本編15 『子供たちの戦い』


町から離れ、小径を暫く歩く。
里保は最後の衣梨奈の言葉の意味を考えていた。
何か方法を思いついたのだろうか。
しかし、横を歩く衣梨奈の顔は決して明るいものでは無かった。

「えりぽん、何か思いついたの?」

里保の声に、衣梨奈は神妙な顔を向け
微かに頷いた。

「とにかく、一回戻ろ?」

言って衣梨奈が懐からスケボーを取り出す。
魔力を込めだした衣梨奈を里保が制止した。

「まって。ちょっと休もう。
うちら昨日から全然寝てないし、このまま飛ぶの、危ない」

いくら衣梨奈の魔力が尽きなくても
高速でしかも長時間飛ぶには二人ともに集中力がいる。
空では少しの乱れが大怪我の元になる。
空を飛ぶことに慣れている里保は
その危険さをよく承知していた。


衣梨奈は真剣な里保の目を見返し、少し笑って頷いた。

「そうやね。言われたらめっちゃ眠くなってきたと」

それからスケボーを仕舞おうとした衣梨奈が
何か思い出したようにもう一度それを取り出す。

訝る里保に衣梨奈が言った。

「ねえ、里保。ちょっと見ててくれん。
えりここまで飛んで来てさ、何かバランス取るコツを掴んだ気がすると」

里保の魔法と制御で、落ちることは無い、という安心感を頼りに
衣梨奈も衣梨奈なりの方法を模索していた。
空中での魔力の運用。姿勢の制御。
そんなものを、往路で学びとっていたらしい。

里保は少し微笑んで頷いた。

「いちおう、『マグネットの魔法』かけとく?」

「ううん、いい。でも落ちそうになったら助けて」

少し照れくさそうに言う衣梨奈に
里保はニコリと笑い頷いた。


衣梨奈が慎重に魔力を練り直し、再びスケボーを浮かせる。
その上に腰掛けると、ふわりと舞い上がった。
里保は少し離れてその様子を見つめ、いつでも飛び出せるよう構える。

空中を遊覧しながら、衣梨奈が徐々にスピードを上げる。
いつしかその速度は随分速くなって、群れて飛んでいた小鳥を追い越した。
衣梨奈はうまくバランスを取ってスピードに乗り
器用に空を飛び回った。

少し体勢が崩れ、慌てた衣梨奈がスピードを落とすとその拍子に乱れ、身体が投げ出される。
上手くスケボーに片手を掛けて、地上に投げ出されずにすんだ衣梨奈を
準備していた里保がすぐに飛び出し、抱き上げた。

「ありがと、里保」

「凄い!えりぽんもう飛べるじゃん!」

「うーん、でもやっぱり気を抜くとダメやね」

「あとは加速と減速だね。でも、そこまで来たらもうすぐだよ」

ゆっくりと地上に降下しながら
衣梨奈がくしゃりと顔を崩し笑う。

「うん。めっちゃ嬉しい…」


ずっと捉えあぐねていたコツが漸く掴めた。
ここまでになれば、自由自在に飛べるようになるのもすぐだ。
まだ心配ではあるけれど。
里保はいつか言っていた衣梨奈の夢、
里保と衣梨奈が並び空を飛ぶことが、もうすぐにでも実現しそうなことに胸を高鳴らせた。

衣梨奈も初めて自分だけの力である程度飛行出来たことに言いようのない感動を覚えていた。

「じゃあ取り敢えず休んで、それから飛んでいこう」

「うん。でも流石に帰りはまだ里保と一緒に飛んだ方がいいっちゃんね」

「そりゃね。二人で飛んだ方がずっと早いし、ずっと安全だもん」

「でも、いつかは並んで飛びたいけん」

「うん、うちも」

興奮気味に話しながら二人はもう一度道を歩き始めた。

どこか休める場所を探そうと考えて、少し歩き
よくよく考えれば町も宿も暫くは無いことを思い出した。
結局スピードを抑え、近くの街まで飛ぶことにした。

また里保の『マグネットの魔法』と衣梨奈のスケボー
それに風の魔法を合わせて浮かび上がる。
昨夜初めて使った方法だけれども、もうすっかり慣れたもので
互いに安心して身を任せることができた。
ずっと親しんだ魔法のように、里保と衣梨奈にとって一番しっくりくる、
身体に馴染む飛行魔法になっていた。


近くの街に降り立ち、宿を探す為に歩き回る。
けれども、今は真昼間で、休むだけの為に使わせてくれる宿は中々見当たらない。

「里保、あのお城みたいなとこ、ホテルって書いてあるとよ?営業中って」

「ダメだよ。あれは多分凄い高いホテルだから。うちそんなにお金持ってきてない。えりぽんは?」

「えりも、電車代くらいしか無いっちゃん…」

狗族の郷から程近い街は、それほど大きくも無くて
結局歩き回って疲れた二人は公園のベンチで仮眠することに落ち着いた。
本当はお布団で眠りたいところだけれど仕方ない。
それに少し眠るだけでも大分違うはず。

太陽が高くなってもそれほど蒸し暑さを感じない。
M13地区に比べても、随分夏を過ごしやすい場所だと感じた。
陽気と風が気持ちよくて、ベンチに腰掛けると直ぐに睡魔が襲ってきた。


衣梨奈が里保の肩に頭を乗せ
里保も衣梨奈に身体を預ける。
近くの道路を走る車の音、奥の広場で子供がはしゃぐ声。
だんだん音が遠のいていく。

「…里保」

「うん?」

「えりちょっと考えたっちゃけど」

「うん」

「起きたら、聞いて?」

「うん」

「おやすみ」

「おやすみ、えりぽん」

二人は身を寄せ合い、小さな寝息をたてはじめた。

 

 

 

 

風に頬を擽られて目を覚ます。
少し汗ばんだ頬の向こうから、衣梨奈の声が聞こえた。

「里保、起きた?」

「うん」

先に起きていたらしい衣梨奈は
里保に肩を貸したまま垂れた手を握ってくれていた。
まだ気怠さが残っていて、身体を動かすのが億劫。
それでも何とか身じろぎしていると、また衣梨奈の声が降りてきた。

「そのまま聞いて」

里保はその言葉に甘えることにして、
僅かに首を縦に動かした。

「多分、『正解』やないと思う」

衣梨奈はそう前置きをして、小さく
それでも決然と言葉を紡ぎ出した。


.


話を聞き終え、里保は不思議な高揚に包まれていた。
間違い無く『正解』ではない。
きっと誰も幸せになんかならない。
みんな少しづつ辛い想いをして、悲しい想いをして、
そして根本的解決もしない。

でも、それが状況を打開する可能性のある方法なことも事実。
衣梨奈の囁くような声の内側に、既に心に決めているという意思が見えた。
そして里保にもまた、そうしようと、という結論が導かれる。

頭の中がやけにクリアになっていて、
その方法に付随する様々な問題点が浮かんでくる。
一つ一つ対処して、考えて、漏れのないように。

一方で、まだ心が眠っているのか感情は覚束無い。
その結果に待つ悲しい気持ちが、夢現の中に揺らめいているようだった。


「里保も、一緒に来てくれる?」

「うん、勿論」

「協会とも……パパやママとももう会えないっちゃよ?」

「それを言うなら、えりぽんだってでしょ」

自分はまだ全然いい。
協会だって、半ば抜けるつもりでいたのだし
局長や衣梨奈の母とだって……親子では無いのだし。
それよりも、三年ちゃんと顔を合わせていない衣梨奈が、
このままお別れしてしまうことが悲しかった。

でもきっとそんな悲しさは我慢出来る。
我慢しなくちゃならない。優樹だって、もう家族と会えなくなる。

「道重さんとも、お別れっちゃね」

「そうだね…」

「怒るかな?」

「わかんない」

さゆみがどんな顔をするのか、想像が出来ない。
ただ、衣梨奈を大切に思っていたことだけははっきりとしていたから
悲しい思いをさせてしまうのだろう。
それに、聖や香音。里保にとって初めてといっていい学友で
魔法に関係なく出来た友達とも別れてしまう。

里保よりも衣梨奈にとって、辛いことばかりだ。


里保は漸く、衣梨奈の肩から頭を起こした。

悲しい気持ちを辿るよりも、今は先に考えるべきことがある。
今のぼんやりとした案のままさゆみに伝えれば、それこそ怒るだろうと思った。
やるからには、失敗は許されない。
失敗が最悪の結果。

「里保、もう身体大丈夫?」

「うん」

「戻ろ。ちゃんと準備せんと。
時間も足りんかもしれんし」

「そうだね。優樹ちゃんと、どぅーの協力もいる。
狗族の人達も……認めてくれるかな…」

「一応、言質は取ったけん」

「そだね」

衣梨奈が笑うから、里保も少しだけ笑った。

西に傾いた日が、二人の頬を赤く照らした。

 

.


笑うというのは、凄いことだと思う。
遥はそれを実感していた。

決して笑える気分じゃない。
それでも春菜の全力の変顔や一発芸を見ていると
生理現象のように笑いがこみ上げてくる。

それは優樹にとっても同じだったようで
ひと時でも辛い気持ちを忘れさせてくれていた。

現実は何も変わっていないから
ともすれば直ぐに、最悪の思いが溢れそうになる。
けれども、きっと心がそれを忘れたいと思っているからだろう。
一度笑うと、優樹も遥も、次も笑うことが出来た。

午前から奮闘している春菜は、傍目にもかなり憔悴している。
遥は心から春菜に感謝していた。
遥には、今の優樹を前にどうすればいいのか
皆目見当もつかなかった。
ずっと泣き続けるままにはしたくない。
それでも、春菜のように力技で優樹の遠慮がちな笑顔を引き出すことは
決して出来なかっただろう。


「そろそろ顔の骨格が変わりそう…」

「はるなん、もっかいカニやってカニ!」

リクエストに応えて
すぐさま春菜が気持ち悪いカニの動きをすると、
優樹がきゃっきゃとはしゃぐ。
遥も隣で手を叩いた。

一時しのぎでしか無いことは分かっている。
それでも願わくば、この一時がずっと続いてくれればいい。
もう一番日差しの強い時間帯を回っていた。
あと何時間かすれば、また日が暮れる。

不意にチャイムが鳴り響いた。
誰か来たらしい。

遥達の遅い昼食の片付けをしてくれていたさゆみが一度戻り、
そのまま玄関の方へ歩いていく。

そちらに気を取られた優樹が視線を逸した隙に
春菜が額の汗を拭い大きく息を吐いたのを
遥は見なかったフリをした。


.

聖は少し緊張した面持ちで、隣の香音の手を握った。
程なく道重家の玄関が開き、さゆみが顔を出した。

「ふくちゃんに香音ちゃん、いらっしゃい」

「こ、こんにちは道重さん」

さゆみの表情は普段と変わらないように見える。
いつもと違うところといえば、こうして出迎えるのが
衣梨奈と里保では無いということ。

家にも、居ないのだろうか。

「急ですみません道重さん。
今日えりちゃんと里保ちゃんがお休みだったんで、
どうしたのか気になって」

香音の言葉にさゆみは少し困ったように眉を下げ
小さく微笑みながら一つ頷いた。

「そうだね。ちゃんと連絡しなかったから、心配するよね」

「えりぽんと里保ちゃん、居るんですか?」

「ううん。今いない。ちょっと出かけちゃってるの」

「そうなんですか…」

どう尋ねればいいかわからず、言葉を途切れさせた聖に変わって
香音が続ける。


「何かあったんですか?もしかして魔法のこととか…」

さゆみは少し思案したあと、また眉を下げ、落ち着いた声を出した。

「うん。ちょっとね、昨日急なことがあって。
『また明日』って言ってたのにね。酷い子達だね、ほんと」

さゆみの笑顔が、どこか自嘲めいていることに気付き、聖の胸がざわつく。

「……大変なことですか?」

「まあ、大変っちゃ大変。 詳しく教えてあげたいとこだけど、いろいろとややこしいことになってて。
そのうち……落ち着いたら、生田とりほりほから直接話すだろうからさ、今は…。
ごめんね、こないだあんなこと教えたばっかだし、気になっちゃうよね」

「えりちゃんと里保ちゃんは、いつ戻って来るんですか?」

「うーん、どうだろう。 もしかしたらテスト終わった後くらいになっちゃうかも。
そしたら追試だろうね。ま、しょーがない」

「そんなに……」

「ごめんね、二人とも」

「いえ…」

「今ね、生田とりほりほは納得のいく答えを探してるの。
学校の試験は御座なりになっちゃってるけどね。
でも、あの子達のことだから、ちゃんと気持ちに決着を付ける。
それまでね、信じて待っててあげて欲しいの。
信じてあげられるかな?」


正面から告げられた言葉に、聖と香音は酷く戸惑った。
今までさゆみがこんな風に言ったことがあっただろうか。
それはまるで、さゆみの中にも僅かな不安が覗いているかのようだった。

聖も香音も、それ以上さゆみを問い詰めることは出来なかった。
何か急な、魔法使いとしての、ややこしくて大変な自体が起こったこと。
それだけを理解し、あとは二人を信じるしかないと了解した。
信じていないわけはない。
それでも、不安が過ぎった。ただ信じるということは、存外難しい。

「……勿論です」

「うちらに連絡もなく無断欠席したこと、問い詰めなきゃですしね」


聖は今更ながら、魔法使いと自分達の距離を思い知らされた。
やっぱり、踏み込めない。
今何が起こっているのか、知ることも出来ない。
後から教えて貰えるとしても、やっぱり寂しい。
本当はいつでも衣梨奈の隣にいたいのに。


「でもまあ、ちゃんと戻って来るから。
待っててあげてよ。ふくちゃんと香音ちゃんも
二人と一緒に追試、なんてなったら洒落にならないでしょ?」

待っていることしか出来ない。
聖にとっては試験に苦悩し、学校に通い、夏休みを待ちわびることが日常。
でも衣梨奈にとってはもう一つの日常がある。
その片方で、聖はただ待っている。
寂しいけれども、ただ待っている。

「分かりました。すみません、道重さん」

「ううん。テストちゃんと頑張ってね。
みんなで気持ちよく花火しよ」

「はい」


聖と香音の背を暫く見送った後部屋に戻ったさゆみに、
春菜が声を掛けた。

「どなたでした?」

「ああ、ふくちゃんと香音ちゃん」

「おおお、是非上がって頂きましょう。一緒に遊びましょう是非!」

「もう帰ったよ。てか二人共テスト間近なんだからさ」

「おぅ…のぉ…」

春菜の裾をちょいちょいと引っ張る優樹の
まだ腫れの引かない目元を眺め、
さゆみは夕食の支度へと向かった。


 

 

結局春菜は夕御飯も道重家でよばれることになった。
優樹と遥の側を離れられないというのもあるし、
何より自身が離れたくないと思っていた。

二人の、ほんの小さな女の子に課せられた大きな理不尽。
年上として、少しでも力になりたいけれど、何も出来ない。
強い無力感の中で、それでも少しでも、自分が二人に
微かな笑顔を取り戻させたことが嬉しかった。
さゆみは衣梨奈と里保が戻るまででいいと言う。
けれど、二人が帰ったからといって、優樹と遥の状況が何か変化するわけでもない。
だから、もっとずっと一緒にいたいと思った。
魔道士としての自分の力は何の役にも立たない。
でも、まだ出来ることはあるはずだから。


衣梨奈と里保が不在のまま、さゆみ、遥、優樹、春菜で囲む食卓は静かで、気持ちは浮揚しない。
春菜も、折角のさゆみの手料理をじっくりと味わう心持ちにもなれなかった。
それでも、特に優樹の様子は、午前中に比べれば随分良くなったと思う。

まだ時折不意に暗い表情を覗かせるけれども
目元にずっと残っていた涙の痕は漸く消えていた。

さゆみは静かに、いつもと変わらない優しい表情で
言葉少なに食事する面々を見守っていた。

春菜はさゆみの考えを知りたいと思った。
二人の気持ちを、二人のことをどうしてあげたいと考えているのか。
心配していないわけはない。
それは今春菜がここにいることからも、間違いなかった。


けれど、今後のことについては、どうだろうか。
春菜はそれを尋ねることが出来なかった。

多分、自分達の感覚と、大魔道士であるさゆみの感覚は違うのだ。
今何かしたい、明日をどうにかしたいと焦る気持ち、
そういう気持ちとは別の、もっと大きな時間の流れの中にさゆみはいる気がする。

もがく子供達を否定せず、優しく見守ってくれる。
悲しい気持ちが癒えるまで、下手な慰めもせず側に居てくれる。
それがどれだけの時間を必要としたとしても、涙が止まるまで
ずっと待っていてくれる。

漠然と、春菜はそれがさゆみのスタンスなのだと考えた。

自分にはとても出来ない。
大好きな人の悲しい顔を、ずっとそばで見続けることなんて
自分自身が耐えられないと思う。
きっと1年でも10年でも、さゆみはただ優しく待つのだろう。


食事を終えると、さゆみがお茶を出してくれた。
春菜は恐縮しきりで、さゆみに何度も頭を下げる。

「本当にすみません、道重さん。私なんかにもこんな…」

「いいのいいの。今日は本当にありがとね、はるなん」

さゆみの有無を言わせない、それでも裏のないと分かる笑顔に
春菜は返す言葉もなく頬を染めた。

強く暑気の残った夜。
いつにも増して窓の外から盛大な虫の合唱が聞こえてくる。
それが、いよいよ本格的な夏の到来を思わせてくれた。

暫くその音に耳を傾け、遥と優樹の様子を窺う。
二人もやはり虫の声を聞き、たまにお茶を口に運び
また考え事をしているらしかった。

その表情は、昨日の昼間に一緒に遊んだときとはまるで違う大人びたもの。
二人が泣いているのも嫌だけれど、こんな理不尽を受けて、受け入れて、
急激に大人になってしまうことも、何だか寂しかった。


不意に風の音が聞こえる。
玄関に人の気配を感じたと思うと、つづいて戸が開かれる音が聞こえた。

静かな足音。
そして、衣梨奈、続いて里保が姿を現した。

「戻りました」

「おかえり、二人共」

さゆみが、優しく二人を迎え入れる。
衣梨奈と里保の表情もまた、どこか普段の愛らしさとは違う、
何かを決意したかのような大人びたものだった。

衣梨奈は一同を見回し、優樹と遥、それに春菜にそれぞれ笑みを投げかけた。
里保も、一人一人に目を合わせ、小さく頷く。

「早かったね。明日くらいにはなるかと思ってた」

さゆみの言葉に、衣梨奈が頷いた。

「はい。二人で飛ぶの、思ったより大分早くて」


「それで、どう?」

今度は里保が答える。

「見つかりました。いや、決めました」

「そう」

漠然と、春菜にはそのやりとりの意味が分かった。
そして、衣梨奈と里保の表情の意味。
二人がいったい何を『決めた』のか、知りたいと思った。

さゆみに話を聞いてから、もしかしたらそのまま
戦いに身を投じてしまうのではと心配していた。
その二人がちゃんと帰ってきたことにはいくらか安堵したけれど、
その表情は、今からまさに戦いに赴く時のそれのようにも感じる。

「まだちゃんとしてないんです。
ちゃんと、『出来る』ってして、道重さんに説明します」

衣梨奈の言葉に、さゆみは何か言葉を飲み込んだように、すっと息だけを吐いた。
そして代わりに一つ頷く。

衣梨奈はそのまま、優樹と遥の方に向き直った。
里保も身体を向け、改まって二人を見る。

「優樹ちゃん、どぅー、えりたちの話、聞いて欲しい。
それで、力を貸して欲しい」

真面目に、真っ直ぐに向けられた視線に
遥と優樹の瞳の奥が揺らぐ。


「二人の協力がいる。うちらだけじゃ、何も出来ない。
でも二人が協力してくれたら、もしかしたら出来るかもしれないことがある」

続く里保の言葉。
返答は無かった。
その代わり、僅かに頷き、優樹が立ち上がる。
それに続いて遥も立ち上がった。

「ごめんね、はるなん。二人を借りるね?」

今日一日、優樹と遥と一緒に遊んでいたことを知っているわけでも無いだろうけれど、
きっと春菜が無意識に優樹と遥に傾注していたのだろう。
衣梨奈がそんなことを言うから、春菜も慌てて立ち上がった。

「生田さん、鞘師さん、あの…私にもお話聞かせて貰えませんか?
私にも何か、力になれることがありませんか?」

多分どこかで、優樹と遥を二人に委ねてしまうのが悔しかったのもある。
衣梨奈と里保が二人を好きだと思う気持ちも感じている。
でもそれに負けないくらいに自分の中でも二人の存在が大きくなっていた。
自分なんかに出来ることがあるならば、何でもしたいと思うくらいには。

衣梨奈と里保は少し顔を見合わせ、互の表情を探った。
それから、春菜の方に向き直る。二人共、柔らかい笑顔だった。

「はるなんが協力してくれるの、すっごい心強い」

里保の顔に、普段の愛らしさが一瞬だけ戻る。
春菜は小さな嬉しさを感じ、頷いて後に続いた。



 

5人の後ろ姿を見送り、さゆみは一人また腰掛けてお茶を啜った。

衣梨奈と里保は答えを出したらしい。
きっとそれはさゆみには分からないこと。

色々なことが分かるさゆみは、それだけにどんなことにもリスクを見出してしまって、
これと決めて実行することが苦手になっていた。
何もしなくても、ただ待っていれば時間が大抵のことを解決してくれる。
そんな風に考えるようになってしまったのはいつからか。
きっと長い年月を生きている弊害なのだろう。

だから子供達が今をどうにかしようと、無茶でも我武者羅でも
行動を起こそうとする姿は眩しい。
衣梨奈と里保の決めたことがどんな考えでも、口を挟むつもりは無かった。

けれども、その表情が、さゆみの中に小さな不安を生んだ。
決然とした、大人びた表情。
何かを覚悟した表情に見えた。それは、悲壮な覚悟、とも読み取れる。

少しくらい無茶をするのはいい。
だけれども、そういう若い力の、若い気持ちの発露が
身を滅ぼしてしまうことも往々にしてある。
そういう生き方も一つの人生で、否定すべきでは無い。

それでも考えてしまう。
そうなったら、また自分は残されてしまう。
あなたたちはそれでいいかもしれないけれど、残されたさゆみの気持ちはどうなるのか。


衣梨奈や里保、それに優樹や遥の顔を今一度思い浮かべる。
きっと居なくなってしまっても、そういうものだと思って自分はこれからも生き続けるだろう。
それでも間違い無く、心がまた一つ枯れる。
それくらいには、あの子達のことが大切で、好きなのだ。

空になったカップをソーサーに戻し、さゆみは思考を中断した。

まだ何も話を聞いていないのに、変な想像をするものではない。

苦しんでいる子供達に、何もしてあげられない自分が悪いのだ。
人のために何かをしたことなんて終ぞ、ない。
何をすればいいかも分からないし、本当に人のためになるのかも分からない。

臆病な自分は、ただ自分の為に生きている。
もし何かをするならば、自分の大切な子達を失うことのないように、それだけをするのだ。
他の何を蔑ろにしたとしても。

そんなことにならなければいいけれど。

衣梨奈の部屋に篭った5人は、それからずっと話し合っていたらしい。
昨夜からろくに休んでもいないだろうに、侃々諤々の議論は続き
夜中になっても部屋の明かりが消えることは無かった。

さゆみは、子供達の答えを聞くのを、少しの不安と少しの楽しみを抱きながら待ち
先に眠りについた。
どんな結論に至っても、時間は進むし未来は訪れる。
願わくば、さゆみにとっていい未来であって欲しい、そう思いながら。


.

朝、さゆみが早めに目覚め、居間に降りると
衣梨奈、里保、優樹、遥、そして春菜が、さゆみを待っていた。

「おはよう」

さゆみの挨拶に、それぞれの「おはようございます」が響く。
それはいつもより畏まった、緊張を含んだ挨拶だった。

「道重さん、今からえりたちの考えをお話してもいいですか?」

テーブルの上には朝食の準備がしてあって、だけど誰も手をつけていない。
少し豪華に感じるそれらに、何か意味はあるのだろうか。

さゆみが頷いて席に掛けると、子供達も続いて座った。

「えりたち、どうしたら協会と狗族が戦わんですむかって、ずっと考えていたんです」

徐ろに話しだした衣梨奈の声に、じっと耳を傾ける。
本人に言ったことは一度もないけれど、衣梨奈の可愛らしい声がやっぱり好きだなと思った。


「そんな方法無いって思ったっちゃけど、パパが言ってたこと思い出して。
一つ、あるんです。
……優樹ちゃんを、差し出すこと」

さゆみは些か驚いて、咄嗟に優樹の方を見た。
昨夜散々話していたのだから当然了解しているのだろうが
それにしても、優樹の表情は真剣で、強いものだった。

「優樹ちゃんが協会の手に渡れば、狗族との争いの理由は無くなる。
根本的な理由は無くならないですけど……。とにかく、もう攻めることは出来なくなるんです」

さゆみは変に勘ぐることはやめて、静かに頷きまた言葉に耳を傾けた。

「それで、狗族と協会との問題は終わる。
でも優樹ちゃんが10年も閉じ込められる。そんなん絶対嫌です。
狗族の人達も、絶対そんなこと認めない。だから…」

衣梨奈が息を呑む。
それに呼応するように、里保や遥も息を呑んだのが分かった。

「捕まった優樹ちゃんを、狗族とは関係のないえりたちが助け出します」

さゆみはその言葉に、一つ長い息を吐いて睫を伏せた。

 


「出来る?」

暫く間を置いて、さゆみがポツリと呟いた。
里保がそれに強く答える。

「出来ます」

今度はさゆみの視線が里保へとうつった。
そのまま、里保が話を預かって続ける。

「協会は前提として、狗族は絶対に優樹ちゃんを差し出さないと考えて動いています。
だから、優樹ちゃんの身柄が協会に移った場合のことを、そこまで準備はしていない。
通例通り、他の魔道士を捕まえたときと同じように扱うはずです」

里保は一度言葉を切り、さゆみの表情を覗い、
優樹とも視線を交わして、また息を吸い込んだ。

「処分が決まるまで仮拘置所に入れられるはずです。
短くても数日、長ければ数週間…。協会の本留置所に入れられてしまったら、
助け出すことは絶対不可能です。でも、仮拘置所にいる間ならば出来るんです」

「ああ…」


「うちは何度か入ったことがあります。
普段は捕まってる人も殆どいない場所だし、施設自体もそんなに大きくない。
何より、中から破られることは警戒してても、外から誰かが助けに来ることは想定されてません」

魔道士を捕まえておくということは、とても難しい。
例え『奪って』も、長く収監していればいずれ魔力は戻るし、
無抵抗で捕まったり、自ら出頭した魔道士は奪うことも出来ないから
仮拘置所に魔力を残したまま入る魔道士もいる。

様々な魔法を駆使してそこを抜け出そうとする魔道士に対して、
協会は長年頭を悩ませ、対策を積み重ねていった。
中には恐ろしい力を持った魔道士も多く収容している本留置所は
鉄壁の施設と厳重な警備で、蟻の入る隙も無い。

仮拘置所も、そうした中からの力には多くの対策が為されているけれど
外からの襲撃への備えは殆ど無い。
そこは捕まった魔道士が短期間収容される場所で、魔道士組織の一員など
特殊な、危険な事情がある場合には利用されない施設だからだ。

狗族がそこを襲撃するという考えにも至らないだろう。
もしそうするならば、初めから優樹を差し出す意味は無く、
また協会に狗族を攻撃する確固たる理由を与えることにもなる。


「どこに収容されることになるか、施設の内部はどうなっているか、
考えられる可能性をできる限り調べます」

今度は春菜が言葉を継いだ。

「時間は少ないですが、準備することが出来ます。
あちらも魔道士ですから、全て想定通りに事が運ぶとは思いませんが、
こちらも魔道士。それも鞘師さんや生田さんのような天才魔道士ですから」

さゆみは、話を聞いて、ただ闇雲に考えたことでも無いことに一つ安堵した。
もともと里保や衣梨奈はそんなに無思慮ではないし、春菜も加わったのだから
当然といえば当然なのだが。
それよりも、その行動の意味をきちんと理解しているのかが気になった。
5人の表情を見れば、それも恐らく分かっているのだろうが。

「なるほどね。でもそんなにうまくいくかな」

探るように、さゆみが一同を見回す。
再び里保が口を開いた。

「失敗は絶対に出来ません。それが一番、最悪です。
絶対に成功させる、それを前提にして、問題が幾つかあります」

失敗するということは、優樹がそのまま捕まるだけでなく
里保や衣梨奈も協会に対する敵対行為でその身柄を拘束されるということ。
また狗族は一番受け入れがたい優樹を失うことと、
一族の末裔を協会に売ったという汚名を同時に背負うことになる。
協会にとっても、狗族の魔力が手に入ることは無く、得るものがない。

まさに誰も幸せにならない最悪の結末。
だから絶対に失敗は許されない。


「優樹ちゃんはうちらが助け出す。それが出来ると狗族の皆さんに信じて貰うこと。
そして優樹ちゃんの未来を私たちに委ね、一族の子供を差し出すという汚名を
引き受けて貰う。その交渉をしなければいけません。
うちらの力を信じて貰うだけの時間はもうない。
でも、きっと信じて、任せてくれる。昨日狗族の皆さんに会って、そう感じました」

衣梨奈が続ける。

「それから、えり達が優樹ちゃんを助け出したあと、それが狗族の仕業と思われたらダメなんです。
少しでも疑われたら、協会はまた狗族を狙うかもしれない。
だからあくまで、狗族と関係ない人がやったって、思わせないとダメなんです」

「これを使います」

遥が、手に小さな腕章を掲げた。

「ハルの協会章。一回捨てたんですけど、はるなんが拾っててくれたので」

「くどぅーが道に捨てたから、何かの時に使えるかと思って」

「これを現場に残しとけば、やったのはハル達で間違いなくなる。
なんせまーちゃんと一緒に協会から逃げた奴ですからね。動機は充分」

畳み掛けるように口を開く子供達を見ながら、
さゆみは少し冷めた気持ちになっていた。
なるほど、細かいところまで考えは及んでいる。
でも、理屈に拘りすぎているようにも感じる。


「狗族への疑い、それは多分ついて回ると思います」

里保がまた話しだした。

「協会に攻められず、優樹ちゃんも助け出される。
狗族にとって一番いい結果になるから。
だから……優樹ちゃんはもう、狗族の郷には戻らない」

さゆみがまた優樹の方を見る。
優樹は唇を噛み締め、眉を顰め、小さく頷いた。

「優樹ちゃんが戻らなければ、狗族を疑う状況証拠も無くなる。
多分協会は暫く狗族の動向を監視するはずですから」

里保の声が少し震える。
変わらぬ決意の表情を浮かべる5人の中に、小さな悲しみが漂った。
少しの沈黙の後、衣梨奈が口を開く。

「協会に敵対することの意味は、えりたちも分かってます。
どこにも居場所が無くなる。
優樹ちゃんが家族と会えなくなるように、えりたちも、
もうパパやママの所には帰れなくなる。
それに、ここに戻って来たら、今度は道重さんが疑われます」

不意に飛び出した自分の名前に驚いてさゆみは衣梨奈の表情をまじまじと見た。
悲しそうな、寂しそうな。今にも泣き出すかもしれない、そんな表情。

「えりたちが決めたことなんです。
それで、道重さんにこれ以上迷惑かけられないから…。
ちゃんと優樹ちゃんを助け出したら、5人で逃げるつもりです」

「……どういうこと?」


「旅に、出ます。新垣さんみたいに。
5人で協力して、協会から逃げて…。
それでもちゃんと、幸せにしないといけない」

「…出来る?」

「…します」

さゆみはようやく5人の決意の意味を知った。
それは協会に反旗を翻し、自分たちの立場がどうなるかも理解した上での決断。
これまでの人との関係を全て断ち切って、別れて、5人で生きていくという悲壮な決意だった。

「…はるなんも行くつもりなの?」

「はい…」

「野望が中途半端じゃない?」

「それは、仕方ありません。
この街が好きですが…本当に好きですが、私にとって、
どうやらまーちゃんとくどぅー、それに生田さんや鞘師さんの方が大切だったみたいです」

春菜が苦笑しながら言う。その目に、薄く涙が浮かんでいた。

「本当に今までいろいろ助けて下さったのに、すみません」


沈黙が流れ、朝の風が窓越しに部屋の中に流れ込んできた。
子供達の『考え』は話終えたのだろう。
様々な感情が浮沈する表情。視線がさゆみに注がれている。

さゆみは小さく溜息をついた。

「道重さん…」

不安の呟きが誰からともなく漏れる。

「分かったよ。話はちゃんと聞いたから」

「あの、認めてくれますか?」

衣梨奈の声に、さゆみはいくらか不機嫌そうな顔を向けた。

「さゆみがダメって言ったら、やめる?」

「…やめません」

「でしょうね」

独り言のようにさゆみが呟いて、視線を切った。


並べられた朝食を見渡し、少し明るい声を出す。

「分かったから、さ、朝ごはん食べよ。みんな揃ってるんだから」

まださゆみの様子に戸惑っている衣梨奈や里保に、さゆみは少し不器用な笑顔を向けた。

「言ったでしょ。考えて決めたことにさゆみは口出ししないよ。
それより、ちゃんと食べて、ちゃんと休まないと何にも出来ないよ」

衣梨奈と里保の目にも、薄らと涙が浮かんでいた。
明るい朝の陽光の中6人で囲む朝食は美味しくて、その味も、その匂いも、景色も、
忘れられそうにない。

朝食を食べ終えると、衣梨奈達はもう一度顔を洗い、
気を引き締め直して出来うる限りの準備に向かった。

子供達を見送る。
さゆみは目を細めて椅子に深くもたれ掛かって
何度目になるか分からない深い溜息をついた。

「別に、迷惑なんかじゃないんだけどなぁ…」

ひとりごちた言葉が揺らめき、仄かな風に巻かれて宙に消えた。

 

 


春菜は調べ物の為に一度戻り、
衣梨奈達はまた話し合い、準備に取り掛かった。
時間はあまりない。
出来うる限りの準備と、計算と、そして魔力の回復をしなければならない。

さゆみは子供達の奔走を横目に見ていた。

どこか活き活きとしているようでもある。
開き直っているのか、辛いことを考えないようにしているのか。
大人に逆らって、一から自分で決めて計画して実行することが初めてだからだろう。
気持ちが昂ることも分かる。そしてその昂ぶりが、色々な感情を覆い隠してくれることも。

パソコンを開く気にもなれず、さゆみは椅子に座ってぼんやりとしていた。

やっぱり子供達の計画にはいろいろな穴がある。
優樹を助け出すまでの流れについては綿密な計画を立てていた。
勿論それが肝で、それを失敗すれば元も子もない。
だけど、それ以外のこと、その後のことについては、あまりにも考えが足りない。

5人で協会から逃れながら生きていく、本当にそんなことが出来ると思っているのだろうか。
衣梨奈の口から里沙の名前が出たことを思い出す。
多分里沙が一人で旅をしているから、自分達もそうしようと思ったのだろう。

だけど里沙がそれを出来るのは、圧倒的な経験と世の中についての理解、
魔力を失っても立ち回れるだけの強さがあるからだ。
それに里沙は別に協会に追われているわけでもない。


いくら魔道士として優秀でも、狭い世界しか知らない子供達が思いつきで
生きていける程、世の中は甘くはない。
5人が不和もなく助け合っていられる保証も無い。

そして衣梨奈と里保は、生田局長のことを分かっていない。
親というのは、どんな方法を使っても子供を守ろうとするもの。
どんなに上手く逃げても、必ず局長が二人を見つけ出すだろう。
自分の立場なんて顧みず、自分の方法で二人の娘たちを守ろうとするはずだ。

親の心子知らずというのか。
不器用な父親である局長のことを衣梨奈と里保がどう思っているのかは知らないが、
さゆみから見れば、二人の娘を目に入れても痛く無いほどに愛している親バカだ。

楽観的とは言わないが、先のことは全然見えていない。

仕方ないことなのだけれど。
10年先、20年先のことなんて分かるわけが無い。想像だって出来るはずもない。
だってまだみんな、20年も生きていない。

さゆみには色々な想像が出来てしまう。
後悔しないだろうか。辛い想いをし続けないだろうか。
20年先まで、みんな生きていられるだろうか。

長いはずの夏の日は
さゆみがぼんやりと腰掛けている間にあっという間に暮れた。

.


翌朝、里保と衣梨奈は、優樹を連れ狗族の郷へと出発することをさゆみに告げた。

移動、そして狗族に考えを伝え認めて貰うこと、優樹を託すこと。
優樹と狗族との最後の時間。協会に出来るだけ早く事態の収束を悟らせる。

最後通牒を予告された日までもう幾ばくもないから
出来るだけ早く行かなければならない。

さゆみの家の前に、里保と衣梨奈と優樹が立つ。
遥と春菜がそれを見送りに、さゆみの隣に並んだ。

「どうやって行くの?」

さゆみの問いに、里保が答える。

「うちが優樹ちゃんを抱いていきます。
休みながらで、この間みたいに早くは行けないと思いますが、
それでも夜までには着けると思います」

「えりも一緒に飛んで行きます」

「あれ、生田って飛べたっけ?」

「飛べるように、なりました」


衣梨奈はもう殆ど自力で飛べる。
念のために里保の『マグネットの魔法』を掛ければ落ちることも無い。
長時間優樹を抱えて飛ぶ里保をフォローする為にも
狗族と話す為にも、衣梨奈は一緒に行くことを決めていた。

「そっか、いつのまに」

ろくに魔法を教えなかったけれど
衣梨奈は一途に研究し、知らない間に成長している。
さゆみはそれを嬉しくも寂しくも感じた。
今は何故か、寂しさが勝っている。


「りほりほと生田は一度ここに戻ってくるんだよね?」

「はい。どぅーとはるなんと、改めて出発します」

里保が答える。
さゆみが里保の目を見つめる。
里保も真っ直ぐにさゆみを見ていた。

「ね、りほりほ、この間狗族の郷に出発する前にさゆみが言ったこと、覚えてる?」

里保の視線が僅かに揺れる。
里保は唇を結び頷いた。

「一度、どんな結果でも報告しにここに戻ります」

「うん」

さゆみが頷く。


それから、視線を落とし話を聞いていた優樹にそっと手を伸ばした。
優樹はその手を目で追い、それが優しく自分の頭を撫でると
涙を浮かべながらふわりと破顔した。

「みにしげさん…」

優樹がさゆみに抱きつく。
さゆみはそれを受け止め、背に手を回して強く抱きしめた。

交わす言葉は思い浮かばず、たださゆみは優樹を抱きしめ
優樹はさゆみに縋って静かに泣いていた。

抱擁が解かれ、優樹が赤い目でさゆみを見上げる。

「ちゃんと、戻っておいで」

優樹は戸惑いながら小さく頷いた。


「まーちゃん、絶対ちゃんと助けるから、待っててよ」

遥の強い意思を孕んだ声に優樹が深く頷く。

「暴れたりしちゃダメだからね」

「うん」


衣梨奈がスケボーを取り出し、魔力を込めてそれを浮かせた。
それに腰掛けた衣梨奈のお尻に、里保が魔法を掛ける。

「じゃあ、優樹ちゃん」

里保の声に優樹が振り返り、一つ頷いて里保にしがみついた。

「いってらっしゃい」

まるで学校に向かうときのように告げるさゆみに
衣梨奈と里保と優樹が目を向け、声を揃えた。

「いってきます」


三人は空へと舞い上がった。



亜佑美は焦っていた。
協会執行局からは待機を命じられるばかりで、一向に自分の去就の話が降りて来ない。
遥や優樹のことが心配で、早く動けるようになりたいのに、それもままならない状態が続いていた。

どんな事情かは分からないけれど、二人は今難しいことになっている。
遥がまた連絡すると言った言葉を信じて、自分から連絡するのを我慢しているけれど
不安はいよいよ募っていた。

連日執行局の本局に足を運んでいるけれど
慌ただしい雰囲気が続き、新入りの亜佑美を気にかける余裕も無さそうだった。

いつものように局を訪れると、建物の前に局員が集まっていた。
何事かと、近くにいたよく知る先輩局員に声をかける。

「どうしたんですか?みんな外に集まって」

先輩は、亜佑美の顔を見て少し硬い表情をした。

「ああ、局長がいよいよ出発される。それの見送りだ」

「え、局長が…?」

まだ局長の姿は見えない。
もう間もなく出てくるということだった。

「北で大仕事があるって話は聞いてるだろ?
……局長が、その陣頭指揮を取るんだ」

亜佑美は思わず口を開閉し、目を瞬かせた。


協会でも最強の武闘集団である執行局の、局長が自ら指揮を執る。
そんなことはこれまで聞いたことも無かった。
既に本局でも指折りの先輩達が移動している。
そこまでの大事とは想像していなかった。

「そんな、大変なことだったんですか?」

亜佑美の表情の変化に
先輩魔道士がいくらか不器用な苦笑いを浮かべる。

「石田が心配する程のことじゃないよ。
ただ今回は……局長なりのけじめなんだろう」

「けじめ?」

「ずっと反対して、この戦いを回避しようと動いていたからな。
それが出来なかったから、けじめとして自分がやろうとなさってるんだ。
誰だってこんな仕事の指揮を執りたくない」

何か歯に物が挟まったような先輩の物言いが酷く気になった。
見渡せば、周りにいる局員の顔も晴れやかなものではない。

今まで自分にはあまり関係の無いことと思っていたけれど
いったいどんな仕事なのか、知りたいと思った。
自分もまだ新入りとはいえ、執行局員なのだ。

「…いったい今回の仕事ってどんなのなんですか?」

「ん…?そうか、石田はちゃんとは聞いてなかったのか。
まあみんなあんまり言いたく無かったのかもな。
北方の狗族を攻めるんだ」


「く…ぞく…?」

その言葉の意味が理解できず、亜佑美の頭は一瞬真っ白になった。
その白の中にぽっと、優樹の顔が浮かぶ。

「狗族…どういうことですか?なんで?」

亜佑美の顔が青褪め、唇が震えていることに気づかず
先輩魔道士は答えた。

「狗族の子供が協会員を傷つけて逃走した。
その制裁……ということになってる」

「は?え?子供?」

「ん、石田、大丈夫か?顔が真っ青だぞ…」

漸く気付いた先輩が亜佑美を気遣う。
しかし亜佑美にはもう、そんな声は届かなかった。

優樹と遥が居なくなった。
その後、協会がにわかに騒がしくなって、今狗族を攻めると言う。
優樹は狗族。
狗族の子供が逃走…?

「まーちゃん……」

「石田、どうした?」

「まーちゃん、それ私の友達です!絶対何かの間違いですよ!
やめてください!狗族を攻めるなんて、そんな…」


突然声を張り上げた亜佑美に、集まっていた局員がギョッとして視線を寄せた。
注目されたことにも気付かず、亜佑美は身体を震わせている。
何となく感じていた嫌な予感が、最悪の形で現実のものとなってしまった。
遥との会話を思い出す。
多分遥は知っていた。
自分が何も知らず、ただぼんやりと過ごしていたことが悔しくて、悔しくて
亜佑美は泣きそうになった。

「落ち着け石田、おい!」

「ダメです!狗族はまーちゃんの家族なんですよ!
私連絡取ってみます。きっと何かの間違いだから、ちょっと、ちょっと待ってて下さい!」

バタバタと動き始めた亜佑美の頭を
先輩局員が上からぐっと押さえつけた。
スイッチを叩かれたように亜佑美の身体がキュウと止まる。

「落ち着け、石田。もうそんな段階じゃない」

動きを止めた亜佑美は、震えながら、涙を浮かべ先輩を見上げた。

「…どうして?」

「その子供が協会員を傷つけたのは事実だし、逃げたのも事実だ。
そしてそんなことは大した問題じゃない。
狗族がその子を差し出さない代償として、狗族の魔法を奪う。
……それが協会の意思なんだ」

「そんな…」

先輩が苦しげに紡ぎ出した言葉を聞いて
亜佑美の肩から力が抜け、崩れ落ちそうになった。


意味が分からない。
どうしてそんなことをしなければならないのか。

亜佑美の様子を静観していた他の局員達も、先輩と同じ顔をしている。
辛そうな、苦しそうな顔。
みんな嫌なら、局長も嫌ならしなければいいのに。

協会の意思って何だろう。
狗族の魔力を奪うって、どういうことだろう。

局の扉が開き、小さなざわめきが起こった。
局長が姿を現す。

「どうしたんだ?」

局長が、騒ぎの雰囲気を感じて近くの局員に尋ねると
戸惑いがちに亜佑美を指差した。

「あの子が…」

亜佑美が顔を上げ、局長と目が合った。
局長が見た亜佑美の視線が、強く自分を睨みつけている。

亜佑美は局長の姿を見つけ、歩み寄った。
周りの局員が道を開ける。
局長と亜佑美が相対した。

「お前は、石田、だったか。何かあったのか?」

局長は亜佑美の涙に濡れた目を見つめ
静かに言った。


「狗族を攻めるのを、やめてください」

亜佑美が低く強い声で言い放つ。
また辺りにざわめきが起こった。

「…どういうことだ?」

「逃げた狗族の子供は、佐藤優樹ですよね?」

「ああ」

「狗族から奪うなんて絶対認められません。
だいたい、一人の子供が協会員を傷つけたからって、
こんな大戦力で一族から『奪う』なんて無茶苦茶じゃないですか。
おかしいですよ。
まーちゃんとなら連絡が取れます。ちゃんと謝るように説得しますから
こんなことやめてください」

強い声を涙に震わせながら言う亜佑美の姿を
局長も局員達も静かに見ていた。


「そうか、佐藤優樹と、友達なのか?」

「はい」

「ならば、このことは知るべきでは無かったな。もう決定は覆らん」

亜佑美が局長を睨みつける。
魔力が高まり、今にも局長に飛びかかりそうになるのを
周りの局員に掴まれ、抑えられた。

亜佑美の攻撃的な魔力が上がり続け、
それに伴って周りの局員達も魔力を高める。

剣呑で重い沈黙が続いた。


「局長!」

不意に局内から飛び出した局員の声によって
張り詰めた空気が破られた。

「よかった、まだ居た。
本部から連絡です」

局の事務員が慌てて局長に駆け寄り、電話の子機を手渡した。
亜佑美を横目で見ながら局長がそれを受け取る。

「生田だが…」

電話口で少し話した局長は、何か酷く驚いたような、複雑な顔をして
いくらか言葉を交わし、通話を切った。
局員達が注目する中、局長は一つ大きく息を吐いて
声を出した。

「中止だ。北への出向はしない」

辺りの局員から大きなどよめきがおこる。

「何があったんですか?」

一人の局員の問いに、局長は重く言葉を吐き出した。

「狗族が、佐藤優樹を協会に差し出した」

辺りは一層大きなどよめきに包まれた。
亜佑美はまた一人、その意味を飲み込みきれずに茫然としていた。


本編14 本編16

タグ:

+ タグ編集
  • タグ:

このサイトはreCAPTCHAによって保護されており、Googleの プライバシーポリシー利用規約 が適用されます。

最終更新:2014年07月14日 23:04