれ育った私は、これまで外の世界というものを
実際に肌で体感したことがありません。
そんな私にとってこれまで画像の中でしか見たことのなかったこぶしの花が、
すぐ目の前にあるだなんて、本当に夢のような出来事でした。

そんな私の喜ぶ姿を見ながら、ご主人様は満足げに目を細め、
美味しそうに紅茶を喫していました。
そしてふと閃いたように、楽しげに思案を巡らせます。

「せっかくだから、この部屋に名前を付けてみようか。
こぶしの花に因んで、こぶし工房。……うーん、ちょっとイマイチかな。
じゃあ、工房じゃなくてファクトリー。こぶしファクトリー。
うん、なかなかいい名前になったかもね」

工房の英訳は「ファクトリー」じゃなくて「アトリエ」ですよ。

なんて無粋なツッコミは、ご主人様の楽しげな様子を前にあえてする気にならず、
その独特なセンスを堪能しながら、ご主人様との幸せなひと時はゆっくりと流れていきました。

 

――あのお方の記憶。
――それとともに蘇ってくるのは、ある物語。
――満天を埋め尽くす星々を旅する、幻想的な物語……。





私が、ご主人様に任されていた重要な仕事がもう一つあります。
それは、物語の朗読です。

その機会が訪れるのは、数日に一度くらいの頻度でしょうか。
ご主人様が本格的に「交信」に入る時が、私の出番となります。

書斎にあるロッキングチェアに腰掛け、
ゆったりと一定のペースで前後に揺られながら、
悟りを開くような表情で目を閉じるご主人様。

私はすぐ側のテーブルにちょこんと座り、
落ち着いた声音でゆっくりと物語をそらんじるのです。

    「ではみなさんは、そういうふうに川だと云われたり、
    乳の流れたあとだと云われたりしていたこのぼんやりと白いものが
    ほんとうは何かご承知ですか。」

    先生は、黒板に吊した大きな黒い星座の図の、
    上から下へ白くけぶった銀河帯のようなところを指しながら、
    みんなに問をかけました……


暗唱する物語は、「銀河鉄道の夜」。
ご主人様がおっしゃるには、この物語がともにあると、
交信がスムーズに深みに入り込みやすいのだそうです。

朗読しながら、私もまた物語の世界へと没入していきます。
ジョバンニ、そしてカムパネルラとともに銀河鉄道に乗車し、
プリオシン海岸ではクルミの化石を拾い、
鳥捕りからお菓子のような雁をもらって一緒に食べるのです。

遠くの遠くの野原のはてから、「新世界交響楽」のかすかなかすかな旋律が糸のように流れて来る頃。
それまでずっと静かに揺れ動き続けていたロッキングチェアが、ピタリと動きを止めます。
それが、私の朗読の役目の終了を知らせる合図、
即ちご主人様の交信がより深みへと到達したという合図でした。

朗読を止めた私は、ご主人様の膝の上にそっと乗り移ります。
そしてそこで丸くなると、ご主人様のヒンヤリした膝の感触を確かめながら、
眠りの世界へと落ちていくのです。

でもこれは、ご主人様が交信中で心ここにあらずなのを
好機とばかり勝手にしていることではないですよ。
これもまた、ご主人様から命じられた立派な仕事の一つなんです。

一体どういう意図があってのものか、私などにご主人の考えを推し量ることなどできません。
それ以上に、あえて推し量る必要もないことです。

ご主人様のお側にいられるこの時間。かけがえのない幸せなひと時。
私にとって重要なのは、ただそれだけ。それ以上は何もいらないのですから。

 

――あのお方と過ごす日々。
――そこに訪れる一大転機。
――それは、私の人生を一変させるとてつもない出来事だった。





それはある日のことでした。
ご主人様の交信の最中、その膝の上で目を覚ました私は、
そのまま首を上げてご主人様のお顔をジッと眺めていました。

「どうしたのはるなん? カオリの顔に何かついてる?」

「あ、ゴメンなさい! 交信の邪魔をしてしまいましたか??」

いきなり目を見開いたご主人様が、覗き込むように顔を近づけてきたので、
私はドギマギしながら急いで謝罪しました。

「ちょうど戻ってきたところだから、別に謝る必要なんてないよ。
たまたまはるなんの熱い視線を感じたからちょっと気になってね」

私を安心させるようなご主人様の暖かい微笑み。
そのおかげで落ち着きを取り戻した私は、改めてご主人様の問いに答えます。


「ご主人様の美貌に思わず見蕩れていたんです。ホントお綺麗だなぁと。
ウットリしながら眺めていたら、目が離せなくなってしまって」

「綺麗……ねぇ。そんなの感じたこともないし、はっきり言って興味もないんだけど」

いつも通り、ご自分のことにはまったく無頓着なご主人様。
そんな様子に、突然私の中に普段はまずありえないような感情がこみ上げてきました。
それはなんと、腹立たしさを覚えたのです。
しかもその感情を押さえきれずご主人様にそのままぶつけてしまうという、
後から振り返るとあまりに恐れ多い暴挙を仕出かしてしまいました。

「どうしてそんなこと言うんですかご主人様は!
もう少し自分の美しさを自覚してください!!」

これまでにない様子で声を高める私に、ご主人様は驚いたような、
そして珍しいこともあるものだという興味深げな視線を向けてきました。

「自覚かぁ。別にしても何がどう変わるものでもないし」

私の勢いをはぐらかすためか、それともからかおうとしてるのか、
はたまたただの天然か、とぼけた返しをしてくるご主人様。
それがまた私の感情をヒートアップさせます。

「変わりますよ! 今のままじゃせっかくの美貌が宝の持ち腐れじゃないですか!
ご主人様は私の憧れの存在なんですから、そんな他人事じゃ困りますって!」

「へぇ、はるなんはカオリなんかに憧れてたんだ。全然知らなかった」


「そんな当たり前のことで驚かないでください! 
私のような使い魔風情にこれだけ優しく接してくれるお方なんてまずいないですし、
内面も外見も含めて全てが私の憧れですから。
もし私が人間になれるとしたら、ご主人様のようになりたいと本気で思ってるんですよ」

「はるなんは、人間になりたいの?」

それまでのとぼけた調子から一変して、やけに真剣な声音で訊ねるご主人様。
でも頭に血が上ってる私は、それを気にすることもなく、
感情のままにご主人様に答えていました。

「それはもう人間になりたいに決まってますよ!
でもそれは、ただ単に人間になりたいってだけじゃないですからね!
『ご主人様のような人間になりたい』というその前提は譲れませんから!!
……もちろん、そんなことを願ってもただの夢物語に過ぎないことはわかってますけど」

「ごめんねはるなん。
カオリって相手の気持ちを推し量るとか苦手だからさ。
はるなんがそんなこと思ってたなんてまったく気づかなかったよ」

「えっ!?」

いきなり謝られて、私は驚きとともに熱くなっていた頭が一気に沈静化します。
ご主人様の次の言葉は、さらに思いがけないものでした。

「はるなんのその願い、カオリが叶えてあげるね」

そしてご主人様がいつもとは違う触り方で私の頭を撫でると、
急激に私の意識は遠のいていきました……。

 

――あのお方が偉大な魔法使いであることは、よく理解していたつもりだった。
――でも、まさかこれほどまでのものだったとは。
――我が身を以て知るその魔法は、まさに奇跡だった……。





「さあ、はるなん。目を覚まして」

ご主人様の声とともにゆっくりと目を開けると、
私のすぐ前には見知らぬ少女の姿がありました。

整った目鼻立ち。中でも大きく澄んだ瞳に目を奪われます。
そして胸のあたりまである艶っぽい綺麗な黒髪。

その姿からまず頭に浮かんだのは、
「ご主人様によく似ている美少女だな」という感想でした。
明らかにご主人様と違うのは、健康的な小麦色の肌と、
思春期の少女特有のスレンダーボディくらいでしょうか。
もし彼女がご主人様の妹さんだと言われても、すぐに信じてしまいそうです。


でもなんで彼女は目の前にいて私のことをジッと見つめているんだろう……。

覚醒しきらないぼんやりとした頭でそんなことを考えていると。

微笑をたたえたご主人様が彼女の背後に姿を現し、その肩にそっと手を添えると、
少女の大きな瞳が驚愕でさらに大きく見開かれました。

そこでようやく私も理解が追いついたのです。
左肩に置かれたご主人様の掌の感触とともに。

今、私の前には誰もいない。
そこにあるのは、壁一面の大鏡。
つまり、そこに映るご主人様によく似た美少女は……人間の姿の、私!?

「どうかな、はるなん。
はるなんがカオリのどこをそんなにいいと言ってくれてるのかイマイチわからないから、
なんとなくカオリに似ている感じの容姿にしてみたんだけど」

『ご主人様のような人間になりたい』と言ったのは確かだし、
その気持ちにまったく嘘はないのですが……。
これまでそんな絵空事叶うわけもないからと口にしたこともなかった私の夢が、
まさか本当に現実のものになるなんて! 
しかもこんな望み通り、いや望み以上の形で!!


胸の中の感情は爆発しそうなほどに暴れているのですが、
感動のあまり身体がそれに追いつかず、驚愕の表情のまま固まる私。
その様子を、私がショックを受けていると勘違いしてご主人様が慌てだします。

「あれ? もしかしてはるなんお気に召さなかった?
思ってた容姿と違ってたかな。それともやっぱり人間になんてなりたくなかった??
だったらごめんね、カオリ早合点してまたやらかしちゃったかも。
人間になっても元の黒猫の姿にはすぐに変身できるから、
もし嫌だったら普段はそっちの姿でいてくれれば……」

「フ、フフフフ……」

「……はるなん?」

いつになく慌てふためくご主人様の姿に、身体の強張りも解けて思わず噴き出した私は、
泣き笑いの表情でご主人様の方に向き直ると勢いよく抱きつきました。

「ありがとうございますご主人様!
この私が本当に人間になれるだなんて!
春菜……春菜、とっても嬉しいです!!」

こうやってご主人様に身体全体で抱きつくことも、猫の姿では絶対にできないこと。
人間にしてもらえたおかげで実現しているのです。
でも、ご主人様の大人の女性特有の柔らかい質感に埋もれながら、

『できればこのスレンダーすぎる体型もご主人様似に変えてもらいたかったかも』

なんて自分勝手な考えがほんの一瞬だけ頭を過ぎったことは、
ご主人様にも内緒の私だけの秘密です。


ご主人様の魔法で人間にしていただいてから、私の生活も一変しました。
普段の何気ない行動一つ一つ、その全てが新鮮な体験に感じられます。

「どうしたのはるなん、そんな大きな荷物を抱えて」

以前なら魔法の力を借りて運ぶほどの大きな段ボール。
それを自分の両手でしっかり抱えて持ち運ぶ、
ずっしりと感じる重さでさえも今の私にはとっても幸せな負担なのです。

「実は、珍しく段ボールがこの場所に転送されてきたんです」

「ふーん。こんな辺鄙な所に荷物を送ってくるなんて、いったい誰からだろうね」

段ボールの中には、真っ赤に映える大きなトマトが一面に敷き詰められていました。
それとともに、一枚の便箋が。

『ねぇカオ。このトマトはね、丸くてね、えらいね、頑張ったんだよ』

私がその内容を読み上げると、ご主人様はいつになく楽しそうに笑い出しました。

「アハハハハハハハ。
ずっと音信不通だったのに、ホント久しぶりに連絡してきたと思ったらこの手紙だなんて。
いかにもナッチらしいね。あの娘も相変わらずみたいでなによりかな」

懐かしそうな口調とともにトマトを一つ手に取るご主人様。

「うん、確かに艶々してて美味しそうないいトマト。
じゃあこのトマトを使って冷製トマトスープでも作って送り返してあげようか。
『とっても頑張ったナッチのトマトが、こんなに美味しく成長したよ』って一言添えて。
そうだ、これからははるなんにも料理を教えてあげないとね」


でも、ご主人様がその言葉を後悔するまで、長い時間はかかりませんでした。

「……ねぇはるなん。この炒飯の味付けは何を入れたの?」

「えっ? オニオンベーコンソルトなんて美味しそうな塩があったので使ってみたんですけど」

黙って炒飯を私の方に押し出すご主人様。
恐る恐る自分の作った炒飯を口に運んだ私は、
そのあまりのしょっぱさに思わずむせかけて、急いで緑茶で流し込みました。

「分量を間違えるにしても、さすがに限度ってものがあるんじゃない?」

「まさかこんなクッソ不味くなるなんて……ハッ」

ショックのあまり汚い言葉を使ってしまい狼狽える私に、
ご主人様がため息とともに声をかけます。

「はるなん、はるなん」

私が何か大きな失敗をしでかしてしまった時。
叱りつける代わりにご主人様は、困った表情で私の名前を二回繰り返し呼ぶのです。
その呼びかけを受けた私は、実際に言葉を尽くして叱られる以上に委縮してしまうのでした。

肩をすくめてシュンとしてしまった私に、
ご主人様は苦笑して優しい言葉をかけてくださいました。

「まあ誰にでも向き不向きはあるものだしね。
はるなんには今後、料理じゃなくてファッションについて教えてあげようか」


それからご主人様は、私にファッションの基礎から応用まで余さず教えてくださいました。
テーマごとの服装選びから、着こなし術、色の組み合わせ方、小物の選び方、
ヘアスタイル、化粧の仕方に至るまで丁寧に指導してくださったのです。

ご主人様は、ご自分が着飾ることには全く興味を示さないにもかかわらず、
私のためにどこからか多くのファッションアイテムを揃えてきて、
事あるごとに私の着こなしを「可愛い、可愛い」と褒めてくださいました。
私もご主人様に褒められるのが嬉しくて、自分でもファッションについて勉強し、
ドンドンとオシャレが好きになっていったのです。


こうして人間としての新たな生活も徐々に慣れ日常となっていき、
ご主人様と過ごす幸せな日々は、穏やかに流れていきました。





――そう。その幸福がいつまでも続いていくのだと、あの頃の私は疑いもしなかった。
――でもそうはならなかった。
――せめて夢の中だけでも、あのお方との日々にずっと浸り続けていたい。
――この先の悲劇は、もう二度と思い出したくない。
――必死に抗おうとするけど、それも無駄な抵抗。
――そしてついに訪れる。
――あのお方との別れの時が……。



それは、ご主人様の交信の最中に起こりました。

人間となった後も、交信の際の私の務めは変わらず続いており、
黒猫の姿でご主人様の膝の上に乗って眠りについていた私は、
ご主人様の身体が突然大きな震えを発したことで飛び起きました。

何事かと顔を上げると、ご主人様が虚空を凝視したまま動きを止め、
ご主人様の体温がどんどんと下がり、冷たくなっていくのです。

「ご主人様!! ご主人様!?」

本来、ご主人様の交信を妨げるような行動はご法度なのですが、
あまりに異常な状況に我を忘れて呼びかけました。
すると、私の声に応じてまるで操り人形の糸が切れたかのように
ご主人様の頭がガクンと垂れ下がり、大きな瞳の焦点がゆっくりと定まっていき、
そしてようやくご主人様は意識を取り戻されたのです。

「ありがとうね。はるなんのおかげで戻ってこれたよ」

その口調はいつもと変わらぬものでしたが、ご主人様の顔色は蒼白となっており、
体温は冷え切ったままで、何らかの異常があったことは私の目からも明らかでした。

「大丈夫ですかご主人様! いったい……何があったのですか?」

「心配ないよ。でも、はるなんにはちゃんと話しておかないとね」

ご主人様のいつになく真剣な声音にただならぬものを感じ、
私は膝から降りて人の姿へと戻り、ご主人様の次の言葉を待ちます。


「ずっと以前のことなんだけどね。カオリは星占術によって一つの予言を得たの。

『大いなる災厄、宇宙(そら)より降りきたり、万物の鼓動、停止せん』

これがその予言の言葉」

「大いなる……災厄」

「そう。だからカオリは、この予言を現実のものとしないために、
この場所に研究所を作ってずっと宇宙の監視を続けてきたんだ」

ご主人様ほどの偉大な魔法使いが、外界との交流を遮断して
なぜこのような辺鄙な場所に籠っておられるのだろうという疑問。
ご主人様は俗事に関わられるのをお嫌いになるから、なんて思っていたのですが、
まさかそのような深刻な理由が隠されていたなんて。

「予言はしたけれど、大いなる災厄がいったいどのようなものなのか、
これまで見当もつかなかった。
でも今日、その正体をついに掴むことができたの」

大いなる災厄の正体。お話の規模が大きすぎてまったく想像もできず、
ただただ固唾を呑んでご主人様の話に聞き入ることしかできません。

「その正体はね、流星群だったんだ」

「流星群……!?」

「通常の流星は、地球に突入しても大気圏の摩擦でそのまま燃え尽きて消えてしまう。
でもね、今地球に近づいている流星群には、この地球上には存在しない
未知のウイルスを内包していることをようやく見つけ出したの。
この流星群が大気圏で燃え尽きた後も、ウイルスは死滅せず地表に降り注ぐ。
そして生きとし生けるものに取りつくと、その身体を内から浸食し、瞬く間に命を奪う。
このままだと、万物の鼓動が停止する、予言通り死の世界が訪れることになる」

死の世界。それはつまり人類の、いや地球上の全ての生物の滅亡……。
あまりにショッキングな話に混乱しながらも、
それを認めたくない気持ちをご主人様にぶつけます。

「で、でも、まだその流星群は地球に突入はしてないんですよね。
近づいている段階でその存在に気づくことができたのから、
ウイルスが地表に降り注ぐ前に何か対策を取ることができるんですよね!」

「そうね。正体はわからないまでも、大いなる災厄に対する備えは事前に考えていた。
でも、カオリとしたことが、その正体に気づくのが遅れたのは不覚だった。
流星群が地球に突入するまで、数時間の猶予もないのよ」

「それってつまり、もう対策が…………取れない?」

「大丈夫。最後の手段はちゃんと残してるから。
この地球はカオリが絶対に守って見せるよ」

ご主人様が断言する言葉に、嘘は決してありません。
予言の現実化という最悪の事態は回避できそうだとは理解できましたが、
「最後の手段」という響きの危うさに、胸のわだかまりが溶けることはありませんでした。


「その、最後の手段というのは……」

「カオリがね、宇宙と同化する」

「えっ!?」

「カオリが宇宙そのものになって、地球に突入する前の流星群を全て受け止め、
包み込み、そして体内に取り込むんだ」

いくらご主人様が無限の宇宙から力を得る術を会得されているとはいえ、
まさか宇宙と同化するだなんてそんなとてつもない魔法を……。
いや、それ以上に。

「でも! 未知のウイルスを体内に取り込んだらご主人様のお身体が!!」

思わず高める私の声も耳に入らないように、静かな口調で言葉を継ぐご主人様。

「全てを体内に取り込んだら、この研究所の地底奥深くに転送する。
そこでカオリの身体を化石と化して、そのまま封印するの。
そして宇宙のエネルギーを借りながら、体内でウイルスを浄化していく。
何年、何十年、いや何百年かかるかもわからないけどね。
でも絶対に最後まで浄化し尽くしてみせるから、心配しないで」

「で、でもそれじゃあご主人様が!!」

「もうカオリは今までのような生活を送ることはできない。だから……」

そしてご主人様の口から、絶対に聞きたくない言葉が零れ落ちました。

「これでお別れだよ、はるなん」


ご主人様と……お別れ。
これまで私の人生はずっとご主人様とともにありました。
一緒にいるのが当たり前の存在であり、ご主人様は私にとって人生そのものでした。
それをお別れだなんて。

知らず知らずのうちに視界が霞みがかり、とめどなく涙が溢れだします。
どうにか言葉を返そうとしますが、感情ばかりが空回りして声になりません。
続いているご主人様の話も、遠くまるで他人事のように響きます。

「いざという時のはるなんのことは、事前にさゆにお願いしてあるから。
さゆならはるなんのことを悪いようにはしないはずだから安心して、
これからはさゆの元で新しい人生を歩みなさい」

新しい……人生?
その言葉をきっかけに、空回りしていた感情が一気に溢れだし、
涙声もかまわずご主人様にそのまま吐露していました。

「嫌だ! 駄目です! そんなことできません! 新しい人生なんていらないです!!
私はご主人様の使い魔なんです! ご主人様のためだけに存在してるんです!
これまでも、そしてこれからもずっと!
だから……だから、いつまでもご主人様の元にいさせてください!!」

これまで見せたことのないような激しい感情の爆発。
ご主人様は、その様子に困惑したように私の名前を二回、呼びかけました。

「はるなん、はるなん」

ああ、私はご主人様を困らせてしまっている。


でも、たとえどれだけご主人様を困らせ迷惑をかけてしまっても、
ご主人様と離れることなんてできやしない。だって……。

「ご主人様は私を使い魔にしてくださり、人間の姿まで授けてくださいました。
そこまでのことをしてくださったご主人様に、私は何の恩返しもできていない!!」

「そんなことないよ」

その声はきっぱりとした、いつになく力強い断言でした。

「宇宙はね、とっても寒いんだ。交信してると、心も身体も凍えてくる。
ついさっきも、災厄の正体を探るために深く入り込みすぎて、
はるなんの声がなければ危うく全てが凍りつくところだった。
はるなんがいてくれたから、はるなんの温もりがすぐ側にあったから、
これまでカオリは宇宙に取り込まれることなく人のままでいられたんだよ」

ご主人様の掌が、膝の上が、身体全体がいつも冷たかった理由。
交信の際、ご主人様の膝の上で寝るように指示されていた理由。
それらの理由が私の中でようやく氷解しました。

でもそれならば!!

「私がご主人様にとって必要な存在だというのなら、
お願いですから私もご主人様と一緒に化石化して封印してください!!
ご主人様を何十年も何百年も独りぼっちのままにしてしまうなんて、
そんな寂しい思いをさせることなんて……私にはできない!!」

しかしご主人様は、微笑みとともにゆっくりと首を振ったのです。

「ありがとうはるなん。
その言葉だけでカオリの心は十分に温まったよ」


そしてご主人様は、歌い上げるように澄んだ声を響かせました。

「どうか神さま。私の心をごらん下さい。こんなにむなしく命をすてず
どうかこの次にはまことのみんなの幸のために私のからだをおつかい下さい」

それは、「銀河鉄道の夜」の一節。
井戸の中で溺れたサソリは、その願いが叶えられてサソリの火――真っ赤に燃える星となり、
人々のために闇夜を照らすこととなりました。

この地球を救うため、人々の幸いのために自らの命を差し出すという、ご主人様の覚悟。
その崇高な想いを前にして、私はこれ以上自分のワガママを口にすることはできませんでした。
でも、最後にせめて……。

「僕もうあんな大きな暗(やみ)の中だってこわくない。
きっとみんなのほんとうのさいわいをさがしに行く。
どこまでもどこまでも僕たち一緒に進んで行こう」

この言葉をカムパネルラに投げかけたジョバンニ。
けれどもそのすぐ後に、2人は別れの時を迎えてしまいます。

決して叶えられることがないとわかっている言葉。
それでも私は、自分の想いをご主人様に届けるため、この言葉に託すしかなかったのです。

私の声は涙で掠れ、どうにか最後まで言い切った後、
押さえきれずにご主人様の胸の中に飛び込みました。

ご主人様は黙ってそれを受け入れ、いつものように私の頭を
ワシャワシャとかき混ぜるように撫でてくださいました。

ヒンヤリとした心地よいご主人様の掌の感触。
こんな風に撫でてもらえるのもこれが最後かもしれないと思うと余計に涙が溢れだし、
ご主人様の胸にしがみついたまま嗚咽が止まりません。


「はるなんのような娘が使い魔でいてくれて、カオリは誇りに思うよ。
でもこれ以上、はるなんの人生をカオリが縛り付けるわけにはいかないの。
これからは一人の人間として、飯窪春菜として本当の人生が始まるんだ。
もうカオリのことは忘れて、新しい人生を生きるんだよ」

「……ご主人様!!!!」

「さようなら。はるなん」

そしてご主人様は、顔を上げた私の額にそっと口づけをしました。
冷たくそして柔らかい唇の感触。
それが最後の記憶となり、私は意識を失いました……。





――そして私は、人間としてM13地区で新しい生活を始めていく。
――過去の記憶、あのお方の記憶は封印されたままで。
――でも、その記憶は消えてなくなったわけではない。
――こうして高熱とともに、夢の中にほんのひと時だけでも浮かび上がってくる。
――もうすぐ目覚めの時。
――熱も引き、記憶の扉も再び閉ざされ、また普段の生活へと戻ることとなる。
――でも。
――胸の奥にある私の決意は、いつまでも決して変わることはない。
――いつの日か私の手で大いなる災厄を取り除き、あのお方の封印を解いてみせる……と。


(おしまい)


※このお話は、以前に書いた黒猫はるなんとご主人様」を元に
それを掘り下げる形で話を膨らませて作成した物語になります。

 ~その先にあるもの~

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最終更新:2015年07月26日 18:37