黒猫の追憶 ~その先にあるもの~

 

「今日はホント星が綺麗だね」

道重さんのお宅で夕食をご馳走になった後、あゆみんと2人で帰路の途中。
満天の夜空を見上げた私達は、思わず足を止めました。

天空一面に散りばめられた星々。
でも私は、その美しい瞬きに何か言い知れない胸騒ぎを感じたのです。

特に目についたのが、赤く燃えるあの星。
あれは……さそり座。サソリの火。

「!!?」

サソリの火がどんどん輝きを増して、私の視界に大きく迫ってきます。
そして遂には、身体の中に入り込んでくるような不思議な感覚。

これは……。
身体が、熱い!!

燃えるような熱さとともに、急激に意識が朦朧としていきます。
そして呼び覚まされるお方の記憶。

「ご主人様……」



「道重さん! はるなんが……! はるなんが!!」

黒猫を抱えた亜佑美が駆け込んできたことにより、さゆみ邸は騒然とした空気に包まれた。

「まずは落ち着いて、何があったか話してくれる?」

「帰る途中はるなんと星を眺めていたら、はるなんが急に意識を失って倒れて……。
今もそうなんですけど、はるなんの身体がすごく熱いんです!
きっと高熱が出てるんだと思うけど、さっきまですごく元気だったのに
なんでこんなことになったのか……」

さゆみの指示によって、テーブルの上に毛布を敷き、その上に春菜を寝かせる。

「ミャオミャオと、ずっとうわ言のように啼いててなんかすごい辛そう……」

「でもなんで猫の鳴き声なんやろ。まるで人間の言葉を忘れちゃったみたいやけど」

「ご主人様、ご主人様って、すごい哀しそうに呼んでるよ」

「まーちゃん猫の言葉解るの?」

「ううん、でもなんとなくそんな気がする」

「ご主人様って……。そういえば倒れる寸前もそんなことを呟いてた!」

周りを囲むようにして、みんなが心配そうに顔を寄せ合い春菜の様子を見守る。


「ご主人様か。……やっぱりね」

「やっぱりって、道重さんははるなんがなんでこんなことになったか
原因がわかってるんですか!?」

「みにしげさん! 早くはるにゃんこを助けてあげてください!!
ずっとうなされていてこのままじゃ可愛そう!!」

「原因はだいたいわかったけど、どうすれば一番はるなんのためになるか。
それが難しいんだよね……」

珍しく眉間にしわを寄せて考え込むさゆみ。
次の言葉を待つように、みんなの注目が集まる。

その時だった。

顔を上げたさゆみがスッと立ち上がり、リビングの入り口に向かって頭を下げた。
みんなもさゆみの視線を追って振り向くと、
いつの間に入室したのか、そこには普段見慣れぬ人物の姿があった。
そして衣梨奈が驚きの声を上げる。

「吉澤さん!?」

「久しぶり重さん。いきなりお邪魔しちゃって悪かったね」

「いえ、さゆみの方から連絡しようかと思ってたくらいなので、
こちらこそわざわざ出向いていただきすみません」


突然の来訪に驚愕する一同を前に、ひとみは「大親友」の衣梨奈に一つウインクすると、
テーブルの上に寝かされていた春菜を抱き上げた。

「本当はもう少しゆっくりしていきたいんだけど、そんな余裕もないからさ。
それじゃあこの娘は連れて行くよ」

「はい。後のことはよろしくお願いします」

そして笑顔で軽く手を振ったひとみが、瞬間移動の魔法によって姿を消した。


あまりに急すぎる展開に、みんな呆然とその様子を見送ることしかできなかったが、
気を取り直して里保がさゆみに問いかける。

「道重さん、これはいったい……。はるなんは大丈夫なんですか?」

「後は吉澤さんに任せておけば大丈夫。
きっと一番はるなんのためになる方法を選んでくれるはずだから。
ただ、それがはるなんにとって本当に幸せかどうかは、それこそはるなん次第だけどね」

大丈夫と言いつつも、含みのあるその言葉とどことなく哀しげにも見えるさゆみの表情に、
みんな不安げに顔を見合わせることしかできなかった。



「どうなの様子は?」

「うん、落ち着いてる」

「そう、なら良かった」

「ここに連れてきたら熱も下がったし、自然に人間の姿に戻ったんだけど……」

「予想通り、原因はそういうことなんでしょうね」

「やっぱりそうだよね……」


遠くからうっすらと耳に届く誰かの会話。
その声に反応するように、春菜がようやく目覚めた。

ぼんやりとしたままゆっくり辺りを見渡す。
窓もない薄暗い小部屋。
自分が簡易ベッドに寝かされていることに気づく。
そしてベッドの側にいたのが……。

「吉澤さん!!」

ひとみの存在にようやく気づき、春菜がベッドから飛び起きた。

「おはよう。うん、その様子なら元気そうだね」

ただでさえ寝起きで頭が回らないところを、
ひとみからイケメンスマイルを向けられ慌てふためく春菜。


「あ、あの、どうして吉澤さんが……。
いえ、それ以前にここはどこですか? なんで私はこんなところにいるんでしょう??」

「まあ、混乱するのも無理ないよね。
あたしが飯窪に用があって来てもらったんだ」

「吉澤さんが、私に……用?」

なんのことだろう、まったく想像もつかない。

「そう。梨華ちゃんが迷惑をかけた時の借りを返そうと思ってね」

その言葉に、春菜の過去の記憶が呼び覚まされる。

以前、聖が思いがけず梨華に連れ去られそうになるという騒動があり、
衣梨奈と里保がどうにか解決した後に、確かにひとみはこう言っていた。

『今回みんなには色々迷惑をかけたし、その埋め合わせはきっとさせてもらうから
もしあたしにできることがあれば気軽に言ってよ』

その約束通り、衣梨奈はKYにも頼み込んでひとみの「親友」となり、
里保はリリウムの世界でケメコの助力を得ることができた。

そして春菜もまた、その騒動の現場に立ち会ってはいたのだが……。

「で、でもいいんですか? 私はあの時ほとんど何の役にも立てませんでしたけど」

ほとんど傍観者でしかなかった春菜が、まさか約束の対象者として
ひとみに認識されているとは夢にも思っておらず、
逆に申し訳ないような気持ちになってしまう。


「もちろん。だから、もし飯窪が望むのなら……」

微笑みとともにではあったが、ひとみの声は真剣な響きを伴っていた。

「飯窪が今、一番会いたい人に会わせてあげようと思ってる」

一番会いたい人。
その意味を頭で理解する前に、無意識に春菜の口からある言葉が零れた。

「……ご主人様」

「そうだとは思っていたけど、やっぱり記憶の封印が解けてるんだね」

封印されていた記憶。
使い魔としてご主人様と過ごした幸せな日々。そして最後の別れ。
ひとみの確認をきっかけに、それが春菜の脳裏に一気に溢れだしてきた。

軽く頷いてひとみが懐からハンカチを取り出し、春菜の目元を拭う。
そこで初めて、春菜は自分の瞳から涙が流れ落ちていることに気づいた。

「吉澤さん、私……」

「急に記憶が押し寄せてきたんじゃ、溢れ出るその感情をコントロールできないのも仕方ないさ。
涙の言うままに任せて、気持ちの高ぶりを全部出しきっちゃいな」

ぶっきらぼうにも聞こえる物言いとともに、自然な仕草で春菜を抱き寄せるひとみ。
そして春菜は、自分でも訳の分からぬまま、ひとみの胸の中で声を上げて泣いたのだった。



「すみません、何だかすごい取り乱してしまって」

簡易ベッドに並んで腰掛ける春菜とひとみ。
ようやく涙も収まった春菜の表情は、スッキリと吹っ切れていた。

「いいよ別に。ともあれ気分が落ち着いたようでよかった。
で、話を戻すけど……」

「はい。私が今一番会いたい人、つまりご主人様と会えるって
おっしゃってましたけど、それは本当なんですか?」

「もちろん。飯窪が本気でそれを望むならね」

「でもご主人様は今、大いなる災厄をその身に抱えて封印の眠りについているはずでは……」

「そのことについては、もし気になるんなら本人に直接聞いてみるといい。
それと一つだけ忠告しておくけど……」

そこでひとみの声質が、グッと重みを帯びたものに変わる。

「あたしができるのは、飯窪をかおりんと会わせることだけ。
飯窪の心情としては聞かれるまでもなくかおりんに会いたいだろうけど、
それが本当に飯窪の望む結末になるとは限らない。
もしかしたら、知らない方が良かった、記憶を封印されたままでいた方が幸せだったと
後悔するような未来が待ち受けているかもしれない。
そんな可能性も考慮した上で、どうするかしっかり考えて返事をしてほしいんだ」

ひとみから放たれる重厚なプレッシャーに思わず青ざめる春菜。
しかし、春菜の返事は揺るぎないものだった。

「それでも……。私は、ご主人様にお会いしたいです」


春菜の瞳をジッと見つめ、その覚悟を見て取ったひとみが、納得したように笑顔で頷いた。

「うんわかった。ならその願い、叶えてあげようか」

「……じゃあここからはあたしの出番ね」

「キャア!!」

誰もいないはずの背後からいきなり声をかけられ、春菜が簡易ベッドから飛び上がる。

「ちょっとケメちゃん! いきなり驚かせてどうすんのさ」

「ごめんごめん、この頃なんか人をビックリさせるのが快感になってきちゃって」

そして、驚愕の表情のまま振り返った春菜に改めて自己紹介をする。

「ごめんねいきなり出てきて驚かせちゃって。あたしの名前は保田圭。
飯窪も情報屋なんてしてるのなら、名前を聞けばそれ以上細かい説明は不要よね。
それと最初よしこに聞いてた質問に答えると、この場所はあたしの住まい。
飯窪をカオリに会わせるために特別に来てもらったのよ」

「地底奥深くのこの場所に人を呼ぶことなんてほとんどないからと、
怖がらせないように化粧もバッチリして歓迎の準備万端だったはずなのに、
その登場の仕方でビビらせてんじゃ全てが台無しじゃんかよ」

「ハイハイ、あたしが悪かったわよ。
もっとちゃんと謝ればいいんでしょ。なんだっけ? ゆるしてにゃん?
これはもう古いんだっけ? ごめんねポーズ?
今時の流行りなんて知らないわよ、いつもこんなとこにいるんだから」

ひとみとケメコの軽妙なトークを前にして、そこでようやく春菜が気づく。
目が覚める前になんとなく聞こえていた会話は、この2人によるものだったことに。


2人の喋りに圧倒されて口を挟むこともできない春菜の姿にようやく気付いたケメコが、
取り繕うように一つ咳払いをすると、口調を改めて春菜に話しかけた。

「それじゃあこれからカオリのところに案内するから、
あたしの後についてきてちょうだい」

手にしていた錫杖でケメコが壁を一つ叩くと、
鈍い音をたてて隠し扉が開き、地下へと続く階段が現れる。
後ろを確認することもなく足を踏み入れるケメコ。
部屋に残るひとみに大きく頭を下げ、慌てて春菜がその後に続いた。

ちょうど人が一人通れるくらいの狭い下り階段。
周囲の壁は明らかに自然岩で、魔法の影響か足元が判別できる程度の青白い光を放っている。
足音も立てず軽快に進んでいくケメコに、
とても声をかけられる雰囲気ではなく黙って後ろをついていく春菜。

はたしてどれくらいの時間が経過しただろう。
何階分かもわからぬほどの距離を下り、ようやくケメコが足を止めた。

下り階段の行きつく先、木製の古びた扉の前でケメコが微笑とともに振り向く。

「さあ、この先にカオリがいる。
ここから先は、あなたの目で真実をしっかりと見極めなさいな」

その言葉とともに、飯窪が返事をする余裕すらも与えず、ケメコは暗闇に紛れて姿を消した。

独りきりで残された春菜が、一つ大きな息を吐く。
そして、意を決して古びた扉に手をかけた。


扉を開けた先に広がる光景。
それは春菜が全く予想しないものだった。

抜けるような青空。暖かな陽光。緩やかに風に靡く草原。遠くから響く小鳥の囀り。

それは本来、地底奥深くのこの場所にあるはずもない広々とした庭園であり、
そして春菜にとっては既視感のある懐かしい空間でもあった。

「これは、こぶしファクトリー……」

春菜の要望に応えて衣替えされた、ご主人様のアトリエ。
その記憶の通りであるのなら、庭園の中央には……。

視線を向けた先には、純白の花をまとった大きな木が植えられ、
その木蔭に設置されたモダンなテーブルと、そして春菜の姿に気づいて
ゆっくりと立ち上がり微笑みかけてくる人物の姿が。

「ご主人様!!!!」

思わず声を上げて駆け出す春菜。視界が一気に涙でぼやけてくる。

ケメコの後ろについて黙々と階段を下りながら、
ご主人様と再会した時のことをずっと考えていた。
もしそれが実現するのであれば、私の成長した姿を見てもらいたい、
もうあの頃の泣き虫で何もできない私ではないことを知ってもらいたい。


でも駄目だった。もっと大人びた振る舞いでいたいと思ったのに、
ご主人様の姿を目にした途端、感情が抑えきれなくなって身体が勝手に動き出していた。

「ただいま、はるなん」

その一言とほぼ同時に、春菜が胸の中へと飛び込む。

「ご主人様……会いたかった…………会いたかった!!」

号泣しながら、うわ言のように繰り返すことしかできない自分が情けなくなってくる。
ワシャワシャとかき混ぜるように頭を撫でる、懐かしい掌の感触。
ああ間違いない、本当にご主人様だ。

『涙の言うままに任せて、気持ちの高ぶりを全部出しきっちゃいな』

その時、不意にひとみの言葉が蘇ってきた。

そうだ、たとえ情けなくてもこれが今の私の素直な気持ちの表れなんだ。
だからそれを無理に抑えたりせず、溢れ出るその感情に身を任せればいいんだ。

その事に思いが至るとともに罪悪感にも似た感情がスッと消え去り、
春菜はまた、生まれたての赤子のように圭織の胸に縋り付いたのだった。



「どう? 特製のハーブティは」

「はい美味しいです。わざわざ私なんかのためにありがとうございます」

圭織が淹れてくれたハーブティで喉を潤し、
口の中に広がる爽やかな風味に、ようやく春菜も落ち着きを取り戻す。

代わってこみ上げてくるのは、痺れるような幸福感。
目の前には優しい瞳で私のことを見つめるご主人様の姿が。
2人でテーブルを囲んでこうしてティータイムを過ごせるなんて、
もう二度とありえないと思っていた時間が現実のものとなっている。

この幸せにどっぷりと浸かりこんで、このまま思考停止してしまいたい誘惑に駆られる。
でも、今のこの状況はわからないことが多すぎる。
それを見て見ぬ振りで放置しておくわけにはいかない。

「ご主人様。いくつかお聞きしたいことがあるのですが……」

「何? 言ってごらん」

「ご主人様はどうして、今ここにおられるのですか?
大いなる災厄をその身に抱えて封印の眠りについていたはずなのに……。
それに私は、なんで急にご主人様の記憶を取り戻すことができたのでしょう?」

「ああそのことね。大いなる災厄ならもう、浄化したわ」

「えっ!?」

何十年、何百年かかるかもわからないと言っていた大いなる災厄の浄化。
まさかそれをもう成し遂げてしまっていただなんて。


「浄化の完了とともに、自らの封印も解除するように設定してたんだけどね。
カオリの目覚めとともに、はるなんの記憶の封印も解かれてしまったことに気づいたの。
別にカオリの封印と連動させてなんかいなかったんだけど、
きっとはるなんのカオリへの想いが考えていた以上に強かったせいじゃないかな。
だからね、いきなり記憶が解放されてはるなんが大変なことになってるんじゃないかと、
圭ちゃんとよっすぃ~にお願いしてはるなんをこの場所に連れてきてもらったのよ」

帰り道に突然、高熱とともに意識を失ったのは、ご主人様の記憶が解かれた影響だったのか。
そしてこの場所に連れてこられてから高熱が治まったというのも、
きっとご主人様と同じ空間にいることによって症状が落ち着いたということなのだろう。

ご主人様がここにいる理由。自分の記憶が解放された理由。
話を聞いてみれば、なんということはないすんなり納得のできるものだった。

「カオリの方からも、はるなんに聞きたいことがあるんだ。
記憶が封印されてから、はるなんがM13地区で一体どんな生活を送っていたか。
今日までのこと、詳しく話を教えてもらえないかな」

圭織に促され、春菜がM13地区で過ごしてきた日々を語り出す。

さゆみの口利きもあり、街の古本屋さんでバイトしながら
魔道士を相手に情報屋を始めたこと。
さゆみとの繋がりから衣梨奈、里保など大切な仲間達と巡り合えたこと。
そして、魔道士協会に向こうを張っての、仲間を取り戻すための大冒険。


圭織の適切な相槌もあり、春菜からスムーズに伝えられるM13地区でのエピソード。
それとともに、自分がどれだけ密度の濃い充実した生活を送っていたのか、
春菜も改めて気づかされる。

楽しげに聞き入っていた圭織だったが、話が一段落するとまた春菜に問いを発した。

「はるなんはさ、未来に向けて胸に抱いてる夢とか願いごとってないの?」

「夢とか願いごと……ですか。
そうだ! 記憶は封印されたままでしたけど、心の奥底でずっとご主人様を助け出したい、
大いなる災厄を取り除いて封印から解放したいという願いは持ち続けていました!
結局は、私の出る幕なんてまったくなかったんですけど。
今振り返ってみると、だからこそ災厄除去のための有益な情報を仕入れようとして
情報屋なんて始めたんだと思い……」

「ううん、そういうことじゃないのよ。
はるなんがカオリのことを想ってくれるその気持ちは嬉しいんだけどね。
カオリとは別の、今のはるなんが抱えているはるなんだけの夢のことが聞きたいの」

春菜の言葉を遮る圭織の目元が、心なしか寂しげな色合いを帯びているような気がして、
訳も分からず春菜の鼓動が大きく高鳴る。
でもそれはほんの一瞬のことで、春菜も考えすぎだとすぐに気を取り直して
自分の抱いている密かな夢を語りだした。

それはM13地区を一つの共同体としてまとめ上げ、協会と対をなすもう一つの
『魔道士の秩序』を形成するという壮大な、いやもっとはっきり言ってしまえば
一笑に付されても仕方ないようなあまりにも現実味に乏しい夢。


しかし圭織は、真剣な面持ちで春菜の話を受け止めると、ニコリと微笑んで大きく頷いた。

「とっても素敵な夢だね、はるなん」

「あ、ありがとうございます!
ご主人様にそう言っていただけると、本当に嬉しいです」

「うん、はるなんの話を聞いてカオリも安心したよ。
圭ちゃんとよっすぃ~に無理を言って、この時間を作ってもらって本当に良かった」

何か吹っ切れたような圭織の口調。
それと対称的に、言い知れぬ不安が春菜を襲う。

「それって一体……どういう意味ですか?」

「もうカオリには、何の心残りもないってこと」

そして春菜のその不安は、すぐに現実のものとなった

「だから……。これではるなんとは、本当のお別れをしないといけないんだ」


『もしかしたら、知らない方が良かった、記憶を封印されたままでいた方が幸せだったと
後悔するような未来が待ち受けているかもしれない』

ひとみから釘を刺された言葉が、春菜の脳裏に蘇る。
だからこそ、ただご主人様と再会してめでたしめでたしで終わるとは限らないと、
自分の中での覚悟はできていたつもりだった。

でもやっぱり……。
せっかく再会できたというのに、いきなり別れを告げられても納得できようはずもない。

「どういうことですかご主人様?
どうしてお別れしないといけないんですか!?
この前は、大いなる災厄から世界を救うという重大な使命があったからこそ、
ご主人様と別れの時を迎えなければならなかった。それはまだわかります。
でも今は、大いなる災厄が取り除かれ、ご主人様の使命も果たされました。
この期に及んで、ご主人様とお別れをしなければいけない理由なんて
もう何も存在しないはずですよね!?」

できるだけ感情的にならないように圭織に問いかけたいと努力するが、
どうしても段々と気持ちが高ぶってくる自分を止めることができない。

「そうだ! 大いなる災厄を取り除いたということは、
もうあの研究所に籠って宇宙を監視する必要もなくなったということですよね!?
ならば、これからはM13地区で私と一緒に暮らしませんか?
魔道士にとってはとても住み心地のいい街ですし、
道重さんや私の仲間達や、周りにいるのは素敵な人達ばかりですし!
ああでも、他人と交流を好まれないご主人様にはやっぱり水が合わないかもしれませんね。
ならばやっぱり以前のようにあの研究所で暮らしましょう!
ご主人様と私の2人であの頃のよ……」

「はるなん、はるなん」


哀しげに呼びかける圭織の一声で、激情に呑まれかけていた春菜の感情が
冷水を浴びせられたように一気に沈み込んでいく。

ああ、またご主人様を困らせるようなことをしてしまった。
私はなんて成長のない情けない人間なんだろう……。

「今のはるなんは、新しい人生を確立できて、大切な仲間にも恵まれ、
そして未来への夢もしっかりと見据えているんでしょう。
それを捨ててまで、昔のようにカオリと2人で暮らそうなんて、
今までの自分を全て無にするようなことは言っちゃ駄目だよ」

これまでになく厳しい口調で春菜を叱りつけた圭織だったが、
すぐに安心させるように表情を和らげる。

「はるなんが、カオリとまた一緒に暮らそうと言ってくれるのはとっても嬉しいんだけどね。
でも、その願いはもう叶えてあげることができないのよ」

「……どうしてですか?」

圭織の哀しみを湛えた微笑が、春菜の胸を締め付ける。
そして、圭織の口から決定的な一言が零れ落ちる。

「今のカオリはね、この世の人間じゃないの」

「えっ!?」

「カオリはもう、死んでるのよ」

その瞬間、全ての空気が凍りついた。


それは春菜の覚悟のキャパを越える、あまりに衝撃的な告白だった。
だが、いきなりそんなことを言われて、誰がああそうだったのかと
そのまま素直に受け入れることができるというのだろうか。

「で、でも、ご主人様は現にこうして私の前にいらっしゃるじゃないですか!
先ほど抱きついた時、頭を撫でてくださった時の感触も、
それは確かに私の覚えているご主人様そのものでした!
そんな死んでるなんて言われても信じろという方が無理があ……」

「そうだね、この身体は確かにカオリのものだし、別に幽霊になってるわけでもない。
そういう意味では厳密にはまだ死んでないと言えるのかも。
でもそれは、圭ちゃんに頼み込んで、特別に冥界の門をくぐるまでの猶予をもらってるからなのよ」

「冥界の門……」

ケメコがこの地底奥深くで監視しているという、あの世へと繋がる門。
春菜にとってもほんの噂でしか耳にしたことがなかったが、実際に存在していたとは。

「大いなる災厄を取り除いて自らの封印を解いた時、浄化のために
持てる全てを費やしたカオリの身体はボロボロで、そのまま力尽きるはずだった。
でもそこで、はるなんの記憶の封印も解かれてしまったことに気づいたの。
すでに新しい人生を歩んでいるはるなんにとって、
過去の記憶がいきなり溢れ出したら大きな混乱と心身の変調に襲われることは避けられない。
このままではカオリの存在がはるなんの足枷になってしまう。
だから、その心残りを取り払うために、圭ちゃんにお願いしてほんの少しの猶予をもらい、
はるなんとの最後のお別れの場を設けてもらったんだよ」

淡々とした口調で説明する圭織。
春菜は半ば呆然としたまま、ただただ話に聞き入ることしかできない。


「カオリのもう一つの心配は、はるなんが新しい生活をちゃんと送れているかということだったけど、
これは完全に取り越し苦労だったようで良かったわ。
大切な仲間と未来への夢。
この2つさえあれば、はるなんはもう過去に引きずられることなく生きていける。
後は、カオリという足枷を外して過去と完全に決別をすることが、
今のはるなんが何の憂いもなく前に進んでいくために必要なこと。
だから、ここでカオリと本当のお別れをしないといけないのよ」

嘘だ! ご主人様が死んでしまっただなんて絶対に信じない!!
せっかく再会できたのにお別れなんてそんなの嫌だ!! 私はご主人様とずっと一緒にいるんだ!!

感情のままに泣きわめき、圭織に縋り付くことは簡単だった。
ただ、ご主人様に自分の成長を見てもらいたいとの想いが、
昔のような子供染みた感情任せの行動をとりたくないというストッパーとなり、
残った一片の理性を捨て去ることなく、春菜をギリギリで踏み留まらせていた。

でも……。ご主人様からのあまりにも受け入れがたい告白を前に、
私は一体どうすればいいのだろう。

『ここから先は、あなたの目で真実をしっかりと見極めなさいな』

去り際のケメコの言葉。
どんなに受け入れがたくても、これが目を逸らしてはいけない真実だというのか……。

「いきなりこんな話をされてはるなんが戸惑うのも、
拒絶したい気持ちもよくわかるけど、これだけはわかってほしいの。
貴女のご主人様は、もう、この世には存在しないのよ」

ご主人様は……この世には存在しない…………。
ご主人様…………は………………?


その一言は、麻痺しかけた心にストンと納まり、そして春菜の脳髄を強烈に揺さぶった。

これが……見極めるべき真実!?
だとすれば、なんでこんなことを……。
いやそれは、私のため。ご主人様が私のためにわざわざ……。
ならば、私ができることは、ただ一つだ。

「わかりました。
これで、ご主人様とは、お別れですね。
今まで、私をここまで育ててくださり、本当にありがとうございました」

圭織の顔をジッと見つめながら、声が震えないよう、途切れないようにグッと腹に力を込める。
よかった。どうにかちゃんと伝えられた。

健気な春菜の返答に一瞬驚きを見せた圭織だったが、すぐに柔和な表情に変わる。

「受け入れてくれてありがとう、はるなん。
強硬に拒絶されても仕方ないかと思ってたんだけど、どうやらカオリは、
はるなんのことをいつまでも子供扱いしすぎちゃってたみたいだね。
本当に成長したねぇ、はるなん」

春菜が一番聞きたかったその言葉。呼応するように涙腺がまた緩みだす。

「ありがとうございます。最後に一つ……いいですか?
最後に、もう一度だけでいいので……ギュッと抱き締めてくださいませんか?」

圭織が微笑んで頷きそして立ち上がると、理性を全てかなぐり捨てた春菜が飛びついた。

「ご主人様……ご主人様!!
……大好きです! 本当に本当に大好きです!!」

「カオリも大好きだよ、はるなん」


溢れだす涙もそのままに、圭織の胸に顔をうずめ、想いの全てをぶつける春菜。
圭織もうんうんと応じながら、春菜の頭をワシャワシャとかき混ぜるように撫でる。

いつまでも続くかと思われたかけがえのない時間。しかし。

俄かに空が掻き曇り、穏やかだったこぶしファクトリーに強風が吹き荒れる。

「名残惜しいけど、そろそろ時間のようだね」

風に煽られてこぶしの花が一斉に散り落ちる。
そして風に舞った花びらは白い輝きに変じて、圭織の身体を徐々に覆っていく。

泣き濡れた顔を上げた春菜に、圭織が光を纏いながら優しく微笑みかけた。

「じゃあ、これで本当のお別れだよ。はるなん」

「ご主人様……。さようなら」

あの時、口にすることができなかった別れの言葉。
ようやく、目を見てはっきりと言えた。

「はるなんの夢が実現するよう、祈ってるよ」

そっと顔を寄せた圭織の唇が、春菜の唇に重なる。

その瞬間、圭織の身体が一際大きな輝きに包まれ、目も開けられないほどの強烈な光を放つ。
それが徐々に収まるとともに、圭織の姿が春菜の前から消え去っていた。



麗かな午後のひと時、にぎやかな声が道重邸の庭に響き渡っていた。

「へへ~んだ、はるなんこっちこっち~!!」

「はるなんちょっとトロすぎじゃね? 黒猫の姿の方がよっぽど素早く動けそうじゃん」

「ああもう、2人ともちょこまかと本当にすばしっこいんだから!
見てなさい、私の本気はこれからなんだからね!!」

まーどぅーに翻弄されながらも、真剣に鬼ごっこに興じる春菜。
そんな微笑ましい光景を、縁側に腰掛けてぼんやりと眺めている人物の姿があった。

「何してんの里保?」

「ああえりぽん。いや別にどうってことでもないんだけど、はるなんがね……」

「うん。元気になってほんと良かった」

「うんそれもあるんだけど……。
なんかちょっと雰囲気が変わったというか、綺麗になったなぁと思って」

「綺麗に?」


意外な指摘に驚く衣梨奈を尻目に、さゆみが会話に割って入る。

「それはきっとね、はるなんが一つ、大人の階段を上ったからだよ」

「ああなるほど。なんとなくわかる気がします」

腑に落ちたように頷く里保と対称的に、衣梨奈は困惑顔を隠さない。

「うーん、はるなんも別に前と変わったようには見えんし、
大人の階段とか言われても全然ピンとこないっちゃけど」

「お子ちゃまには分からない話よ。ね、りほりほ」

茶化されてふくれっ面になる衣梨奈。
その様子が思いのほか面白く、さゆみと里保が顔を見合わせて笑いあった。


いつもと変わらぬ日常の一コマ。
だけどみんな、一歩一歩着実に成長を続けている。
喜びも哀しみも、全てをその身体に抱え込みながら。

「はるなんの夢、いつかきっと叶うはずだよ」

過去に区切りをつけ新たな一歩を踏み出した春菜。
里保達とともに眩しそうに見守るさゆみが、その背中に向けてそっと呟いた。


(おしまい)

黒猫の追憶   ~真実を照らす絆~

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最終更新:2015年07月26日 18:47