本編29 『えりぽんとさくら』

 


「なるほどなぁ。要するに道重が、自分らが因子持ちやから仲良くしてくれたんとちゃうかって不安やねんな」

夢の中で、聖と香音とつんくはまったりと話していた。
辺りの景色は相変わらず暗く、雨が滴っていたけれど
不思議とつんくと話すことが心地いい。
要領を得ない聖の断片的な言葉から、つんくは驚くほど的確に気持ちを読み取ってくれた。

そうしているうちに、聖自身も、自分が何をそんなに悩んでいたのか
その全貌を見出し始めていた。

「そう、ですね…。そうなんだと思います」

聖の言葉に香音も肯いた。
目覚めているうちに香音と意思を確かめ合うことが出来ていない。
だから、隣で肯いてくれることに聖はほっとしていた。
同じ思いでいてくれたことに。

「やっぱりその…因子ってやつのせいなんですかね…。道重さんたちが…」

香音が言葉を発する。
戸惑いがあるのだろう、言葉の歯切れが悪い。

「そうやろな。
せやけど、まあ半分やな。そないに気にすることちゃうと思うで?」

つんくが変わらず陽気に、軽い口調で言った。


「どういうことですか?」

「俺も別に道重が何考えとるとか知らんけどな。
付き合いは古いし、アイツの性格は分かっとるつもりやねん。
アイツ今まで自分らが因子持ちやってこと一言も言わんかったんやろ?」

「え、はい…。さくらちゃんに聞かされて初めて知りました」

「実験に使おう思ったら最初から言うし、なんやったら生まれた時に引き取るくらいのことするで。
アイツは鈴木たちがおる街ではそれが出来る立場やしな。
せやから、別に自分らが因子持ちやからって、それをどうこうするつもり全く無いと思うで。道重は」

聖はつんくの言葉を反芻しながらさゆみを思い浮かべた。
昔から不思議に思っていた道重さゆみという人の立場を、つい最近になってようやく知った。
魔道士の存在を知ると同時に。
自分たちの住む街に、誰一人さゆみに逆らえる人はいない。

だけどさゆみは、殊更に権力を振りかざすような真似も、横暴な振る舞いもしていなかった。
街の人にも、学校の先生たちにも、純粋に慕われていた、そんな印象を受ける。
いったいさゆみはあの街でどんなことを考え、生きてきたのか。
今まで考えたことも無かった。

「どういうことですか…?何が半分なんですか?」

香音の問いに、つんくの口からは滑らかな言葉が返ってくる。

「半分は偶然。半分は必然で、自分らと仲良くなったっちゅうこっちゃ」

その言葉には不思議な響きがあった。
偶然で、必然。
それは人との出会いを想う時、どちらの言葉もなにか暖かい響きを帯びてくる。


「自分らがあの街に生まれたんは偶然やろ。
普通は因子持ちが二人も同じ街で同じような年代で生まれて来るなんてありえへん。
それこそ奇跡に奇跡が重なったくらいの確率や。遺伝するようなもんでもないしなぁ。
んであの街には自分らが生まれるずっと前から道重が住んどるんやから
ゆうたら鈴木と譜久村が道重に会ったんは偶然以外のなにものでもないねん」

偶然、奇跡がもたらした出会い。
それはこの世で誰と出会うにしても言えること。
さゆみや衣梨奈たちに出会えた偶然に感謝せずにはいられなかった。

だからこそ、あと半分の「必然」が何なのか早く聞きたかった。

聖と香音は身を乗り出してつんくの話に聞き入っていた。
最初に抱いていた僅かな警戒心はもう何もない。
それはつんくが、聖や香音のさゆみ達に対する想いを優しく肯定してくれていたからだった。

「せやけど、仲良くなったんは道重の意思やろ。
別に因子使ってどうこうしたろうっちゅう下心が無いんやからな。道重の場合」

「道重さんの意思…」

「因子ってな、目立つねん。俺らみたいな古い魔道士からしたらやけどな」

「目立つ、ですか?」

聖と香音は思わず互いの顔を見合わせた。
改めて香音を見て、可愛い顔だなと思ったけれど
それ以上の「目立つ」何かがあるのだろうか。


聖は妙にドキドキと煩い胸の鼓動を感じていた。
さゆみのことを良く知り、さゆみを語ることが出来る人がいる。
そんな人に出会ったのは初めてで、知らなかったさゆみのことを知れることに興奮していた。
さゆみの想いを知ること。
それは少し怖いことだと思っていた。
だけどつんくの口から語られる言葉は不思議と怖くない。
つんくが笑いながら、感情を介さず否定も肯定もせず淡々と自身の推察を述べていることがその理由だと思った。

「自分らだって同じやろ。気になる子と仲良くなりたいと思わへんか?」

突然自分たちに話を向けられて、聖は首を傾げた。
それからつんくの言葉の意味を考える。

「例えば転校生がめっちゃ美少女やったら、友達になりたいなぁって思うやろ?」

そこで聖は漸くつんくの言いたいことが分かった。
「因子」については未だによく分からないけれど、さゆみにとっては二人のそれがただの「個性」なのだと
そう言っている気がする。

「なんかいい匂いがするとか、声が可愛いとか、まあいろいろあるやん。
別にそういうとこから気になって仲良くなろうとするんなんて普通やろ?
『美少女やから気になって声かけました』てわざわざ宣言するようなことともちゃうやん」

「…そういうもんなんですか?その、因子って」

香音の言葉につんくが優しく笑った。

「因子がそういうもんやなくて、友達作りなんてそういうもんやんっちゅう話や。
魔法が絡んだら話がややこしくなっとるみたいなとこあるけどな。
ゆうたら自分らの悩みは『私の顔が可愛いから優しくしてくれるのかな』とか『おっぱい大きいから仲良くしてくれるのかな』
ちゅうのと同じや。
まあ子供の頃はそういうことで散々悩んだりして人間関係築くもんやから、全然悪いことやとは思わんけどな」


不意に聖の中で思考が拓ける。
つんくの言うこと、それは尤もなことだと思えた。

自分も衣梨奈と仲良くなったとき、彼女に惹かれた。
どこにと言われれば沢山あって、顔も勿論、話し方や性格や、不思議な雰囲気。里保や遥たちだってそうだ。
『理由なく側に居た』わけじゃない。理由なら沢山、数えきれないほどあったのだ。
それなのに、さゆみや衣梨奈達が「理由があって優しくしてくれた」と疑うことは筋違いも甚だしい。
理由なんてあるに決まっているし、「因子」がその理由の一つだからどうだというのだ。

「あ、今のはセクハラとちゃうで。ただのたとえ話や」

つんくの付け足した言葉に、聖と香音はクスリと笑った。

「でもそれなら言ってくれても良かったのに。因子のこと」

「そやなぁ。ちなみに道重とか弟子らが魔道士のこと明かしたんはいつなん?」

「つい最近です。優樹ちゃんたちが来てからだから、今年の夏休み前…」

「聖たちそれまで、魔法使いが居るってことも知りませんでした。まさか道重さんやえりぽん達が魔法使いだったなんて」

つんくは顎に手を当て2、3肯いた。

「ま、いつか言うつもりやったんちゃうか?
別に普通の魔道士からしたら因子なんかそもそも知らんし、言うたら本人が知っとっても知らんくてもあんま関係ないしな。
因子についてちゃんと知識があるんなんて、世界中で道重と俺と後藤、要するに三大魔道士とか言われとる3人くらいやからね」

「え、つんくさんも『三大魔道士』だったんですか!?」

「言うてへんかったか?三大魔道士のつんくです」

つんくがお道化ると、遠慮がちな笑いが広がった。


聖の気持ちは随分と晴れていた。
もうさゆみ達を疑う心は無くなっている。それが嬉しかった。

だけど夢の背景は相変わらず雨で、ひまわり畑はとっくに水に沈んでしまっていた。

悩み相談は一区切り。そういう空気になっていた。

これから本題に入る。
魔法使いになるという話。
それを考えるとき、聖の頭には衣梨奈の顔が浮かんだ。

誰にも言えない、言ってない気持ち。
多分さゆみにはバレていて、香音にもバレているのかもしれないけれど。
向き合わなければならないのに、怖い。それも話してしまいたいと思うけれど、怖かった。

「さて、まあ二人とも大分ええ顔になって来たし、
そろそろ本題に入りたいとこなんやけど」

つんくが切りだし、二人の背筋が伸びた。
さゆみは聖たちの「因子」に用は無かったけれど、つんくにはそれがある。
そもそも魔道士になること、その実験をすることが、ここに連れて来られた理由なのだ。


つんくの言葉が止まる。
それから辺りを見回した。

「ちょっとゆっくりもしとれへん状況になってもてん。
せやから話の続きは、自分らが目覚ましてから、落ち着いてからちゅうことでええか」

そう語り掛けるつんくの顔は相変わらず笑っていた。
だけど話し出す前、一瞬つんくの顔にいつも浮かんでいた笑みが消えたことに聖はひっかかりを覚えた。

「すまんな。ほんなまた後で」

聖たちの返事も聞かずつんくは立ち上がり、ぱっと腕を払った。
降っていた雨が止み、灰色の雲が消し飛び、水も消え、ひまわりも消えた。

真っ白の中に聖と香音とつんくがいる。
不安になって香音に手を伸ばすと、触れる前に香音も消えてしまい
もうつんくも居なくなっていた。

椅子が一つ。
黒く光る靄が飛び出し、あっという間に白い世界を飲み込む。
眩暈に襲われた聖は身を捩り、慌てて目を見開いた。


聖は見知らぬベッドの上で目を覚ましていた。

 

 


城の内部を徐々に花の蔓が伸びていく。
さゆみは相変わらず血だまりの中に蹲っていた。

手足が思うように動かない。
剣にはつんくお手製の厄介な毒が塗られていた。
刺された時、咄嗟に風穴を開けられた心臓の修繕に魔力を費やしたため
毒が全身に回ってしまったようだ。
それと大量に失血してしまったことも大きい。

さゆみは今の自分の限界を知らなかった。
三大魔道士と呼ばれるようになってから、力を出し尽くしたことなどなかったから。
そもそも、それだけの魔力を使う理由が無かった。
戦う理由も無い。不利と思えば逃げればよかったし、魔法で煙に巻けばよかった。

だから、長い年月で確実に増したであろう自身の魔力の底を知らない。

今、傷ついた身体を治癒しながらつんくの城を『殺す』為に全力で花を咲かせ、
随分と久しぶりに、魔力が目減りしている感覚を覚えていた。
あたりまえだけれども、自分の魔力にも限りがあるのだ。

もし魔力を使い果たしたならば、さゆみは死ぬ。
不老長寿の魔法を維持することが出来なくなるから。

さゆみはある種の賭けに出ていた。
一か八か。そんな感覚は子供の頃以来。
死にたくは無いけれど、ここを離れ逃げることも出来そうになかった。

多分、聖や香音や里保や衣梨奈たちを見捨てて生き続けることは出来ない。
あの子達の幸せな未来を見届けなければ。


さゆみが本気を出したことで、つんくも選択を迫られている。そのはずだった。
もう持久戦模様ではない。
このままつんくが何もしなければ、程なく城は全て無力化出来る。
聖と香音の居場所も分かるし、つんくがいる場所も分かる。

つんくがそこまで待って、魔力を消費したさゆみを殺しに来るということも可能性の一つ。
そうなる前に、思うように動けない今のさゆみを殺しに来るというのも一つ。
それらの選択はさゆみにとっては有難い。
早くタイマンに持ち込みたいと思っていた。

最悪なのは、聖と香音を連れ、城を棄てて逃げられること。
そうなった場合今のさゆみには追いかけることが難しい。
そこまでプライドを失ってはいないと信じたいが、それも分からない。

何にせよさゆみの魔法はつんくに選択を迫った。
その代わりに、さゆみにとって聖と香音の存在が決定的な弱点であることも知られてしまった。
悔いても仕方が無い。
今までの方法も、選択も、多分全部正解では無かった。
思うように行かないことなんて分かり過ぎるほど分かっている。
もう十分醜態は晒した。
形振りを構う必要はもう無い。


現状ではまだ優位と感じているはずのつんくが、貴重な因子を無碍にはしない。
だけど、二人がつんくの手にあるうちは、いつまでも切り札が存在してしまう。

どちらにせよ今さゆみがすべきことは全力で花を咲かせ城をくまなく探し
聖と香音を保護することだった。

方法を考えて、考えて、浮かんだ考えに溜息を漏らす。
結局全て自分の失態。
みんなを巻き込んでしまった。
あの子達に出来れば醜態を晒したくない。だけどもう、そんなことも言ってはいられない。

「りほりほに、手伝って貰うしかないか…」

呟いて、また溜息を一つ。
だけどさゆみの血色の悪い顔には、無自覚な小さな笑みが浮かんでいた。

 



さくらが光の鞭の魔法を繰り出す。
衣梨奈はスケボーと周囲の岩を駆使してそれを避け
間合いを詰めようと迫って来た。

月が随分と低い位置に変わっていた。
漆黒の海の上で二人の身体が淡く光る。

さくらは冷静に互いの力関係を分析していた。

衣梨奈から感じられる魔力は想像していたよりも遥かに大きい。
普通の魔道士というレベルを明らかに超えていた。
自分が『西の大魔道士』の弟子であるように、彼女も『大魔女』の側にいたからだろうか。

戦うスタイルは、ごくシンプルなもののよう。
魔力を拳脚に纏い、接近して攻撃する。

普通ならばそういう相手は寧ろ楽に対応出来るはずなのに、衣梨奈の場合は難しい。
まずパワーの桁が違う。スピードも、スケボーを駆使した機動力もさくらより遥かに上。
魔力量は互角くらいと見ていいだろうか。

とにかく近づけてはいけない。
さくらも接近戦を苦手にしているわけでは無いけれど、懐に入られては
有無を言わさぬ衣梨奈のパワーに成す術がないと思えた。

岩の上を移動し、遠隔から鞭を放つ。
直線的でない鞭の動き、しかもかなりのスピードで迫るそれを衣梨奈は避ける。
身のこなし、動体視力。身体能力の高さが普通じゃない。


さくらはより集中し、鞭のスピードを上げ複雑に軌道を変えた。
同時に、衣梨奈が近付くことが出来ないように防衛線を張る。

逃げ回っているだけならばいずれ体力の低下と共に衣梨奈の動きも鈍るはず。
空中でスケボーから叩き落とすことが出来れば優位は揺るがない。

疲労を感じたであろう衣梨奈が後ろに大きく飛び距離を取った。
深追いはしない。
現状戦法は間違っていないはずだ。

逆に衣梨奈は、不利を自覚して焦っているだろう。
そう思ったのに、遠目に見えるその表情はどこか楽しそうだった。
目が合い、ニコリと微笑まれる。
さくらはその笑顔を直視することが出来ず視線をずらした。
衣梨奈の額には汗が光っている。

衣梨奈が持ちかけてくれた『勝負』を有難く思っていた。
自分が今どうすべきなのかわからなかったから。何をしたいのかも。
戦っているうちは、勝つことに集中すればいい。
余計なことを考えずにすむ。

勝負を受けた以上負けるつもりは微塵も無い。
だけど勝ってから、どうするのか。
衣梨奈に何を話せばいいのか。


衣梨奈と里保は、またさくらに笑い掛けてくれた。
責めることも詰ることもせず、ただ話したいと。

何故そんなことが出来るのか分からない。
嘘吐きは何度でも嘘を吐くと、知らないはずは無いのに。

胸が苦しい。


さくらは衣梨奈の笑顔を見ていられなくて
居ても立ってもいられず再び鞭を繰り出した。

さっきりも更に苛烈に、魔力を込めて。

衣梨奈が即座に反応する。
距離があった分、直線的な攻撃になったのが拙かった。

衣梨奈が鞭の間をスルスルと抜けて猛然と迫ってくる。

気が付けば目の前に衣梨奈の姿があった。

咄嗟に岩を飛び移る。


さっきまでさくらが居た岩は、衣梨奈の踵に砕かれ、粉々の破片となって海へと落ちて行った。
その瞬間を狙い、一気に引き戻した鞭で衣梨奈を打ち据える。

入った。

続けざまにもう一発。

反動を利用して再び距離を取る。

確実に二発、さくらの攻撃が衣梨奈に入った。
だけど衣梨奈はスケボーから落ちることもなく、少しよろけただけですぐに顔を上げた。
まだいくらも余裕が窺える。
さくらのこめかみを汗が伝った。


「普通なら今の二発で決まってるはずなんですが…」

思わず漏らしたさくらの言葉に、衣梨奈がニッと笑う。

「えり、身体だけは丈夫やけんね」

さくらは衣梨奈の笑顔から目を逸らした。

一度は衣梨奈を気絶させた魔法だ。
もっとも、その時は全くの無防備だったから自慢にはならないけれど。

これで決めることが出来ないなら、引き出しを開けなくてはならない。
流石にこちらは衣梨奈の蹴りを一撃でももらうわけにはいかない。

「ね、さくらちゃんさ、小田さくらちゃんやろ?」

不意に声を掛けられてまたその顔を見る。
目が離せなくなりそうで、見ていたく無い笑顔がそこにあった。

「なんですか…?」

「名前。さくらちゃんの名前」

「…そうですけど」

「ふふふ」

「何なんですか…」

風が髪を揺らす。
台風一過の夜空に冷たい秋風が流れ込んでいた。


「さくらちゃんの言ったことの中に、嘘じゃないことちゃんとあったっちゃね!」

衣梨奈は勝ち誇ったように言って、すぐに自分で吹き出した。
本当に、何なんだろうこの人は。

「……今のだって嘘かもしれないじゃないですか」

「いーや、さくらちゃんはさくらちゃんやね。
大体さくらちゃん、嘘つくの下手やけん」

「……生田さんだけには言われたくありません」

ペースに巻き込まれるわけにはいかない。
どんなに不思議な人だからって、今衣梨奈がどんな人なのかを考えている場合ではない。
とにかくこれは『勝負』。
相手が誰であろうと勝たなければならない。

たださくらは、こうして衣梨奈と向き合っていられる時間が
いつまでも続けばいいのにと、心のどこかで思っていた。

 

 

 

暗い夜の闇の中で、月の光だけが妙にいやらしく煌々と照っている。
里保の眼下には、相も変わらず静かな恐ろしい魔力が横たわっていた。
島の上を一巡り。
およそまともな思考では理解出来そうもない奇怪な城。
無意味なネオンサインや看板が、闇の中に毒々しく光っている。

内部に入れる入口や、窓らしきものは沢山あった。
だけど、どこからも中の様子はまるで分からず、全てが地の底の地獄に抜ける穴のようだった。
聖と香音の居場所は分からない。さゆみの居場所も。
巨大な恐ろしい生物が三人を飲み込んでしまったみたいに
手掛かりが何も掴めなかった。

いつまでもこうしてフラフラと飛んでいるわけにはいかない。
里保の中に焦りが徐々に膨らんでいた。

再び島の全景が見渡せる高さまで浮かび上がった里保は途方に暮れ
もう飛び込んでしまおうかと思い始めていた。
なげやりになるのは間違いだと分かっているけれど、そうするより他に方法が浮かばない。

いつしか空には薄雲が流れ、時折月を翳らせていた。


と、改めて見下ろした城に違和感をおぼえる。
恐ろしい城の魔力。
巨大な塊のようにじっと鎮座していたその魔力が、いつからか目減りしているように感じたのだ。

里保はぐっしょりとかいていた額の汗を一度拭い、改めて意識を集中させた。

間違いなく減っている。
いや、抑え込まれているようだ。
他の魔力に。

城の魔力を侵食し、徐々に抑え込んでいるもう一つの魔力がある。
間違いなく、さゆみのものだ。

眼下で巨大な魔力同士のせめぎ合いが起こっていた。

ただ、恐ろしい。
まるで何千もの魔道士の軍隊が衝突し、殺し合ってでもいるようだった。
音も無く、光も無く、ただ月の下で粛々と繰り広げられている。

これが三大魔道士の衝突なのだ。

派手な魔法なんかじゃない。
純然たる魔力。一介の魔道士が立ち入ることなど到底不可能と思えるような
巨大な魔力のぶつかり合いだった。


さゆみの魔力が押している。
城の一部には、完全にさゆみの魔力に制圧された領域が出来ていて
それが徐々に広がっているのが分かった。

その中心に、さゆみが居る。

糸が切れそうな程に張り詰めていた里保の心は
さゆみの存在を捉えた瞬間、母の手に抱かれた子供のように安らいだ。
じわりと涙が浮かんでくる。
自分がどれだけ恐怖していたかを、瞼の熱が教えてくれた。


さゆみと合流しよう。まずはそれから。

一度目を擦って身体を震わせ、自身を落ち着かせた里保はそう結論を下し
愛しい魔力の中心へとゆっくりと降下していった。

その時、ふわりと肩に何かが乗った。
美しい透明な、魔力を纏った一枚の羽。
払いのけたりはしない。
そこから感じる魔力も同じ、大好きな人のものだったから。

”りほりほ、聞こえる?”

羽が微かに震え、声が響いて来た。
さゆみの声。今聴きたいと思っていた声。


「みっしげさん。はい、聞こえます」

”やっぱり来たんだね。もう、来ちゃダメって言ったのに”

「すみません…」

”ふふ、でもね、来るだろうなって思ってたよ。生田も来てるでしょ?今どこ?”

「えりぽんは…さくらちゃんと『勝負』してます」

”そっか…”

穏やかなさゆみの声。
今眼下で恐ろしい戦いをしている人とは思えない優しい声だった。
叱られることを覚悟していたけれど、それもない。
優しいさゆみの声は、どこか弱々しくも思えて不安になった。

”でも流石だね、りほりほは。
闇雲に飛び込んでたら今頃死んでたかもしれないよ。ちゃんと冷静でいてくれて頼もしいわ”

「いえ…」

怖くて飛び込めなかった、と正直に言ったら
さゆみは笑うだろうか。
言えない。
だけどきっとさゆみは、分かっている。
羽の柔らかい振動が、里保にそう思わせた。


”城の魔力がとにかく厄介だからね。今さゆみがそれを何とかしてるから
もう少しそこで待っててほしいの。その後でちょっと、頼みたいことがあるから”

「頼みたいこと、ですか…?」

”今全力で探してるところ”

「ふくちゃんと香音ちゃん…」

”うん。もうすぐ見つかるはず。見つかったら外から分かるように合図するから
中に飛び込んで。二人を連れてすぐにこの島から離れて欲しいの”

「え…?」

”ちゃんと二人を助け出せたら、先に戻ってて。生田にも勝負が終わり次第戻るように伝えて欲しいの。私たちの街に”

「でも、道重さんは…」

”私はとりあえずアイツと決着をつけて戻る。
まあふくちゃんと香音ちゃんが島から離れられれば後はなんとでもなるから、ね”

それでいいのだろうか、とも思った。
さゆみの考え通りに事が進めば理想的なのは分かる。
二人の身の安全が最優先であることも。

だけど、西の大魔道士とまみえることもなくここを離れ、二人の意思を確認もせず強引に連れ帰ることが絶対に正しいだろうか。
そうした後で、さくらと改めて話す機会は訪れるのだろうか。

里保は慌てて自信の心に湧き上がった気持ちを打ち消した。そんな悠長なことを考えている場合では無い。
『西の大魔道士』はまごうことなき怪物。さっきまで震えていた自分が、さゆみの存在を感じて急に気が大きくなっているならば慢心も甚だしい。
今はさゆみに従う以外に正解は無いはずだ。


「分かりました」

”お願いね”

里保はもう一度島が見渡せる高度まで舞い上がり、一度大きく息を吸い込んだ。

心というのは本当に厄介だ。

二人が心配。さゆみが心配。衣梨奈が心配。そしてさくらが心配。
話したい。気持ちが聞きたい。さくらの、聖の、香音の。西の大魔道士の。
大魔道士が怖い、恐ろしい、死にたくない。
だけど戦ってみたい。自分の力を試したい。自分の魔法の可能性が知りたい。意味が知りたい。
怖がりだと思われたくない。さゆみに認められたい。衣梨奈に認められたい。亜佑美たちにも認められたい。
さゆみを危険に晒したくない。守りたい。だけど出来ない。悔しい。
もっと自分に力があればいいのに。皆が幸せになる結末を目指したい。
正解に届きたい。

どうしてこんなに沢山の感情が、ちっぽけな自分の身体に詰まっているのだろう。
里保は息を吐き出し、小さく笑った。
ホラ、今の笑いだって、どんな感情なのかも分からない。

 

 



さゆみは里保の返事を聞き、一つ安堵の息を吐いた。
上手くいけばいい。
勿論、そんなに簡単にはいかないだろうけれど。

聖と香音と里保の安全が確保された後ならばどうとでもなる。
暴れたいだけ暴れればいいのだ。そこまではまだ綱渡りが続く。
とにかくできることをするだけだけれど。

つんくの意識を自分に引き寄せておく必要がある。

さゆみの周囲は完全に制圧した。
さながら花園の中にいる。
つんくが城を使ってさゆみを攻撃することはもう出来ない。

ここに直接本人が来る以外に、さゆみを殺す手段は無いのだ。

「意外ね。じっと待ってるんだ」

今城を侵食している花の蔓は、さゆみの目にも耳にも声にもなる。
さっきまでとは逆の立場で、蔓の先端を通してつんくに告げる。

『こっちこそ意外やわ』

つんくの返答。
まだ居場所を晒すことは無く、生きている城を通した返答だった。
微妙な駆け引きが続く。


「なにがよ」

『お前、そんなボロボロになっとんのにまだ譜久村と鈴木を探しとんか。
いい加減切れて暴れだすんかと思っとったわ』

先ほどまでのような余裕の含み笑いはない。
だけど、まだつんくは冷静らしかった。
弱味を見せるわけにはいかない。

「当たり前でしょう。あの子達は私の『モノ』なんだから」

問答でも何でも続くならばそれでよかった。
今は時間の経過が自分にとって得になるのだから。
つんくがここに来てくれるならもっといい。

『私のモノ、ねぇ。
ほんまおもろいな道重。後藤だけやと思うとったけど、お前も大概異常やわ。
まあこんだけ長生きしとる奴なんてみんなまともとちゃうわなぁ。
俺だけやん、まともなん』

「寝言は寝て言いなさい」

つんくは暫く沈黙したあと、さも不思議そうに声を出した。

『昔のまんまやなお前。
よく今まで生きとったな。不思議でしゃーないわ。死にたいと思わへんのか?』

不老長寿の魔法、そして三大魔道士としての生。
この男は、総括でもしようと言うのだろうか。


 


衣梨奈とさくらは再び距離を取った。

衣梨奈がさくらの鞭の魔法による攻撃を耐えたことで、同じ戦法の継続は難しくなった。
いくら衣梨奈でも、そう何発も耐えられるものでは無いだろうけれど
1発、2発を耐えられると分かったなら、敢えて受けながら強引に間合いを詰めることが出来る。

だけど衣梨奈はすぐに飛び込んでは来なかった。
さくらにまだ見せていない魔法がある。
別の手段があることを衣梨奈は理解しているらしかった。

雲が月を覆う度に、衣梨奈の身体を包む柔らかい黄緑の魔力光が浮かび上がる。
さくらは綺麗な色だなとぼんやりと思った。

衣梨奈が強いことが嬉しかった。
もし自分の方が上で、その差が大きかったなら
余計なことばかりが頭に浮かんだだろう。
衣梨奈の心も体も出来るだけ傷つけず勝負を終わらせたいと。

だけど衣梨奈が強い魔道士だったから、そんな考えは必要が無かった。
勝つにしろ負けるにしろ、ギリギリの戦いになる。
気兼ねなく全力が出せる。

さくらは自身が興奮していることに気付いた。
純粋に『勝負』を楽しんでいる。
どうすれば衣梨奈に勝てるか、全身でそれを考えることに歓びを感じていた。
負けたくない。
自分は物凄く負けず嫌いだった。それを思い出す。


なぜ戦うのか、どうして自分は戦っているのかも分かっていない。
ただ目の前に強い魔道士がいて、だから戦う。
そんなことが正しいはずは無いけれど、今はそれでよかった。
それだけが今のさくらを支えていた。

衣梨奈がスケボーに乗り、ゆっくりと高度を上げた。

立体的に岩が散らばっている空間。
師が悪戯に作ったフィールドは、飛べないさくらにとっては有難いもの。
だけどやはり、空を飛べる衣梨奈が有利であることに変わりはない。
特に頭上を制圧されることは防ぎようがなかった。

衣梨奈の緩やかな動きに合わせてさくらも視線を動かす。
見上げた夜空は、月が翳ったかわりに美しい無数の星が瞬いていた。


衣梨奈が降下してくる。
腹を決めたのだろうか。

さくらは羽織っていたストールを脱ぐと、それを夜風の中に泳がせた。
桜色に光ったストールは細切れ、花びらの形になって辺りを舞いだした。

無数の花びらがさくらの周りを覆う。
次第に拡散し、花びらはどんどんと細かくなっていった。

衣梨奈が警戒し、一度動きを止める。

広がったピンクの花びらのが
蟲の大群のように衣梨奈に襲い掛かった。

衣梨奈が一転、また距離を取る。
それを花びらの大群が追いかける。
迂闊に踏み込むのが危険であることは衣梨奈も感じていたのだろう。

実際のところ、この花びらの陣に攻撃力は殆ど無いけれど
さくらを覆う新たな魔法が衣梨奈にとって不気味であることは間違いなかった。

どこまでも追い縋る。

遠目に、まるで黄緑色の彗星が桜色の尾を引いて夜空を遊んでいるように見えた。
さくらは戦いに集中すればするほど、目に映る世界を何か綺麗なモノのイメージで覆っていた。
我ながら不思議な感性だと思う。


振りきれないと考えた衣梨奈が立ち止まった。
一気に花びらが襲う。
衣梨奈が魔力を纏った拳を振りかぶる。
だけど案の定、花びらは拡散するだけで手応えが無かった。

さくらが動く。
今衣梨奈の視界は花びらに覆いつくされている。
こちらの姿が全く見えていないはずだった。

鞭の魔法を光らせ、さくら自身も距離を詰めると、一気に衣梨奈に襲い掛かった。
目的は拘束。
機動力を奪ってしまえばいい。

花びらの靄の中から突如現れた鞭に、衣梨奈は対応できなかった。
腕を取られ、足を取られ、瞬く間に縄が全身に巻き付く。
鞭は衣梨奈の体に食い込み、締め上げ、花の靄の中から引っ張り出した。

さくらはそのまま衣梨奈の体を持ち上げ、猛然と岩に叩きつけた。

花びらの魔法が消え、元の夜の世界が戻る。

衣梨奈のスケボーだけがさっきまでの場所に浮かび続けていた。


岩に叩きつけられた衣梨奈が、拘束されたまま上体を起こす。
さすがに効いたのだろう。苦痛に眉を歪めている。
だけど許さず、尚も衣梨奈の体を持ち上げ再び、今度は頭から叩きつけようとした。

衣梨奈が身を捩り、肩で受け身を取ると
衝撃に岩が砕け破片がパラパラと海へ落ちる。

また衣梨奈が上体を起こした。
本当にタフだ。

「痛っ…あーびっくりした。なんと思うやん、さっきの魔法」

二度岩に叩きつけられている割には綽綽とした言葉が漏れる。
衣梨奈が負けを認めるまで何度でも叩きつけるつもりでいたさくらはその様子を胡乱がった。
まだ余裕があるというのだろうか。

「目くらましやったっちゃね」

「そうですよ。騙されましたね」

さくらが言うと、衣梨奈がニッと笑った。
ますます訝ってさくらが眉根を寄せる。

「道重さんの魔法みたい」

意外な言葉が聞こえた。


「そうなんですか」

「うん。なんかあんまり意味ない魔法の見た目の綺麗さに拘るとことか」

別に拘っているわけでは無いけれど。
さくらは突然飛び出した名前に、再び叩きつけようとした手を止めた。

まだ見たことの無い三大魔道士。
この状況で、その名前を出した衣梨奈は
まるで名前を口にすることだけでも嬉しいというように笑っていた。

さくらが止まっている間に、衣梨奈は身を捩り岩の上に立ち上がった。
ハッとして再び鞭を引っ張る。だけど動かなかった。

よく見ると衣梨奈が岩に足を食い込ませ、踏ん張っている。
四肢を拘束された状態で普通踏ん張れるものではない。
やはり衣梨奈のパワーは桁違いだ。

衣梨奈の体が眩しく光る。鞭を通して内側からの圧力を感じ取った。
と思う間に、衣梨奈は両の腕を思い切り開き、胸を張って
何重にも拘束していたはずの鞭を引き千切ってしまった。

自由になった手で鞭の端を掴み逆に引っ張る。
さくらは慌てて鞭から手を離し、魔法自体を消した。

「もう同じ手は食わんけんね」

「…そのようですね」

ダメージは蓄積されているはず。
だけどまだ衣梨奈の顔には僅かに余裕が窺えた。
逆にさくらには、小さな焦りが芽生えていた。



自分の攻撃魔法は、どうやら衣梨奈にとって軽すぎる。
その上、こちらは一撃でも食らうわけにはいかない。
長引けば長引くだけ不利なのだ。

本音では、この戦いを終わらせたくは無い。
二人だけの時間が終わってしまう。
だけど勝つ為には、終わらせなければならない。

さくらは鋭い目で衣梨奈を睨みつけた。
衣梨奈に聞えないように口の中で声を出す。

「生田さんなら、死なないよね」

体だけは丈夫、だそうだから。
殺し合いではない勝負だけれど、殺してしまう可能性もある。
そうなっても仕方がないこと。だけど衣梨奈に死んで欲しくは無い。

さくらは衣梨奈を信じていた。
これまでの戦いで、確かな信頼を抱いていた。

再び距離をとって正対する。
さくらはまだ一度も衣梨奈の攻撃を受けていない。
衣梨奈にはダメージが蓄積されている。
なのにまるでさくらの方が追い込まれているようだった。
先に切り札を見せることになる。
だけどそれで勝てばいいのだ。


さくらの周囲の空気が変わった。

一つ咳払いするとさくらが口を開いた。

瞬間、何か恐ろしい直感が衣梨奈を襲ったらしい。
慌てて身をかわす。

美しい歌声が夜空に響いたのはほんの一瞬。
凄まじい轟音が轟き、さっきまで衣梨奈が立っていた岩は
文字通り粉々に砕け散って消えていた。

『歌声の魔法』

さくらの魔法はさながら歌声のミサイル。
ただし目には見えない。音速のミサイルだ。

歌声を聴いてから避けることはほぼ不可能。
衣梨奈は魔道士としての直感で避けた。
だけど、今まで立っていた足場が跡形も無く消し飛んだのを見て、その顔からは余裕が完全に消えた。

もし直撃を受けていたらどうなっていたか、衣梨奈も分かっただろう。
そしてその魔法がいかに避けにくいかも。

とりあえず一撃目は当たらなかった。それはいい。

そもそもさくらは、この魔法を魔道士に当てたことは一度も無い。
これを見て戦意を保てていた相手は一人も居なかったから。


衣梨奈の額に冷や汗が浮かんでいる。
そして直ぐにひきつった顔がさくらに向けられた。

口元に視線が注がれている。
発動を察知する為には、さくらの口を見ているしか無いことに気付いたらしかった。
今までのように突進することはもう出来ないだろう。
口を開くだけで発動できるこの魔法は、近づけば近づくだけ回避が困難になるのだ。


衣梨奈が現時点で負けを認めてくれれば一番いい。
だけど決してそんなことはしないだろう。
だから、勝つ為にはこの魔法を当てなければならない。
当てることもそれほど難しくは無い。一発を避ける為にも衣梨奈に極度の集中力と緊張を必要とさせる。
いつまでも避け続けられるものじゃない。
当たって衣梨奈が死なないでいてくれるかどうかだ。

衣梨奈の目から闘志は消えていなかった。
負けず嫌いは彼女も相当なものらしい。
だけど、打開策があるとも思えない。

その時また衣梨奈がふっと笑った。
引きつりながら、冷や汗を浮かべながら。

何かあるのだろうか。


「さくらちゃんやったら、大丈夫やんね」

衣梨奈が独り言のように言った。
さくらにはその意味するところが分からなかった。
ニュアンスは、さっき自分が呟いたことと同じようにも感じる。

衣梨奈はさくらの口元を注視したままポケットに手を入れ何かを取り出した。
パッと手を広げると、小さな丸い球が数十個、夜空に広がる。
それらは衣梨奈の周りを取り囲むように距離を取って浮かんでいた。

何か新たな魔法を使おうとしている。
それを阻止する為にも、今この時間に『歌声の魔法』で追撃するのが正解だとは分かっていた。
だけどさくらは、シンプルな体術と飛行以外で初めて見せる衣梨奈の魔法を見たいと思った。

衣梨奈は続けてもう一度ポケットに手を入れと
何か長いものをにゅっと取り出した。

細長い柄の先に、膨らみがある。その棒の形状に見覚えがあった。
ゴルフのクラブだ。

さくらはそれで漸く、先ほどばら撒かれた球の意味に思い至った。
勿論そのものでは無い魔力の塊なのだろうけれど、球の大きさもちょうどゴルフボールくらいに相当する。
つまりあれは、遠隔攻撃魔法。

近付くのが難しいと悟った衣梨奈が、彼女もまた間合いの外から攻撃を行おうとしているのだ。
今までそれをしなかった理由が何かあるのだろうか。

衣梨奈が手ごたえを確かめるように棒を振り回す。
さくらはその様子をじっと見ていた。
衣梨奈が視線を切った瞬間を狙おうと考えていたが、目だけは注意深くさくらの口元に注がれていた。


衣梨奈が近くの球の前で棒を振りかぶる。
その瞬間、視線はさくらから切れた。
今『歌声の魔法』を。しかし咄嗟にその考えを上回る危機感がさくらを襲った。

衣梨奈が球を打つ。
さくらが慌てて飛び退く。
高い打音が響いたのは一瞬、さくらが今まで立っていた岩は見る影もなく砕かれ崩れ落ちた。
岩を貫いた小さな球は、その進路にあった岩を恐ろしい速度で砕きながら遥かかなたに消えた。
さくらは球の消えた彼方を呆然と見送り、慌てて衣梨奈に視線を戻した。

こちらの魔法と同様当たればひとたまりもない。

衣梨奈は既に二つ目の球の前で振りかぶっていた。
慌てて岩から離れる。不安定な体勢のまま、『歌声の魔法』を放つ。

次の瞬間、二つの爆発と轟音が起こった。
さくらの側と衣梨奈の側で、岩が消し飛び辺りに粉塵が立ち込めた。

お互い第二撃も躱していた。
土煙を挟んでにらみ合う。
互いに額に汗を浮かべている。
だけど衣梨奈はまた薄く笑っていた。
さくらも笑った。

撃ち合いになるとは思わなかった。
しかもお互い当たれば負け。それほどの威力。

タイプも魔力の質も全く違う二人の勝負が
こんな形にもつれ込むとも想像していなかった。
だけどそれがさくらには何故だか嬉しい。
命がけの勝負になった。
それだけの戦いが出来る相手が衣梨奈であることがたまらなく嬉しかった。


互いに一撃必殺。
だけど何発も撃ち合いが続いた。
全てギリギリの所で躱し、辺りはどんどんと土煙に覆われていく。

さくらの方が発動のモーションは速い。だけど衣梨奈のスイングも恐ろしく速い。
しかも衣梨奈は複数の球を同時に打ったり、軌道をしなやかに曲げることが出来た。

緊張感が飽和する。
文字通り当たれば終わり。
だけどここまで来たら、どちらが当たってしまっても仕方ないと思えた。
二人の力はそれだけ拮抗している。
勝っても負けても、納得できる戦いだ。


と、何度目かの撃ち合いの後、さくらは状況の変化に気付いた。

二人の周囲に、足場となる岩の数が減っている。
互いに撃ち合って砕いてしまった。

さくらはハッとして次弾を振りかぶる衣梨奈の方を見た。
ニヤリと笑った衣梨奈の顔が見えた次の瞬間
球はさくらの居る場所では無く、近くにあった岩を軌道を曲げながら破壊していった。

やられた。

衣梨奈と違ってさくらは飛べない。
遠方の岩へ移動するには鞭を掛けて伝うしかない。
そうすると空中での姿勢は保てない。移動の軌道も読まれて的になってしまう。

撃ち合いながら、衣梨奈はこの状況を目指していたのだ。


さくらは逃げ場を失っていた。
状況に気付き頭が混乱する。

だけどお構いなく
衣梨奈は続けざまにクラブを振りかぶっていた。
ヘッドは真っ直ぐにさくらの方へと向いている。

どうする。
鞭を渡すか。だけどその状態では次の弾は確実に躱せない。
『歌声の魔法』で相殺できるか。
確証は無い。
威力は同等かもしれないけれど、衣梨奈の球には貫通力がある。
殺し切れずさくらの体に当たれば、その部分は確実に消し飛ぶ。
頭や胸が消し飛べば、当然だけれども死ぬ。

一瞬でいくつもの考えが過った。
既に弾がこちらに向かっている。もう他の方法を試す余裕は無かった。
『歌声の魔法』を発動する。
さくらの目の前で大爆発が起こった。

衝撃波で後ろに飛ばされ、慌てて遠くの岩に鞭を渡して掴まる。
なんとか相殺出来た。

そこではたと、衣梨奈の姿を見失ったことに気付いた。
先程までの撃ち合いで辺りに充満していた粉塵が今の爆発で巻き上げられ
さくらの周囲を覆っていた。
これでは互いに狙えない。


その時魔力の接近に気付いた。
衣梨奈の魔力がすぐそこまで来ている。
歌声の魔法を放つ。手応えは無い。
目視出来ないから正確に狙うことが出来ない。

最初の戦法を思い出した。
撃ち合っている間に忘れていたけれど、衣梨奈を近づけてはならない。
だけどもう衣梨奈の魔力はさくらの懐に入っていた。

負ける。

さくらの脳裏にその言葉が過った瞬間、背後から力強い手に抱きすくめられた。

咄嗟にさくらは最後のカウンターに打って出た。
右手が蛇になって背後にいる衣梨奈に襲い掛かる。
噛んでしまえば逆転、だがそれも叶わなかった。

抱きすくめられるとほぼ同時に、強い冷気がさくらを襲った。
衣梨奈の氷の魔法。
全身が凍り付くほどでは無かったけれど、さくらの蛇は動けなくなった。
蛇の性質上、寒い所で動けない。
完全に、読まれていたのだ。

さくらは身体の力を抜き衣梨奈の手に身を委ねた。
純粋な衣梨奈の力の前に、何をしようとしても腕や胸を締め潰されるのが先。
もう、打つ手は無い。

靄が晴れ、再び月光が差した。


「うわっ、蛇や!」

衣梨奈が今にも噛みつこうとしたまま止まっている蛇に気付き驚きの声を上げた。

読んでいたんじゃなくて、たまたまか。
さくらは小さく苦笑して蛇を腕に戻し身体を覆っていた魔力を解除した。

もう抵抗の意思は無くなっている。

悔しい。

だけど、言わなければいけない。
これは勝負だから。

「私の負けです」

さくらが小さく呟くと
衣梨奈が耳元で嬉しそうに「うん」と一言。
さくらを締め上げていた手が優しい抱擁に変わった。

暫く衣梨奈はそうしていた。
なんだかふわふわとした気分。
さくらは衣梨奈にもたれかかり、その温もりを全身で感じていた。

負けてしまった。

終わってしまった。


少し離れた大き目の足場に、衣梨奈に抱かれたまま降りた。
手を離される。
改めて見る衣梨奈の顔は、満面の笑みだった。
勝てた歓びを爆発させている。
本当に素直な人だなと思う。
そういうところが、本当に好き。

だけど勝負はまだ終わっているわけではない。
さくらが負けを認めたから、最後の仕上げをしなければならない。

「さあ、どうぞ」

さくらが言うと、衣梨奈は困惑した表情になった。
魔道士の勝負。その最後は必ず、奪わなければならない。

「私初めてなんです。奪われるの。優しくしてくださいね」

安心させるようにさくらが少しおどけた口調で言うと
衣梨奈は頭を描きながら苦笑いした。

「えりも初めてやけんね」

「そうなんですか?意外です。あんなに強いのに」

「その、勝負自体初めてやけん」

奪ったことが無いというなら、そういうことなのだろう。
だけどやっぱり意外だった。
今まで誰からも奪わず、なのに強いなんて、何だかズルい。

さくらは、そんな衣梨奈が初めて奪う相手が自分であることに
小さな嬉しさを感じていた。


「えっと、どの魔法…」

戸惑いながら衣梨奈が言う。

「もしよろしければ『歌声の魔法』を」

「え、でも…さくらちゃん歌が好きやろ?」

「はい。歌が好きで歌うことが好きで、何となくこんな魔法が出来たんですが…
よく考えたら人を傷つける歌って何だか嫌だなって。
だから生田さんが嫌じゃなければ、貰って下さい」

「そか」

衣梨奈が笑う。
それから、さくらに手を翳した。

淡い光がさくらを包む。
身体から魔力が消えていく。
無くなっていく。

これが奪われる感覚なんだ――

さくらは不思議な冷静さで、その感覚を受け入れていた。
『歌声の魔法』はもう使えない。
そして暫くの間魔法も使えなくなる。

それは自分にとって、どんな意味があるのだろうか。

光が消える。
さくらの中に、もう魔力は無くなっていた。
これで完全に勝負が終わってしまった。


「大丈夫?」

衣梨奈が気遣うように言った。
さくらが笑う。

「はい、大丈夫です」

本当に、ただ魔力を失ったというだけで身体にはなんら変調は無いように思えた。
寧ろ、何度もさくらの攻撃を受けた衣梨奈の体のほうがよほど心配。

「じゃ、さ。約束通りお話しよ?」

そんな約束をした覚えはないけれど、嬉しかった。
勝負が終わってしまって、何をすればいいのかも、何を考えればいいかも分からない。
衣梨奈が話してくれるならば、その中で見つけたい。
穏やかな衣梨奈の声を聞いていれば、見つけられる気がした。

「場所、移動しませんか?」

「そうやね。
里保たちも心配やし、島の方に行ってみたいけんね」

さくらの提案を衣梨奈が受ける。
さくらは移動する為に、岩の淵に足をかけ一歩を踏み出した。

「危ない!」

咄嗟に衣梨奈に抱きすくめられる。


さくらは最初その意味が分からなかったけれど、不意に思い出した。
今自分は魔法が使えない。
魔力が無い。

もし岩を蹴って飛び出していたら
どこに足がかかることも無く、真っ逆さまに海に落ちていたのだ――

遅れて、さくらの顔から血の気が引いていった。

今何気なく踏み出した一歩で、死ぬところだった。
10数年過ごしてきた人生の全てが、こんなただの一歩で。

魔法が使えない。

魔法が使えない自分を、知らない。

さくらの体は恐怖の為に小刻みに震えていた。
足から力が抜け、腰を抜かしへたり込んでしまう。
衣梨奈が心配そうにさくらの顔を覗きこんだ。

さくらの中に、じわじわと恐怖が湧き上がっていた。


魔法が使えない自分は、岩の上から動くことさえ出来ない。
何をすることも出来ない。
何が出来て、何が出来ないのか分からない。

これが、魔力を失うということ。
全てが変わってしまう。
何も分からなくなる。

怖い。

今、死ぬところだった。

衣梨奈の魔法を見て、当たったら死ぬと分かっていても、ちっとも怖くなんてなかったのに。


さくらは泣いた。
恐怖の為に、子供のように声を上げて泣いた。
衣梨奈の胸に縋って泣いた。

今まで積み上げてきた、自分が生きてきた世界の全てが
たかが勝負で、魔力を失っただけれ激変してしまった。
魔法を使わない自分に意味なんて見つからない。

負ければ何が起こるかなんて分かっていたことなのに
今、心のバランスは完全に失われた。

さくらは涙に暮れながら、聖と香音の顔を思い出していた。
自分は無責任に彼女達にも『変化』を齎そうとしていたのだ。

さくらは泣き続け、衣梨奈はただ優しくさくらを抱きしめ、髪を撫で続けた。

泣いても泣いても、涙を止める方法は分からなかった。
小さな子供の頃のように。

 

 

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最終更新:2016年07月21日 23:26