スプ水先生の奇跡【最終章】 ~最後の魔法~(前)


今日もまた一日が始まる。

打ちひしがれた心をどうにか奮い立たせて、
みんなの前ではせめて動揺を表に出すことのないようにと腹を括って、
本当は合わせる顔もない野中氏とも表面上は何もなかったように振舞って、
自分自身を偽り続けながら、それでも時は流れていく。

いつまでこんな寒々とした想いを抱え続けていくんやろうか。
もしかしたら永遠に消えることがないかもしれない、この胸の痛み。

でも、それも仕方のないことなんや。

胸の奥から湧き起こり止むことのない恐怖に打ち震えて、
足がすくんで身動きも取れない今のはるなにできることは、ただ一つだけ。

何もかも、全てから目を逸らして生きていく。

たとえはるなの胸の内がどんなに激しく暴れていても、
野中氏の悲しげな顔が脳裏に焼き付いて離れなくても、
全部なかったことにして、心の中を無にして耐え忍んで、
荒れ狂う嵐がいつか収まってくれることを密かに願いながら、
他人と隔てる壁を周囲に張り巡らせて、一日一日をやり過ごしていく。


そんなはるなの凍り付くような生活が、その日を境に一変する。

そして最初のきっかけを作ってくれたのが……。
あのメンバーやった。



「おはようございま~す!」

鬱屈した気分を振り払うようなカラ元気で挨拶をして、朝一の楽屋に入る。
とはいってもどうせ自分が一番乗りで誰もいないやろと思っていたのに、
先に来ていたメンバーが一人、はるなの声に反応して立ち上がった。

「あ、はーちんおはよう」

その姿を認めたはるなは、手にしていた荷物を机の上に放り投げると、
駆け寄って勢いよく抱きつく。

「あかねちんおはよう!!」

今のはるなにとって、あかねちんの存在がせめてもの
重苦しい気持ちを紛らわす癒しになってるんや。

「ああ、やっぱりあかねちんに抱きつくと癒されるなぁ」

これまで何度も繰り返し口にしてきたお約束の一言。
いつもやったら、「ホントしょうがないなぁはーちんは」と苦笑しながらも
はるなのことを受け入れてくれるあかねちんなんやけど、何故だか今日だけは違った。


はるなの言葉に反応して、身体を固くするあかねちん。

あれっ!? なんか様子が変やな??

なんて不審に思う間もなく、
やけに冷静な、重たさを感じるほどの声がはるなの耳元で囁かれた。

「ねぇはーちん。
それって……本気で言ってるの?」

「もちろん本気に決まっとるやん」

問いかけの意味を図りかねながらも即答するはるなに、
あかねちんから更に冷たい一言が。

「嘘つき」

……えっ!?

まさかの断定に思わず固まるはるなに、
あかねちんが容赦なく畳みかけてくる。

「はーちんがホントに朱音で癒されてるんなら、
じゃあなんで朱音と一緒にいるのに辛そうな顔をすることがあるの?
こっそり重いため息をついたりしてんの?」

どうにか平静を装おうとしても、時に抑えきれず突然暴れ出す胸の奥の重苦しい感情。
あかねちんには気づかれてないと思ってたのに、しっかりと見られてたんか……。

「そりゃあ少しは朱音もはーちんのことを癒せてるかもしれない。
でも、前までのように96%なんて全然癒せてはいないし、
朱音には、はーちんの苦しみを取り除くことなんてできやしない。そうだよね?」

「それは……」

確かに、あかねちんの言うとおりや。
いくらあかねちんの存在がはるなに癒しを与えてくれても、
はるなの荒れ果てた心を潤すには遠く及ばないのが悲しい現実。

でも、それを素直に頷くこともできず、言葉を濁すしかないはるな。

「たとえあんまり癒せなくっても、それでも朱音にすがりつきたくなる
そんなはーちんの気持ちも、朱音はちゃんとわかってるよ。
でも、このままじゃダメだと、はーちんも自分で理解してるんでしょ」

このままじゃダメだなんて、そんなことはるなもとっくにわかってる。
これまで何度も何度も繰り返しどうにかせんとあかんと思い続けてきて、
それでもはるなは……結局何もできんかったんや。

今のはるなにとってはあまりに厳しすぎるあかねちんからの指摘に、
自分に対する不甲斐なさが激しくはるなの全身を襲う。

息が詰まるほどの悔恨の念に抗しきれず思わず俯いて、
はるなはあかねちんに抱きついたまま、肩を震わせるしかできひんかった。

あかねちんの前で、メンバーの前でこんな姿を見せたらあかん。
あかんのに……。

「もう、ホントしょうがないなぁはーちんは」

雰囲気を一変させたあかねちんの声音は、苦笑いを含みながら暖かさを帯びていた。
震えるはるなの両肩に、あかねちんの手がそっと添えられる。
手のひらから伝わる温もりが、ジンワリとはるなの心に染み渡っていく。

「はーちんがこれからどうすればいいか、朱音が特別に教えてあげる」

そしてあかねちんは、母親のような優しい表情ではるなの目を覗き込んだ。

「いつまでも一人でウジウジしてないで、ちゃんと直接会って話し合えばいい。
目と目を合わせて自分の気持ちを全部吐き出せば、それはきっと伝わるから。
これまでずっと一緒に苦楽を共にしてきた同期でしょ。
同期の絆の強さを、もっと信じてみなよ」

明るさすら感じさせるその声とは裏腹に、あかねちんの瞳は真っ赤に潤んでいた。
視線を合わせたあかねちんから伝わる、痛いほどの想い。

「ここまで言ってもまだためらってるヘタレのはーちんに、
あかねが飛び切りの気合を注入してあげるから」

はるなの手を引き寄せたあかねちんが、いきなり手首に噛みつく。
ほんのり痛みを感じる程度の甘噛みは、あかねちんの言葉以上に、
熱い視線以上に、ダイレクトに強い想いをはるなに注ぎ込む。

そうやったんや……。
あかねちんは、そこまではるなのことを…………。

「これでOK!
さあ、はーちんのことをホントに100%癒してくれる相手のところへ、
グズグズしてないで早く行ってきなさい!」

「ありがとう。
あかねちんの想いに応えるために……。
はるな、ちゃんと決着をつけてくるわ」

大きな想いをあかねちんから受け取ってゆっくりと頷いたはるなは、
あかねちんに見守られながら、決意に満ちた足取りで楽屋を後にする。

「いいんだもんこれで。
はーちんじゃなくっても、あかねにはまるねぇがいるんだからさ……」

最後まで気丈に振舞いながら、堪えきれずついに溢れ出る涙。それを拭おうともせず、
零れたあかねちんの小さな呟きは、はるなの耳に届くことはなかった。



あかねちんの後押しを受けたはるなは、楽屋を出てそのまま廊下をさ迷い歩く。

頭の中ではさっきまでのあかねちんとのやり取りとこれまでの自分の後悔が、
浮かんでは消えて浮かんでは消えて、それを延々と繰り返していた。

あかねちんの前ではあんな勇ましいこと言ってもうたけど、
はるなは本当に宣言通りのことができるんやろか。

ここしばらく、自分で自分がまったく信用できない状況に追い込まれているはるなは、
またどんどんネガティブな感情に押しつぶされそうになっていく。


そんな胸の想いとは関係なく、まるで何かに導かれるように
はるなの足はどこかへと向かって一歩一歩踏み出している。
頭だけを残して自分の身体が自分のものじゃなくなってるような、
今までに経験したことのない不思議な感覚。

そんな異様な体験にすらまったく気持ちを向ける余裕もなかったはるなは、
ただただ身を任せて自分の思念に没入していたのやけど……。

そして、ある部屋の前ではるなの足が止まる。

ここは……ミーティングルームや。
何故だかよくわからへんけど、はるなはこの部屋に入らなあかん。

操られるがままに、ゆっくりとドアを開けるはるな。
すると。


はるなの視界に映ったのは、一人の少女の姿やった。
一体何があったのか、テーブルに突っ伏して小さく嗚咽を漏らしている。

もちろんそれが誰なのか、はるなにはひと目で認識できた。

「はーちん……?」

「まりあ…………」

入室の物音に反応して泣きはらした顔を上げたまりあが、ゆっくりと立ち上がる。

「どうして……。
どうしてまりあのところに来ちゃったの?
今はーちんの顔を見たら、まりあ、もう…………」

はるなはどうして、ここにいるんやろ?
何かに導かれたかのように、いつの間にやらこの部屋に来てもうたけど、
これはただの偶然ってだけなんやろか?
それとも、もしかしてこれは必然で、
はるなは実はまりあに会うため今ここにいるなんてことが、
あったりするんやろか……。

まりあの潤んだ大きな瞳に見据えられて混乱したはるなが、
どうにか返せたのはこんな一言だけやった。

「……わからへん。
はるなには、ようわからへん……」

「はーちんって、いつもそうだよね」

呆れたような、そして諦めも含んだようなまりあの苦笑に、
まるで全てを見透かされているような気持ちになって冷汗が滲んでくる。

「ねぇはーちん。まりあはさ…………」

あまりに真剣すぎる表情。真剣すぎる声音。

「はーちんのこと、ホントに本気で、大好きなんだよ」

まりあから突然の告白。
いきなり胸の奥底まで踏み込まれて、はるなの心臓が大きく跳ね上がった。


まりあがはるなに好意を持ってくれていることは、実際のところ前からわかってた。
でもここまではっきり面と向かって、冗談めかしてではなく真剣に伝えられたのは、
もしかしたら初めてのことかもしれへん。

はるなへの好意には気づいていても、まりあはいつも誰彼構わず好き好き言ってるし
きっと一種の社交辞令みたいなもんでそれ以上の他意はないんやろと思ってた。

……いや、違う。

ホントはそれ以上の熱量が、はるなに向けられてることもわかってたんや。
それなのに、はるなは頑なにその事実から目を逸らし続けていただけ。

そう、野中氏の時と同じように……。


ここまではっきりと直接的に告白をされたにもかかわらず、
胸の疼きに襲われてまともな返答の一つも口にすることができないはるな。

そんなはるなを、まりあは真っすぐな瞳でさらに追い詰めていく。

「ねえ教えてはーちん。
はーちんの心の中を占めている大きな存在って……。
はーちんがホントに本気で、大好きな相手って……。
誰なの?」

はるなが大好きな相手!?
それは……。

はるなの脳裏に反射的に浮かんだのは……野中氏の姿。

でもそれは、いつものにこやかな笑顔の野中氏やあらへん。
何かに耐えるような辛そうな表情の、はるながカフェで一緒になりながら見て見ぬ振りした、
あの時の野中氏の姿やった。

「はるなが好きな相手なんて……そんなのおらへん」

相手のことを傷つけて、苦しめて、そんな姿を見ても手を差し伸べることもできひん。
そんなはるななんかに、誰かを好きになる資格なんてないんや。

耐えがたい心の傷の痛みに悶えながら、
血を吐くような思いでどうにか返した一言が、まりあの感情に火を付ける。

「はーちんってさ、ズルいよね」

ズルい……?

「今のはーちんに気持ちを伝えても、まりあのこと受け入れてくれないのはわかってたよ。
でも、はーちんはまりあのことをちゃんと切り捨ててもくれない。
受け入れられないなら受け入れられないで、もっと上手にフルのも礼儀だよ」

気持ちの高ぶりにより瞳だけではなく顔全体まで真っ赤に染めたまりあが、
更にヒートアップしていく。

「そうやって目を逸らして自分の殻に閉じこもり続けて。
いつまでそうしてるつもりなの?
はーちんの…………弱虫!!」

悲痛なまでのまりあの一撃が、はるなの心を大きく引き裂く。
その傷口から溢れ出してきたのは、自分の中でずっと隠し続けてきたドス黒い感情。

頭のテッペンまで急激に血が上る感覚と、襲い来る強烈な眩暈。
溢れ出す感情のままに、怒鳴りつけるように強く声を荒げて、
はるなは自分の胸の内をまりあにさらけ出していた。

「まりあの言う通り、はるなはただの弱虫や! でもそれの何が悪い!
自分の殻に閉じこもって感情を抑え続けて、他人と一定の距離を保って……。
そうすれば自分も傷つかないし、周りも傷つけることはない。
誰も傷つかずにいれるなら、何の問題もないしそれに越したことはないやろ!!」

こんなにも強い感情を誰かにぶつけるなんてことは、
これまでのはるなの人生で初めての経験かもしれへん。

でもこれが、はるなの本音なんや。

他人と深く交われば交わるほど、自分が傷ついたり相手を傷つけたりしてしまう。
そんな傷つけあうことを前提とした関わりなんて、はるなには必要ない。
それなりの距離で、それなりの関係で、それなりにやっていければ、
はるなはそれで十分なんや。

互いの距離を縮めなければ成就しない恋愛も、はるなには縁のないもの。
他人の恋愛を眺めて弄って楽しめれば、はるな自身はそれ以上何も望むことはあらへん。

これが、はるなが生きていく上で身につけた、弱虫なりの精一杯の知恵。


はるなからドス黒い感情をぶつけられても、まりあはまったく動じることがなかった。
それどころか、まりあははるななんかよりよっぽど、はるなのことをよくわかってたんや。

「……自分も傷つかないし、周りも傷つかない?? そんなわけないじゃん。
それは誰も傷つかないんじゃなくて、何もかも全部を見て見ぬ振りしてるだけ。
自分の殻に閉じこもり続けていても、誰かと接していく限り、傷ついてしまう人はいる。
まりあもそうだし、それに……野中ちゃんも。
そういうはーちんだってその殻の内側はもうボロボロの傷だらけなのに、
それでも頑なに見て見ぬ振りをしてるだけなんだよ」

これまではるなはずっと、見えない壁を作って周りと一定の距離を保ち続けることが、
自分にとっても周りにとっても一番のやり方やと思い込んでいた。
まりあはそんなはるなの固執をあっさりと打ち破り、過ちを露わにしていく。

「はーちんもわかってるんだよね、このままじゃいけないってこと。
それなのに、本当に大好きな相手を傷つけ苦しませ続けてまで
いつまでもウジウジと何にもできずに……」

再びまりあの瞳から大粒の涙が流れ落ちる。
そしてまりあの口から放たれる決定的な一言。

「まりあ、はーちんのこと大大大好きだけど……。
そんな情けないはーちんなんて…………大っ嫌い!!!!!!!!」

まりあの悲鳴にも似た「大っ嫌い」という言葉に込められた、真逆の意味。
これまでずっと何もかも見て見ぬ振りを続けてきたはるなも、
その意味合いの重さに目を背けることなどできんかった。

こんな不甲斐ないはるなのためにまりあは……。
はるなのことを想って、はるながずっと籠り続けてきた殻を打ち破るために、
あえてここまでのことを言ってくれたんや。

まりあによってはるなを覆っていた殻が完膚なきまでに粉砕され、
ムキダシになった心に、まりあの想いの深さが染み入ってくる。

それとともに襲ってくる強烈な重圧に、はるなの視線が足元へと落ちる。
はるなは、そこまで言ってくれるまりあの想いに、応えることができるんやろか?

ムキダシになった心の奥底から湧き出してくる感情は……恐怖。
はるながこれまでずっと殻に閉じこもり続けてきた理由は、
この恐怖から逃れたいがため。

弱虫のはるななんかにできることなんて、何もあらへん。
もう何もかも全て投げ出し、逃げ出してしまいたい。

沸き上がる恐怖に支配されそうになるのを、
まりあから受け取った強い想いによってどうにか堪える。


襲い来る恐怖を振り払おうとするのに精一杯となったはるなは、
まりあの想いに応える言葉も返せず、沈黙だけが部屋を支配する。

まりあの小さく鼻をすする音だけが時おり部屋に響く中、
それからどれくらいの時間が経ったんやろか。

「まりあの気持ちはよく分かったけどさ、ちょっと言いすぎでしょ」

「うんそうやね」

まさかこの場で耳にするとは思っていなかった聞き慣れた声に驚いて顔を上げると、
いつの間にそこにいたのか、まりあの両隣にぽんぽんのお2人が、
まりあの肩を抱くようにして立っていた。

「ほら、はーちんにちゃんと謝らなきゃ」

「ひどいことを一杯言っちゃってごめんちゃいまりあ、ぺこりんこ」

譜久村さんに促され、涙声で律儀に頭を下げるまりあ。

「でもまりあにここまでのことを言わせた尾形の方にも問題があるやろ」

「そうだね。でもそれは本人が一番よく実感してるでしょ」

譜久村さんと生田さんの視線がはるなに注がれる。

「まりあのことは聖達に任せてくれればいいから」

「後はもうわかっとるやろ、自分のすべきことが」

「……はい」

どうにか口にできた返事に、ぽんぽんのお2人ははるなのことを安心させるように
笑顔で大きく頷き、泣きぬれたまりあを支えるようにして部屋を出ていった。


一人取り残されたはるなは、これまでのことをもう一度噛みしめてみる。

まりあから、そしてあかねちんから確かに受け取った強い想い。
いくら弱虫のはるなでも、2人の想いを無にするようなことはできひん。
2人の想いに応えるためにはるなは……。

「ここにいたんだ、尾形」

考えに沈んでいたはるなが再び行動を起こそうとする直前、
背中から突然、呼びかける声が響いた。

 

はるなの思考を破ったその声は、毎日のように耳にする馴染み深いものやった。

「石田さん……。どうしたんですかいきなり?」

慌てて振り返ったはるなに、石田さんがやけに硬い声を投げかける。

「悪いんだけどさ。ちょっと用事があるから、一緒に来てくれないかな」

ホンマは一体どんな用事なのか聞きたかったんやけど、
とてもそれを口にできるような雰囲気やなかった。

なぜって、石田さんの声のみならず表情までが、
普段見たことのないまるで強張っているかのように硬いものやったから。

もしかして怒ってはるのかと早合点しそうになったりもしたけど、
どうやらそうではないっぽい。

石田さんがなぜこんなにもピリピリとした緊張感のある雰囲気を纏っているのか、
理由は全くわからぬままに、迫力に押されてはるなはただ頷くことしかできひんかった。

「じゃあ、ついてきて」

石田さんの後をついてミーティングルームを出る。
後ろにいるはるなのことを気にかける様子もなくズンズン進んでいく石田さんに、
小走りでどうにかついていくのが精一杯やったけど、
すぐに目的の部屋へとたどり着いた。


ここは……レッスンルームや。
でもなんでこんなところに??

「多分もうすぐ来ると思うから、しばらく待っててもらえるかな」

来るって一体誰がなのか気にはなったものの、もちろん質問もできずただ従うしかない。

広いレッスンルームに2人きりという居心地の悪さを感じながら、
ふと過去の記憶が蘇る。

あれはいつ頃のことやったっけ。
歌の世界にどっぷり入り込んでしまう「SONGS」の魔法をだーさくさんにかけて、
『インスピレーション!』の歌詞の世界に2人をハマり込ませたのが、
このレッスンルームでの出来事やった。

あの時は2人がええ感じになったのにはるなの凡ミスで台無しにして、
石田さんにこっぴどく叱られたんやったなぁ。

今は石田さんと2人きりやけど、あの時は最初小田さんと2人でいたはずや。
そして石田さんがレッスンルームに入ってきて……。

記憶をたどりながらそれとなく視線を入口へと向けると、
まるで図ったようなタイミングでレッスンルームの重い防音扉がゆっくりと押し開けられ、
小田さんがひょっこりと顔を出した。

もうすぐ来るというのは小田さんのことやったんか。
でもなんか、石田さんと小田さんの役割を入れ替えてあの時と同じような流れやなぁ。

浸りきった記憶の海から戻りきらぬまま、ぼんやりとノンキなことを考えていたはるなは、
次の瞬間、一気に現実へと引き戻されることになった。


レッスンルームに入ってきたのは、1人だけやなかったんや。
小田さんに手を引かれて入室してきたのは……野中氏。

反射的に目を逸らしかけたはるなやったけど、どうにかギリギリで踏みとどまる。
ここで目を逸らしたら、今までのはるなと何にも変わらへん。
あかねちんやまりあの想いを無にするわけにはいかんのや。

一方、はるなの存在に気づいた野中氏は、
急激に顔を紅潮させるとうなだれるように俯いてもうた。

そんな野中氏の反応に、はるなの胸は大きく締め付けられる。
でも、目を逸らされる辛さを先に野中氏に与えてしまったのは、はるなの方や。
この胸の痛みは、甘んじて受け止めなあかん。

そんなうちらの様子を知ってか知らずか、小田さんは何事もないかのように
野中氏を石田さんの前まで引っ張っていった。

「ありがとう、助かったわ」

でもこれで石田さんの意図がようやく理解できた。
おそらくはるなと野中氏の仲がおかしくなってるのを気にかけて、
うちらを呼びだしたってことなんやろう。


「それじゃあ私はこれで」

自分の仕事は終わったとばかり立ち去ろうとする小田さん。
どうやら小田さんは、野中氏を連れ出す役割を頼まれただけみたいや。

でも。

「ちょっと待って」

石田さんに呼び止められて、小田さんが足を止める。

「まだ何か手伝うことがありますか?」

「いや、そうじゃないんだけど……」

中途半端に歯切れの悪い石田さんに、小田さんが怪訝な表情を浮かべる。
確かに石田さんの様子がなんか変や。
ミーティングルームではるなに声をかけた時以上に、強張った厳しい顔付きをしてはる。

しばらく不思議な沈黙が続いた後、石田さんは小さく息を吐くと、
覚悟を決めたように小田さんに強い視線を向けた。

「尾形と野中をこの部屋に連れてきたのは、
もちろん2人に伝えたいことがあるからなんだけどさ。
でも、あたしにとってそれはオマケみたいなものなんだよね」

そして石田さんが口にしたのは、まったく予想もしなかった一言やった。

「今のあたしが、本当に用がある相手は……。小田なんだ」


「私に用……ですか?」

「そう。だから、あたしの話を聞いてくれないかな」

「……はい」

困惑したように問い返した小田さんやったけど、
静かな気魄を感じさせる石田さんの頼みに、その猫目をしばらく見つめると、
何かを感じ取ったようによく通る声を返した。

「尾形も野中も、いきなりのことで戸惑ってると思うけど、
黙ってあたしの話を聞いててもらえる?」

はるなもそして野中氏も、正直まったく状況が呑み込めていなかったんやけど、
異論を挟めるような雰囲気でもなく、2人してただ頷くしかできひんかった。

そんな3人それぞれの様子を確かめた石田さんが、問わず語りにゆっくりと口を開く。

「この頃の尾形と野中のことを見ていて、思ったんだよね。
具体的に何があったのかは想像しかできないけど、
あんなにも仲の良かった2人がここまですれ違ってしまってるのは、
きっとお互いの気持ちをちゃんと伝えられてないからじゃないかなって」

石田さんの口調は穏やかなものやったけど、
まりあによって殻を破られムキダシになっているはるなの心には
ダイレクトに突き刺さる内容やった。

「すれ違ったきっかけなんてきっと単純なことで、
ほんの些細なボタンの掛け違い程度の小さなものなのに、
2人がちゃんとぶつかり合わないで中途半端な言動で取り繕っちゃうと、
そこから変に過剰反応したり深刻に考えすぎたりして
どんどん深みにハマっていっちゃうものだからさ。
自分の気持ちに正直になって本音をぶつけ合えたなら、
たとえ一時的にギクシャクしたり不仲になったとしてもすぐに元通りに戻れるのにね」

石田さんの的を射た指摘に言葉もないはるな。
野中氏の方にチラリと目をやると、どうやらはるなと感じていることは同じらしく
蒼ざめた顔で何か耐えるように視線を足元へ落としていた。

「それが一度深みにハマると、後はもう自分の気持ちを偽ることしかできなくなる。
元のように戻りたくても戻れない自分に対する自己嫌悪とか諦めとか、
とにかくネガティブな感情に支配されてがんじがらめになってる。
きっとそれが今の2人の状態なんじゃないかなって。
……うん、どうやらそんな間違ってはいない感じだね」

はるなと野中氏の反応をみて、石田さんが軽く微笑む。

「先輩の立場としては、そんな2人の関係を修繕するために
何かしてあげないとな、なんて思ってたんだけど……」

石田さんの声音に、軽い自虐的な色が交じった。

「そこまで考えていて、気づいちゃったんだよね。
エラソーにわかった気になって他人のことを分析してるけど、
あたし自身はどうなんだって」

石田さん自身……? どういうことやろ?

「あたしもきっと、2人とそう変わらない。
ホントの本音をぶつけることができず、中途半端な自己弁護で自分を誤魔化して生きてる。
こんなんじゃ、2人に仲直りのためにどうしろとか説教なんてできないじゃん」

石田さんはどちらかというと言いたいことをはっきりと口に出せるタイプで、
中途半端な自己弁護とかしてるようにはまったく見えへんかった。
そんな石田さんが一体、何を誤魔化してるというんやろ……。

「まずあたし自身が変わらなきゃ、何も始まらない。
だから……。2人には、あたしが変わるために一歩踏み出すところを、
しっかりと見ていてほしいのよ」

そして石田さんは、一切の迷いなく小田さんの方に向き直った。

小田さんもまた、それが当然であるかのように石田さんの視線を受け止める。
広いレッスンルームは一瞬にして、はるなも野中氏もまったく割り込むことのできない
完全なる2人だけの空間と化していた。

「小田とはさ……。今まで色々あったよね」

「はい」

石田さんが、懐かしげな口調とともに語り出す

「小田の加入当初は、はっきり言ってどう接していいのかよくわかんなかった。
10期にとっては初めての後輩で緊張してたのもあるし、
小田のようなタイプは初めてだったのもあるし……。
会話も全く噛み合わないし、戸惑うことばかりだったなぁ」

「そうでしたね」

目を細めて振り返る石田さんと小田さんは今、
きっと同じような過去の思い出を頭に思い描いてはるんやろう。

「だからどうしても、小田に対してぶっきらぼうに接することが多かったんだけどさ。
でもそんな噛み合わないやり取りとかツッコミが面白かったのか、
いつからかビジネス不仲なんて周りから弄られるようになって。
それどころか、うちらのキューピッドなんてとんでもないことを言いだす奴まで現れて」

チラリとはるなへ視線を向けた石田さんがわざとらしく睨んできて、
はるなは思わず苦笑する。

「おかげで2人きりで京都に行かされるハメになったりとか、
なかなかできない経験もしたんだけど」

「あれはホント、楽しかったなぁ」

小田さんの実感のこもった一言に同調して、石田さんも大きく頷く。

「一時期はファンのみんなも含めた周りからの過剰な弄りで変に意識させられて、
こっちも普通の対応ができなくなってたことがあったのも事実だけどさ。
それがこの頃は、うちらなりの自然体ができてきたよね。
噛み合わないところは噛み合わないなりにお互いツッコみあって楽しむみたいな。
『シグン』とか『高そうなサンドウィッチ』とか
人のこと弄ってきて小憎らしく思う時もあるけど、
それでも言いたいこともロクに言えないような関係よりずっといいしね」

確かにこの頃は、一部で存在してるという不仲派が歯がみするような
お2人の仲良さげな、それこそイチャイチャに近い姿を目にすることが多い気がする。

「だから、小田とは今の距離感がちょうどいいんだ。
……そんなことを思ってたんだけどさ」

石田さんの口調が徐々に熱を帯びてきて、
それとともに息苦しい緊張感が張り詰めていくのが、
はるなにもはっきりわかった。

「それが、自分を偽ってるだけなんだって、
尾形と野中のことを見ていてようやく気づいたのよ。
本当はそれ以上の気持ちがあたしの中で育っていたのに、
ずっと目を逸らし続けていたことに。
多分怖かったんだよね、一歩踏み出すことで今の心地よい関係が
あっさりと壊れてしまうかもしれない……なんて考えちゃうとさ。
でも、それじゃダメなんだ。自分の気持ちを一時的には誤魔化せるかもしれないけど、
無理やり抑え込んだその歪みは段々と大きくなっていって、
いつか手痛いしっぺ返しを食らう。きっとそういうものだから……」

胸の内の想いを吐き出した石田さんの顔は、耳たぶまで真っ赤になっており、
身じろぎもせず石田さんの話に聞き入る小田さんの顔もまた同じやった。

そして訪れる沈黙。

まさかと思ったけど、これはもう間違いあらへん。
きっと、石田さんが伝えたいのは……。

今後の展開を想像するだけで心臓が飛び出しそうな思いをしながら、
固唾を呑んで石田さんの次の言葉を待っていると。


「……ああもう違う違う!!
結局取り繕ってカッコつけようとしてるじゃないの!!!!」

突然激しく首を振って大声を張り上げ、自分自身を責めだす石田さん。

いきなりすぎる豹変に唖然とするうちらのことも構わず、
石田さんは仕切り直すように大きな深呼吸を一つすると、
小田さんのことを鋭く睨みつけた。

「あたしの言いたいことはもっと単純なことなのよ!
この2人のことを見ていて、あたしは自分の本当の想いに気づいた。
そして気づいたままで抱え込んでることに耐えられなくなった。それだけのこと!! 
だから…………」

一気にまくし立てた石田さんの声が、一段と強くなった。

「小田ぁ!!!!」

「……はい」

目をまん丸にして石田さんのことを見守るしかできなかった小田さんやったけど、
石田さんの一喝に近い呼びかけに、覚悟を決めたように頷いた。

「これからあんたにあたしの本音をそのままぶつけるからよく聞いときなさい!!
あたしは、あたしは…………。
どうしてこんなになっちゃったのか自分でもよくわかんないけど、
あんたのことが好きなのよ!!!! わかった!!!?」

ついに石田さんが口にした、決定的な一言。

普通には伝えられず勢いで強引に押し切る告白というのは石田さんらしくもあり、
冷静に見れば滑稽なのかもしれへんけど、
はるなの目にはそれがやけに格好良く映った。

「……わかりました」

「わかったじゃないわよ!
あたしがここまで必死になって自分の想いを伝えたんだから、
あんたの本音も教えなさいよ!!」

「私の気持ちは、前からずっと変わらないですから」

「それってどういう……」

「私も、石田さんのことが好きです」

決して大きな声やなかったけど、まるで旋律のような響きを伴って、
そして小田さんの口からも決定的な想いが伝えられた。

「ただこの気持ちは、私の胸の内にそっと抱き続けていればそれでいいと思ってた。
石田さんに私の想いを押し付けるのも、石田さんの気持ちを私に向けさせようとするのも、
そんなおこがましいこと私にはできないと思ってた。
でも、石田さんの言う通り、そんな考え方もきっと逃げだったのかも……」

小田さんの瞳にジンワリと涙が滲む。

「だから、石田さんの本音の想いが聞けて、私なんかのことを好きと言ってくれて……。
さくらは本当に幸せ者です!!」

最後まで言い終わるその前に、気持ちを抑えきれなくなった小田さんが
石田さんの胸に飛び込んだ。


それはまさに夢のような光景やった。
石田さんも小田さんも、2人ともお互いのことが好きなんやろなとは思っていたけど、
だからこそキューピッド宣言なんてしたというのはあるんやけど、
でもまさかはるなの前でこのような告白がおこなわれ、
綺麗に2人の想いが成就することになるだなんて……。

そんな信じられない思いをしていたのは、はるなだけやなかった。

「石田さん??」

小田さんの身体を抱き留めながら、石田さんは呆然と固まってはったんや。

「いやあの……。
さっきまで自分の気持ちを伝えるので精一杯だったから、
小田からどんな返事が来るのかとか、それからどうなるのかとか、
全く想像する余裕もなかったんで、なんというか……今は頭が真っ白になってる」

先ほどの勢いはどこへやら、気の抜けたような声で呟く石田さんに、
小田さんがクスリと笑った。

「やっぱり石田さんは石田さんですね」

「人のこと馬鹿にし……」

「そんな石田さんのことも、私は大好きですよ」

「ちょっ、何言ってんのよ!」

相思相愛の関係になっても、やっぱり主導権は小田さんの方にあるんやなぁ。

微笑ましいやり取り、またはノロケを見せつけられながら、
そんなことをぼんやりと考えていると。

「ほら、はーちんもちぇるしもどうしていいかわからず困ってますよ。
石田さんが責任を持って最後まで導いてあげなきゃ」

小田さんに促されてようやく気を取り直した石田さんが、はるな達に向き直る。

「尾形も野中も、うちらのことに巻き込んじゃって悪かったね。
あたしの伝えたいことは、言葉でも、行動でも、全部伝えたつもり。
ここから先は何も強制はしない。後はもう2人がどうするかだから。
2人が感じたこと、抱えてるもの、想いを全部ぶつけあってみるといいよ。
そうすればきっと、その先の未来が見えてくるからさ」

「大丈夫、私達でもどうにかなったんだから、
2人なら絶対上手くいくって!」

暖かい笑みで小田さんも続き、
だーさくさんは軽く視線を交して微笑みあった。


そして石田さんと小田さんは寄り添い合いながらレッスンルームを後にし、
広々とした室内には、はるなと野中氏の2人だけが残されることになった。

 

~黒幕達の想い~   スプ水先生の奇跡【最終章】 ~最後の魔法~(後)

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最終更新:2017年09月21日 21:30