本編21 『不思議な女の子』


夏の暮れ。
煌々たる月光に照らされ静かにうねる海面の上空を薄雲を縫ってそれは飛んでいた。
巨大な漆黒の翼をゆっくりとはためかせ、風を巻き起こしながら竜が飛ぶ。
その羽音は独特の音色で、波音に混ざって遥か遠くまで響いていた。

「ふわぁ。お前本当に速いね」

飛竜の首に少女が跨っている。
少女の名前は、小田さくらという。
キラキラとした水面や、満天の星空、次々に後ろに流れていく雲の欠片に目を輝かせていたさくらは、
遥か遠くに海岸の灯りを見つけて言った。

話しかけられた飛竜は特に反応もせずただ前だけを見て一定の速度で羽を動かしている。
さくらはそんな無愛想を気にもせず嬉しそうに微笑んだ。

「私のことば、分かるのかな?でも先生の言葉が分かるんだから、きっと分かるんだよね」

さくらがその大きな首を撫でると、飛竜は一度瞬きをした。
さくらはもう一度楽しそうに笑って、視線を前に戻した。


「すごい。もう着いちゃう。
ね、おまえ。海から直接入るとすっごく目立っちゃうから、ちょっと迂回して山の方に回ってくれないかな」

飛竜はすぐに進路を変えた。
陸の上を飛び、目的地から少し離れた場所で、さくらの指示を待つ前に地上に降りる。
真っ暗な森の中の、木々の開けた場所にその大きな体をゆっくりと下すと
両の羽を下げ、首を下げてさくらが降りやすい姿勢になった。

「ありがとう。本当にいい子だね。
また帰りもよろしくね。お薬口の中に入れておくから、その時になったらまた飲んでね」

さくらが森の中に降り、そう言って飛竜の大きな口の、牙の間に小瓶を差し込む。
それからポケットから小さな角笛を取り出し振ってみせた。

飛竜は見るともなくさくなの様子を眺めてから一つ大きな伸びをすると
強く羽を振り上げ一気に空へ舞い上がった。
強烈な風に乱れる髪とワンピースの裾を押さえながら、見えなくなるまで飛竜の姿を見送る。

ほどなく夏の夜の森の中に静寂が戻った。


突然の怪物の飛来に声を潜めていた虫たちが遠慮がちに騒ぎ始める。

さくらは肩にかけた鞄の中からライトと地図を取り出し
目的地の方向を確認すると、それらを仕舞った。
そして鞄に手をかざす。
するとたちまち鞄は小さく手の中に収まった。
それもポケットに詰め込む。


「こっちであってるよね?」

自信無さげに歩き出したさくらの足元を、草がポッと照らす。
さくらの進路を教えるように、森の木々が道を作り淡い光を放ちだした。

さくらは一度ぐるりと森を見回し、「ありがとう」と微笑んで頭を下げた。
それから意気揚々と歩き出す。
そんなに離れた場所に降りたのでもないから、街は多分このすぐ先。

「どんな街なんだろう。M13地区…。ああ、街の本当の名前も聞いておけばよかった。
でも楽しみだなぁ」

空から見た海岸の光を思い出し、さくらの頬は自然と緩んでいた。
誰も居ない静かな道で独り言を言い続けるさくらを、森の木々が優しく照らしている。

「あ、でもちゃんとお仕事もやらなくちゃ」

暫く歩いていると木々の光が弱まって、その代わりに夜の街灯りが姿を現しはじめた。


.


深夜、さゆみはふと目を覚ました。

暫くぼんやりとしていて、自分が何故目を覚ましたのか分からなかったけれど
窓を開け、夜空を見上げているうちに、その理由を思い出した。

音が聞こえた気がする。
風の音に似た、でもそれとは違う独特の音。
暫く考えて、飛竜の羽音に似ていたのだと思い出した。

そして、そんな考えに至った自分に苦笑する。

今は飛竜なんて殆どいない。
まして人里近くに現れるなんてことも無い。

飛竜を飼い慣らして使いに出来る魔道士だって、もう殆ど居ないだろう。
大きいし、目立つ。何よりその強大な魔力が、人々の恐怖心を煽って無用の諍いの火種にもなりかねない。
例えどこかで酔狂な大魔道士が飼っていたとしても、人の街の近くでそれを飛ばすような真似はしないだろう。

そもそも、音を聞いたような気がしたけれど
飛竜が近くを飛んでいるならばその強大な魔力にすぐ飛び起きたはずだ。
窓の外の街は平和そのもので、そんな気配は微塵も無い。
遠くから風の音がする。
台風が迫っているというから多分その音だ。
まだ何百キロも先だけど。


さゆみは自分に苦笑してもう一度ベッドに潜った。
夢でも見たのだろうか。
だとすると、飛竜が堂々と空を舞っていたような、遠い遠い昔の夢。
何だか恥ずかしくなって、さゆみは意味も無く声を出して笑った。
それからもう一度耳を澄ませてみる。

あと数日で夏休みが終わり、新学期が始まる。
そんな新学期を待ちながら眠る安らかな寝息が家の中に5つ。
衣梨奈、里保、そしてこの秋から同じ学校に通うことになった優樹、遥、亜佑美。
子供たちの寝息を聞いているうちにまた眠気が襲ってくる。
さゆみはそれに逆らわず静かに目を閉じた。

 

 


さくらが夜明けを待つ街の坂道をのんびりと下っていく。
行き交う魔力が夏の朝の空気の中に溶けあって一つの匂いを作っている。
それから草の匂い。木々の匂い。
坂の遥か下からは、仄かな潮の香も漂っていた。

まだ寝静まっている、だけど沢山の人の気配。
穏やかな暮らしの残響。
さくらはすぐにこの街を気に入った。

きっといくつもの幸せや、夢や、希望がこの街にはあって
それは、悲しさや苦しさや切なさの総量よりも少しだけ多い。
少し歩いただけなのに、そんな想像が膨らむ。

ふと神社の鳥居が目に入り、それをくぐると
優しい魔力がさくらを包んだ。
社の縁台で鳥や猫や使い魔がのんびりと寛いでいるのを見て
嬉しくて同じように腰かけると、睡魔が襲ってくる。
さくらは少しだけ眠ることにした。


木々の間から揺れる朝の陽光に頬を擽られて目を覚ます。
近くで丸まっている猫の兄弟の頭をそっと撫ぜながら
改めてこれからのことに思いを向けた。

思っていたよりもこの街は広かった。
薬もあまりないから、長くは居られない。
それまでに見つけなければならない。

「なんとかなる…よね?
先生は見れば分かるって言ってたけど、本当かなぁ」

さくらの独り言に答える人はいない。
暫くぼんやりと考え事をしていたけれど
不意に立ち上がりさくらは笑みを浮かべた。

今から不安がったって仕様が無い。
とにかく街の色々なところを歩いてみよう。
そう思い直すと、ポケットから小さな麦わら帽子を取り出した。
手の中で元の大きさに戻ったそれを被る。

それから眠っている猫たちに手を振り、さくらは鼻歌を口ずさみながら神社を後にした。


.


夏休みもあと数日を残すばかりになったこの日。
一人朝から宿題と向き合い、何とか全てを終わらせた聖は
気分よく午前の街を歩いていた。
相変わらず日差しが強いけれど、今日は風があってそれほど暑いとは感じない。
少しずつ、秋の気配が迫っている。
そんなことを感じながら歩いていた聖は、前に見知った人影を見つけた。

「あ、どぅー!おはよう!」

声を掛けられて聖に気付いた遥は、爽やかな笑顔を浮かべて近づいて来た。
その手には買い物袋が下がっている。

「おはようございます、譜久村さん」

「どぅーはお買い物?えらいね」

「いや、たまたま今日がハルの当番ってだけっすよ」

聖が風に煽られた髪を押さえるのを見て
遥がさり気なく街路樹の木陰に移動する。

気持ちのいい朝に偶然会えたことを歓び、二人は笑い合った。

「でもどぅーは偉いと思うよ。しっかりしてるし。
今日は優樹ちゃんは?」

「まーちゃんは朝からはるなんとこに遊びに行っちゃいました。
全く、ちょっとくらい付き合ってくれてもいいのに」

唇を尖らせる遥の表情が可愛らしくて聖は小さく微笑んだ。
もうすっかり遥も道重家の住人、この街の住人になっている。
それが嬉しかった。


遥と優樹、それに亜佑美にとってはもうすぐ新しい学校生活も始まる。
さゆみの計らいで聖たちと同じ学校に通えることになったことを聞いたときの
遥の複雑そうな、それでもどこか嬉しそうな表情をよく覚えている。

自分の大好きなこの街が、学校が、遥たちの不安を覆い尽くせるくらい優しい場所なら嬉しい。
その時聖はそんなことを考えていた。

「もうすぐ学校始まるもんね。そしたら今みたいに毎日は遊べないし、
今のうちに沢山遊んでおかなきゃ」

「そうっすね」

優しくいう聖の顔を見て遥は照れ臭そうに俯いた。

すっと風が吹き、一瞬の静寂が通り過ぎる。
聖が手で髪を整えながら言った。

「それで、えりぽんたちは家にいるのかな?」

遥が少し思案する。

「いや、居ないっすね。生田さんと鞘師さんとあゆみんは今日朝早くから出かけてました。
また多分3人で魔法の練習だと思いますけど」

その言葉を聞いて聖の心がすっと陰った。


「そうなんだ…」

「ま、多分裏山の方か神社の方か海岸のどっかだと思いますけど。
連絡してみます?」

「ん、いいや。3人とも頑張ってるのに聖が邪魔しちゃ悪いし」

聖は笑顔を浮かべて言った。
ちゃんと笑えているだろうかと思いながら。


亜佑美がこの街に来たのが十日ほど前。
里保と亜佑美はお仕事上の繋がりがあるから、頻繁にお互いの魔法を確認しあっていて
そこに衣梨奈や優樹、遥も加わって魔法の研究をする機会が増えていた。
聖も何度かその様子を見学させて貰っていた。

最初はただ単純に5人の魔法に感動していたけれど
そのうちに、どう考えても自分は部外者なのだと思い知った。

魔力が無いから、自分には絶対に魔法が使えない。
みんなは別に聖や香音を仲間はずれにしようとはしないけれど
互いの魔法について語り、実践する輪の中にはどうしたって入れなかった。

「別に邪魔とかじゃないと思いますけど…」

聖の言葉に遥が少し眉根を寄せて呟いた。

「今乗ってるみたいだからさ」

小さな声で聖も呟く。


「そういえば鈴木さんは?」

「今日は一日家でゴロゴロ過ごす日、なんだって」

笑ってみる。笑えている。

亜佑美や優樹、遥が加わり同世代のハイレベルな魔道士と一緒に研究するようになって
色々な新しい発見やきっかけが見つかっている、と衣梨奈が笑っていた。
魔法使いとしての衣梨奈の悩みは何もわからないから、嬉しそうな衣梨奈を前に聖は曖昧に笑うことしか出来なかった。

遥がじっと聖の目を見てくる。
綺麗で純粋な目だと思う。
だから見られるのが恥ずかしかった。
出来れば自分のこんな感情を誰にも悟られたくない。

道重家に住人が増えてとても賑やかになった。
みんなとてもいい子達で、優しくて楽しい子達で、凄く楽しい時間が増えたのに
どこかで面白く無いと感じている。そんな自分が凄く情けなくて恥ずかしいと思った。
そしてそんなことを考えてしまう時、必ず胸が苦しくなる。

「あ、じゃあ譜久村さん、ハルの買い物に付き合ってくれません?」

不意に明るい調子になった遥の声に顔を上げる。
その時聖は自分が俯いていたことに気付いた。


「今お買い物の帰りなんじゃないの?」

「実はこのあと、個人的な買い物もしようかなって思ってたんです。
でもハル、まだあんまりお店とか分かんなくて、どうしよっかなって。
詳しい人が一緒に居てくれると助かるんすよ」

そこまで遥が言ったのを聞いて、聖はようやくこの可愛らしい年下の少女に気を遣わせてしまったのだと気付いた。
遥の口からは淀みなく言葉が出て、一見そんな風には見えないけれど。
聖は酷く申し訳なくなった。
それと同時に、嬉しくなる。
本当に、つい最近出会ったばかりの、この新しい友人たちは優しい。
自分なんかが友達ではもったいないくらいに。

「そっか。そういうことなら聖に任せて。どこでも案内したげるから」

「ほんとですか!有難うございます!いえーい譜久村さんとデート!」

「もう、どぅーったら」

一頻り笑い合って、二人は木陰を出て街に向かった。
聖の足取りは自分が思っていたよりもずっと軽やかだった。



里保と衣梨奈と亜佑美は、海岸の奥の人気の無い岩場に腰かけていた。
普段よく訪れる臨海公園からやや離れたこの場所は崖とせり出した岩が広がっていて
人が遊びに来ることもほとんどない。
外で魔法の練習をするのに最適な場所の一つとして、最近はよくこの場所に来るようになっていた。

それでも人の気配を気にして早朝に訪れ、様々な魔法を試した3人は
日が高く上る前に切り上げ、うねる波音と潮風を感じながら身体を休めていた。

「やっぱ生田さんの魔力ハンパないですね」

亜佑美が感嘆のため息を吐く。

「昔っからえりぽん、魔力だけは凄いんだよ」

「んふふ。ありがとー」

「まだまだ全力でも無いんですよね?変身したまーちゃん並ですよ。
それにいくら使っても涼しい顔してるし…はぁ、こっちは自信なくなりますよ」

「亜佑美ちゃんの氷の魔法だって凄いやん。
えりもちょっと氷の魔法使えると思ってたけど、亜佑美ちゃんのには全然敵わんけん」

衣梨奈の言葉に里保も深く肯いた。
亜佑美が来てから互いの魔法の性質や力量を知る目的でよく一緒に研究をしている。
今まであまり知らなかった遥や優樹の力、それに今の衣梨奈の力もここ数日で知ることになった。
春菜だけは一緒にいてもなかなか手の内を晒してくれなかったけれど。

里保はそれぞれの魔法の特徴や、得手不得手も理解しはじめていた。


「本当に亜佑美ちゃん、器用だよね。
うち氷の魔法って使えないから、あんな自由自在に氷を出せるなんて凄いよ。
それにスピードもあるし切れも凄い。まだまだ色んな応用ききそう」

「いやー、氷の魔法が得意だったから昔から何も考えずそればっかやってたんで…。
でも燃費が悪いんですよね…。魔力の消費が激しくて。
鞘師さんみたいにもっと色んな魔法が出来るようにならなきゃとは思ってたんですけど」

「お互い、もっと頑張らなきゃだね」

里保が笑う。
亜佑美の実力が、局長の太鼓判通りであることは分かって来た。
だけど執行局員としての実戦経験という意味では、無いに等しい。
この街であまり派手に戦闘するような事態にはしたくないけれど
もしもの時には出来るだけのフォローがしたいし、協力して、上手く連携出来ればいい。

衣梨奈とは互いに感覚的に相手のことが分かっているから
ブランクはあってもスムーズに連携出来る。
亜佑美との連携を深め、遥や優樹、春菜とも力が合わせられれば
自分たちは大きな力が出せると思った。

「でも生田さんも3年前までは協会に居たんですよね?
そんな強いなら、魔法競技会とか他の研究会とか参加してたりしたんですか?」

亜佑美がふと告げた言葉に、衣梨奈が眉尻を下げ首を振った。

「えりぽんはそういうの殆ど出たことないよね」

「うん…」


魔力だけなら同年代では里保以外並ぶものが居ない程の強さだった衣梨奈。
それだけに局長も本人も将来の執行局員としての活躍を期待していたけれど
衣梨奈は対人戦を酷く苦手にしていた。

衣梨奈の魔力は強過ぎ、幼いころはそれを調整することが出来なかった。
魔力を纏った拳脚で戦うスタイルだった衣梨奈は、その一撃で相手を殺しかねない力を持っていた。
それが分かっている里保達家族以外と訓練するとき
優しい衣梨奈は相手を気遣うあまり、殆ど力が出せなかった。

成長と共に徐々にコントロールは出来るようになったけれど
やはり怖かったのだろう。

里保は優樹を救出する際、仮拘置所の正門を破壊した衣梨奈を思い出した。
実は少し不安だった。
気持ちが昂ぶった衣梨奈が調節を間違えれば、扉どころか建物ごと破壊して、優樹が下敷きになるということもあり得なくは無かったから。
だけど、今はそんな不安はもう無い。
衣梨奈はさゆみの下に居た3年間で、様々な魔法に関する技術、微細なコントロールを獲得している。
以前は出来るとは思えなかった飛行魔法も、あっという間に自分のものにしているから。

もし衣梨奈が誰かと戦うことになったとき、あとは気持ちの問題なのだろうと思った。
やはりどうしても衣梨奈は優しくて、躊躇してしまうのだろう。

里保は自分を思い浮かべて苦笑した。
自分もいかに相手に傷を負わせず制するかを考えていたつもりだったけれど
ギリギリの状況の中で相手に怪我をさせたことも、深く傷つけたことも何度もある。
その時の自分には相手を気遣う心なんて欠片も無かった気がする。
執行魔道士としてそれは正解なのかもしれないけれど、衣梨奈や亜佑美や優樹や遥には
自分のようになって欲しくないという気持ちもあった。

「えり、戦うのどうも苦手やけんね」

空笑いをしながら言う衣梨奈に亜佑美が不思議そうな目を向ける。


だけど衣梨奈の横顔を見つめていた亜佑美は、それ以上踏み込むことはせず
柔らかい笑顔を見せた。

「でも私、生田さんの魔法好きですよ。
紅茶の魔法とかお片付けの魔法とか、便利で優しくて。
今までそういう発想も無かったんですけど、自分も使えたらなーって思いますもん」

「ほんと?ありがと」

「う、うちも…えりぽんの魔法すきだよ」

亜佑美と里保の言葉に挟まれて、衣梨奈の顔がパッと明るくなった。
里保は衣梨奈が執行魔道士にならなくてよかったと思った。
道重さゆみの弟子になって、本当によかった。


心地よい疲労に包まれながら三人海を見る。
日差しはあるけれども風が強い。
もうすっかり髪がぐちゃぐちゃに巻き上げられるのも気にしなくなっていた。

台風の匂いと共に夏の終わりが感じられる。
季節は速度を上げて移ろっていく。

里保は今しみじみとそれを感じていた。
今年の夏は沢山の人と出会い、多くのことを知り、様々な経験をして
自分自身が物凄く変わった夏だった。
そしてそんな人達と共に過ごすこれからも、どんどんと変化が起こり
目まぐるしいスピードで大人になっていくのだろう。
少し怖く、少し楽しみ。


.

ふと風に乗って歌が聞こえて来た。

見れば海岸の岩場に白いワンピースを着た少女が一人
気持ち良さそうにクルクルと踊りながら荒波と戯れている。
麦わら帽子を風に飛ばされないよう手で押さえながら戯れるその姿はとても愛らしく微笑ましい。

里保と衣梨奈と亜佑美は一度顔を見合わせ小さく笑って
それから黙って少女を見ていた。
少女は岩場に腰かける3人には気付いていないのだろう。
楽しそうにはしゃぎ、歌っていた。
風の隙間を縫って小さく届くその歌声はとても美しく心地いい。
3人はどこか幻想的な少女の戯れをニコニコと見守っていた。

暫く一人海を見てはしゃいでいたさくらは、ふと見上げた崖の上に3人を見つけた。
それからずっと歌いながらはしゃいでいた姿を見られていたことに気付き
顔を赤らめ歌を止めた。

言葉が届かない距離でお互いを認めたさくらと3人は
何となくむず痒いような気持ちで視線だけで微笑み合う。

不意に強い風が吹いてさくらが岩の上によろめき、尻もちをついた。
海に足が浸かったさくらに、大きな波が襲う。


に足が浸かったさくらに、大きな波が襲う。

「危ない!」

里保が咄嗟に手を翳し風の魔法を発動させると、強い風が障壁となってさくらを守り
今にも覆いかぶさろうとしていた波を跳ねのけた。
さくらの麦わら帽子が頭から離れ、舞い上がる。
それは海の波の上にポツリと乗ると、引き波に合わせて沖の方へと流されていった。

まだ尻もちをついているさくらに次の波が襲う前にと
里保と衣梨奈と亜佑美が慌てて立ち上がりさくらに駆け寄る。

さくらも立ち上がり、波打ち際から急いで離れた。
それから流されていく麦わら帽子を呆然と眺める。

側まで来た3人に何と挨拶をしたものかも分からず困ったような笑顔を向けるさくら。
それに衣梨奈がニコリと笑って答えた。

「ちょっと待ってて」

さくらにそう声を掛けると
衣梨奈はそのまま波打ち際に走り勢いよく海の中に飛び込んだ。

驚きに目を見開くさくらと、顔を見合わせる里保と亜佑美をよそに
衣梨奈はどんどんと泳いでいき麦わら帽子を掴む。
それから高い波と遊ぶように岩場に戻る。
びしょ濡れの全身から水滴をしたたらせ、さくらに歩み寄った。


「はい、帽子」

差し出された帽子を受け取り、満面の笑顔を見せる衣梨奈を見上げ
さくらは呆けたように口を開閉した。

「あ、あの…」

「台風が近いみたいやけん、海辺は結構危ないとよ」

衣梨奈の言葉にさくらは一つ唾を飲み込み、それから改めて口を開いた。

「あ、ありがとうございます!」

衣梨奈はまた柔らかく笑い、幼い少女にするように小さなさくらの頭をぽんぽんと撫でた。


一連の様子を少し離れてみていた里保と亜佑美は、まだいくらか呆気にとられ目を見合わせた。

「生田さんって、あーゆうこと出来ちゃう人なんですね…」

感心半分、あとの半分はどこか呆れたような口調で言う亜佑美に
里保は神妙な口調で答えた。

「そう、そうなんだよ。えりぽんね、えりぽん優しいのよ」

 

 

「波が高いし、流されたらひとたまりもないけんね」

「そうですね…すみませんでした」

自分から海に飛び込んだ人が言っても何の説得力もない。
そう思いながら、亜佑美は素直に返事をするさくらを眺めていた。
衣梨奈と会ってまだそれほど時間は経っていないけれど
その不思議な魅力は随分と思い知らされた。
真っ直ぐで飾らない優しさ、というのだろうか。
里保や聖や香音が好意を寄せ、遥と優樹が信頼しさゆみが可愛がる理由が良く分かる。

そして、今衣梨奈の前に立つ小さな女の子もまた、不思議な魅力のある子だと思った。
可愛らしいワンピースの裾が濡れるのも気にせず、靴を水浸しにして
ごつごつとした岩場で荒波と遊び歌う少女。
大別すれば「変」な子だ。

「この辺の子じゃないよね?」

衣梨奈が話を続ける。
さくらは、濡れ鼠になっている衣梨奈を気にしながら遠慮がちに言葉を返した。

「はい。昨日この街に来たばかりなんです。
凄い素敵な街で、海がとっても綺麗で嬉しくなっちゃって…」

自分の住む街を褒められて衣梨奈が嬉しそうな顔をする。
隣にいる里保も口元を緩めていた。

今は夏休みだし、旅行や帰省で来たのだろうか。


「あの、凄い濡れちゃって。早く乾かさないと…」

おずおずとさくらが衣梨奈に告げる。
衣梨奈は今気付いたとばかり素っ頓狂な顔をした。

「ああ、大丈夫。風が強いけんね。すぐ乾くとよ」

「でも、風邪ひいちゃいます…」

衣梨奈は大丈夫大丈夫と大仰に手を振り
風が気持ちいいとおどけて見せた。

「君名前は?えりは生田衣梨奈」

「あ、小田さくらって言います」

名乗った後、さくらは口の中で「生田さん」と数度その名前を転がした。

二人は実に自然に会話をしていた。
人見知りを自覚している亜佑美は、衣梨奈を見ながら
ああやればいいのか、と考える。
それから、自分には到底無理だと思い直した。

と、さくらの視線がこちらに向いているのに気付いた。
衣梨奈もそれに気付き、振り返って手招きする。
亜佑美と里保はまた顔を見合わせ、それから数歩二人に歩み寄った。


「こっちが石田亜佑美ちゃん、そいでこっちは鞘師里保」

衣梨奈が意図を汲み取ってくれたのが嬉しかったのだろう。
さくらはニコリと微笑み、亜佑美たちに向け小さく頭を下げた。
それから里保に目を向け、もう一度頭を下げる。
亜佑美はそれに少しの違和感を覚えた。
里保が風の魔法で波からさくらを守ったことを、さくらが気付くはずは無いと思うのだけれど。
でもそれはほんの些細な仕草で、違和感はすぐに忘れてしまった。

「昨日来たってことはさ、旅行とか?」

里保が会話に加わる。

「旅行というか、ちょっと用事があって」

「そうなんだ」

会話が終わる。
里保の不器用さに亜佑美は何だか安心した。


「さくらちゃん、歌めっちゃ上手やね」

衣梨奈が言うとさくらが不意に声を張り上げる。

「あああ、やっぱり聞こえちゃいましたか。恥ずかしい、すっごい恥ずかしい!」

「めっちゃ気持ち良さそうやった」

衣梨奈がニヤニヤしながら言うと、さくらは顔を手で仰ぐ。

「本当に恥ずかしい…」

「ね、さくらちゃん。用事ってすぐあるん? もしよかったら今からえりたちとアイスでも食べに行かん?」

衣梨奈が包み込むような笑顔で言う。
少しだかその顔に見惚れていたさくらが、少しだけ考える仕草をした。

「アイスってえりぽん本当に風邪ひくよ…。あ、えりぽんは風邪ひかないか」

「そうそう、えり丈夫やけんね」

里保と衣梨奈の軽いやり取りにさくらが小さく笑う。
それから亜佑美と里保に上目使いで遠慮がちに尋ねる。

「ご一緒してもいいですか?」

亜佑美はそこで初めて自分がまだ何も喋っていないことに気付き
怖がられてはいけないと、大きな笑顔を作った。

「もちろん」

亜佑美が言うと里保も笑顔で肯いた。


.


4人で浜辺を離れて歩いていく。
亜佑美は、随分不思議な構図だと思った。

亜佑美も里保も人見知りだし、衣梨奈だって赤の他人にほいほいと声を掛けたりは流石にしない。
だけどさくらのことが衣梨奈も里保も亜佑美も、凄く気になったのだろう。
それだけさくらは不思議な女の子だった。
一見するとどこもおかしいところは無いけれど、全体にどこかが少しずつ変わっている。

初対面で繋がりも特にない女の子と会話する術が亜佑美には無かったけれど
衣梨奈が軽い言葉をぽんぽんと投げかけるから気まずい雰囲気は無い。
里保も亜佑美もさくらの様子を興味深く見て、時々会話に参加した。

「それで用事ってどんな用事なん?」

「えっと、人を探しているんです」

亜佑美は会話を聞きながら思う。
やっぱり変わった子。
10代の女の子が初めての街を訪れる理由が「人探し」なんて答えはそうそう聞かない。
もっとも自分も数週間前にこの街に遥と優樹を探しに来たけれど
自分は魔道士であり魔道士協会の一員だから、普通とは少し違う。


「どんな人?」

「それが、分かんないんです」

さくらが少し困ったように笑う。
流石にその答えは衣梨奈も里保も不思議に思ったらしく
3人の頭上に疑問符が浮かんだ。

「あの、先生に『探してきて』って頼まれたんですけど、まだ会ったことが無くて。
旅行気分でいいかなって思ったんですけど、こんな広い街だと思って無くて、見つけられる気がしないです。
ていうか気持ちよくてついつい海で遊んだりしちゃってましたけど」

軽く、微笑むさくらの言葉に、それぞれの頭の中で想像が膨らむ。
亜佑美も、それは少なくとも自分が遥達を探していた時のような切迫した事情では無いのだろうと考えた。
旅行のついでのちょっとしたお使い。そんなところなのだろうか。

「そんなに長くこの街に居られるわけじゃないし、どうしよう」

独り言ちるさくらが尚笑っているから、衣梨奈と里保も「そっか」と笑った。

「夏休みももうすぐ終わっちゃうもんね」

「夏休み…そうですね。もう夏が終わっちゃう」

里保の言葉にさくらが答え、それから青い空を見る。
それにつられ、亜佑美も里保も衣梨奈も空を見上げた。
大きな雲の塊が勢いよく流れる空の高い高い場所で、まだまだ太陽はその存在を強く主張している。
衣梨奈の短い髪の気はもう随分と乾いていた。


行きつけのアイスクリーム屋さんに近づくと
見覚えのあるシルエットが亜佑美たちの目に入った。

「あ、あゆみーん、うぃくたさーん、やすしさーん!」

ご近所に轟く大声に思わず3人が苦笑する。
さくらはびっくりして目を見開いた。

優樹がアイスクリーム屋さんの前で手を振っている。
その横には猫の姿の春菜もいた。

優樹が4人に駆け寄る。

「あゆみん、お金持ってないー?アイスー……だれ?」

優樹がさくらの姿に気付き首を傾げる。
春菜も3人に声を掛けようとしてさくらに気付き、慌てて猫のふりをしてにゃーと鳴いた。

「おはよ、優樹ちゃん。小田さくらちゃんっちゃよ」

衣梨奈の言葉に、優樹がさくらをじっと見つめる。
亜佑美は、その優樹の癖がさくらを威圧しないかと思ったけれど
さくらはもう最初の驚きは引いたらしく、優樹の真っ直ぐな視線を受け止めて微笑んでいた。

「小田ちゃん?」

「はい、小田です」

「小田ちゃんかぁ」

不思議なやりとり。
亜佑美はその光景を見て、さくらの不思議さには優樹のそれに通じるものがあると妙に得心した。


「おはよ優樹ちゃん、はるなん。お金あるよ。うちらもちょうどアイス食べようって思ってたとこ」

里保の言葉に優樹の顔がぱっと華やぎ、視線が里保に釘付けになる。

「やったー!」

「おはようまーちゃん。ほんとタイミングいいね。あ、小田ちゃん、この子は佐藤優樹っていうの」

亜佑美がさくらに言うと、さくらは「佐藤さん」と呟いてから
感謝を込めて亜佑美に微笑んだ。
亜佑美は自分に向けられた笑顔に妙にドキリとして曖昧に笑い、それからまた視線を優樹達に戻した。

「聞いて!はるにゃんこに借りようと思ったらお金忘れた―って!」

優樹の言葉に里保と亜佑美が慌てる。

「そ、そりゃあはるなんは猫だもん。お金持ってないよ」

里保の言葉を受け、春菜がまたわざとらしくにゃーと鳴いた。
と、さくらが春菜を見つけ声を上げる。

「かわいい!黒猫!おいでおいで」

ぱっと幼い表情になったさくらがしゃがみ込み春菜の頭にそっと手を伸ばした。

「よしよし。はるなんちゃんって言うの?可愛いね」

さくらが優しく撫でぜ、抱き寄せる。
春菜は少し慌てた素振りを見せながらもされるがままになっていた。
そんな様子が面白くて衣梨奈と亜佑美がクスクスと笑う。
優樹はもうアイスのことしか考えていないというように、里保の手を引いてお店の中に入っていった。


 

5人が思い思いのアイスを選び近くの公園に移動する。
猫のふりを続けていたためにアイスにありつけなかった春菜は、寂しそうににゃーと鳴いてその後に続いた。
優樹はもう春菜のことなんか忘れていたので、亜佑美はこっそりと春菜にアイスを分けてあげるタイミングを探っていたけれど
結局そんなタイミングは来なかった。

「小田ちゃん、一口ちょうだい!」

「いいですよ。はい」

「うーん、おいしー!まさのも一口あげるよ!」

「有難うございます」

楽しげな声が公園に響く。
強い日差しと気持ちいい風を受けて食べるアイスはまた格別。

亜佑美は優樹とさくらのやりとりをみて驚いていた。
衣梨奈以上の、何ステップもすっ飛ばしたような距離感。
気が付けば優樹とさくらは仲のいい姉妹のようにじゃれあっていた。

アイスを交換し合いながら食べ終えた頃には
その輪の中にさくらが居ることに殆ど違和感は無くなっていた。

亜佑美は改めてさくらを観察してみた。
優樹の良く分からないトークに、不思議なテンションで付き合うさくらは
凄く大人びているようにも子供じみているようにも思う。
会話の合間のちょっとした沈黙に、さくらは不意に鼻歌を歌う。
きっと癖なのだろう。
衣梨奈も里保も、楽しそうにしているさくらを嬉しそうに眺めていた。
春菜だけが寂しそうに時々にゃーと鳴いた。


「さくらちゃんさ、これから何かしたいこととかあるん?」

衣梨奈に聞かれたさくらが答える。

「いえ、特には…。本当はちゃんと探さないといけないんですけど
どこからどう探せばいいかも分かんなくって。しかも二人もなんて」

「二人?」

「はい。二人、探さなきゃいけないんです」

とても難しいことだとは伝わるけれども、さくらはあまり困っている様子でもなかった。
亜佑美はますますさくらのことを不思議に思った。
いったいどういう状況で、誰を探しているのだろう。

「男か女かとかも分かんないの?」

里保が尋ねる。

「あ、それは多分女の子だと思います」

「多分なんだ」

「歳とか名前とかは?」

亜佑美も会話に参加する。
でもさくらからの返答は相変わらずのものだった。

「わからないです」


それでは確かに探しようが無い。
さくらの「先生」も随分無茶なことを言うものだと思った。
そもそも、その人は一体どんな理由でさくらにその二人を探せと言ったのだろうか。
謎は深まるばかり。それを尋ねてもいいのだろうか。

「はるにゃんこはわかる?」

優樹が呟く。
みんなの視線が、すっかり忘れられていじけていた黒猫に注がれた。
亜佑美も春菜の存在を思い出し、それからこの街で「人探し」といえば情報屋さんの春菜の出番だということも思い出した。
だけど話を振られた黒猫は困ったように小さく首を振りにゃーと鳴く。
さすがの春菜も、あまりにも情報が足りないのだろう。

「なんかすみません。多分見つかる時は見つかるし、見つからない時はどうしたって見つからないので。
私のこと、気にしないでください」

さくらが笑って言う。

「うーん、でもそこまで聞いたらやっぱ気になるっちゃんね」

「確かに。ね、うちらも別にこれから用とか無いしさ。
ちょっと街を歩いてみない?」

夏休みの終わりに出会った不思議な女の子。
見つかるとは思えない探し人。
それは何だかわくわくすることのように思えて、衣梨奈と里保が口ぐちに言った。
亜佑美もそれに賛同の声を上げる。

この街の子じゃない、偶然出会った女の子。
夏が終わればどこか別の街に帰ってしまう。
きっとこのまま別れれば、もう会えなくなる。
だからみんな、もう少しだけさくらと一緒に居たいと思った。


「いいんですか?」

戸惑いがちに、でも嬉しそうにさくらが言う。
亜佑美はその顔を見て胸を張って答えた。

「もちろん。自慢じゃないけどうちらめっちゃ暇だから」

「あゆみんと一緒にしないでよ!まさひまじゃないもん!」

「あーそう。そうだね、まーちゃんは学校に備えてお勉強しないとやばいもんね。
じゃあ一人で家に帰る?」

「むー。やだ!まさも行く!」

亜佑美と優樹のやりとりを見て衣梨奈と里保が笑う。
それからさくらも楽しそうに笑った。
春菜は自分の存在を思い出して貰おうと、またにゃーと鳴いた。


.


5人と一匹はそれから街の色々な場所を歩き回った。
海岸沿いにいつも行く商店街を抜け、お寺や旧跡を巡り
小川を渡ってお洒落なお店を冷やかした。
亜佑美もまだこの街に来て間も無いから、衣梨奈と里保の先導に従って歩く。
沢山の初めての場所を訪れ、改めて色んな要素が入り乱れ
それでも調和を保っている不思議で素敵な街だと思った。

さくらが居る手前詳しく尋ねることは出来なかったけれど
魔道士が開いているであろうお店も沢山あって、亜佑美はそれを物珍しそうに眺めた。

一日歩き回りはしゃぎ、笑い合った5人は
もうすっかり当初の人探しの目的も忘れていた。
夕暮れ時。
果物屋さんで買ったプラムをかじりながら近所の公園に戻って来た亜佑美たちは
疲労の中、今日一日でまた楽しい思い出がいくつも増えたことを感じていた。

「あー面白かった!」

亜佑美は食べ終えたプラムの種を草むらに放りながら声を上げた。
具体的に何が面白かったのか、並べることは難しいけれど今日は沢山笑った。
まるでもう少し小さかった頃、優樹と遥と3人で遊びまわった時のように
何も考えずただ楽しめた気がする。

「めっちゃ遊んだね。なんかただ歩いてただけみたいな気もするけど」

「ほんとに、楽しかったです。皆さん有難うございました」


執行局員になったからには、大人と同じ立場になる。
だからこんなことはもう無いと考えていた。
亜佑美はこの街に来てからの毎日に戸惑いと嬉しさを感じていた。
きっと今の自分たちは、大人と子供の中間の曖昧な波線の上を漂っている。
そんな時間がいつまでも続けば、それはとても幸せなことだろうと思った。

ふとさくらがそわそわと身体を揺らし始めた。
それに気付いた優樹が、ぐっとさくらに顔を寄せる。

「どうしたの?」

「あの、私そろそろ…」

夕日を背に、影が長く伸びている。
もう衣梨奈たちも戻って夕食の支度をしなければならない時刻。
家でさゆみと遥が待っているはずだ。

お別れの時間が近づいている。
だけど何となく名残惜しい。
そんな空気が辺りを包んで、それは強い風にも飛ばされずそこに留まっていた。

「今日ありがとね、小田ちゃん」

里保が言う。
その邪気の無い満面の笑みにさくらが慌てて答えた。

「そんな!こちらこそ本当に有難うございました。
すっごい楽しくて……本当に、楽しかったです」


いつの間にか衣梨奈、優樹だけじゃなく里保もすっかりさくらと打ち解けていた。
といって相変わらず会話が長続きするわけではないけれど。
亜佑美も、あまり話が弾んだ記憶は無いけれど、すっかり自分もさくらと友達になったと感じていた。
だからこの時間が酷く寂しい。

「さくらちゃんはいつ帰るん?」

ふと衣梨奈が問いかけた。
先ほどから落ち着きの無いさくらが、指先を小さく動かしながら思案する。

「えっと、多分明日…明後日には帰らなくちゃいけないと思います」

「そっか。明々後日からはもう学校やもんね。ギリギリまで居られるっちゃんね」

「たぶん…」

「ね、明日もさ、えりたちと一緒に遊ばん?用事が無ければやけど」

さくらの顔に驚きが浮かぶ。
それから、ゆっくりと嬉しそうな色が浮かび上がった。

「いいんですか?」

「うん。折角やけん、いっぱい遊ぼ」

里保と亜佑美も肯く。優樹はキラキラと目を輝かせ衣梨奈を見ていた。

「明日は聖と香音ちゃんとも遊びたいっちゃんね」

「ふくちゃん宿題ちゃんと終わらせられたのかな」

「鈴木さんも夏バテから回復してるといいんですけどね」


明日も遊ぼう。
その約束が、寂しげに沈んでいた空気を暖める。
亜佑美は、そんなことでいいのかと自嘲しながらも
胸を躍らせていた。
大人ぶったりもしていたけれども、まだ自分は子供なんだと、
もう開き直りそれを認める。
上司の里保だって、凄く楽しそうな表情をしているんだから、それでいいのだ。

「嬉しい!今日は本当に有難うございました!」

「うん。また明日!」

さくらが立ち上がる。
それから深く頭を下げ、優樹と両手を合わせて笑顔を投げ合った。
最後に春菜の頭を優しく撫でると、さくらは慌てた様子で公園を後にした。

亜佑美は暫くぼんやりとさくらの駆けていった方を見ていた。
赤い夕焼けの街の、影の中。
さくらは一体どこに泊まっているのか、尋ねておけば良かったと思った。
それに「明日」とは言ったけれど何時に何処でという話は出来ていない。

また本当に明日も会えるだろうか。
少しの不安が風に飛ばされ、その風がきっと会えるに違いないという楽観を連れて着てくれた。

「不思議な子ですね」

春菜がぼんやりと座る4人に言う。
亜佑美は、今日初めて春菜の声を聴いたことを思い出し
それが何だか可笑しくて笑った。


遥が腕にいくつものショッピングバッグを提げて道重家に戻る道すがら
同宿の4人と黒猫の姿を見つけた。
衣梨奈達と優樹と春菜もいつの間にか合流していたらしい。
自分はすっかり聖とのデートを楽しんでいたけれど
そんな聖をほったらかして楽しそうに歩いてくる衣梨奈達の姿に少しだけムッとする。

「あ、どぅー!どっか行ってたの?」

優樹が遥を見つけ駆け寄る。
遥はぶつかってくる優樹を踏ん張って受け止めて、それから言った。

「うん。今日一日譜久村さんとデートしてた。いいだろ」

「ふくちゃんと?」

優樹に続いて遥に近寄った里保が尋ねる。

「はい、そうです」

「もう宿題終わったのかな?」

「終わったって言ってましたよ」

遥の言葉に衣梨奈が笑顔を作る。

「それなら明日は聖も一緒に遊べるっちゃね!」

嬉しそうに言う衣梨奈に
遥かは心の中で「全くこの人は」と毒づいた。

 

「どぅーも明日は強制参加だよ。小田ちゃんと会わないと」

ニヤニヤ笑いながら言う亜佑美に遥が首を傾げる。

「小田ちゃん?」

「うん、今日会ってさっきまで一緒に遊んでたの」

「すっごい変な子。小田ちゃん」

「いや、まーちゃんには言われたくないと思うよ」

話についていけない遥に
衣梨奈と里保から今日一日の顛末について説明があった。
不思議な女の子と会い、一日街中を遊びまわった話。
遥は衣梨奈が荒れる海に飛び込んでさくらの帽子を拾ったという
良い子は絶対に真似しちゃいけないエピソードを聞いて盛大にため息をついた。
この場で聖が話を聞いていなくて本当に良かったと思う。

遥のため息を気にせず話す4人は本当に楽しそうだった。
そのままさゆみの家の門を潜っても続く話に
遥も次第にさくらに対する興味が湧いて来た。

家に帰り、衣梨奈と里保と亜佑美が慌てて夕食の準備に取り掛かる。
その間優樹が、さゆみにべったりとくっ付いて今日のことを話していた。
夕餉の席でも、衣梨奈と里保と亜佑美が加わって楽しそうに話す。

さゆみは子供たちの話を面白そうに聞きながら、愛情のこもった夕ご飯に舌鼓を打った。

 

 

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最終更新:2015年06月08日 15:47