本編16 『出撃』


里保と衣梨奈と優樹が出立した日の翌日、いつもと同じように夜が訪れる。
深夜、遥は悶々とした気持ちを抱え衣梨奈たちの帰りを待っていた。

二日の間、さゆみと二人だけで暮らした。
さゆみは多くを言わず、ただ変わらない優しさを遥に注いでくれる。
それが遥の心に小さく瑕をつけた。
結局、何一つ恩を返せないまま、ここを出ることになる。
助けてくれたことも、泊めてくれたことも、優しくしてくれたことも。
せめてもと思い、遥はこの二日間でさゆみの家を隅々まで掃除し、
率先して食材や日用品の買い出しをした。
そんなことはさゆみのくれた微笑の一つの対価にもならないと思いながら。

思いが色々な場所に飛び跳ねる。
さゆみのこと、亜佑美のこと、衣梨奈のこと、里保のこと、春菜のこと、
そして優樹のこと。
どこに跳んでも、愉快な気持ちにはなれない。

もう作戦は始まっていて、順調ならば今頃優樹は一人ぼっちになっている。
絶対に助け出す。その為に気を引き締めなければならない。
それなのに、ふわふわと揺れる心が固まってくれない。

 

ベッドに横になっているせいだろうか。
優樹と二人で寝ていたベッド。その半分が空なのに、このまま寝て、
朝起きれば優樹の寝顔がそこにある、そんな甘い夢想が頭から離れてくれなかった。

ダメだと思って身を起こした視線の先に黒い影が横切る。
黒猫の姿の春菜が、遠慮がちに窓をノックした。

「くどぅー、起きてる?」

「うん」

「生田さんと鞘師さんが帰ってきたよ。出迎えよう」

その言葉を聞いて、覚束無かった遥の心が
急激に固まり、意思が起き上がる。
現実が猫の姿を借りて、遥を夢から連れ出してくれた。

もう寝ているであろうさゆみを起こさないよう、静かに外に出る。
草木も眠る時間。
鉛色の月光の中で少し湿った空気が冷まされていた。


さゆみの家の前で春菜の横に立つと
風が吹き、空から覚えのある影がゆっくりと降りてきた。


街灯の小さな光の中に里保と衣梨奈が降り立つ。
遥の目には二人が、数日前とは別人のように大人びて見えた。
それは何か震えるような強い意思。
決意と覚悟に固められた顔だった。

二人は優樹と狗族との別れを見届けている。


「おかえりなさい」

「ただいま」

辺りに遠慮した春菜の声に、衣梨奈が答える。

「首尾はどうですか?」

「今のところは予定通り、うまくいってる。
優樹ちゃんの収容された仮拘置所の場所も分かったよ。
はるなんが挙げてた候補の一つだった」

そう言って里保が指を掲げる。
遥は目を凝らし、月光を受けて微かに光る糸を見つけた。

「今はもう切れてるけど」

里保が指にフッと息を吹きかけると、糸は風に揺られどこかに飛び去った。


「本当にその『蜘蛛の糸』アテになるんすか?見つかって切られた可能性は?」

遥が里保に向かって言う。
その声が微かに震えていてた。

「これを切ったのは優樹ちゃん。うちが教えたやり方で切ってあるから間違いないよ。
この糸が切れた場所が、今優樹ちゃんがいる場所」

「その後で急に移動させられたりって可能性もゼロじゃないっちゃけどね」

衣梨奈の言葉に遥が頷く。
春菜も小さく同意した。

「うん、だから早いほうがいい。でもなるべく万全な状態で行きたい。
うちとえりぽんは魔力を回復する為にちょっと仮眠するよ。朝を待って出発。でいい? 二人共」

「はい。夜明けまでにもう少し詳しく施設のことを調べられないかやってみます」

「うん、お願いはるなん」

5人で散々話し合って、自分のすべきことはそれぞれ頭に入っている。
お互いが了解しあって、短い言葉がテンポよく交わされた。

「どぅーは、魔力はどう?」

衣梨奈に振られた遥が、改めて自分の身体に意識を向ける。

「…7割、ってとこっすかね。でも、しょーがないっす」

「そっか」


「出来るだけフォローするから。
でもうちらがフォローして貰うかもしれない。とにかく、状況に応じてベストを尽くそう」

小さく笑う里保に、遥も歯を見せ頷いた。

「協会の人と、戦ったりは出来るだけしたくないっちゃけど、
もしそうなった場合はえりと里保に任せるくらいの気持ちでよかよ」

「状況次第、ですよね?」

「うん、そう」

衣梨奈も、少しだけ可笑しそうに笑った。

「ハルもそんなに弱く無いから、大丈夫っすよ」

「分かってる」

里保がそう答えたのが少し意外で、
遥は不思議そうな目を向けた。
一度戦った時は、手も足も出なかったのだし。

「あの時は…」


「二人とも万全じゃなかったでしょ?
分かってるよ。万全な状態がどれくらいかは分かんないけど、
少なくとも不安は無いよ、うちは」

「……何でですか?」

「どぅーが優樹ちゃんのこと想う気持ち、初めて会った時から凄い感じてた。
その気持ちだけは絶対に揺るがないって思えるから。
それと頭がいいことも分かったしね」

真っ直ぐに、一片の揶揄も無く里保から告げられた言葉に
遥は夜闇の中誰にも気付かれずに頬を染めた。

「どぅーはまだうちのこと信用出来ないかもしれないけどさ。
うちも絶対に優樹ちゃんを助け出すって気持ちは同じだから。
一緒に頑張ろう」

「……はい」

何だか里保がずっとずっとお姉さんに見える。
大人に言い聞かされているようで、遥は照れくさくなった。
里保のことを信用していないわけがない。
衣梨奈も里保も、言ってしまえば無関係なのに
今、自分達の為に沢山の大切な物を投げ打って戦おうとしてくれている。
感謝しているし、真っ直ぐで裏の無い二人の側は安心できる。

最初の印象が邪魔をして、そう言い出せない自分が
ひどく子供じみているようで嫌だった。

 

「まーちゃん、どんな様子でした…?」

春菜が不安気に声を出す。

「……泣いてた。すごく」

衣梨奈が答えた。
ヒュっと冷たい風が吹き、木の葉のざわめきが起こる。

衣梨奈と里保は、昨日の様子を思い出していた。

狗族の族長は二人の考えを受け入れた。

優樹ともう会えなくなる。
同胞を売るという汚名も、子供達に役を押し付けて安穏を得るという身を裂くような罪悪感も、
全てを背負い、我慢して、信じてくれた。

そして優樹と狗族の最後のささやかな宴席に、衣梨奈と里保は立ち会った。
優樹は笑い、泣き、甘え、それでも最後まで強く、意思を曲げず自分の道を受け入れた。


夜、狗族が協会への通信を行う僅かな時間、
優樹が一人で泣いているのを里保と衣梨奈が見つけた。

「衣梨奈や、里保や、どぅー、それにはるなんに、同じ気持ちを味あわせるのが悲しい、って」

「そう言って泣く優樹ちゃんにさ、うちら慰めることなんて出来なかった」

衣梨奈と里保の言葉に、遥は何だか泣きたくなった。
普段は自分勝手で自由気ままなくせに、優樹はそういう子だ。
そして、衣梨奈と里保がより強い決意を持って戻った理由も何となく分かった。
優樹はそういう子だから。

「やけん、絶対に助け出す」

「それで、うちらが優樹ちゃんのことちゃんと幸せにしないと」

衣梨奈と里保が代わる代わる告げた言葉に、遥と春菜は強く頷き、改めて成功を誓った。


さゆみはベッドに寝転がりながら指を組み、
その中に映し出される4人の姿をぼんやりと見ていた。

何を話しているのかは分からない。
聞いていないから聞こえない。
けれど、その表情からは、もう直ぐにでも出発するという意思が感じられた。
多分明日の朝にはさゆみに告げて、出て行くのだろう。

報告をしにここに帰るように、と里保に言ったが
協会が本格的に5人を追うことになればそれも可能かどうか怪しい。

明日、どんな顔で4人を送り出せばいいのかが分からなかった。

もういっそのこと、4人を家に閉じ込めて
代わりにさゆみが優樹を連れ出しに行こうか、その方が確実だし、安全。
そんなことが思い浮かび、自嘲気味に笑う。

きっとあの子達がただ可愛いだけの生命の無いお人形なら、そうしていただろう。
それらはきっと『さゆみの物』だから。

あの子達も『さゆみの物』にしてしまえば話は早いけれど、
話し、笑い、泣き、迷い、立って進む、
そんなあの子達を愛おしいと感じてしまうから難しい。

さゆみには子供達の気持ちを守ることが出来ない。

里保や衣梨奈が、散々迷って答えを出した。
きっと先のことは分からなくても、いろいろな困難を覚悟しているだろう。
そうして選んだ選択に正解も不正解も無い。
何かしらの結果が導かれ、きっと後悔はしないのだろう。
例え今は分からないことを後から知ったとしても。

さゆみは指を解き、両手をベッドに投げ出した。

自分は動けないのだろうか。
動ける。でも動かないとすれば、それは一つの選択。
後悔はしないだろうか。

本当の自分はもっと我がままだったのに。
最近のことか、大昔のことかも忘れてしまった思いが蘇り、
何だか可笑しくなって、さゆみは静かに目を閉じた。


 

 

翌朝、衣梨奈と里保は遥と共に、また少し豪勢な朝食を用意し
さゆみが起き出すのを待っていた。
ベッドの上でそれを感じていたさゆみは、何となく早く降りる気になれず、
ぐずぐずと寝そべっていた。
いっそ昼まで寝ていようか。そんなことを考え、
昨夜の子供達の表情を思い出し自嘲する。

やると決めたあの子達の心に蟠りを残したくはない。
邪魔をしたくないと思った。
だから、気持ちよく送り出そう。
部屋の姿見に顔を映し、幾つか表情を作ってみた。

「よし、今日も可愛い」

呟いて、可笑しくなる。
自分の耳も、久しくそんな言葉を聞いていなかったから。

さゆみが起き出すまで律儀に待っていて、子供達の計画に支障を来たしたら流石に笑えない。
結局、不自然にならない程度の、いつもよりほんの少し遅い時間を待って
さゆみは階下に降りた。


「おはようございます」

さゆみの姿を見て、衣梨奈と里保と遥が声を揃える。
決意の表情と、少しの不安。

さゆみに計画を告げた朝もそうだった。
自分達が決めたことをやり抜く、その強い意思に寄り添うように
さゆみのことを気にしているのが分かる。
さゆみがこれみよがしに溜息なんて吐いたせいもあるけれど。
流石に大人気なかったと反省した。

気がかりがあって失敗するのは最悪だし、さゆみにとっても本意じゃない。
せめて気持ちよく、出発して欲しい。

「おはよう。おかえり、生田、りほりほ」

了解している、と。分かっているから安心して欲しいと、
そんな気持ちを込めて微笑みかける。

そうしたはずなのに、三人はなんだか複雑な表情になった。
どこか、泣き出すのを我慢している時のような、そんな表情。

やっぱり人の気持ちは難しいな、と思った。
だからこの子達が愛おしい。


4人は言葉少なに食卓についた。
空が曇っているせいか、あまり暑さは感じない。
丁寧に作られた一品一品を味わいながら食事を進める。
随分と優雅な朝だと思った。

衣梨奈と里保は、流石に今日から学校の試験が始まることなんて忘れているんだろう。
それを言ったら慌てるだろうか。聖や香音や級友のことにも思考が及んで
また悩んでしまうかもしれない。
でもそんな意地悪はしない。
聖や香音の気持ちを考えれば、酷い友達。
衣梨奈達がきっと後で思い出して、後悔するのだろうけれど
今は真っ直ぐ優樹のことを考えていればいい。

「道重さん」

朝食を終え、4人の前にお茶が並んだ所で衣梨奈が切り出した。
さゆみは返事の代わりに優しく頷いて、それから窓の外から覗き込む黒猫に
ちょいちょいと手招きする。

程なく春菜が、「お邪魔します」と小さく告げて玄関から入り
5人がさゆみの前に座った。

揃うのを待って、再び衣梨奈が口を開く。


「今日、今から出発します」

不安そうにさゆみの顔を窺う4人。
さゆみはなるべく安心させるように、柔らかい笑顔を作った。

「もう準備は出来たの?」

「はい」

小鳥が庭木で暫く歌い、楽しげに飛び去った。

「道重さん、今まで本当に…」

言いかけた衣梨奈の言葉をさゆみが遮る。

「まってまって、そういうのは無しにしようよ。
まーちゃんもここには居ないわけだしね、それより…」

遮られたことに驚いて、4人が身体をビクリと跳ねさせるのを見て
悪戯に笑いながらさゆみが続ける。

「頑張ってきなよ。まーちゃんのこと、ちゃんと助けてあげてね。
みんななら、出来るから」

緊張気味だった4人の顔が、急に険しくなる。
あれ、何かを間違ったかな、と思ったさゆみの前で
その顔がみるみる崩れ、涙顔になった。


「…はい」

鼻をすすりながら衣梨奈が答える。
みんなが泣き出すとは思っても見なかったから
内心で狼狽して、それでもさゆみは優しい声をだした。

「いってらっしゃい」

泣き止ませようとしたのに、4人は尚泣いた。
だけどそれもいい。
泣いて、すっきりして、頑張ってこればいい。
他のことは今は忘れて。


さゆみも、衣梨奈も、里保も、遥も、春菜も、
どんな言葉を交わそうか、散々考えて迎えた朝だったけれど、
誰の想像とも違う朝になった。
暫く泣き、泣き止んだ4人の表情に強さが戻る。

「絶対にまーちゃんを助け出します」

遥の掠れた声に、里保も強く頷いた。


もう一度戻ってくることを念押ししようと思ったけれど、それも辞めた。
戻って来れるならば来るだろうし、無理なら無理をすべきじゃない。
それも子供達の意思に委ねよう。

前だけを見つめる表情に戻った4人が、ゆっくりとお茶を飲み干す。
そして、家の外に出た。
さゆみも、学校に行くのを見送るように門の外に出る。
今までそんなことをしたことは無いけれど。

まだ目元の赤い4人が、それでも逞しい顔つきで
もう一度さゆみに告げた。

「行ってきます」

「はい、いってらっしゃい」

笑顔で挨拶を交わし、4人は駅に向かって歩き出した。
その背が見えなくなるまで見送る。

それから、さゆみは家の中へ戻ろうとして
一度空を見上げた。
曇り空の向こうに太陽が見える。
目を瞑り、その光を感じて目を開くと、
ずっともやついていた頭の中が不意にクリアになった。

「さゆみも、行きますか」

誰に言うともなくそう呟くと、さゆみは衣梨奈達とは逆の方向に向け歩き出した。


 

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最終更新:2014年09月22日 11:28