本編1 『りほりほ引っ越す』


「失礼します」

鞘師里保は一つ深呼吸をして、戸をくぐった。
深く椅子に腰掛けた50絡みの男が、里保を迎え入れる。

「ご苦労。まあ、楽にしてくれ」
「はい」

男の前まで歩み出た里保は少しだけ肩の力を抜いた。
相手の表情が幾分柔らかかったこともある。
きっとそんなに悪い話では無いのだろう。

「早速だが、お前の担当地区が決まった」
「はい」

事前にそのことは聞かされていた。
問題は自分がどこの地区で戦うことになるのか。
とは言っても、里保にとって場所はどこでもよかった。
なるべく自分の力を試せ、伸ばせる、最前線と呼べる場所であるなら申し分無い。


「特に希望は無い、ということだったが、本当にそれで良かったのか?」

「はい、私は自分の力を活かし戦える場所ならばどこでも構いません」

どこまでも真面目な里保の物言いに男が苦笑する。

「まあ、そうだな。
 正直、本当は俺の一存で決められるレベルじゃないんだ。
 これまでの実績を見ても、お前の去就は魔道士協会の行く末を左右するレベルだからな」

無表情を保とうとする里保の頬が僅かに震える。
褒められているときの里保が顔を崩さないよう務める様子はぎこちなくて
それがまだ里保がほんの子供であることを知らせてくれる。
男は里保がまだまだ幼い子供であることを感じて、少しだけ嬉しく思った。


「だが、今回は少しばかり保護者権限を利用させてもらった」

男が笑顔で告げる。

「というと?」

「俺の一存で決めさせてもらった」

里保の眉が少し上がった。
直属になるということだろうか?『どこでもいい』とは言ったが、魔道士協会の幹部である
この人の直属になるということは本部勤めになって、前線からは遠ざかることになる。
それは少し面白く無かった。
勿論尊敬する人物の下で働けることは嬉しいのだが。

しかし里保の懸念は男の次の言葉ですぐに打ち消された。

「M13地区に行ってもらう」


その地区に聞き覚えがあって、暫し考えた里保は、その意味にたどり着いて思わず声を出した。

「M13地区……ですか?」

「そうだ。お前には『三大魔道士』の一人を監視、報告してもらうことにした」

里保が辿りついたことを裏付けるように男の口からそう告げられる。
『三大魔道士』とは魔道士協会に所属していない、一人で魔道士協会を向こうに回すことも出来る程の
三人の大魔道士達のこと。
敵対しているわけではないが、協会としてその対応に苦慮するような相手である。

M13地区にはその三大魔道士の一人が住んでおり
地区全体が彼女の縄張りとなっていて、魔道士協会は手が出せない。
実質協会の統治範囲外に当たる地域だ。

「理由だが、あそこはウチの力が全く及んでいない上に
 下手に介入して『彼女』の怒りを買うわけにもいかないので大規模な戦力投下が出来ない。
 これは知っているな?」

里保は無言で頷いた。

「今に始まったことじゃないが、M13地区は協会に所属していない魔道士達の坩堝になっている。
 特に協会に追われた重犯罪の魔道士たちの逃げ道にもなっていて、我々としてもかなり頭の痛い問題だ。
 何とかして協会の足がかりを作り、そういう動きを阻止したいんだが、『彼女』の怒りに触れないよう
 徐々に介入していくには、準備が必要。その大役を担えるのは、現状の協会魔道士の中ではお前をおいて他にいない」


「それはつまり、三大魔道士の一人と戦うということでもなく、M13地区に逃げ込んだ犯罪者を捕まえる役、
 というわけでも無い……?私はそこで何をすればいいんですか?」

いまいち釈然としないまま、しかしいろいろな想いが巡る思考を纏めようと里保は言葉を発した。

「だから『彼女』の監視と報告だよ」

男の笑顔に何か不自然なものを感じずにはいられない。


「と、言うのがまあ上に説明した表向きの理由だ」

男の肩からふっと力が抜けたように、笑顔が柔らかくなった。


「まあ、俺も人の親だからな。
 娘の様子を見てきて欲しいんだ」

里保も感じていた想いが男の言葉と一致したことに緊張を解いた。

「それと、お前も協会の若手で最強の魔道士なんて言われてるがまだまだ子供だ。
 協会の外で色々と学ぶのも悪く無いと思ってな。実際危険でもあるが…
 M13地区は全国でもトップクラスに魔道士の多い地区だが、協会に所属していない魔道士の数では
 ダントツでトップだ。何があるかは分からんし、他に任せられる奴がいないのも事実」

「はい」

「そこで、何をすればいいか?ということだが
 学び、成長し、見つけてくれ。娘と一緒にな」

目の前の男が親の顔を覗かせたことが嬉しくて、里保の顔に自然と笑みが浮かんだ。

「手紙だけじゃなく、たまには帰ってくるように娘に言って貰えると嬉しいが…」

「あの子は、意地っ張りですからね」

「そうだな」


一頻り笑った後、男が上司の顔に戻る。

「では鞘師里保、M13地区への配属を通達する。
 任務は三大魔道士の一人”大魔女”道重さゆみの監視、及び情報収集、報告。
 一人での任務になるが、常時M13地区近隣で自由に動かせる魔道士を置くよう手配する。
 移動は1週間後。住居及び、学校への転入手続きも局の方で行う。
 これまでとはかなり違う質の業務になることが予想される。
 身を優先し、無理はせず業務に当たって欲しい」

「はい」

「以上だ。ご苦労さま」

「では、失礼します」


里保が退室する間際、また親が顔を出す。

「娘を、衣梨奈をよろしくな」

里保も子供の笑顔で答えた。

「はい、生田局長、では!」







里保はM13地区の中心にある駅に降り立っていた。

住居と学校の手続きのため、局長の部下である魔道士と共に車で訪れていたが
その時も街の異質さが肌を刺した。

手続きをしてくれた魔道士は、街を出る頃には顔面蒼白になっており
さすがに申し訳なくなった里保は、配属の初日、一人で電車で訪れることにした。

協会の魔道士にとって、協会の力が及ばない場所というのはとても恐ろしい場所なのだ。
協会のルールに縛られない魔道士と普通に街を歩いていてもすれ違う可能性がある。
不意打ちを受けて『奪われ』ても、協会の裁きが下せない。
腕に自信のある里保でも最初に脚を踏み入れた時には緊張を強いられたくらい
そこここで魔力の残滓を感じるこの街に、普通の協会魔道士は一秒も居たくは無いだろう。

現にかつてはこのM13地区にも協会の支部があったらしいが
一人減り二人減り、誰もこの地区で働くことが出来なくなって消滅したらしい。
つまり今回は配属というよりただの引越し。

そこまでの事態になっても大組織である協会が文句のひとつも言えず引き下がった
”大魔女”道重さゆみがどれほど恐ろしい存在なのか、里保はその存在に対する言い知れぬ好奇心を抱いていた。


そして、里保や生田局長にとって道重さゆみの存在は別の意味でも大きなものだった。
里保の育ての親であり魔道士としての師でもある生田局長の一人娘、つまり里保にとっては
姉妹のような存在である『生田衣梨奈』、その人が”大魔女”の元に弟子入りしているのだ。


里保と衣梨奈が生田家で共に魔道士としての研鑚を積んでいたのは3年前まで。
衣梨奈は局長との親子喧嘩に端を発し
「えりは世界一の魔法使いになるけん!」という台詞を残し家出した。

里保も局長も、どうせ3日で泣きべそを掻きながら戻ってくるだろうと思っていたが
ついに何日待っても戻ってこず、どこに連絡を取っても所在が掴めず、心配の為局長の白髪が3割増したころ
衣梨奈は生田家に
『道重さんの弟子になりました!やっつー!世界一の魔法使いになったら帰ります! 衣梨奈』
というふざけた手紙を寄越したのだ。

里保も局長も安心するやら心配するやら腹立たしさやらで荒れたが
定期的に手紙が来るようになって、半ば諦念の感で娘の家出を認めることになった。
”大魔女”相手に「娘を返せ」と怒鳴り込むわけには行かないからだろう、里保はそう理解した。

魔道士協会の幹部の娘がよりによって三大魔道士の弟子に、というのは協会にとっても大変な事態だったようだが
それも局長の奔走でなんとか収まったらしい。里保はそのあたりの大人の話はよく知らない。


協会の中で魔道士に囲まれて生活していた里保にとって
その街はとても新鮮だった。
緑の多いお洒落な風体の駅舎。前回の来訪の時には緊張の為留意していなかった町並みは
坂と緑が多く雑多に整っていて、賑やかな人々の息吹と坂の下から吹き上げる風に抱かれていた。

初夏の陽気に照り返る新緑の並木に沿って
里保は地図を片手に自分の新しい住居となるマンションの一室を目指して歩いていた。
はずだったが、気がつけはどこを歩いているのか分からなくなっていた。

そもそも前に来たときには車で送迎して貰っており
里保自信、方向音痴で地図を読むのも苦手なことを今更思い出した。


物見がてらぶらぶらと歩いて向かおうと思っていたが、だんだんとそれどころでは無くなってくる。
昼下がりという時間も間もなく終わり、夕刻が迫って来ていた。
魔道士達が活動し始める夜までには何とか自室にたどり着いて落ち着きたいという思いが
かえって焦りになって、確証もないままにずんずんと歩を進めるうち、里保は完全に迷子になっていた。
大きな荷物を背負い地図を片手にキョロキョロと当たりを見回す姿は完全にお上りさんで
通りすぎる人に見られているのが恥ずかしくなって里保の足が早まる。

歩き回るうち、住宅街の坂の上の小高い丘になった緑地に入った。
展望スペースからは街が一望でき、遥眼下に海が見える。
ベンチに腰を落とした里保は途方に暮れていた。

「どーしよ……」

協会に電話したところで、この街には協会の魔道士はいないし
電話でナビして貰っても自分が目的地に辿りつける気がまったくしない。

「うぅー……あぅぅ……」

いっそのこと転校先の学校に電話して、あわよくば送って貰おうと思い携帯の電話帳を手繰るが
学校の電話番号を登録していなかったことに気づく。
最近しっかりしてきたと言われていたが、ずぼらで間抜けな本質が変わっていないな、と
落ち込みかけたとき、背後から声が聞こえた。


「ねえ」

柔らかい女性の声に里保が振り返る。
その姿を見て、里保は一瞬息を呑んだ。

「可愛いね、君。さっきから独り言漏れてたよ」

西に傾いた陽光にを背に、女性は優しく、少し意地悪な笑みを浮かべていた。
その姿が、まるで絵画の中の世界のようでに見え、里保は言葉を失う。
長い黒い髪、幼さと妖艶さの同居したような顔貌、白く長い手足が涼やかなワンピースから伸びている。
女性は、里保がこれまでにあったどんな人よりも美しかった。

「何、私の顔、何かついてる?」

可笑しそうに笑う女性に、はっと里保は我に帰った。

「い、いえ……」


「見ない顔だけど、こんな所でそんな格好で何してるのかなー?
 君みたいな可愛い子、怖いおじさんに拐われちゃうよ?」

女性はすっと里保の隣に立ち、楽しそうに言った。


「実は、その……道が分からなくなってしまって」

里保が正直に告げた後、荷物に手に持った地図に、独り言まで聞かれていたのなら
普通に分かりそうだ、と思い直した。

女性はやはり分かっていたというように、ニヤニヤと笑って答える。

「んー、やっぱり?お姉さんが道教えてあげよっか?」

強烈な第一印象から少し冷静になると、この人はどうやら自分をからかっているのだということに気づいた。
されとて、地元の人間に頼る以外に方法は無いし、渡りに船であるのは間違いない。

「お願いしていいですか?」


里保は努めてお利口に、ただ焦っている風を出さないようにお願いした。
この人のいうように、このまま夜になってしまえば、いつ活動を始めた魔道士達に遭遇するかも知れない。

「ついておいで」

女性はニヤニヤをやめないまま、そう言って歩き出した。
慌てて立ち上がる里保に、一度振り返ったその人は、今度はいくらか優しい笑みを浮かべて
すっと手を出した。

手を握れってことか?
差し出された手を見て里保は戸惑った。
子供じゃあるまいし、手を引かれて歩くなんて恥ずかしい……
そんなことを思いながらも、女性の笑みに引き寄せられるようにその手を取った。




その瞬間、視界が、街全体が動き出した。
まるで早送りのように、景色がどんどん後ろに流れていく。
それに合わせて自分たちの足も高速で動くのを、頭だけが普通の速度で認識している。

(魔法だ!)

そう気付き、何らかの対応をしようとする前に、身体も景色も止まった。
本当に、ほんの数秒の出来事で、魔法に巻き込まれて何の対応も出来なかったことに里保は驚愕した。

静止した場所の景色はさっきいた緑地とは全く違っていた。
一度来たことのある、自分がこれから住むことになるマンション、その前に二人は立っていた。

「はい、とーちゃく」

女性が相変わらず楽しそうに里保を振り返る。
ここまで歩いた分の体力は消費されるらしく、里保の身体は少しだけ火照っていた。

「あなたは……」

言いかけた里保の言葉を遮って女性が口を開く。

「君の目的の人」


相変わらずの笑み。綺麗な笑みであるのは間違い無いが、里保はその言葉にさっと背筋を冷やした。

「道重……さゆみ……?」

「『さん』」

「……さん」

「せーかい。君の名前は?」

「鞘師、里保……です」

「鞘師里保、りほ、りほ、りほりほ!」

「り、りほりほ?」

「うん、りほりほ!宜しくね、りほりほ」

「は、はぁ、よろしくお願いします……」


何が何だか分からないまま、会話だけが進行していく。
そもそも自分の役目はこの人物の監視、情報収集であるのに
まるっきりバレバレどころか、宜しくしてしまっている。
そもそもさっきの魔法は何だ。どういう仕組みの、どういう意味のある魔法だ。
それさえも分からないまま、道案内されてしまった。

「ほら、りほりほのお家でしょ?
 暗くなったら本当に怖いおじさんに襲われちゃうよ?」

「は、はい……あの、有難うございました」

「んふふ、可愛いね。ちゃんとお礼が言えるのはいいことだよ」

虚脱感というか敗北感というか、そんなものに襲われながらも礼を告げると
さゆみは尚笑いながら里保の頭を撫でた。
敵愾心の湧く暇も無くて、その手をすんなりと受け入れる。
柔らかく、優しい手だと思った。


「ほら、早くお家にお帰り」

促されて二三歩前に歩く。
振り返り、さゆみの顔を見る。やはり美しい人だと思った。

「あ、あの……あなたは何故私のことを知っていたんですか……?」

「えー?そんなこと聞く?魔法使いだからに決まってるでしょ?」

『魔法使い』その言葉に、衣梨奈を思い出す。
普通自分たちのような存在のことは『魔道士』と呼ぶのが一般的だが
衣梨奈は『世界一の魔法使い』に拘った。


「そうですね……。では本当に、ありがとうございました。
 また近いうちに会いに行きます」

「嬉しい。あ、そうだ。うちの生田にはりほりほのこと、言っちゃってもいいの?
 それとも、学校でサプライズ演出にする?」

何もかもお見通しだと、里保はもう笑える心持ちだった。
なので素直に笑うことにした。

「サプライズで。えりぽんにはいっつも驚かされてばっかりだったので
 たまには私も驚かせてみたいです」

「そっか。ここから学校への行き方、わかる?」


「……はい、大丈夫です」

少し不安だが、流石にこれ以上醜態も晒せない。
その心を読まれたようにさゆみは楽しそうに笑った。

里保も笑う。


「それでは」

「うん、おやすみなさい。来てくれるの、待ってるよ」

「はい……おやすみなさい」

さゆみと別れた里保はようやく新しい自分の住まいに足を踏み入れた。
荷物を解いたり、翌日からの学校の準備をしたりとすべきことは多くあったが
先刻の道重さゆみとのことや生田衣梨奈のことに想いを馳せるうち
思考がぐるぐると巡ってもつれ合い
真新しいベッドに身体を投げ出すとすぐに眠ってしまった。

朝4時に目を覚まし様々な作業に慌て出すまで
里保はこれまでに見たことのないような楽しい夢を見た。
その内容をすっかり忘れてしまったことを、残念とも良かったとも思った。

M13地区での生活がこれから始まる。






転校初日、里保は緊張していた。
学校というものに改めて通うことになるというのがその理由の一つ。
幼い頃から協会の魔道士として活動していた里保はあまり学校に通うことができず
教育は専ら生田家の中で受けていた。
あまり友達を作ることもできなかったが、それは魔道士であるため仕方のないこと。
同じようにあまり学校に通えていなかった衣梨奈が、よく友達と遊んでいた気はするが
それは多分気のせいだ。里保はそう思うことにしていた。

そして緊張の最大の理由は、やはり衣梨奈と会うことだった。
3年ぶり。
里保の記憶の中の衣梨奈は、素直でまっすぐでどこかおかしい、気弱で優しい女の子だった。
衣梨奈とは共に育ち、いつもどこか比べられてきた。
局長の実の娘である衣梨奈と、才能を見出され局長の手に委ねられた里保。
二人は共に魔道士としての才能に秀でていたが、いつも少しだけ高い評価を得るのは里保だった。

衣梨奈が家出した時、里保は寂しさと共に暗い感情に襲われたのを思い出す。
本当は自分と一緒にいるのが嫌だったんじゃないだろうか、仲がいいと思っていたのは
自分だけで、本当は衣梨奈は自分のことが嫌いだったんじゃないだろうか。

衣梨奈が居なくなってから、里保は随分長い間その想念に悩まされた。

衣梨奈に会えることが嬉しい。
だけど少し怖い。

一般生徒の登校時間をやや過ぎた頃、里保は何とか自力で学校まで辿りついた。
一応まだ本鈴は鳴っていないようなので、早足で職員室に向かう。

担任となる教師が里保を出迎えてくれた。
挨拶もそこそこに、教師に連れられ教室へ向かう。

衣梨奈と同じクラスになるよう、局長がはからってくれていた。
魔道士協会は裏の存在であるから、『表』の世界にはその存在は知られていない。
しかし裏を仕切る最大組織である協会は表にも多大な影響力を持っており
協会を通せば表の世界でも大概の融通はきいてしまう。
そのあたりの大人の話を里保はよく知らないが、協会魔道士として
その協会の力の使いどころについては学んでいた。

もっとも、衣梨奈と同じクラスになることなんて可愛らしいいことだが。


教師の到着を待ちざわめく廊下を歩きながら
その学校独特の雰囲気に里保はまた緊張を強めた。
ほどなく、教室の前に教師が止まる。

「じゃあ、鞘師さんは少しそこで待っててね。紹介するからね」

緊張している転校生を気遣うよう教師が優しく告げる。

「はい」
と返事をして佇んだ。

教師が入って行くと、ざわめいていた教室が少し静かになる。
この扉の向こうに衣梨奈がいると思うと、鼓動が早まった。

「はい、じゃあ入って下さい」

呼ばれて里保は教室に足を踏み入れた。


「おお」やら「ほう」やら、よく分からないどよめきが教室内に流れる。

なるべくまっすぐと前を見、早すぎず遅すぎない所作を心がけ教壇の前まで歩くと
一つ息を吸って生徒たちの方へ向き直った。

「里保!?里保!!?」

何か発する間も、考える間も無く、教室にその声が響き渡る。

「え、ほんとに?里保!!?なんで?どうしたと!?」

いや、多少サプライズの気持ちはあったけれども
そこまでリアクションされると却って困るんだけれども…
久しぶりに聞く、それでも間違いようの無い声に顔を上げると
驚き慌てて立ち上がった衣梨奈と、自分よりもそちらに一斉に注目している生徒たちが目に映った。


「えー、コホン。生田、落ち着け」

先生の声で、今にも飛びかからんばかりだった衣梨奈が
中腰のまま動きを止めた。
教室内に笑い声が起こる。

「今日からこのクラスの仲間に加わった、鞘師里保さんだ。じゃあ自己紹介」

中腰で動かない衣梨奈を放置しつつ話を進める先生と
再び私の方に視線を戻した生徒達に
なんとなく衣梨奈のここでの扱いが知れて、内心苦笑する。

「鞘師里保です。宜しくお願いします」

勿論表情は崩さず、丁寧にお辞儀をする。
教室内から拍手が起こった。


「先生、もういいですか!?」

言うや否や、衣梨奈が席を飛び出し里保に向かって来る。

「えりぽん……うぇ」

懐かしい彼女の顔をしっかりと見ようという間も与えられず
猛烈な勢いで抱きしめられた。
里保より背の高い彼女の肩に顎をカチ上げられ
変な呻き声が漏れる。

「里保!!いつ来たと!?何で先に教えてくれんかったん!?」

先生はもはや呆れ果てて黙っているよう。
生徒達も興味津々といった様子で二人の様子を見ていた。

「ちょっと、ちょっとえりぽん!苦しいから放して!」

「ああ、ごめんごめん!」

言って抱擁を解くと、衣梨奈は里保の身体を掴んだまま視線を合わせた。
真っ直ぐに相手の目を見るのがこの子の特徴だったな、と思い出す。


変わっていないようにも、どこか大人っぽくなったようにも感じるその顔は
里保と目を合わせた瞬間ふにゃりと崩れ、記憶の中にある衣梨奈の笑顔になった。

「えっとえりぽん、とりあえず、久しぶり」

「うん、里保!久しぶり!」

「そういうわけだから、よろしく」

「どういうわけだよ!」

「話せば長くなるから、また後でね」

「えー……」

魔道士協会のことや道重さゆみの話をクラスメイトの前でするわけにはいかない。
そもそも今は授業前のHRの時間であって、転校生とはいえあまり時間を割かせるのも気が引けた。

「生田、嬉しいのは分かるが、そういうことだからまた後にしてくれ。
 じゃあ、鞘師さんの席は、後ろの……譜久村の隣だな」

先生の言葉に衣梨奈はしぶしぶ里保を開放した。


後ろの席で譜久村と呼ばれた生徒が手を上げ
自分の隣の席が空席であることを示す。

「前の学校と授業の進捗も違うだろう、譜久村いろいろ助けてやってくれな」

「はい」
先生の言葉に生徒は笑顔で答えた。
美人で優しそうな人だと、里保は素直にそう思った。

「みんなも仲良くしてやって……生田はほどほどに」

教室が程よい笑いに包まれたところで、HRの終わりを告げるチャイムが鳴る。
衣梨奈に促されて里保が指定された席に着くと

「私譜久村聖、よろしくね」
と先ほどの生徒がにこやかに声をかけてくれた。

「こちらこそ、よろしく」

取り敢えず、いろいろと考えることも、緊張もある中で
里保の学校生活が幕を開けた。






里保は取り敢えず授業について行けそうなことに安堵していた。
生田家での自習で、まだまだ大分先まで予習が出来ている。
隣に座る聖が、教科書のページや過去の範囲の要点を小声で教えてくれたことが有難かった。
これなら何とかやっていけそう。
しかし里保は自分の頭がたいして良くはないことも自覚していたので
早々に局長の元に赤点の通信簿が届かないよう、これからも真面目に頑張ろうと決意した。

休み時間になるとすぐ、衣梨奈が里保の元に駆け寄った。
それに続き、他のクラスメイトも里保の周りに集まってくる。

「里保、授業大丈夫やった?」

「うん、なんとか」

二人のやり取りをクラスメイト達が興味深そうに観察する中
衣梨奈がマイペースに、嬉しそうに里保に声をかける。
隣席の聖も二人のやり取りを注視していた。


「良かった。あー
 なんか久しぶり過ぎて照れる」

満面の笑みで告げる衣梨奈が照れているとは到底思えなかったが
改めて見るその笑顔に里保は照れていた。

「3年ぶりだもんね……まったく、3年間一度も顔を見せに帰らないんだから」

照れくさくなるとついつい衣梨奈に対して憎まれ口を言ってしまうのは
里保の自覚している悪い癖だったが、3年前と同じように自然に振る舞えることに
どこか安堵していた。

「う……ごめん、里保」

しゅんと表情を曇らせる衣梨奈。
表情のころころ変わる所も昔のままで
それが嬉しくて、里保は小さく笑みを浮かべた。

「でも、元気そうでよかったよ」

言うとまた衣梨奈の顔がパッと華やぐ。
いくら見ていても飽きないな、と内心でまた笑った。

「里保も、元気そうでよかったっちゃ!」

抜けるような大声が、耳に心地よく響いた。

衣梨奈に会うことが、少しだけ怖かった。
衣梨奈の中で里保の存在がどう変わったのかは分からない。
家出の原因が自分にあったのかどうかも、本当は衣梨奈にどう思われているのかも。

でも里保の心は暖かかった。
この不思議な友人のことが好きだ。
その心が、3年前となんら変わらない姿で今、自分の胸にあることがただ嬉しかった。


会話の段落を読んで、一人の生徒が声をかけた。

「それで、生田と鞘師さんってどういう関係なの?」

「香音ちゃん、『りほ』でいいとよ」

「なんでえりぽんが言うんだよ!……あ、里保でいいよ」

周りの輪から笑いが起こる。
香音と呼ばれた生徒は苦笑しながら
「じゃあ、里保ちゃんでいい?」と訪ねた。
里保が頷く。

「鈴木香音。よろしくね里保ちゃん」

香音はどこかどっしりとした風格のある美少女だった。


「香音ちゃん……よろしく」

同年代の女の子に名前を呼ばれ、名前を呼ぶくすぐったさに照れながら答える。
香音の人懐こい笑顔に、里保はすぐに好感を抱いた。
香音に続くように周りの生徒も自己紹介を始める。
間違い無く覚えきれないと思いながらも、里保は頑張って一人一人の名前を頭に入れた。

一頻りの自己紹介が終わったあと
閑話休題とばかり話題が元に戻った。


「里保とえりの関係は、幼馴染……?」

「うん」

それ以外には表現のしようがない。
姉妹のように育った間柄ではあるが、それは協会や生田家の
深くて浅い事情が絡んでくるので語ることも出来ない。


「すっごい仲良しなんだね……」

聖が遠慮がちにつぶやく。

「そうでもないけどね」

実際姉妹のようにいつも一緒に居たが、喧嘩したことも数えればキリがなかった。
『ライバル』というのが一番相応しい関係だったようにも思う。

「里保はツンデレやけん」

「はいはい」

軽口を言い合っていると、不意に衣梨奈が思い出したように真顔になった。

「それで、里保はなんで急にこっちに来たと?パパが何か……」

言われて言葉に詰まる。
任務のことは二人きりになれば伝えられるが
クラスメイトに囲まれた状況で言えるわけもない。

「えりぽんと無関係でもないけど、別件」

里保がそれだけ言うと
何かに気付いたように、衣梨奈が表情を強ばらせた。

「道重さん……?」

衣梨奈はおバカそうに見えて馬鹿では無い。
協会と道重さゆみの微妙な関係について、どこまで知っているのかは分からないが
少なくとも里保が衣梨奈のことは『別件』としてこの街に来る理由が
道重さゆみに無関係で無いことには気付いたらしかった。

「確認だけど、えりぽんは『道重さゆみ』の所にいるんだよね?」

衣梨奈と道重さゆみの関係によっては
衣梨奈にも任務のことを隠さなければならないかもしれない。
里保はこの街に来るまで、そんないくつかのシュミレーションをしていた。

「うん……道重さんに、お世話になっとーとよ」

ただ、昨日本人に会った印象から、こそこそと嗅ぎ回るには
相手が悪いような気もしていた。
だから、これはただの確認。
昨日はうっかり心を許しそうになったが
敵でないにしろ『道重さゆみ』は馴れ合うような相手ではない。

「道重さんってね、すっごく優しくて綺麗で、とにかくめちゃくちゃ美人なんだよ!」

意想外の所からの声に里保が驚き振り返ると
聖が目を輝かせ拳を握っていた。

「うん、なんていうの?ミステリアス超美人って感じ?
 道重さんの家に住んでるってとこだけは、私も生田が羨ましいわ」

香音が聖に乗って続く。
すると周りを囲んでいた生徒も口々に同意しはじめた。

「いやーそれ程でも」
「生田は褒めてないから」

何故か照れる衣梨奈に香音の鋭い突っ込みが入ったところで
休み時間の終わるチャイムが鳴り響いた。

「あーもう、じゃあ里保、また後で」

「うん」


徐々に解かれる人の輪を見ながら
里保は話の展開に少し混乱していた。


道重さゆみと衣梨奈の関係は、周りにはどのように認識されているのか。
聖や香音を始めとしたクラスメイトとも面識があるようだし
衣梨奈の保護者として振舞っているのだろうか。

そもそも本当に『弟子』なのだろうか。
里保は頭に衣梨奈と、昨日出会った美しい女性とを並び浮かべてみた。
しかしその関係が全く想像出来なかった。





その後、休み時間の度に衣梨奈とクラスメイトに囲まれた。
協会に関わる話せないことが多くあることを察してくれた衣梨奈が
「里保をクラスメイトに紹介する」よりも「クラスメイトを里保に紹介する」ことに
専念してくれたことで随分と助けられた。
またそのおかげで新しいクラスのこともなんとなくわかり
それが有難かった。

話の中で、衣梨奈と特に仲のいいクラスメイトが聖と香音だということも分かった。

放課後、いつも一緒に下校しているという衣梨奈、聖、香音に誘われ
里保も帰途についた。

4人でぶらぶらと歩道を歩く。
里保は来たときには気付かなかった面白い形の家や、可愛らしい花の植え込みを眺め
新鮮な下校風景を楽しんでいた。


「里保ちゃん、お疲れ様。どうだった?」

香音が里保に訪ねる。

「うーん、けっこう疲れたかも」

苦笑しながら里保が答えた。

「わかるー、転校初日って緊張するっちゃんね」

「聖、転校ってしたことないから分からないなぁ」

他愛のない会話。それが何だか嬉しかった。

これからしなくてはならないこと、考えるべきことが山ほどある。
道重さゆみと、この街についてもっと知らなければならない。
自分のような魔道士にとって決して安全な街で無いことも分かっている。
でも、里保は何となく、この街が好きだった。
衣梨奈はきっとこの街が好きなのだろう、そう思えたから。


「あ、えりちょっとスーパー寄ってくっちゃ」

「聖も付き合うよー」

「いつも大変だねぇ」

ふと発した衣梨奈の話を受けて二人が自然に続けたことで
里保の頭上にはハテナが舞った。

「スーパー?」

「うん、食材買いに」

衣梨奈の答えに、里保は「そういえば」と思い出す。

昨日家についてからすぐ寝てしまって、朝もバタバタしていた為
家では何も食べていない。勿論、食材なども何もない。
昼に給食を食べているときに一度そのことを思い出したが
またすっかり忘れていた。


「えりぽん、いつもお料理作ってるんだよ」

聖の言葉に、里保はびっくりして衣梨奈を見た。

「え、えりぽんが料理!?」

「見えないでしょー。でもね、何故かやたらうまいんだよね、えりちゃんの料理」

「んふふー、もっと褒めて」

「キモイわ」

香音は『生田』と『えりちゃん』を使い分けているらしい。
それはともかく、里保には衣梨奈が料理するイメージが全く浮かばなかった。
生田家では食事は専ら専属の調理師さんの世話になっていたし
台所に立つ姿なんてバレンタインデーくらいしか記憶に無い。


通学路沿いにある小さなスーパーに立ち寄る折、衣梨奈が里保に声をかけた。

「そういえば、里保は誰と住んどうと?まさかパパがこの街に……」

「いやいや、ありえないでしょ。普通に一人で」

「え」
「え?」

聖と香音が、些か驚いたように里保を見た。
が、一番驚いた表情を見せたのは衣梨奈だった。

「じゃあ、ご飯とかどうすると?里保料理とかできんやろ?」

「……お弁当かお惣菜でも買って食べるよ」

里保の言葉に聖が反応する。

「え、でもれじゃいつもはどうするの?まさか毎日……?」

「まあ、そうなるかな」


「それはだめ!」

突然の大声に身を竦める。
周囲の買い物客も一瞬衣梨奈の方に視線を寄せた。

「里保、今日はうちに来て。えりがご馳走するけん」

「は?いいよ……」

「てか毎日ご飯食べに来ん?大丈夫、道重さんは気にせんけん」

そういう問題ではないと思ったが、勢いづいた衣梨奈がさらに捲し立てる。

「てゆうか、里保に一人暮らしさせるとか、パパ何考えとーと?
 出来るわけないやん、部屋の片付けもろくにできん里保が」

物凄く馬鹿にされている気がするが、概ね事実だった。


しかし、今日初めてあったクラスメイト2人の前でダメな子みたいに言わないで欲しい。
里保の中に抗議の気持ちと怒りが沸々と湧きあがる。

「あのね、3年前までのイメージでしょ、それ。今は普通にするよ、たまに」

「でも料理とかできんやろ?一番大事なことっちゃん」

「えりぽんには言われたくない」

「まあまあ、二人共、落ち着いて」

二人の語気が荒くなりつつあることに見かねて聖が割って入る。
聖に続く香音の仲裁で、二人はいくらか落ち着きを取り戻した。

子供の頃のような喧嘩を、二人の前で繰り広げそうになったことが面映ゆくて
里保の耳に朱が差す。


落ち着いたところで、衣梨奈が改めて口を開く。

「里保、とにかく、今日はうちに来て。
 どうせ里保は道重さんに用があるっちゃろ?」

確かにそれはその通り。任務の対象である人物に対し
『おじゃまします』とばかり訪ねるのも違う気もするが
こと道重さゆみに関しては、それが一番近道な気もした。
それに昨日本人と約束したことでもあるし、改めて礼も言いたい。

「……ま、じゃあお邪魔するよ。てか別にえりぽんの家じゃないよね?」

折れた形になった里保に、衣梨奈は満足そうに笑った。

「道重さんもものはえりのもんやけん」

どや、とばかりに言う衣梨奈に、何故か聖が「破廉恥なー」と嬉しそうに呟いた。






買い物の後、聖と香音は衣梨奈達と別れた。
二人も家に来ないかと衣梨奈に誘われたが、急な話の為断り
次の機会にと約束を交わした。

来たばかりで色々と大変であろう里保を気遣って
普段なら放課後どこかで遊ぶところ、今日はまっすぐ家に帰ることにした。

それ以外にも、聖と香音は
里保が衣梨奈と二人で話したいことがあると気付いていた。

「なんか、不思議な子だね。里保ちゃん」

「うん。えりぽんも不思議だけど」

「まあね。えりちゃんとは違う意味で不思議。
 なんかクールな感じ?緊張してたからかもだけど」


昨日から転校生が来ることは先生に聞かされていたが
衣梨奈も普通にしていた。
今日の反応を見る限り本当に何も知らなかったのだろう。

「えりぽん、嬉しそうだったね」

「3年ぶりに会ったんだもんね」

聖は里保と対面した時の衣梨奈の様子を思い出していた。
いくら変人の衣梨奈でも、いきなり席を飛び出して
抱きつきに行くとは思わなかった。


衣梨奈は聖にとって一番仲のいい友達。香音と共に三人、親友と言える程の。
でも聖は衣梨奈のことをあまり知らなかった。
何故道重家に居候しているのか。
本人の口から
「家出してきて知り合いの道重さんの家に居着いた」と聞かされたことはあった。
その時は冗談だろうと思っていたが、今日の里保の話からすると
本当の事なのだろうか。
また里保との関係も、ただの幼馴染ではないと思った。
二人の話は、衣梨奈の『パパ』が里保の保護者でもあるような口ぶりだった。

自分の知らない衣梨奈のことを沢山知っている里保が羨ましい。
そして自分が、衣梨奈のことを知らないことが寂しかった。


「なんかえりちゃんと里保ちゃんって、ただの幼馴染って感じじゃないよね。
 学校でも里保ちゃんあんまり喋って無かったし」

聖も勿論そのことは気付いていた。
多分いろいろと複雑な家庭事情があってみんなの前では話せないこと。
でも衣梨奈と里保の会話は何か暗号のような秘密めいた言葉で
ちゃんと通じ合っていたこと。

「謎の美少女転校生か。聖ちゃんのライバル出現だね、こりゃ」

可笑しそうに笑う香音に、聖が首を傾げる。

「聖と里保ちゃんがライバル?なんで?」

「なんでもない」

香音はまたケラケラと笑った。


「ま、でも仲良くなれそうかな」

「うん、そうだね。里保ちゃん、ちょっと大人っぽいけど凄くいい子みたい」

午後の日差しに照らさていた道がさっとかき曇った。
太陽が雲に隠され、風が二人の肌を撫でる。
遠慮がちに咲き始めた紫陽花の植え込みを見、梅雨が間もなくだと知らされた。

「降るかな?早く行こ、聖ちゃん?」

香音が振り返ると、聖は紫陽花の花をじっと見つめていた。

「あんな嬉しそうなえりぽん、初めて見たかも……」

香音が苦笑して聖の手を取る。

「こりゃ重症だわ……」

「え?香音ちゃんどこか悪いの?」

香音は質問に答えず、変わりにどこか呆れたような笑みを浮かべた。
香音に手を引かれ聖が歩きだす。
それとほぼ同時に、空からぽつり、ぽつりと雫が落ちはじめた。
最初はすぐ消えた水玉模様。しかし少しずつ、道の上に描かれる模様が増える。

二人はアスファルトのまだらを追いながら歩を早めた。





「道重さんの監視?なんで?」

里保は聖たちと別れて暫く歩いてから、衣梨奈に今回の任務について
話を切り出していた。

「協会の力がこのM13地区に全く及んでないのが問題だから
 道重さゆみについて調べて、この街にもう一度勢力を広げる足がかりにする、て感じ」

「道重さんと戦うと?」

「今は戦わない。協会としてもそんな早計なことは出来ないし
 具体的な方法は全く決まってないからね。今はさしあたり、どうすれば
 この街に犯罪者が流れ込むのを阻止出来るかと、この街の犯罪者達を
 どうするかって考えてる状態。上の人達が。だから私は、ただ調べて監視するだけ」

衣梨奈はいまいち分からないといった表情で考えこんだ。


実際里保も具体的に何をすればいいのか未だ掴みかねている。
ほとんど局長の私情なんじゃないかとも疑ったが
手出し出来ないにせよ、大魔女道重さゆみを放置出来ないというのもわかる。

もしもの場合には道重さゆみと戦うことも覚悟している。
また、しなくていいと言われたが、この街の犯罪者たちも
必要とあらば里保自身の手で捕まえるつもりだった。

協会に関係が無くとも、一魔道士として『勝負』は必ず受ける。
自分の魔法はその為にあるという強い自負があった。


先刻から降り始めた雨が二人の肩を濡らしていた。
まだ本降りとは言えないが、空はもうどこまでも雲に覆われている。

「うーん、よくわからんけど、里保は道重さんの敵ではないっちゃね?」

「まあ、今はね……」

「よかったぁ」

衣梨奈が無邪気に笑うので、里保も少しだけ気を緩めた。

大通りを過ぎ、背の高い塀の続く住宅街に入る。
塀の向こうから伸びた庭木の枝から、時折大きな雫が落ちて
二人の肩に降り注いだ。


ふと、前方に魔力の気配を感じ
気を張りなおす。
見ると傘を差した若い男が向かいから歩いて来ていた。

「魔道士だ……」

「そうっちゃね」

昼間でも魔道士とすれ違うこともある、ここはそんな場所だったと改めて思い出す。
身体を緊張させ、いつでも魔法に対応出来るよう集中する里保の隣で
衣梨奈は変わらずのんびりと歩いていた。

距離が数メートルまで縮まった時、男が立ち止まった。

里保はそのまま歩いていこうとする衣梨奈の腕を取り止まらせると
魔法の発動に備えた。

「協会魔道士か。珍しいな」

傘の端を少し上げ、男が里保を見ながら呟いた。


「里保、行こう」

衣梨奈が里保を促す。
里保はそんな衣梨奈を引き寄せ、警戒を強めた。

「そんな警戒すんなよ。生田のお嬢と一緒にいる子に手出ししたりしないよ」

感情の読めない表情で男が言うと、また歩き出した。
そのまま里保達の横を通ろうと近づいてくる。

敵意は無いのか?
まだ安心は出来ず、里保は衣梨奈の腕を掴んだまま立ち止まり
男の動きに注意していた。

「でも、あんた一人だったら危ないぜ。協会に恨みのある魔道士なんていっぱいいるからな」

男はすれ違いざま、そう言って通り過ぎた。
その背中が一定の速さで遠ざかるのを確認して、里保はようやく緊張を緩めた。

「行こう」

もう一度衣梨奈に促されて、里保は再び歩き出した。







暫く歩いてから、衣梨奈がぽつりと呟いた。

「里保、それ取らん?」

衣梨奈が示したのは里保の腕に付いているブレスレットだった。

協会魔道士は、どこかしらに協会の紋章の入った物を身につけている。
里保の場合は腕に嵌めたブレスレットにその紋章が刻まれていて
それは魔力のある魔道士の目には光って見えるため
小さくとも、見える場所に印があればすぐ分かる仕組みになっていた。

「それはできない」


衣梨奈の言うことの意味が、里保にはよく分かった。
この街に里保以外の協会魔道士がいない上、協会の力が及んでいない以上
その印は何の意味も無いどころか、ある種の魔道士にとっては的である。

この印を付けなければいけないという義務も無い。
だけど里保は、自分が協会の任務で、たった一人この街に来ているという
プライドがあった。

「危ないけん」

「大丈夫だよ。ウチ、強いから」

寧ろ戦いになるならば望むところだと思った。
それしか自分には無いから。


「でも、えりぽんはここでは安全なんだね。道重さゆみの弟子だもんね。
 ちょっと安心した」

ずっとそれを心配していた。
衣梨奈も魔道士としての素質は高い。
それでも、優しい彼女が常に戦いに晒されているのではと考えると
里保は気が気では無かった。


「そうでもないとよ」

「え?」

「さっきの人はああ言ったけど
 道重さんのこと、狙ってる魔法使いもこの街にはいっぱいおるけん。
 えりのこと狙ってくる奴も結構おるっちゃ」


”大魔女”道重さゆみを狙う魔道士。
無謀なのか、よほどの実力者なのか。
しかしよく考えれば”大魔女”の魔法を『奪う』ことが出来れば
と考える魔道士がいることも頷ける。
それに成功した者が居ないから、今なお彼女が君臨しているのだろうが……。
そういう者にとっては『弟子』も当然ターゲットになる。

「……えりぽん大丈夫なの?」

「大丈夫、えりは常に戦闘態勢やけん」

里保の心配をよそに衣梨奈は笑った。
その笑顔にいつもの明るさが無い気がしたのは、雨に霞んでいるせいだろうか。


「そうは見えない……」

「えー、もう。衣梨奈めっちゃ強いけんね」

冗談めかして言う衣梨奈に、里保は苦笑した。
出来ることならば、自分の手で彼女を守りたい。
自分だけでなく、衣梨奈も守れるくらい強くなりたいと思う。

そんなことを言えば衣梨奈は怒るだろうから、里保は口を噤み
浮かび上がった思いを内に押し込んだ。


雨足が急に強くなった。
里保の髪や制服がどんどん雨水を含んで重く冷たくなっていく。
横を歩く衣梨奈も同じように濡れていた。
でも衣梨奈が走り出す様子も無いので、里保もゆっくりと歩く。

「里保、傘は?」

「ない」

少し濡れたところで衣梨奈が尋ねた。
分かってる癖に、と頬を膨らませる里保に衣梨奈が笑いかける。

「ちょっとじっとして」


里保を立ち止まらせた衣梨奈が、手をかざす。
淡い魔力が衣梨奈の手の平に浮かび上がった。


「魔法?」

「そう」

ふわりと二人の身体を魔力が包み込む。
するとさっきまで里保の肩を濡らしていた雨粒が届かなくなった。
身体に触れる前に弾かれて落ちる。変わりにポツポツと軽快な雨音が聞こえだした。

衣梨奈が里保の手をとり、再び歩きだす。
里保も手を引かれるまま、衣梨奈の後を歩き始めた。

「傘の魔法」

「えりぽん、ちょっと肩とか濡れるんだけど」

「じゃあもうちょっと寄って」

言って里保の身体を更に引き寄せる。


肩が触れ合うほど密着すると、身体に届く雨粒が大分少なくなった。

「傘の魔法やけんね。効果範囲は半径55cm」

「何でそんな魔法を……」

「だってちょっとくらい濡れたほうが楽しいやん、雨の日って」


里保は、そう笑いかける衣梨奈の言葉に
何故だか納得してしまった自分に苦笑した。
確かに、ちょっとくらい濡れた方が楽しいかもしれない。


魔道士の目に一際異彩を放つ建物が、雨のカーテンの向こうに姿を現した。
それが、『道重さゆみの家』であろうことが一目で分かる。

「聖と香音ちゃんは傘もっとーとかいな……」

ちょうどたった今、里保もそのことを考えていた。



「さ、ついたよ」

衣梨奈の言葉に立ち止まり、里保は眼前にある不思議な建物を見上げた。




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最終更新:2014年07月14日 22:57
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