本編13 『主席・だーいし』

 


まだ雨に烟る淡い光の中、遥は目を覚ました。
いつの間にか眠ってしまっていた。
夢現の身体が優樹を見失って慌てて身体を起こす。
すると、手の中に確かな温もりが戻って
続いて目に優樹の安らかな寝顔が映って、一つ安堵の息を吐いた。

穏やかな寝顔。
それでも、優樹がどこかに行ってしまわないか、
不安は消えてくれなかった。

浅い眠りの中で、また友達の夢を見ていた。
何か告げる暇も無く逃げてきたから、自分たちのことを心配しているかもしれない。
もう二度と会えないことを覚悟はしていたけれど、
それでもこんなことになるとは思っていなかった。

燻った協会への怒りは、悔しさになり、悲しさになって
遥の心を締め付けた。

繋いだ手をそっと離す。
眠っていても、無意識にかなり強く握っていたようで
汗ばんだ掌は仄かに赤く火照っていた。


もう一度優樹の寝顔を見つめる。
普段の元気な優樹とは全然違う、大人っぽい顔立ち。
その瞼の下で、普段の能天気とは全然違う深い苦しみが眠っていると思うと
また、ますます悲しくなってきた。

今自分にできることは、優樹を離さないこと。
それしか思い浮かばない。
大人達の理不尽に立ち向かう術は何も無くて、
優樹の苦しさを和らげる方法も分からなくて、ただ、その手を握り続けるしか出来ない。

それだけは絶対にしようと思った。
だけどそれだって自分に出来るのか、不安になる。
何か優樹を繋ぎ止める魔法が使えたらいいのだけれど、
生憎とそんな便利なものを持っていない。

ここ数日の、何も先が分からない時分よりかは
いくらか視界は開けていた。
その分、現実の非情と、困難とが重くのしかかる。
窓の外でぐずついた雨が街を白く翳らせていた。

いつまでもベッドにいるわけにはいかない。
遥はもう一度優樹の静かな寝息を確認し
着替えて部屋を出た。

今日、明日、明後日、一週間後のその日までをどうやって過ごせばいいのか。
その後をどう過ごすのか。
優樹にどんな言葉をかければいいのか。
考えれば考えるほど気分は重く沈んで、不安になって、心が弱くなる。


「おはよう、工藤」

リビングに出るとさゆみはもう起きて、お茶を飲んでいた。
衣梨奈と里保は居ない。
もう学校に行ったのだろうか。
壁にかかる時計を見るとなるほど、もう朝という時間を終えようとしていた。

「…おはようございます、道重さん」

「朝ごはん食べな。昨晩食べてないし、お腹空いてるでしょ?」

言われてそのことを思い出し、思い出した途端に酷い空腹に襲わる。

「はい…、いただきます」

「うん、待っててね。今用意するから」

変わらず優しいさゆみの声に、遥はかえって辛くなった。

さゆみが用意してくれた朝食をゆっくりと食べ進めながら
遥は窓の外をぼんやりと見ていた。

一晩身をやつした怒りが収まった代わりに、
嘗て自分も所属していた協会のことが浮かんでくる。


遥だって、協会が間違っているなんて思ってもいなかった。
そこは自分の生きる場所で、そこで仲間と一緒に成長して
大人になっていくのだと。
勢いで飛び出し、散々現実を見せつけられて、心底協会のことが嫌いになった。
けれども、ぼんやりと窓を見ていると
つい先日まで自分が暮らしている協会施設がどうしようもなく懐かしくなる。
そこにいた人たちは皆親切で、悪ガキだった遥のことも優しく
時に厳しく手をかけてくれた。
まだ施設で暮らしている友達も沢山いる。

遥は、ふと浮かんだ思いに顔を顰めた。
自分達の今回のことが、施設人たちに影響していないだろうか。
それはここに来てからもどこかで気にしていたことではあったけれど、
協会のやり方の理不尽さを見せつけられて
再びその不安が強くなる。

もう会えないとしても、大切な友達に迷惑をかけるのは嫌だった。

昨日までは、協会とはもう関わらないと思っていた。
けれど、それも変わった。
『敵対』するという形で、優樹を守るという意思ではっきりと協会と関わる。
だからこそ、友人の声が聞きたくなった。


食事を終えた遥は、それを優しく見守ってくれていたさゆみに言った。

「道重さん、電話、お借りしてもいいですか?」

「ん?いいよ。ダイヤル式の黒電話だけど、使い方分かる?」

「はい、なんとなく……」

さゆみが特に驚くこともなく部屋の隅にあるレトロな電話機を示す。
遥は礼を言って、その前に立ち
自分の持つ携帯端末の電源を入れると、目当ての番号を手繰った。
それから、以前テレビで見た朧げな記憶を頼りにダイヤルを回す。

受話器を耳に当て、本当に繋がるのかと不安に思いながら待つと
少し間を置いてコールする音が聞こえて来た。
妙な緊張を感じてドキドキと心臓が煩い。
数度のコールの後、通話が繋がった。

『はーい、もしもーし。どちらさんですか?』

その声に、一瞬泣きそうになって息が詰まる。
それでも遥は出来るだけ平静を装って声を出した。

「あゆみん?」

『……どぅー!?どぅーなの!?』

「…うん。久しぶり」

 

『久しぶりー……じゃないでしょー!ちょっと今どこにいるの!?皆めっちゃ心配してるんだよ!?』

「いやー、色々ありまして。まあ大丈夫だから」

『ほんとどこにいるの?怪我してない?まーちゃんは?』

「まーちゃんも一緒に居るよ。二人共……元気だから」

『ほんとに?信じていいの?ちゃんとご飯食べてる?』

「うん、食べてるよ。今二人共ある人んとこにお世話んなっててさ、親切にしてもらってるから」

『……ほんとなのね?……よかった』

まだ最後に会ってから一週間くらいしか経っていないけれど
それでも、その声が懐かしくて、変わらない雰囲気に嬉しさが込み上げる。

そして電話の相手、石田亜佑美が自分達の居場所や状況を全く知らないらしいことが、
協会から何らかの手が回っていないことを教えてくれてかえって安堵した。
亜佑美は気遣って嘘を付けるほど器用な子ではない。

『もう全然携帯も繋がらないしさ、急に居なくなるから本当に心配だったんだから。
本当に、大丈夫なのね?怪我してないんだね?病気もしてない?』

「何回言うの。大丈夫だってば」


変わらない亜佑美の勢いに
遥は何だか嬉しくなって笑った。
久しぶりに笑った気がする。

協会から支給された携帯端末は持っているけれど、
それで自分の位置が知られることに気づいてからずっと電源を落としていた。
M13地区のさゆみの家にいる今、位置を知られたからどうということも無いけれど
それを使って通話して、傍受でもされれば
やっぱり相手に迷惑をかけてしまうと考えていた。

『だって本当に心配したんだから。でも、よかった。どぅーの声が聞けて。
まーちゃんも今そこにいるの?』

「まーちゃんはまだ寝てる。爆睡中」

『そっか…。それで、何があったの?なんか困ったことあったんでしょ?』

優しい声が嬉しい。
亜佑美とはいつも張り合って来て、年上だけれども悪友というか、喧嘩友達みたいな関係だったけれど
ふとした瞬間にはやはり年上らしい優しさや気遣いを見せてくれる。
はっきりと告げたことは無かったけれど、遥はそんな亜佑美が大好きだった。

「うんと、ちょっと詳しくは言えないんだ。ごめんあゆみん。
でも大丈夫だから、心配しないでよ」

『いつ、帰ってくるの…?』

「それは……」

帰ることなど、出来ない。
そう告げることも出来なかった。
今更ながら、亜佑美とももう会えないのだという事実が思い出され、悲しくなる。


『ん…いいや。今はまだ無理なんだね。大丈夫、うちが迎えに行くから。
二人共困ったことがあるなら、私が助けるから』

「……あゆみん」

『ウチ執行魔道士になれたからね。今までより大分動きやすいし、まだぺーぺーだけど
それでも色々権限あるんだから。もうちょっとだけ待ってて。絶対二人共私が助けてあげるから』

色々と思い出した。
亜佑美はずっと執行魔道士に憧れていて、つい先日入局試験も受けていた。
その結果を聞く前に離れてしまったけれど、無事受かったらしい。

今の遥にとっては複雑だった。
協会の、執行魔道士に対して持つイメージはどちらかと言えば最悪だ。
それでも、嬉しさを隠しきれない亜佑美の声を聞いていると
遥も少しだけ嬉しくなった。

「受かったんだ。おめでと、あゆみん」

『あはっ、ありがと、どぅー。本当はどぅーとまーちゃんに一番に報告してさ、
一番に[おめでとう]って言って貰いたかったのにさ、二人共居なくなっちゃうからさぁ。
でもまあ、当然?ってやつ?主席だったからね!すごくない?』

物言いが、らしいなぁと苦笑する。
確かに亜佑美は魔道士としてかなり優秀で
それでもいろいろと間が悪くて入局試験を受けられていなかった。
だから受かるだろうと思っていたし、数日前までは受かった時の浮かれぶりを
想像してうんざりもしていた。


「すごいじゃんあゆみん」

棒読み気味に褒めると、亜佑美が得意げに鼻を鳴らす。
受話器の向こうで胸を張って威張る亜祐美の姿が見えるようだった。

『だからね、多分いきなり配属にもならないだろうし、
多少我がままは聞いて貰えると思うの。なんせ主席だから!主席!
今、なんかちょっと局がバタバタしてるみたいでさ、まだそういう話出来てないんだけど、
絶対迎えに行くから、もうちょっとだけ待っててね』

「……バタバタしてる?」

『うん、そう。なんか大きな仕事?があるみたいでさ。
本局のベテランの先輩とかが、出張?みたいなんで大量に出て行っちゃって、今人が少ないのよ』

「……それって、あゆみんも参加するの?」

『え?いやうちはまだぺーぺーですから?そういう話は無いなぁ。
本当にベテランの人達がいっぱい集まってやる仕事みたいだから、流石に入ったばっかのうちはねぇ』

遥はそれを聞いて心底安堵した。
一歩間違えれば亜佑美が優樹の故郷を攻撃する戦力に入っていたかもしれないのだ。
あるいは戦いが長引けば、亜祐美も招集されることもありえるだろうか。

優樹をここに引き止め、ここで守ると決めて狗族の郷のことを意識の外に追い出していたけれど、
やはり何か見ない振りをして過ごしても、どこかに瑕瑾が出来、それが広がってしまうのかもしれない。
とはいえ、今そんなことを考えたら頭が割れそうになるから
やはり考えることは出来なかった。

『それでさ、今日局長さんにも会ったけど、すごいピリピリしててさー。個人的な話は出来なかったねー。
聞きたいことがあったんだけどなー』


「聞きたいこと?」

『そーそー。鞘師さんが今どこにいるのかって』

「さやし…さん…?」

その名を聞いた瞬間、遥の思考が一瞬停止した。

それでも徐々に思い出す。
そういえば亜佑美の口からその名前が出たのは初めてじゃない。
今道重家で一緒に暮らす鞘師里保と同一人物だとは夢にも思わなかったけれど
執行局の局長に尋ねる相手、となれば別人であるはずがない。

『ほら、うちが執行局に入った切欠の人だよ。どぅーには何度も話たでしょ?』

「あ、ああ…あゆみんが昔、魔法競技会でぼっこぼこにされた相手だっけ?」

『そうそうその…ってぼこぼこじゃないよ。ギリ負けただけだよ、ギリギリ』

すぐに繋がった遥だったけれど、どういう反応をすればいいのか分からなくて
咄嗟に何も知らないように振舞った。

遥は今更ながらに、里保とも過去に会っていたことを思い出した。
亜佑美の参加する競技会の応援で遠目に見ただけだけれど。
殆ど興味の無かった遥は、決勝で亜佑美を破ったその人物を、
ただ珍しい名前の人だというくらいにしか思っていなかった。

けれども亜佑美は、その時から強く意識するようになって
当時既に特待的な扱いで執行局員だった里保を追う形で執行局を目指し始めた。


『多分今はどこかの配属になってると思うんだけどさ。本局には居なかったから。
局長の娘さんだから、[リベンジしたいです!]とか正直に言ったら教えてくれ
なかったりもするかもしれないけど、どうせなら是非一緒の所で働きたいし?
それくらいの我がまま聞いてくれるかなーとか期待してたんだけどね。
ほら、うち主席じゃん?』

「はは…そうだね」

世の中、意外に狭いなと思ってしまう。

『まあそれはいいんだけどさ。でも本当に、どぅーとまーちゃんはちゃんと迎えに行くから』

「うん…ありがと、あゆみん」

『ううん。今日は、声を聞けただけでよしとするよ。
この番号に掛けたらどぅーいるの?』

「えっと、まあお世話になってる人の家だから、居ればいるよ」

『じゃあまた電話は出来るんだね』

「うん、ハルからも連絡するから。いまちょっとバタバタしてるからあれだけどさ。
落ち着いたらまーちゃんも…。まーちゃんもあゆみんの声聞きたいと思ってるだろうし」

『…わかった。待ってる』

「ごめんね、あゆみん」

『ううん。うちこそ何にも力になれなくてごめん。またね』

「うん、また」


受話器を置いて、暫くぼーっと、感慨にふける。
今まで頭の中から無理に追い出そうとしていた、協会の友達。
でもその声を聞いて、話して、自分達がどれだけ心配を掛けたのか知って、
もう会えない過去の友達だと割り切ることは出来なかった。
亜佑美に会いたい。

優樹と二人だけの殻に閉じこもって、どこまでも逃げようと思っていた。
でもやっぱり人と人は繋がっている。
優しさに触れると、苦しくなる。
優樹のことだけを考えていればまだ楽なのに、
他の誰かのことを考えると、どんどん考えなければいけないことが増える。
亜佑美の声を聞いて、ついさっきまで血の通っていなかった様々な人のイメージに血が通い始める。
協会の人達、施設の人達、執行局の人達、狗族の人達。
目をつぶって耳を塞いでいれば通り過ぎることかもしれないけれど、
自分にも大いに関わりのある、血の通った人達の血が流れるかもしれない。
今さらそんな事実が思い知らされた。


「終わった?」

近くで腰掛けてパソコンを見ていたさゆみが尋ねる。

「はい」

「どうだった?友達と話して」

「……考えることが多くなりすぎて、大変です」

さゆみは可笑しそうに、優雅に笑った。

「話さないほうがよかった?」

「いえ、話してよかったです」

遥も苦々しく笑い返す。

部屋の置くから気配を感じた。
優樹が目を覚ましたらしい。

 


道路に雨後の気配を残しながらも、よく晴れた朝。
聖はテスト前の憂鬱に負けず、胸を躍らせて教室のドアをくぐった。
この数日の間に色々なことがあった。
新しい出会いがあって、「魔法」という、今まで見ていた世界が覆るような存在を知った。
そして、衣梨奈が「魔法使い」であり、自分がそんな衣梨奈に寄せている想いにも気付いた。
大きなことも小さなことも、自分を取り巻く環境や想いが目まぐるしく変わっていく。
一人になればゆっくりと考えてはみるけれど、
何か寝ても覚めても夢心地の激流の中に居るようで、ただただ胸の鼓動が速まるばかりだった。
そしてそんな色々が、不思議な嬉しさを齎してくれる。
だから今日も早く衣梨奈に会いたかった。

登校した聖を香音が迎えてくれる。
でも衣梨奈と里保はまだ来ていなかった。
たまに里保が寝坊して、衣梨奈が迎えに行って、
二人ギリギリに教室に駆け込んでくることもあったから、今日もその日なのかとも思う。
それでも、期待してドアを開いただけに、聖は少しがっかりしていた。


まだ来ない。
そう思っているうちに、予鈴が鳴った。
おかしいなと思いながら、香音と短い会話を交わす。
聖も香音も何も聞いていない。

先生が教室に入ってくる。
聖も慌てて席に戻った。隣の席、里保の席が空いている。

先生は特に理由を説明することもなく、衣梨奈と里保の欠席を告げた。

朝のウキウキが嘘のような不安に襲われる。
昨日確かに、笑顔で「また明日」と挨拶を交わしたのに。
二人がまさか一緒に風邪をひいたとも思えない。
確かに昨日は雨に降られたかもしれないけれど、それならそれと先生が言いそうなもの。
「魔法使い」としての何かがあったんじゃないだろうか。

聖は先日、遥と優樹に出会った日の里保を思い返していた。
放課後不意に教室を飛び出した里保。あれも今思えば「魔法使い」としての事だった。
あの後、遥達と戦うことになったと聞いた。
そういうことが、今度は里保と衣梨奈の身にも起こっているんじゃないだろうか。

魔法使いのことを知ったばかりで、詳しいことはまだ全然分からないから
余計に不安になる。


気もそぞろに一時間目の授業をやり過ごした聖は
香音と連れ立って担任の先生を捕まえた。

「先生、えりぽんと里保ちゃん、今日はどうしてお休みなんですか?」

先生が聖と香音を見返す。
勿論今日休んでいる二人と、聖と香音とが仲良しなのは知っているから
こうして気になって尋ねてくる理由も分かるのだろう。
けれど先生は、どう答えたものかと思案しているようだった。

「ああ、保護者の方から連絡があってな。
体調不良とかでは無いそうだから、心配しなくていいよ」

「保護者って、道重さんですか?」

「…ああ」

香音の質問に答える先生の言葉はどこか歯切れが悪い。

「体調不良じゃないんだったら、どうして…」


「悪いな、俺も詳しくは聞いてないんだ。ただあの二人は事情もあるし、
ご家族とも一緒に住んでなかったり、大変なこともあるだろう。
何か変なことをするような奴らじゃないしな。それは譜久村と鈴木が一番よく知ってるだろ」

「はい、それは間違いないです」

先生は、力強く頷く二人に少し笑ったあと、
独り言のように呟いた。

「俺も気にはなるが、道重さんに深く問い詰めるわけにも…」

それを聞いて、聖と香音は理解した。
先生も、魔法のことを知っているのだ。
言われてみれば、あんな特殊な環境で通っている二人を、教師として
何も知らず受け入れるとも思えない。
さゆみは、大人なら大抵知っていると言っていた。
多分先生たちはみんな知っている。
この街で一番偉い魔法使いがさゆみだということも知っている。

「わかりました。先生ありがとうございます」

「いや、うん。なんか、ごめんな」

「いえ」

先生に礼をして、聖と香音は教室に戻った。


不安気な聖に香音が声を掛ける。

「今日、行ってみる?道重さんち」

「…いいのかな」

やっぱりまだ、魔法使いと自分達の距離が掴めない。
知ったことが嬉しくて、踏み込みすぎて、迷惑を掛けるんじゃないか。

「何にも分かんないうちに、いいも悪いもないでしょ」

香音の言葉に聖はハッとした。
確かに、その通り。
知らないうちにいくら悩んでも答えは出ない。
それはまさに魔法について何も知らなかった時の自分。
関わるにしろ関わらないにしろ、どうするか自分で決める為にはまず知らないと始まらない。
それが、責任を持って行動するということなのだろう。

「そうだね。行ってみよう」

聖は改めて、香音のことを凄いと思った。
頼もしい、偉大な親友だ。

 

.


優樹がソロソロと歩いてくる。
まだ眠いのか何なのか、夢遊病者のような虚ろな顔で
目の下にはくっきりと隈が浮いていた。酷く悪そうに見える。
でも遥には、それが体調の所為だけでは無いことも分かっていた。
胸が苦しい。
そんな優樹を見ていたく無かった。
けれども、いつもの優樹の笑顔を取り戻す方法が、まるで分からない。

「おはよう、佐藤」

さゆみが声を掛けると、優樹は錆びたロボットのように緩慢に顔を上げ

「おはようございます…」

と小さく返事をした。

「お腹すいたでしょ。工藤はもうご飯食べたから、佐藤も食べちゃいなさい」

優樹は小さく頷いた。


食事をする優樹を、遥はじっと見つめていた。
優樹の手は機械のように一定に、酷くのろのろと口と食器を往復する。
暗く打ち沈んだ目が何も映していないように見えて、遥は酷く不安になった。


さゆみは優樹が食事を始めたのを見届けてその場を離れ
携帯電話を取り出して、通話のボタンを押した。

短いコールですぐに繋がる。

『はい、飯窪です』

「はるなん、おはよう」

『おはようございます道重さん。どうなさいました?』

「今日暇?うちに来ない?」

『え?どういうことですか?』

「ほら、工藤とまーちゃんさ、やることなくて暇だと思うから、遊び相手になって貰おうと思って。
生田とりほりほもまだ帰って来ないしさ」

昨日の剣呑な空気に比べると随分とさゆみの物言いは呑気で、春菜はそれに戸惑っていた。
優樹と遥を取り巻く問題が、何か解決をみたということも無いはずなのに。

『そういえば、生田さんと鞘師さん今日学校お休みしてましたね。
居ないんですか?いったいどちらへ…』

「そっか。流石のはるなんも、夜中までは監視してなかったんだね」

さゆみは少し笑って、昨日の夜のことを話した。
それは春菜にとって大きな驚きとなる。


『生田さんと鞘師さんが、狗族の郷に…』

「そう。まあすぐ帰ってくると思うけどね。それまであの子達の相手してやってくれないかな」

『それは全然構いませんが……。道重さんは、どうしてそんなこと認めたんですか?
二人のこと、心配じゃないんですか?』

珍しく、春菜の口調に憤りが見え隠れしている。
さゆみはわざと挑発するように言葉を返した。

「はるなんにとっては、望んでた展開じゃない?」

少し沈黙があって、春菜が口を開く。

『……こんなこと、こんな形でなんて望むわけないじゃないですか』

さゆみはそれを聞いて、少しだけ嬉しくなった。
春菜はいつも淡々と仕事をこなして、大人びていて思慮深い。
けれども、やっぱりまだまだ年若い魔道士で、一廉の優しさも甘さもあるのだと分かる。
里保のことも衣梨奈のことも、そして優樹や遥のことも好きで
だからこそ自分の目的とは別に、春菜も一晩中頭を悩ませていたのだろう。
そんな春菜が愛おしいと思った。

「そうだね。ごめん」

素直に謝ったさゆみの声を聞いて、春菜も慌てて謝る。

『す、すみません。私なんかが生意気に』


「ううん。はるなんが心配してくれて生田もりほりほも嬉しいと思うよ。
さゆみも生田だけとか、りほりほだけで行くっていうなら止めたけどね。
二人なら大丈夫。それに、多分戦いに加わることは無いから」

『そうでしょうか…』

「うん。とはいっても、最終的に二人がどんな道を選ぶのかさゆみにも分かんない。
でも、一生懸命考えて頑張って動こうとしてるからさ。ダメとは言えないよ」

『道重さん……。そうですね』

「そういうわけだから、宜しくね。今はどっちかって言うと、佐藤と工藤の方が大変だから」

『…はい。では今からお邪魔します』

通話を切って、一つ息を吐く。
大丈夫、と言ってはみたものの、さゆみにも特に根拠は無い。
でも里保と衣梨奈の昨日の様子を思い返せば、
多分二人一緒に考えて、答えを見つけると思えた。
さゆみ自身、『正解』は分からない。
衣梨奈と里保がどんな答えを出すのか、それを聞くのが少し不安で、少し楽しみだった。

優樹が食事をしているリビングから大きな物音が聞こえて、さゆみは一つ伸びをして部屋に戻った。


遥の目の前で、ゆっくりと機械のように食事をしていた優樹の手が不意に止まる。
パンはまだ半分程しか減っていないけれども、それがそっとお皿に戻された。

不意に優樹が立ち上がる。
驚いた遥をよそに、優樹は険しい顔で身体を回し、玄関の方へ歩きだした。
遥が慌ててその身体を後ろから抱きしめる。

「どこ行くんだよ!」

「きょーかいだよ!」

「バカ!絶対行かせないから!」

「離してよどぅー!だってまさが行かないと……ちちたちが、ははたちが…」

優樹の顔がみるみるうちに涙で濡れていく。
離すまいと思い切り抱きしめる遥の手の中で、優樹が身体を捩って抵抗を試みた。
凄い力で抵抗されて、遥の手に一層の力が入る。
まだ体力が戻っていない優樹を、何とか抑え込んでいると
程なく抵抗する力が弱まった。

「はなしてよぅ…やだ…やだ…」

「だめ。絶対、離さない」


泣き濡れる優樹に、遥は何も言葉をかけることが出来なかった。
ただ強く強く抱きしめる。絶対に行かせないという意思を込めて。
それしか出来なかった。
今亜佑美のことを話しても、気休めにはならない。

優樹を笑顔にする方法が分からない。
このまま抱きしめ続けて、明日、明後日、一週間後、その時まで優樹を抱きしめて
それから一体どうすればいいというのか。
もう二度と、優樹の笑顔を見れなくなるんじゃないだろうか。
そんなことが頭を過ぎり、胸を裂くような痛みが襲う。
でも、遥はその手を離すことも、何か語りかけることも出来なかった。

「まーちゃん」

さゆみの声に遥と優樹が繋がったまま振り返る。
不安を満面に湛え険しい顔をした遥と、嗚咽を漏らし泣いている優樹を
さゆみはいくらか優しく、いくらか厳しい目で見ていた。

「さゆみとの約束、覚えてる?」

優樹が顔を上げる。
遥は、何のことかと眉を寄せた。

「勝手に居なくならない。勝手に出て行かない。約束したよね?」


涙に目を赤くしながら優樹が小さく頷く。
遥もそれを思い出していた。
それは、ここにお世話になるために交わした条件。
何もかもよくしてくれたさゆみが、遥と優樹に課したたった一つの枷だった。

「だからダメだよ。約束破っちゃ」

「でも…」

「だーめ。今はだめ」

優樹が俯き、また嗚咽を漏らし始める。
でもその手足はすっかり弛緩していて、抵抗する気が無くなったのを遥は感じていた。

遥は、あの時些か恐怖を感じさえした約束が
こんな形で意味を持ったことを有り難く思っていた。
まさかさゆみがこんな事態を予測して取り交わしたのでは無いだろうけれど。

「今晩…いや、明日になるかな。
生田とりほりほが帰ってくるまではさ、工藤も、待っててあげてよ」

「……生田さんと鞘師さん?」

遥にはさゆみの言葉の意味が分からず、
疑問符を浮かべた。


不意に訪客のチャイムが鳴り響く。

「入っといで」

呟くように言ったさゆみの声が聞こえたのか、玄関のドアが開く音が聞こえた。
それから軽い足音。

「おじゃまします!くどぅー、まーちゃん、遊びに来たよ。ほら、面白い漫画もいっ、ぱ…い…」

明るい調子で部屋に入った春菜の声が、徐々に萎んでいった。
眼前には、泣き濡れ嗚咽を漏らす優樹と、それを抱きしめ険しい顔をする遥。
明らかな修羅場に、春菜のテンションは間違い無く場違いだった。

「じゃ、はるなん。あとよろしくね」

さゆみがぽんと春菜の肩を叩いて、自室の方に歩き去る。
春菜が登場しても、優樹は泣いているし遥は険しい目をしている。

もしかして、めちゃくちゃ大変なことを任されちゃったのかもしれない。

冷や汗を流し、内心でそう独りごちながら
どうすれば二人の気持ちを解いてあげられるのか、春菜は頭を巡らせ始めた。


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最終更新:2014年07月14日 23:03