本編28 『月夜の憂鬱』


里保と衣梨奈の眼前には不思議な光景が広がった。
海の上に無数の岩がじっと浮かんでいる。
それが月光の影を帯びて、黒々と空を埋め尽くしていた。
辺りには不思議な魔力が漂っている。
そして岩岩の間の遥か向こうに、僅かに目的の島の影が見えた。

いよいよ、三大魔道士”西の大魔道士”の島に辿り着いた。
そこで今いったい何が起こっているのかは分からない。
さゆみは当然もう到着しているだろう。
果たして聖と香音はそこにいるのだろうか。
西の大魔道士とはいったいどんな人物なのか。

改めて緊張感を増しながら、二人はやや速度を落とし
浮かぶ岩を避け島を目指した。

と、前方に魔力を感じる。
巨大な魔力。
島よりも手前に、まるで二人を待ち受けるようにその魔力はじっと存在を主張していた。

里保と衣梨奈はいよいよ速度を緩め、顔を見合わせた。

そこにある魔力はさゆみの物ではない。
となると、これほど巨大な魔力は、この島の主である”西の大魔道士”のものだろうか。
だけどそこにいる人物と、辺りに漂う魔力の種類は違うようにも思えた。

里保も衣梨奈も、聖たちを連れ帰るという目的以外の態度を決めかねていた。
さゆみは明らかに大魔道士に敵意を持っているようだった。
けれども、里保たちは相手を知らないから、敵と決め込んで来たわけではない。
さくらのことも、敵と思いたくは無い。

だけどもし相手がはっきりと里保達を敵と認識して待ち受けているとすれば
あまりにも無策に、正面から来過ぎたということになる。
自分たちが相手を認識しているように、相手ももう二人が島に近づいていることは分かっている。

場合によってはこのまま有無を言わさず戦闘になる。
さゆみはいったいどうなっているのか。
状況が、把握できていないことが多すぎる。

周囲の岩を警戒するも、ただ浮いているだけに思える。
さゆみがそうであるように、やはり大魔道士というのは不可思議な存在だと改めて思う。

どちらにせよ、もう逃げも隠れも出来ない。
知るために、進むしかない。

「行こう」

「うん」

二人が再び前進する。
その時、遥か前方に光が見えた。


「危ない!」

里保が叫び、衣梨奈を突き放す。
その瞬間、二人の間を、淡い紫色の閃光が走った。

それはまるで鞭のようにしなり、鋭い音と共に周囲の岩を縄目状に抉って引いた。
寸でのところで躱した二人は、第二撃に備え魔力を開放し構える。
数秒遥か向こうを睨み付け、追撃が無いことを確認して再び顔を見合わせた。

「西の大魔道士…かな」

里保の呟きに、衣梨奈が眉を寄せ首を振った。
里保が神妙な面持ちで首を傾げる。

はっきりと敵意を持って、里保と衣梨奈を叩き落とそうとした。
しかもまだ姿を目視出来ないくらいの距離から、恐ろしく速く、正確に攻撃してきた。
それほどの魔法を使う『敵』がいる。

だけどその魔法をみた瞬間、衣梨奈には気付いたことがあった。
初めて感じる魔力だけれど、その淡い紫の魔力の光を見たことがある。
間違い無く、衣梨奈が会いたいと思っていたうちの一人が、そこにいた。

「あれは、さくらちゃん…」

「え…?」

衣梨奈の言葉に、里保が驚きの声を上げる。
覚悟はしていたけれど、こんなに早くさくらに会って
何も言葉を交わさないうちに攻撃されたことは少なからずショックだった。


だけど気を取り直す。
まだ、決めつけない。さくらが「敵」なのだと。

『正解』を目指すために里保はここに来た。
みんなが幸せになれる『正解』を。
戦うことが嫌なわけじゃないけれど、それでも頭を固くして決めつけて、戦いに来たわけじゃない。

里保が表情を引き締める。
衣梨奈も強い目で答えた。
二人は肯き合い、ゆっくりとその相手との距離を近づけた。

やがて衣梨奈たち視界の彼方に人影が映る。

岩の上にちょこんと立っている。
月の光を受け、仄かに髪を揺らし佇むその姿は
まるで少女の姿をした音楽のようだと思った。

じっと衣梨奈達を見ている。

その魔力は恐ろしく巨大で、だけど静かだった。
とても鋭く、だけど繊細。

衣梨奈は初めて海で出会ったさくらと、今視界に立っているさくらとを比べていた。
魔道士としてのさくらを初めて見る。
顔にも、何度も見た笑顔が今は浮かんでいなかった。
無表情に、真っ直ぐに前を見ている。

だけど衣梨奈は、やっぱり海で出会った時と同じ、可愛らしい女の子だと思った。

もうはっきりと姿が見える所に来ても言葉は無かった。
里保と衣梨奈はそぞろに近づき、さくらの間合いを感じて止まった。


「速かったですね。生田さん、鞘師さん」

さくらが温度の無い声で言う。
衣梨奈の目には、さくらの無表情も声も、努めて感情を抑え作ったもののように思えた。
だけどどういう感情が隠れているのかは分からない。

「さくらちゃん…」

衣梨奈の呟きに、さくらが僅かに身動ぎした。

「小田ちゃん…。一体どういうことなのか教えて。
ふくちゃんと香音ちゃんはどこ?」

里保が低い声を出した。

互いに魔力を溜め警戒している。
衣梨奈も里保も、そのことが嫌で堪らなかった。さくらは、どうなのだろうか。

「説明したとして、今更私の言葉が信じられますか?
私だったら無理ですね」

さくらが皮肉めいた冷笑を漏らす。
衣梨奈はさくらの顔を、その表情や仕草をじっと見ていた。
そしてその言葉に耳を傾ける。
隠している、その気持ちは分からない。
だけど衣梨奈は確信した。さくらはやっぱり『敵』じゃない。

「嘘でもなんでもいいよ。さくらちゃんの言葉が聞きたい。さくらちゃんと話したい」

ハッキリとした声で衣梨奈が告げた。
さくらの顔から笑みが消え、一瞬瞼を落とす。


「ね、さくらちゃん教えて。聖と香音ちゃんに何があったん?
あの時話してたこと、どういうことなん?」

いくらか優しい口調で衣梨奈が続けると、さくらの視線がますます下がった。
それからまた、パッと顔を上げる。表情を引き締めて。

「お二人に、私の先生の実験の協力をお願いしたんです」

「実験…因子の…?」

呟いた里保に、さくらがちらりと視線を向けた。

「やっぱり知ってたんですね。因子のこと」

道重家で推察した状況、それがこの短いやりとりの中でほぼ肯定されることになった。
さくらは”西の大魔道士”の弟子で、聖と香音を探しにM13地区にやってきた。
その目的は二人の持つ「因子」であり、それを実験に使うこと。

だけどまだ分からない。
何が分からないのかも判然としないけれど。

ただ大魔道士の実験を阻止し二人を連れ帰ればいいのならとるべき行動は簡単なのに
そう単純にもいかない気がしてならなかった。


「道重さんは…?」

ふと里保が呟いた。
さくらがじっと里保を見る。

「道重さんが先に来てるはずだよ」

言ってから、里保は口を滑らせたと思った。
そもそもさゆみが来ているはずなのに、さくらがここに立っている状況はおかしくは無いか。
もしかしたらさゆみは冷静になって、相手に気付かれないよう島に忍び込んだかもしれないのだ。
もしそうだとすれば、今の発言も自分たちが馬鹿正直に正面から来たことも
全部さゆみの行動を台無しにする。

だけどさくらの次の言葉はそんな里保の懸念を払ってくれた。

「道重さゆみさんなら来ています。今、島で先生と対峙しているはずです。
だからこれ以上、先生の邪魔を増やすわけにはいかないんです」

さくらが魔力を練り始めた。
淡くその身体が光り出す。

「お引き取り下さい。生田さん、鞘師さん」

「待って。実験って何なん?聖と香音ちゃんは協力するって言ったと?
やけん、さくらちゃんの方に行こうとしたん? めっちゃ悩んどったんは…」

話を切り上げ戦おうとするさくらを、衣梨奈がおしとどめる。
まだ戦うわけにはいかない。

もし実験の協力が二人の意思なら、そしてその実験が二人の身の安全や生活の害にならないものなら
衣梨奈と里保の方に戦う理由が無くなるのだ。
もっとも魔法の実験にリスクの無いものなんて殆どありえないけれど。


暫く沈黙した後、さくらがぽつりと呟いた。

「魔道士を作る実験です。これで、分かりますよね」

夜風に乗って届いた呟きは、衣梨奈と里保に想像以上の衝撃を齎した。


魔道士を作る。
つまり、魔法使いでない人が魔法使いになる。
聖と香音が魔法使いになる実験ということ。

衣梨奈はそれを、これまでまるで想像もしていなかったことに気付いた。
二人が魔法使いになる。それは普通不可能だということも勿論ある。
だけど、魔法使いでない二人が、それでも自分たちの側に居てくれて、笑ってくれて、友達でいてくれることを当たり前に思っていた。
受け入れてくれたことを、ただただ嬉しく思っていた。

もし二人が「魔法使いになるかならないか」の選択であれ程に悩んでいたとするならば
自分の認識に間違いがあったことにはならないか。

――それを選ばなければ何もないけれど、望みは一生叶わない場合、生田さんならどんな風に考えますか?――

さくらにかけられた言葉。
もしあれが聖と香音の状況を現した言葉だったとしたら
二人は魔法使いになることを望み、逡巡していた。


なぜ魔法使いになりたいと思うのか。

衣梨奈や里保、さゆみ達の側にいたことが影響していないはずがない。

衣梨奈は、魔法使いである自分たちに変わらぬ友情を示してくれた二人に感謝しながらも
どこかで巻き込みたくないと考えていた。
どうしても、魔法使いに関わるということは危ないことが出て来る。
特にみんなM13地区で暮らしている以上、何があるかも分からないのだ。

多分里保も、さゆみも同じ考え方をしていたと思う。
二人の「因子」の話を聞いたとき、そう思った。

自分はもしかしたら二人に寂しい思いをさせていたのではないか。


「ふくちゃんと香音ちゃんが魔道士になるかもしれない実験ってこと…?
どんな実験なの?」

沈黙を破り里保が言った。
衣梨奈は、里保もまた酷く動揺しているのだとその声を聞いて思った。

さくらが鋭い目つきに変わる。
里保の質問には答えず、また魔力を高め始めた。

さくらの周囲に薄っすらと淡い紫に光る縄状の魔力が廻りはじめる。

「これ以上お話することはありません。
というか、今の話だって全部デタラメかもしれないのに、よくそんな風に聞いていられますね」

攻撃が来る。
そう悟った里保が刀を取り出そうと髪に手を伸ばす。

その手を衣梨奈が掴み、止めた。

「えりぽん?」

訝し気に里保が衣梨奈を見る。衣梨奈は小さく笑った。


衣梨奈の中で急に、糸口が閃いた。
やっぱり、何も知らないよりも少しでも知った方がいい。それが辛いことだったとしても。
聖のこと、香音のこと、さくらのこと。

少しだけ分かった気がした。


「やっぱり聖とも香音ちゃんともちゃんと話さんとね。
魔法使いになるにしてもならんにしても」

そう笑う衣梨奈の顔に、里保は根拠の無い自身を見た。
何かが閃いたらしかった。

自分はまだ考えが纏まらないうちに、さくらとの戦いに突入しようとしていた。
それを止めた衣梨奈の考えに、今は従おうと思う。
だから衣梨奈の言葉に、里保も小さく笑って頷いた。

「さくらちゃんとももっとちゃんと話したいけん、こんなとこで睨みあってじゃ無理やもんね」

衣梨奈が笑顔をそのままさくらに向ける。
さくらは里保が武器を取り出せなかったから、攻撃しようにも出来ずまごついているらしい。
そんなさくらを、里保は場違いにも少しだけ可愛いと思った。

「やけんさくらちゃん、えりと『勝負』しよ?」

さくらが神妙な顔をする。

その言葉が衣梨奈らしいと、里保は妙に納得してしまった。




『勝負』それは魔道士の約束事。
協会では公然と定めているルール。
協会員以外でも、暗黙のルールとしてほぼ全ての魔道士が共有している。
といって、決まりは大きく二つだけ。
原則一対一であること。『奪う』ことが決着であること。

それぞれが個々に魔法の探究をする魔道士たちは、みんなそれなりの矜持を持っている。
プライドと自信を持っているから、『勝負』は成立する。

里保は執行魔道士として、過去に何度も『勝負』を受けてきた。
だからその言葉の重さを承知している。

『勝負』に負けるということは『奪われる』ということ。
魔力を失い、費やした時間と研究の成果を一瞬にして失う。
勝負を申し出、相手がそれを受ければ、必ずどちらかがそうなるのだ。

だから普通、軽く口に出せることではない。

だけど衣梨奈の口からは、まるで散歩にでも誘うようにその言葉が出た。

里保は、何となく衣梨奈の意図、考えを察していた。
衣梨奈が『勝負』の持つ意味の重さを理解していないということではない。
負けることがどういうことか、その恐ろしさも理解しているだろう。

だけど衣梨奈は、勝っても、負けてもいいと思ってその言葉を口にした。
里保にはそんな気がしてならなかった。


「なんですか突然。
もしかして、私のこと侮ってますか?」

さくらが不愉快そうに眉を寄せた。

「そんなんやないとよ」

衣梨奈が笑う。
衣梨奈の意図を、さくらはまるで汲めないらしかった。

里保も決してさくらを侮っているわけでは無かった。
一対一で戦って、勝てると断言できる相手で無いのは
先程僅かに見た魔法や、今感じている魔力からも分かる。

可愛らしい普通の女の子だと思っていたから、というのこともあるけれど
それを抜きにしてもさくらは魔道士として規格外の力を持っている。

だけどやはり、衣梨奈と二人がかりでさくらと戦う気にはなれなかった。
さゆみや聖たちが心配だし、ここでいつまでも留まっているわけにはいかない。
だけどそうまでして、さくらと戦って勝たなければいけないとも思えない。

ただ、話したいだけなのだ。

だから衣梨奈は『勝負』を持ちかけた。
魔道士の『勝負』には終わりがあるから。
奪い、奪われた後では争いを継続することは出来ない。必然的なノーサイドが訪れる。
さくらが依怙地になって話そうとしてくれないなら、強引に争いを終わらせて、落ち着いて話す。
それが衣梨奈の意図だった。
勝っても負けても、終わりさえすればいいのだ。


里保は突飛だけれど衣梨奈らしいと思った。
いつも強引で、駆け引きなんて微塵も無い。

きっと衣梨奈の中ではもう決まっていて、例え負けて大事な物を失うことになっても
「世界一の魔法使い」から遠のくことになっても、笑って語り掛けられる。
それくらいには、さくらのことが好きなのだ。

「勝負なんて必要ありません。どうぞお二人で来てください。
ここは、通しません」

さくらが言い、再び構えを取る。

里保は逆に、ふっと笑って力を抜いた。

「分かった。任せるよえりぽん。うちは先に行くね」

衣梨奈はそれを聞いて、心底嬉しそうな笑顔になった。

「うん、任せといて。道重さんの方頼むけんね」

里保も笑顔で肯く。
それから衣梨奈の側を離れた。

「ちょっと!ちょいちょいちょい、無視ですか私のこと。
通さないって言ってるじゃないですか!」

里保は飛び立ち、さくらの脇を抜けようと進んだ。


さくらが魔法を発動させる。
光の鞭の魔法が里保に襲い掛かった。
里保は構わず飛び続ける。防御も、反撃もしない。
自分はもうさくらには手出ししないと決めたから。

顔を手で庇い、衝撃と痛みに備える。
弾き飛ばされるか抉られるか。分かっていれば魔力で防御しなくても気絶して墜落するまでにはならないだろう。
痛いだろうけれど。
だけどさくらの鞭は里保に触れる寸前で止まり、引き戻された。

里保が顔を上げると、さくらと目が合う。
睨まれている。
だけどさくらの顔は、動揺しているようにも拗ねているようにも見えた。

やっぱり可愛い子だな、と思う。
里保はまた少し笑い、それから一気に加速してさくらの脇を抜け、島に向かった。



さくらが見えなくなった里保の後ろを呆然と眺める。
それから諦めのため息を一つ、衣梨奈に向き直った。

「あまちゃん」

衣梨奈はニヤニヤと笑ってさくらを見ていた。
ムッとして睨み付ける。だけど衣梨奈は笑っていた。

「生田さんには言われたくありません」

衣梨奈が小さく声を出して笑う。
それからスッと表情を引き締めた。

「改めてもう一回。さくらちゃん、えりと『勝負』しよう」

さくらも一度目を閉じ、気持ちを切り替えて表情を戻した。

「お受けします」

二人は互いに間合いを測りながら、戦いの魔力を開放した。

 


里保は衣梨奈とさくらの元を離れ、島に向かい飛んでいた。
さくらのことを衣梨奈に任せる。
そのことをすんなりと受け入れた自分に小さな驚きがあった。

多分衣梨奈は、今まで『勝負』なんてしたことがない。
戦うのが苦手だと、本人の口からも聞いたこともあった。

もしさくらと衣梨奈の力が拮抗しているなら、優しい衣梨奈に全力を出すことが出来るだろうか。
だけど里保が衣梨奈の顔を見た時、そこには強い意思が浮かんでいた。
負けることが前提なのではない、勝ちたいという意思。
元来衣梨奈は負けず嫌いなのだ。

そしてさくらにも、その棘のある言葉、態度の隙間から
闘志と共に優しさが漏れ出していた。
多分二人は似ている。
だから、きっと二人の勝負がどんな結果であろうと、その結果を気持ちよく受け入れられると
そう思った。

里保の心に少しだけ余裕が出来ていた。
さくらが、その気持ちを隠していたとしても自分たちが知るままの彼女だと思えたことが嬉しかったから。

もしかしたらさくらの師である『西の大魔道士』も
想像しているよりずっと話が出来る人物で、さゆみとも争うことなく対話しているのかもしれない。
じっくり互いの考えを伝え合うことが出来れば、聖や香音にとってもそれが一番いい。


だけど里保の期待は程なく打ち破られた。

島の上空に辿り着く。
島と、その上に広がる巨大な建物。
そこに漂う魔力の禍々しさに、里保は身震いした。

明確な敵意、明確な殺意が恐ろしい巨大な塊となって横たわっている。

今この中にさゆみと『西の大魔道士』がいるのならば
そこで行われているのは間違いなく殺し合いだった。

大魔道士本人から直接感じている魔力ではない。
そのことがより、恐ろしさを増幅させていた。

里保は戦いに身を置いていた経験から、力量を測る感覚に自信を持っている。
その感覚が理性に訴えた。
”危険だ、逃げろ”と。

額には冷や汗が浮かんでいた。
もしこれが任務ならば、決して突撃したりはしない。
応援を要請し、策戦を要求するため退避する。
執行魔道士として、無謀に危地に飛び込むことは愚行だと分かっている。

だけど、逃げるわけにはいかなかった。

ここにはさゆみがいる。聖と香音がいる。
この”殺意の嵐”の中に3人はいるのだ。

なんとしてでも助けなければならない。
そしてその為には、自分の命を掛けなければならない。


たぶんそれが、何かのせいにするのでなく、自分の為に生きるということなのだろうと思った。
もしここで逃げ出したならば、多分二度と自分の為に魔法を使うことは出来なくなる。

さゆみの家を出て来る時に、亜佑美たちに『覚悟』を説いた。
それは想像以上の物。
決して低くない確率で、死が眼の前に黒い口を開けていた。

緊張感を漲らせ、考える。
闇雲に突入するわけにはいかない。死の確率を格段に上げる。
目下必要な情報は、さゆみの居場所、西の大魔道士の居場所、聖と香音の居場所。
そしてこの城を覆う魔力の性質。

外から、出来るだけの情報を集めることが賢明だと考える。
さくらが待ち受けていたことからも、里保がここにいることは大魔道士に感じ取られているとみるべきだ。
なんらかのアクションを起こされる可能性も十分にありえる。

どんな場合にも対処しなければならない。

里保は全神経を集中し、魔力で身体を纏い
城の直ぐ上を周回しはじめた。

 



『千客万来やな』

つんくは、相変わらず弾んだ声でさゆみに言った。

さゆみはいつしか、鏡とガラスが折り重なった迷宮に入り込んでいた。
そこかしこに無人の甲冑が徘徊し、さゆみを狙っている。
それは恐ろしく厄介な空間だった。

相変わらず城全体の魔力で動いているために、それぞれの甲冑や罠の動きを魔力を辿ることが出来ない。
その上折り重なった鏡とガラスは、瞬間的な視覚の混乱も招いた。

嫌がらせの天才ではないかと思う。
魔道士を熟知し、その苦手とする物を存分に利用して作られた城。
『弟子のアスレチック』というならば、確かにここ以上に力を伸ばせる場所は無いかもしれない。
命があれば、だが。

嫌がらせの天才、さゆみ自身にもその自覚があった。
やはり長く生きていると魔法の考え方は似通ってくるのか。
ただ単に、さゆみとつんくが似ているというだけなのか。

お株を奪われたように、受ける側に回っていることが只管不快だった。


つんくの言葉に返事はしない。
さゆみも、城のすぐ側まで里保が来ていることに気付いていた。
そのこともつんくにはバレている。
城の内部から外の様子を窺う魔法は効力を発しない。
それを見越して、自身の翼を散らしその羽を城の外に舞わせておいたのだ。

これでまた状況は変化した。
つんくが里保へと矛先を向ける可能性がある。
聖や香音と違って、さゆみにとって里保がどんな存在であろうと攻撃しない理由は全く無い。
持久戦も難しくなってきたかもしれない。

さゆみはまた、考えを巡らせ始めた。
今ここでつんく本人が里保の元へ向かえば、里保を守る為には城を破壊するしかない。
その行動はつんくにとって読みやすく、瞬く間に足元をすくわれる危険があった。

つんくの行動に合わせて確実に受けの対応をしなければならない。
その上、こちらから攻めに転じることは依然難しかった。

爪を噛む。
羽を通して感じた里保の魔力が、懐かしく愛おしい。

『アイツは何や?お前の弟子か?』

「違うわ」

『ふーん』

何を言った所で、変わりはしないだろう。
つんくは既に里保を『異物』と認識している。

救いは里保が城に飛び込む気配が無いこと。自分よりもよっぽど冷静だ。
恐らく状況の把握につとめ、襲撃にも備えているだろう。


『なあ道重、いい加減飽きてこうへんか?』

つんくの声色が変化した。
いよいよ、何か仕掛けてくるのか。

さゆみは全身に緊張を走らせた。

「だったら出て来なさい」

『それは勘弁や』

また、半笑いの声に戻った。
先ほどの言葉に不気味さだけが残る。


と、視界につんくが立っていた。
だけどそれは幻影。
分かっていた。

その隣に聖と香音が居る。縛られて、跪いて。
それも幻影、そう分かっていたのに。

つんくが二人に向けて刀を振り下ろした瞬間、身体が勝手に動いた。

「ふくちゃん、香音ちゃん!」

警戒していたはずだった。
子供だましだとも分かっているはずだった。

それなのに。

衝撃。

胸に広がる鈍い感覚。

眼前のガラスが割れるとそこには鏡。
さゆみ自身が映っていた。

背後に無人の甲冑。
そしてさゆみの胸には深く刀が突き刺さっていた。


血が流れる。
閉め忘れた蛇口のように、真っ赤な血が刀を伝い床にどんどんと溜まっていく。

さゆみは呆然と、流れ続ける血を見ていた。
自分の血を見たのなんて、随分久しぶりだと思いながら。

『はは、おいマジかお前!大魔女さまが引っかかるような手がコレ』

つんくの馬鹿笑いが耳に響く。
さゆみはそのまま、血だまりの中に膝をついた。

甲冑が強引に刀を引き抜く。
一気に血が溢れ出し、辺りの鏡を赤く染め上げた。
そのままもう一度、さゆみに剣を振り下ろす。

甲冑が刀を振り下ろす直前、その胴体は真っ二つになった。
さゆみの髪が鞭のようにうねり、バラバラに引き裂いた甲冑をガラスに叩きつける。

そのまま暴れ出した黒い髪は、迷宮を成していた全ての鏡とガラスを粉々に砕いた。

無数のガラス片が降り注ぐ白い空間の真ん中で
さゆみは血だまりの中に膝をついていた。
血はとめどなく溢れだし、口の端からもせり上がった血が漏れ出していた。



「…こっちのセリフよ。よくまあこんな情けないこと出来るわね」

『引っかかるとか思わんやろ普通。冷血無比の大魔女さまがなぁ。ほんまおもろいわお前』

さゆみが俯き目を閉じる。

何かが切れた。

血だまりの中から不意に植物の蔓が伸び上がる。
恐ろしい速度で次々と伸び上がり、美しい七色の花を咲かせ城の壁を這い上がった。

『やっと本気か。そうやないとな』

太く長くどんどんと延びていく。
蔓は城の魔力で枯らされる。枯らされた側からまた伸び花を咲かせた。
さゆみが美しい花に覆われる。
城の魔力を”枯らし”ながら、花は徐々に城を覆っていった。

 


←本編27 本編29→

タグ:

+ タグ編集
  • タグ:

このサイトはreCAPTCHAによって保護されており、Googleの プライバシーポリシー利用規約 が適用されます。

最終更新:2015年11月24日 20:19