愛の種


私に身体を預けて寄りかかり、澄んだ瞳で上弦の月を眺めていた彼女は、
一つ大きく伸びをするとため息交じりで独りごちた。

「うーん、ホントこの場所は気持ちがいいなぁ。ついつい時が経つのを忘れちゃうの」

私にとってはこれ以上ないほどの嬉しい褒め言葉だが、
以前からずっとここがそんな落ち着いた環境だったわけではない。

山あいの雑木林に囲まれた小さな広場にただ一本、綺麗に咲き誇っている桜がある。
一時期そんな噂が広がると知る人ぞ知る花見スポットとして大きな反響を呼び、
開花の頃には昼夜問わず桜の木の下に多くの人々が集って大宴会が続くようになった。

おかげでこっちはゆっくり眠る余裕も奪われていい迷惑だったのだが、
その環境を改善してくれたのが彼女だった。

春の陽気も深まりすっかり葉桜となって花見客も寄り付かなくなった頃、
彼女は一人フラリとこの場所を訪れた。
そして特に何をするでもなく木陰でボンヤリと時を過ごし、
帰り際になって満足そうに呟いた。

「うん、気に入ったの。これからはここをさゆみの休憩所にさせてもらうから、よろしくね」

彼女がこの小さな広場にかけてくれた魔法のおかげで、
それからは大騒ぎが目的の花見客は寄り付かなくなり、
たまにあっても静かに花を愛でに来る人がいる程度で、
私は平穏な暮らしを取り戻すことができたのだった。


普通の花見客がここに足を運ぶのは当然開花の季節のみで、
他の時期には見向きもされないことがほとんどだが、彼女だけはそうではなかった。
木枯らしが舞う秋の朝も、小雪のちらつく冬の午後も、緑葉がしっとり濡れる梅雨の夜も、
そう頻繁にというわけではないが、それこそ季節も昼夜も問わず彼女は現れた。

彼女にとってここは、いい気分転換の場なのだろう。
普段より彼女が胸の内にどのような深い想いを抱えているのか、私には想像のしようもないが、
ここでは何を話すでもなくただゆったりとした時の流れに身を任せて、
最後は吹っ切れたような笑みとともに帰途に就く、そんなことが多いように感じる。
まあこれは、私の考えすぎかもしれないが。


そよ風に舞い散る花びらが彼女の周囲を薄紅に彩り、その美しさを一層際立たせる。
いつ会っても彼女の美貌は変わらないが、この時期の幻想的な輝きは別格だと、
私も思わず見惚れてしまう。

「それじゃあそろそろ行くから。ゆっくり眠りたい時間をお邪魔しちゃってごめんね」

彼女はそんな殊勝なことを言ってくれるのだが、他の相手ならともかく、
騒がしい酔客を遠ざけ穏やかな生活を取り戻してくれた彼女のためなら、
睡眠時間くらいどれだけ削っても惜しくなどない。

いや、私の正直な気持ちを嘘偽りなく吐き出してしまうと、
今では彼女との逢瀬をすっかり心待ちにするようになっていた。

次に彼女が来てくれるのはいつの頃か。
いつまでこのような逢瀬を続けていけるのか。
できることなら、いつまでも変わらず今のままで彼女との時間が続いてほしい。

もちろんそれは、決して叶うことのない夢物語だとわかってはいるのだが。



終わりの時は予想していたよりも早く、そして突然訪れた。

それは満開の花が咲き誇り、後は散りゆくのを待つのみとなった春の盛りの、
妙に生暖かい満月の夜のことだった。

遠くから聞こえてくる、真夜中の静寂を破る荒い息遣い。
見ると、広場まで続く小径をよろけながら必死の形相で走る女性の姿があった。
腕の中に抱えているのは、どうやら小さな赤ん坊のようだ。

一体何事があったのかと戸惑う間もなく、更なる衝撃的な光景が飛び込んでくる。

「キャアッ!!!!!」

あと少しで広場にたどり着こうという時。
後方から飛んできた大きな火球が女性の背中を直撃し、全身が瞬く間に炎に包まれる。

衝撃で手を放したのが幸いしたか、それとも女性が最後の力を振り絞ったか。
赤ん坊は炎に巻き込まれることなく前方に吹っ飛び、小径の脇の草むらに投げ出された。

赤ん坊の泣き声が響く中、女性が灰となって崩れ落ちる。
そして小径の奥から、チンピラ風の男が姿を現した。

「ケッ、てこずらせやがって。後はそのガキを始末すればようやく一段落だな」

風貌はいかにも小物だが、先ほどの火球の威力を見る限り魔法の腕は確かなようだ。
残る標的が幼気な赤ん坊では、魔法どうこう以前の話ではあるが。


すでにほとんど役目は終えたとばかり、男が余裕の表情で赤ん坊に近づいていく。
このままでは、赤ん坊は男にあっさりと殺されてしまうだろう。
そして私は、それを為す術もなくただ眺めていることしかできない。

それでいいのか。
私は……この赤ん坊を助けたい。
いや、助けなければならない!!

突如自分の中から湧き出した、これまでにない不思議な感情。
だが、この無力な私に、一体何ができるというのだろう。

その時だった。

それは、ただの偶然か。
それともたとえこの命に代えてもあの子を助けたいという
この強い想いが生み出した奇跡だったのか。

やおら広場に吹き荒れる激しい突風。
それは私にとって思いがけない僥倖だった。

偶然でも奇跡でもどちらでも構わない。
私のこの想いを乗せて、あの子を守ってくれ!

満開の花が突風に煽られ一気に散り落ちて吹雪となり、小径へと殺到する。
薄紅の霧と化した桜吹雪は、あっという間に男の視界を覆い尽し、
赤ん坊もまたその中に隠れて姿が見えなくなった。


この目眩ましで、せめても時間稼ぎにはなるだろう。
そしてもう一つ、私が密かに期待を寄せる効果があった。

桜吹雪に包まれた赤ん坊の泣き声が、ピタリと収まっていた。

彼女がかけた魔法により、この広場にいると自然と気持ちが落ち着き、
攻撃的な感情を維持することができない。
その効果が、おそらくこの花びらには多少なりとも付与されているはず。
赤ん坊が泣き止んだのは、きっと魔法の残滓によるもの。
赤ん坊に明確な殺意を持っている男に対してもその効力が発揮されれば、
事態の好転があってもおかしくはない。

だが、その期待はあっさりと裏切られた。

「しゃらくせえ!!」

男が大きく叫ぶと、状況は一変した。
ところかまわず飛び交う幾多の火球。
自棄になった男が闇雲に火球をぶっ放したのだ。

まき散らされた火球は周囲に被害を及ぼし、雑木林のあちこちで炎が上がる。
そしてその中の一つが、まるで意思を持っているかのように一直線に襲い掛かり……。

私の身体を直撃したのだった。


我が身が炎上するという初めての感覚。
このままでは長く保たないことがはっきりとわかる。

しかし、今の私にはそれ以上に重要なことがある。
あの赤ん坊は無事なのか!?

幸いにも、赤ん坊は火球の直撃を受けることなく花びらに守られ続けていた。
最悪の状況だけは避けられたと知り、内心で安堵のため息をつく。
ただ、男の周囲を覆っていた桜吹雪は火球によって焼き尽くされてしまったため、
このままでは程なくして赤ん坊は男に発見されてしまうだろう。

とはいえ、男の仕出かした暴挙は決して許されるものではない。
何より彼女がそれを見過ごすはずもない。

そんな私の想像は間違っていなかった。

闇夜を照らす満月の光が一瞬遮られる。
そして、男の前に舞い降りる麗しき天使。

「さゆみの憩いの場を荒らすだなんて、随分といい度胸してるじゃないの」

それは今まで私が聞いたことのない、凍り付くような彼女の声音だった。

あからさまにたじろぐ男の前で、静かに怒気を滲ませる彼女の横顔は、
満月に照らされこの世のものならぬ美しさを放っており、
私は我が身の置かれた状況すらも忘れ、ただただその神秘的な光景に酔いしれた。



「ごめんね、さゆみがもう少し早く着いてたらこんなことにはならなかったのに」

たとえどんな状況であろうと、彼女のこんな悲しげな顔は見たくない。
ましてや、私は彼女に謝罪される立場にはなく、彼女にはむしろ感謝しているのだから。

無法を働いた男は、彼女によって魔力を「奪われ」て、あっという間に吹き飛ばされた。
今頃はきっと、北の海の真ん中にでも漂流してることだろう。

炎上していた雑木林の木々も彼女の手によって消火され、
私の身体に燃え広がっていた炎も消し止められた。

だが、私の受けたダメージは深刻で、残念ながらすでに手の施しようもなく、
もうすぐこの命は尽きようとしている。
でもそれは彼女の責任ではないし、それに私は自分のしたことに何の後悔もない。
なぜならば、最後にとても意義深いことを成し遂げることができたのだから。

彼女の腕に抱かれ、気持ちよさそうに眠りについている赤ん坊。
このかけがえのない命を守ることができた。それだけで十分だ。

「この子のことなら心配しないで。
さすがにさゆみが育てるってわけにはいかないけど、きっと悪いようにはしないから」

彼女の保証付きなら、もうこれ以上何の憂いもない。
全てを彼女に任せておけば安心だろう。


そろそろ……意識が薄らいできた。

しばらく眠りが必要なようだ。
彼女のこと、そしてこの子の将来のことを思いながら、
今なら気持ちよく眠りにつけそうな気がする。

そしていつか目覚めた時には、また彼女と再会し、
私の手で彼女の周囲を薄紅色に染めてその美しさを際立たせる。

……そんな未来が、何の違和感もなく思い浮かんでいた。

「そうだね。また会える日を、楽しみにしてるから」

寂しさを押し隠した彼女の笑顔と、安らかな赤ん坊の寝顔に見送られて、
私の身体はゆっくりと灰となり、そよ風に溶けていった。



久しぶり。すっかりご無沙汰しちゃったね。
本当はもっと早く会いに来たかったんだけど、遅くなってごめんね。

あなたには報告しておきたいことが沢山あるの。
何かって?
それはもちろん、あの赤ん坊の話。

あの子がなんで命を狙われていたのか詳しいことはよくわからないままだけど、
かなり優秀な魔法の素養を持ち合わせていることがわかったの。
だから、知り合いに頼んで魔道士協会の孤児院で預かってもらうことにしたんだけど。
……なんてところまでは、確か前に会いに来た時に伝えてたはずだよね。

気づけばあれからもう十数年だからね。

あの子も健やかに、そしてとっても可愛らしく成長しているそうよ。
いつもふんわりと柔らかい笑みを浮かべていて、
周りのみんなはその笑顔に癒されて、ほんわか暖かい気持ちになるんだって。

そこにいるだけで周りを幸せにする。そんなところはあなたそっくりだよね。

名前も知れないみなし児を、あなたに助けられた子だからって「桜子」と名付けた、
なんて最初に聞いた時は、あまりの安直さに本当にあの子のことを生田に託して大丈夫なのか
ちょっと不安にもなったものだけど、結果的にはその名前で大正解だったみたい。


それでね、あの子にどういう思いがあったのかは知らないけど、
いきなり執行魔道士になりたいと言い出したんだって。
それで先日、晴れて入局試験に合格して、新人小隊への配属が決定したそうよ。

そんな危険なことをあの子にさせないでくれって、あなたは怒るでしょうね。
その気持ちもよくわかるけど、あくまで彼女が自分で決断したことだから
周りが口出ししてどうこうできることじゃないしね。
それにあの子にはあなたの灰を一握り、お守りの中に入れて渡してるから、
いざという時はあなたがちゃんと助けてくれるでしょう?

子供の成長なんてのは、想像してるよりずっとあっという間なんだからさ。
心配するなと言っても無理でしょうけど、彼女のことを信じて見守っておけば大丈夫だよ。


それにしても、植物の生命力って凄いよね。
あの子を助けた翌年のことだったっけ。
焼け残った根っこから小さな新芽が顔を出したのは。

それがどんどん成長していって、今ではさゆみの身長をあっさり追い抜くくらいだもんね。
さすがに幹の太さとかあの頃に比べると全然細くて育成途上という感じだけど、
これなら以前のように満開の花を咲かせる日もそう遠くないかもね。

別に焦らなくてもいいよ。
さゆみはずっとこの街であなたのことを見守ってるし、
その日が来るのを楽しみに待ち続けてるから。

その時はあの子も一緒に、みんなでお花見をするのもいいかな。

「桜もこぶしも咲き誇れ!」

か……。フフフ、実現が待ち遠しいね。


(おしまい)


※参考
こぶしファクトリー『桜ナイトフィーバー(Promotion Edit)

https://www.youtube.com/watch?v=s2XR65k3ptc

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最終更新:2016年03月08日 23:26