本編22 『台風』


さくらは衣梨奈達に別れを告げると、急ぎ足で夕暮れの街を駆け出した。
どこに向かおうと考えて、今朝休んだ神社を目指す。
だけど途中で、あそこはダメだと思い直した。

走って、もう衣梨奈や優樹達から十分に離れたことを感じ、さくらは一度立ち止まった。
それから息を整え、ゆっくりと歩く。
一気に汗が噴き出し、身体が風に冷まされていった。

「はぁ、薬の効果思ったよりずっと短いなぁ…」

とぼとぼと歩きながら独りごちる。
この街にいられる時間も思った以上に少ない。
衣梨奈に対して少なめに滞在時間を申告したけれど、残りの薬の量を考えると
本当に明後日いっぱいがギリギリだと思えた。

それまでに目的の二人が見つけられるだろうか。
だけどさくらには、そのことについての不安は驚く程に無かった。
昼間口にしたように、見つかるならば見つかるし、見つからなければ見つからない。
それでいいと思った。

もし見つからないのならば「先生」の実験は、すべきでは無いということなのかもしれない、なんて。
勿論最善は尽くすつもりではあるけれど、さくらの中で師の目指していることは
まだ十分に消化しきれていない。
もっとも、自分よりも遥かに長い年月を生きている先生のことが
すべて分かるはずも無いのだけれど。


とぼとぼと歩く。
早くまた薬を飲まないと。
その為に落ち着く場所が欲しい。
今朝の神社に行きたい。とても優しくて落ち着く場所だった。
だけどそれは魔法。
多分この街の主、道重さゆみの魔法。
だからその場所には、今は行けない。

さくらの足は吹き上げる風に押されるように坂の上を目指していた。
今日衣梨奈たちと遊んだ場所とは別の方向。
そちらには街を一望できる素敵な緑地があると話に聞いていた。
明日また遊んで、もし機会があれば案内してあげると、そんな風に言われた場所。

勝手に一人で言ってしまうのも悪い気がしたけれど
さくらはその言葉を思い出し、街を眺めて見たくなった。

くたびれた身体を押し上げながら坂を上り
それらしい緑地に入る。
展望スペースの柵に捕まって乗り出すと、
夕日に真っ赤に彩られていくつもの光と影が踊る、美しい海辺の街が目に飛び込んだ。

「きれい…」

さくらが思わず感嘆の声を漏らす。
今朝坂の上から見下ろしたよりもハッキリと見える街の全景。
その街は思ったよりもずっと綺麗で輝いていて、その景色が深く心に刻み込まれる。


多分、衣梨奈や里保や亜佑美、優樹や春菜に出会ったから。
だからこの街が綺麗で、好きなのだと思った。

不意に寂しさが襲う。
みんなどこかの家に帰って行って、きっとこれからは家族の時間。
暖かい晩御飯を囲む準備をしている頃だろうか。

見下ろした赤い街には、そんな幸せがきっとあって
丘の上にそれを運ぶように風が歌っていた。

自分には帰る家は無い。
この街に。
自分はよそ者だから、そんなのは当たり前。
だけど、寂しく思ってしまう。
今この瞬間、目の前の街の全部が、全員がさくらのことを知らない。
衣梨奈も里保も亜佑美も優樹の春菜も忘れてしまって、本当に自分が今一人ぼっち。
そんな感覚。

少しの間さくらは街を眺め、そんな感覚に身を沈めていたけれど
不意に首を振って苦笑した。
きっと汗をかきすぎたせいで身体が冷えてしまったのだろう。
もうすっかり汗は引いていた。


ふとした瞬間寂しくなってしまう、そんな自分が好きじゃない。
決して自分は不幸せでも無いし、孤独でも無い。
ずっと寄り添ってくれる人や、ずっと愛してくれる人は居なかったけれど
それでも一度も、世界中の人から忘れられたことなんて無いはず。
どんな人だって、本当に一人ぼっちなことなんて無い。
さくらにも、先生や同門の仲間がいるし、
今日出会った友達が、もうさくらのことを綺麗に忘れているなんてこともあるわけない。

さくらは自嘲しながらベンチに腰掛け
淡く重なり合う空と海の境を眺めた。
風に合わせて歌を歌う。
楽しい歌を。

見返りも無くただ人を愛せる、そんな人になりたいとずっと思っているのに
現実は難しい。どうしたって寂しくなって、愛されたいと思ってしまう。
そんな自分が好きになれないけれど
多分そんな自分も愛してあげなくちゃいけないんだろう。

太陽が沈む。
街はみるみるうちに青く淡くなって
その中にいくつもの街灯りが光り出した。

さくらは今晩この緑地に落ち着くことを決めて、改めて薬を取り出しそれを飲んだ。


「それにしても、本当に今日は楽しかったなぁ…」

一日のことに思いを馳せてさくらが呟く。
今日感じた幸せは、本当にこれまで生きて来た中でも一番と言えるくらいのものだった。
素敵な友達が出来た。
5人の魔道士。
優しくて明るくて楽しい、同年代の女の子たち。

さくらはそんな彼女たちに、自分が魔道士であることを隠しているのが
少しだけ残念だった。
仕方ないこと、なのだけれど。

5人は魔法使いじゃないと思っている自分と友達になってくれた。
とても自然に、当たり前のように。
それはさくらにとって小さな驚きだった。

どうしたって魔道士とそうでない人とは、学ぶこと、考えるべきこと、生きる場所が違う。
だから子供でも、普通は互いに距離を置いて、魔道士は魔道士のコミュニティで生きる。
魔道士協会はそれを円滑にするための機構という側面もあるから
尚更この街で出会った彼女たちが異質に思えた。


それは多分、この街だから。
大魔女、道重さゆみの街だからなのだろう。

凄く気になる人。
素敵なこの街の隅々にまで、その人の想いが染み渡っている。
街に居れば肌で感じる。きっと、とても素敵な人。
会ってみたい。
でも会ってはいけない人。
とても残念。
それはこの街を好きになって、より強く感じたこと。

「先生」以外の三大魔道士。
話を聞く限り、先生と大魔女の関係は微妙。
互いに関わらない方がいいというのは、さくらにも何となく分かる。
自分がこの街に居ることが、もう既に関わってしまっていることになるのではと思わなくもないけれど。

多分素敵な人である道重さゆみと、仲良く出来ればいいのだろうけれど
長い時間の中できっといろいろあるのだろう。
それは多分、さくらが理解できる範疇のことではないと思った。


「先生」がやろうとしていること。
この街に居るという二人。

その実験がもし成功したら、この街が、大魔女の膝元が
最も生きるのに相応しい場所なんじゃないかとも思う。
そう上手くはいかないのだろうか。

考え事をしながら、さくらはもう何曲も歌を歌っていた。
街はすっかり夜の帳に覆われて、魔道士たちの魔力も様々な場所で目立ち始める。

相手が魔道士だって、この街から特定の人を見つけるのは凄く大変だろうと思った。
ましてや魔力の無い人を二人。

「無理だろうなぁ」

さくらは苦笑いして、もうそのことは忘れることにした。
それよりも明日また衣梨奈達と会える。
きっと明日が最後だから、凄く楽しみだし、楽しみたいと思った。

目を閉じ、夜の風を感じながらまた歌を続ける。
何曲目かの途中、歌が途切れ、代わりにさくらの小さな寝息が秋の音に紛れた。

 

 


激しい風の音。
さくらが目を覚ますと白み始めた空を轟々と雲が流れていた。

いよいよ台風がすぐそこまで来たらしい。
木々が激しく葉を揺らし、さくらの髪や服の裾も空気の中を暴れまわる。
よくもまあ、呑気に寝ていられたものだと苦笑しながら
さくらは立ち上がり、大きく伸びをした。
すると身体がいっぱいの風を受け、飛ばされそうになってよろめく。
それが可笑しくて、小さく笑い、朝の歌を口ずさんだ。
さくらが歌った歌は、風に巻かれコロコロと空を転がって雲の間に消えてしまった。

さくらはポケットから取り出したバッグを元の大きさに戻し肩に掛けた。
それから早朝の丘を、風の上を滑るように駆け下りると
まだ起きたばかりの街の空気を楽しみながら、昨日散策の途中にこっそり見つけていた
お風呂屋さんの暖簾を潜った。


地元のお婆ちゃんたちと愛想よく会話しながらお風呂に浸かる。
汗をしっかりと流し、湯船に疲れを溶かし出す。

お風呂上がり、鏡の前で他のお客さんが居ない間を見計らって少しだけお化粧。
さくらは、「持ってきておいてよかった」と独りごちた。
バッグの中には、ちゃんと着替えも用意してある。

魔法を研究するのに熱中するとどうしても色々なことが疎かになりがち。
殊、身だしなみはよく注意していないと酷いことになる。
これから昨日と同じワンピースで汗ばんだ身体を包んで
衣梨奈達ともう一度会わなければならなかったらと想像すると、ちょっと笑えない。

先生から頼まれた魔法に関するお仕事。
だけど「旅行気分」で来て本当によかった。

お風呂屋さんの壁を叩く風を思って結局別のワンピースを諦めて
パンツルックを選んださくらは、誰に見せるでもなく得意げな表情になって鼻歌を歌い外に出た。

風の中に居る。
いつ体が浮き上がりはしないかなんて考える。それが何だかさくらの心を弾ませた。
今日は特別な日だと思う。
それは風のせいだし、衣梨奈や里保達と再会出来る日、そして亜佑美や優樹達と別れなければならない日だから。


.


遥は珍しく優樹に起され、眠い目を擦りながら朝食を摂っていた。
さゆみ、衣梨奈、里保、優樹、亜佑美と遥が食事を囲む。
そこには心地いい賑やかさがあって、それが少しだけ気恥ずかしい。
もう慣れたけれど、慣れないなと遥は思った。

里保もしゃんと起きている。とても珍しいことに。
衣梨奈、亜佑美、優樹もどこか楽しそうな浮ついた様子。
きっと昨日の少女のことと、今日これからのことを考えている。
夏休みがあと少しで終わり、遥にとっては今までと違う学校生活がもうすぐ始まる。
色々なことがちょっとずつ、それで何だか今朝は特別な気がした。
遥は最近毎朝特別を感じるなと、小さく苦笑した。

窓の外で風が庭木を激しく揺すっている。
何だかんだ言って台風で嬉しくなってしまっているだけなのかも。
妙にそわそわする自分自身と周りの様子を、遥はそう結論付けて朝ごはんを掻き込んだ。


皆での朝食を終え、片付けも終えると
さゆみ以外の5人が集まって、今日の遊びの計画を立て始める。

さゆみは夏休みを満喫する子供たちを楽しそうに眺めていた。


遥はまだ会ったことの無いさくらを中心に進む話の成り行きを見守っていた。
その少女と会うことは、昨夜から亜佑美と優樹によって強制的に決められている。
聖や香音も、昨夜衣梨奈達が遊ぶ約束を取り付けたから
集まれば結構な大人数になるなと、ぼんやりと考えていた。

8人。多分春菜も来るだろうから9人。
遥にはそんな大人数で遊んだ記憶はついぞ無い。
どんな風になるのだろうか。

なんだか気分がふわふわしていた。

衣梨奈と里保が、聖と香音の迎えに行くことになり、
亜佑美、優樹、遥は先にさくらと合流しようと話が纏まった。
流されるままそれに従い、亜佑美と優樹に続いて道重家の門を潜ると
強い風が遥の身体にぶつかってくる。
一気に楽しくなって、優樹と遥の二人、大はしゃぎで風と戯れながら歩いた。

三人の横にはいつしか見慣れた黒猫がヒョコヒョコと寄り添っていた。


「おはよう、はるなん。今日もその格好なの?」

亜佑美が春菜に気付いて笑いながら言う。

「おはようあゆみん。色々考えた結果こうなりました…」

「それじゃ今日も一日喋れないんじゃないの?」

ニヤニヤ顔のまま亜佑美が春菜を抱き上げた。
春菜が喉を鳴らし、亜佑美の胸に頬を摺り寄せる。

「立派に猫を演じてみせるわ」

芝居がかった春菜の声に亜佑美が吹き出し
しこたま唾を浴びた春菜が不満げにニャーと鳴いた。
優樹と遥も亜佑美に抱き上げられた春菜に気付き、挨拶もそこそこに髭や尻尾を引っ張って遊び始めた。

「ところでさ、小田ちゃんと合流って言うけど、どこで合流するんだっていうね」

一頻りじゃれ合った後、亜佑美が呟く。
春菜もそれに続けた。

「私も気になってたんですよ。昨日結局誰もどこで何時にとか約束してないんですよね」

そんな二人の言葉に呆れた表情を浮かべる遥。
その横で優樹が不思議そうな表情を浮かべる。


「昨日の公園だよ?」

「帰り際に別れたとこ?」

「確かに今何となく私たちあそこに向かってますね」

「うん。小田ちゃんあそこにいるよ」

「なんでまーちゃんはそう思うの?」

亜佑美の言葉にますます不思議そうな顔をして優樹が首を傾げた。

「なんで?だって昨日あそこでバイバイしたじゃん」

亜佑美も不思議そうに首を傾げる。
だけど、元々そこを目指しているのだし
食い下がる理由も無いかと亜佑美はそれ以上何も言わなかった。

そのやり取りを聞いて遥も不思議に思った。
何で同じ場所で同じ女の子と別れた二人が、意見を食い違わせているのかが分からない。
もっとも、そんなことは強い風が吹くとすぐどうでもよくなってしまった。

公園に到着し見渡すと、探すまでも無く
揺れるブランコに一人、女の子が座っていた。

3人と一匹が公園に足を踏み入れる。
芝生の上を一層強い風が暴れまわり、さくらの長い髪を掻き上げた。


「小田ちゃーん!」

優樹が大声を上げて駆け出す。
風の向こうでそれに気付いたさくらがパッと顔を上げ
満面の笑みを浮かべた。

それから立ち上がると同時、突っ込んでくる優樹を受け止め抱きしめた。

「本当に居た」

亜佑美が苦笑しながら言う。

「ですね」

春菜も小さな声で返事をして、それからわざとらしくニャーと一鳴いた。

遥もそんな亜佑美と春菜の数歩後ろを歩きながら
いきなり抱き付いた優樹の行動に眉を寄せる。

「あれが小田ちゃんか」

遥の呟きを見上げた春菜は
その顔に浮かんでいる不満げな表情に小さく笑って
優樹たちの方へ歩を速めた。


「良かったです。昨日そういえばどこで待ち合わせとか全然言ってなくって、
連絡先とかも誰のも分からなかったからどうしようって思ったんです」

一頻り優樹とじゃれ、足にすり寄った春菜を抱き上げたさくらが
側まで来た亜佑美に頭を下げながら言った。

「ほらぁ、やっぱりそうだよね」

亜佑美がさくらの言葉を受けて優樹に言う。

「小田ちゃんここに居たじゃん」

優樹も応じる。
さくらは二人の謎の対抗を微笑ましく眺め、優樹の手を握った。

「佐藤さんと何か通じ合ってたんですかね」

言うと優樹が嬉しそうに笑う。
それからさくらとおでこを突き合せて微笑み合った。

暫くじゃれあった後、優樹がさくらの手を引いて歩き出した。
さくらと手を繋いだまま遥の所に来た優樹は、もう片方の手を遥の手と絡める。
遥は急なその行動に訝って優樹をねめつけ、それからチラチラとさくらを見た。

「小田ちゃん、どぅーだよ!」

「どぅーさん?」

「あー、小田ちゃん。こっちは工藤遥、通称どぅーってゆうの」

亜佑美の助け船にさくらがニコリと笑う。
「工藤遥さん」と口の中で呟いて、それから遥にもニッコリと柔らかい笑みを投げた。


「私、小田さくらです」

「あー、どうもっす…」

さくらの笑顔にどうすればいいのかも分からなくなった遥は
仄かに頬を染め視線を反らした。
その様子を眺めていたさくらの唇が「かわいい」と動いたことに春菜は気付いた。

風が遮って、小さな声はみんな聴こえない。
だから大きな声で喋る以外の些細な呟きは、今日は全部独り言。


亜佑美が改めて遥をさくらに紹介する。
優樹や亜佑美の大切な友達であること。
是非さくらに会って欲しいと思っていたこと。

それから、衣梨奈と里保のことについても話した。
彼女たちにも大切な友達が居て、遥と同じようにさくらに会わせたいと思っている。
今迎えに行っているから間もなく合流するはずだということ。

さくらはそんな亜佑美の説明を嬉しそうに聞いていた。
亜佑美や優樹が自分のことを想っていてくれたことが嬉しい。


暫く話していると衣梨奈からの連絡があり
程なく、衣梨奈と里保の二人も公園にやってきた。

昨日ぶりの再会に喜んで笑顔で迎えようとしたさくらの表情が固まる。
衣梨奈達の後ろを歩いて来た二人。
聖と香音の姿が遠目に映った瞬間、さくらは思わず呟いてしまった。

「みつけた」

慌てて口を噤み、亜佑美と優樹と遥、それに春菜の表情を見たけれど
4人ともが衣梨奈達の方を向いていて、風に遮られて誰にも呟きが聴こえなかったよう。

さくらはほっと胸を撫で下ろし、もう一度「その二人」をちらりと見ると、
一つ深呼吸をして改めて衣梨奈と里保に笑顔を向けた。

 

 

風が強く窓を叩き、唸りを上げる。
子供たちが出かけた家で、さゆみはのんびりとテレビを見ていた。
天気予報によれば台風がこの地域に上陸するのは今夜半。
だというのに、今朝から凄い風が吹いている。
随分大きくて遅い台風だ。
きっとこれが通り過ぎると一足飛びに秋になってしまう、そんな予感が胸を浸した。

さゆみは出かけた子供たちのことを考えていた。

昨夜からみんな随分とはしゃいでいた。
偶然出会った、よその街から来たという女の子。
その子との邂逅と、過ごす時間に夏のひとときの楽しみを見つけ
胸躍らせている。

少し子供返りしているな、とさゆみは思った。
勿論皆まだ子供なのだけれど。

それは、夏の初めに起こった優樹と遥を取り巻いた事件の反動なのだろう。
里保も衣梨奈も亜佑美も、その年齢に見合わない大きな苦悩と煩悶に苛まれた。
もがき苦しむ中で自ら決断すること、その意味を知らされて。

春菜や優樹、遥も含め子供たちにとって、とても大きな経験だったことは間違いない。
そしてその激動の後に訪れた、あまりにも平穏で幸せな夏休みに
すっかり弛緩してしまったのだろう。
里保や亜佑美、執行魔道士という立場を持つ子供たちも
今は奇跡のように手に入れた大切な友人たちとの時間に浮かれて
遊ぶことに夢中になっている。


さゆみはそれを眺めていることを楽しいと感じていた。
緩んでいるとも言えるけれど、心から伸び伸びと出来る夏休みが
あの子達に訪れたことは単純に嬉しかった。

そしてふと思う。
自分自身も、随分と緩んでいるな、と。

さゆみはここ数週間の自分が、とても満たされていることを感じていた。
優樹達が来て、一つ山が過ぎて、みんながこの家に留まれることになって
亜佑美が来て、もっと賑やかになって。

口にしてはいけない言葉のような気がして
もうずっと忘れていたけれど、さゆみは確かに『幸せ』を感じていた。

これまでどんな時も、どんなに満足した時も
心のどこかには必ず渇きがあったのに。
今怖い程に自分の気持ちは満たされていた。

多分、自分は渇いていたから生きて来られた。
その渇きがそれだけで生きる理由になったのだ。
心が満たされると、生きる必然性が無くなっていく。
例えば里保と花火の夜に交わした約束。その実現の前に死ぬのは申し訳ないから。
そんな風に、生きる目的を数えださないと分からないくらい薄らいで。
心が満たされるというのは、そういうことなのだろう。
この状態を悪いとは思わないけれど、不安定な状態だとは思った。


ぼんやりしている間に、テレビの天気予報は終わっていてた。
テレビの電源を落としパソコンを立ち上げる。

成長著しいとはいえ、まだまだこれからが楽しみな子供たち。
そんな姿をずっと見ていたいのに、自分がこんなことじゃいけないな、と笑う。
そうしてまた一つ、今生きる意味を数え上げた。

衣梨奈達が出会ったという可愛い女の子。
物凄く興味はあったけれど、敢えて話に入らなかった。
今までのパターンで考えれば、衣梨奈はその気に入った女の子をきっとさゆみの元に連れてくる。
何故だか可愛い女の子が次々に寄ってくる衣梨奈は、さゆみにとって密かに自慢の弟子だ。
明後日には子供たちの夏休みが終わってしまうから
多分今晩、その子を連れてくるはず。

楽しみにしていよう。

窓の揺れる音と甲高い風の音に、何だかさゆみの頭はふわふわしていた。


ふと、自分のパソコンのメールボックスに見慣れない名前を見つけた。

通販サイトの広告やメールマガジン以外で
さゆみのメールアドレスを知っている人もそうそう居ないはずだけれど。
そう思いながら暫時その名前を眺めている間に、その差出人に思い至った。

G.M(Golden Magician)

「ていうか、そのままじゃないですか…」

さゆみは思わず呆れた声を漏らした。
自分は”大魔女”という呼ばれ方を気に入っていない。可愛くないから。
だけど彼女は、自分のその通り名をそのままハンドルネームにするくらいには気に入っているらしい。
「大魔女」「西の大魔道士」に比べれば、カッコイイと言えなくもないからだろうか。

「それにしても突然過ぎるわ」

先日協会の前会長から「西の大魔道士」の名前を聞いた。
他の三大魔道士のことを思い出したのも随分久しぶりのことで、その時にはちらりと彼女のことも思い出していた。
だけどこれからも到底関わることは無いし、その方が世の為にもいいだろう、なんて思っていた自分に苦笑する。

きっと彼女のこのメールには本当に何の意味も意図も無くて、何となく思いついてさゆみに送ってみた、それだけの物だろう。
さゆみ以外の二人が、『世の為』なんて少しでも考えるわけがない。
改めて他の二人に比べて、自分が中途半端な存在だと思い知る。
だけど、そんな自分が嫌なわけじゃないし、結局彼女たちと自分とは交わらない、それだけのことなのだ。


それはそれとして、彼女を思い出した途端、懐かしい記憶が次々と蘇ってくる。
昨夜見た飛竜の夢が、この前兆だったのかとふと思った。

メールを開いてみて、さゆみはまた苦笑した。

『やっほー、道重ちゃん久しぶり、げんきー?』

本当に何の意味も意図も無いようだ。
これは返信すべきかすまいかも微妙なところ。
だけどさゆみは、返信の為の文章を考えはじめた。
改めてこういう連絡をされるとどう返していいのか難しく、それが可笑しい。
何せ前に会った時はまだパソコンなんてものがこの世に無かったから。

お互い三大魔道士で、同格。
だから気を遣うことも無いのだけれど、やっぱり昔を思い出すと少しだけ固くなってしまう。

衣梨奈達が帰ってくるまではまだまだ時間がある。

ふと、衣梨奈や里保も彼女に会ってみたらいいんじゃないかと考えた。
けれど、流石に今は魔法使いとして刺激が強すぎると思い直した。
もう少し時間が経ってから、会わせよう。きっと衣梨奈も里保も、いろいろと学ぶことが出来るだろう。

気の緩みきったさゆみは、昔のことと今のこととに思いを行き来させながら
たっぷりと時間を使って旧い知人とのメールのやり取りを楽しんだ。

 


香音は昨夜里保から受けた電話を思い出しながら、衣梨奈、里保、聖と並び歩いていた。
電話口で香音は里保に何の気なしに「その子は魔法使いなのか」を尋ねた。
答えはノー。香音はその時妙な感覚に陥った。

魔法使いでは無い女の子と衣梨奈たちが偶然出会い、夏休みも終わり掛けた一日を使って
遊びまわったという話に、理由のわからない違和感を覚えていた。
それは小さな小さな違和感で、寝るときには忘れてしまって
衣梨奈達と会って思い出したけれど、強い風が何度も髪を巻き上げるうち、また忘れてしまった。

それよりも今朝はっきりと気になったのは、一緒に衣梨奈や里保達と待ち合わせた聖のことだった。
その表情の奥に沈む静かな戸惑いと、大仰に風にはしゃぐ身振りとが
少しだけ痛ましくて、自分以上に彼女が戸惑っていることを知る。

だけど香音は聖にも衣梨奈にも何も言わなかった。
変わらないようで、毎日なにかが少しずつ変化している。

きっと10代のある年の夏休み、その最後の数日はとても特別。
その特別な時を、衣梨奈や里保が共に過ごすことを選んだ。きっとそれは特別な女の子。
この先もう二度と会えなかったとしても忘れることは決して無いような、そんな存在になるだろう。
そしてその場に、聖や香音も居ることを求められた。
それが昨夜の電話の意味ならば、やっぱり衣梨奈や里保にとって
香音も聖も、特別なのだ。


聖や衣梨奈や里保が紡ぐ青春。それもいい。
友人たちのそんな姿を眺め、これからも毎日小さな変化を感じながら
秋を迎え、冬を迎えられたならうれしい。
そんな風に考えて、香音は気楽な心持で公園までを歩いた。


公園に差し掛かり、亜佑美や優樹や遥、それに猫の春菜が囲む輪の中に見知らぬ女の子を見つける。
可愛らしい女の子。だけど、想像していたのとは全然違う子だな、と香音は思った。
活発そうとか、大人しそうだとか、そういう一目見て感じるような印象が浮かばない。
どちらとも言えるし、どちらとも言えない。そんなミステリアスさをその少女は放っていた。

電話口で一度、ここまで歩く道すがらにも一度、里保の口から
「不思議な子」だと聞かされた。
香音からしてみれば里保だってよっぽど不思議な女の子だけれど
なるほど、その子も確かに不思議な雰囲気を纏っている。

「さくらちゃん、おはよう!」

衣梨奈が風の中大きな声を出すと、少女はニコリと笑って応えた。

「おはようございます、生田さん、鞘師さん!」

力強い声。
だけど想像以上に可愛らしく明るい声が聞こえて
香音は小さく微笑んだ。


衣梨奈と里保がさくらに駆け寄る。
香音は、隣を歩く聖が些か緊張しているのを感じて
笑顔でその手を取って、みんなの輪に歩み寄った。

「そちらが?」

「うん、昨日言ってたふくちゃんと香音ちゃん。
えっと、譜久村聖ちゃんと鈴木香音ちゃんだよ」

里保の紹介にさくらが二人を向く。
香音は、側に立ったさくらのことを小柄だなと思った。
背の低い自分よりももっと小さくて、可愛らしい。

「小田さくらちゃんだよね?里保ちゃんたちから話は聞いてるよ。よろしくね」

香音が言うと、さくらはキュッと目を細めて笑い、よろしくお願いしますと頭を下げた。

「あ、えっと私は譜久村聖だよ。よろしく」

聖も慌てて後に続く。さくらは聖にも同じように頭を下げた。
暫くさくらは香音と聖をじっと見つめ、口の中でその名前を繰り返していた。

それから香音たちは集まっている面々にも一頻り朝の挨拶を交わしていく。
風の音がうるさくて、自然と声が大きくなるのが可笑しくて、大人数で集まるのも楽しくて
みんな朝も早くから随分とテンションが上がっていた。

そうしている間、さくらの視線が自分や聖によく届いていることに香音は気付いたけれど
それに何か意味があるとは思わなかった。
ただ里保や衣梨奈にまで不思議な子と言われる普通の女の子、さくらに俄然興味が湧いてきて
早くもっと話せる機会があればいいと考えていた。
最近来たばかりの亜佑美とだってまだそんなに話せているわけじゃないけれど
何せさくらはもうすぐどこか他所の街に帰ってしまうのだ。


台風のせいか、風が騒ぐ街に人の気配は少なかった。
公園を出ると街路樹の葉が道に散らかって、それをまた風が巻き上げる。
目まぐるしく色々なものが眼前を横切り、歩いているだけで気分が高揚していく。

8人と一匹は大所帯を成して人気の少ない通りを歩いて行った。
衣梨奈の提案で、昨日行けなかったお寺を目指す。

そこはこの街で一番大きな、何かしら由緒のあるお寺で
広い境内にそびえ立つ巨大な松林の奥に立派な本堂が鎮座していた。
外には大きな御堀がある。
風を嘲るように亀がちょこんと鼻先を出していた。

香音はさくらと話したいと思いながら中々近づけないでいた。
優樹が遥と亜佑美の手を引っ張って、がっちりとさくらの側を固めている。
嬉しそうな優樹の様子を見ていると、香音の口に笑みが漏れた。

仕方が無いから聖の横をキープして、さくらたちの様子をのんびりと眺めていた。


「聖ちゃん的にはどう?」

尋ねると、聖が曖昧に笑う。

「可愛い子だよね。何か大人っぽいような、子供らしいような不思議な感じ。さくらちゃん」

「そだね。全体的に何か不思議」

だけど普通の子。
衣梨奈や里保が惹かれた理由が、分かるようなまだ分からないような。


ふと振り返ったさくらと目が合った。
今しがた話した声が聞こえはしなかったかとドギマギして香音と聖が慌てる。
さくらも少しだけ驚いた顔をしたあと二人に向けニコリと微笑みかけた。


お寺を一通り巡りはしゃいだあと、一度輪になって向かい合う。
さて次に何処に行こうかと衣梨奈に視線が集まったけれど
衣梨奈はそれ以上何も考えて居なかった。

「ちょっとえりぽん、えりぽんが決めないと動けないでしょ」

「何か他に観光スポット的な場所とかないんすか?」

里保や遥に詰め寄られ、衣梨奈が困り顔で笑う。

「別にこの街観光地やないけんねー。さくらちゃん、何かしたいこととかある?」

「いえ、私は皆さんと一緒に居られれば」

あーでもないこーでもないと輪になって悩む。
だけどそもそも目的がはっきりしていないから、なかなか妙案も浮かばない。
別にそうしてグダグダと過ごす時間を、誰も悪いとは感じていなかったけれど
同時に時間が勿体ないなとは感じていた。

ふと聖が口を開く。

「ひまわり…」

だけど小さな声は風に遮られた。
聞き返されて、聖が今度は大きく口を開けて言う。

「あのね、この近くにひまわり畑があるの。
聖、毎年夏に見に行ってたんだけど、今年は見に行けてないから
もし良かったら行ってみたいなと思って」


聖の提案に一同は感心の声を漏らした。


「流石聖ちゃん。花畑とかあたしじゃ出ない発想だわ」

「さすがふくちゃん、生まれた時からこの街に住んでるだけあるね!」

「キラーン!
でもどうだろう、もうシーズン終わりかけかも。
さくらちゃん、どうかな?」

「素敵ですね!是非行ってみたいです!」


「けってーい。じゃー行こう!」

「まーちゃん場所知らないでしょ!」

取りあえずの目的地が決まったことが嬉しくて
みんながまたはしゃぎ始める。
聖も、称賛の声に照れながら先頭を歩き始めた。

香音がそれに続くと、さくらが二人の側に寄り、話しかけてくる。

「譜久村さんと鈴木さんって、ずっとこの街で育ったんですか?」

会話はこれまでそんなにしなかったけれど
香音も聖も、もうすっかりさくらが居ることに慣れていたから
歩きながら自然に話すことが出来た。


「うん。聖も香音ちゃんも、生まれた時からずっとこの街にいるの」

「うちらの次に長いのってえりちゃんだけど、それでも3年ちょっとだからね」

「そうなんですか?」

「里保ちゃんとか優樹ちゃんとかくどぅーとかなんてまだこの街に来て半年も経ってないよ。
亜佑美ちゃんは半月も経ってないね」

「じゃあ、お二人は大ベテランなんですね」

そう言って、心底感心したように手を打つさくらの姿が愛らしくて
聖と香音は顔を見合わせて笑った。

「そうなの。キラーン!」

「あ、『キラーン』って聖ちゃんのマイブームらしいから気にしないであげて」

「わかりました!」

近くのお花畑まで歩く短い道のりの間で、聖と香音とさくらもすっかりと打ち解けていた。
里保や衣梨奈がその様子を満足気に眺めついて歩く。

程なく聖が看板を示し、件のお花畑へ辿り着いた。


.


「これは…」

その『ひまわり畑』を見て、亜佑美が思わず呟いた。

「終わってる」

優樹も無遠慮に口に出す。

そこにあったのは、何百本ともしれない大きなひまわりが
花を萎れさせ、草臥れた茎を風に薙ぎ倒された、おおよそ「お花畑」のイメージとかけ離れた光景だった。

きっともう少し前ならば、それは見事に咲き誇っていたであろうひまわり達。
だけど今はもう、その堂々たる姿の面影も無い。

聖はその光景見て、暫し呆然として佇んでいた。
少し遅いかもしれないとは思っていたけれど、こんな「ひまわり畑」は想像していなかった。
去年まで見ていたこの場所は、この花はこんなんじゃ無かったから。
だけど、当たり前だけど花は枯れる。

この場所に、意気揚々と皆を連れて来たことが悲しかった。
まるで何かの終わりを暗示しているようで。

もし自分に魔法が使えたら、今すぐにでもここを満開のひまわり畑に戻すのに。
そんなことを考えると、聖はますます悲しくなった。

佇む聖に、誰も声を掛けられなかった。


と、さくらが花畑の中に足を踏み入れた。
倒れたひまわりを、それでも踏まないようにと気を付けながら。

そして萎れた花に顔を寄せると、振り返り聖に笑いかけた。

「さくらちゃん…何かごめんね」

聖が言う。だけど風に遮られて届かず、さくらは首を傾げて微笑んだ。

「ありがとう御座います、譜久村さん」

さくらの言葉を聞いて聖はますます申し訳なくなった。
周囲で他のみんなが二人のやり取りを見ている。

だけどさくらは何も気にせず、嬉しそうに言った。

「私ここに来れて良かったです。
強い花も枯れる。枯れるときもこんなに力強いって、知ってるつもりだったけれど忘れてました。
それを思い出させて貰いました」

さくらの笑顔が、衷心からの物と思えて聖は酷く戸惑った。
まるで本当に、この枯れた花畑を愛で、喜んでいるかのようで。

「満開の花畑も勿論綺麗だけど、このひまわり畑も綺麗なんだって、そう思えました」

「そうかな…?」

「はい!」

 

風吹き荒ぶ枯れたひまわり畑の中にさくらの満面の笑みが咲く。

その笑顔を見ていると、聖の心にもそこが素敵な場所のように輝き出した。

それは満開の花畑の突き抜ける爽やかさとは全く違う、寂しさと悲しさを包み込む逞しさの輝き。
花がただ見られるためだけにある飾りでは無く、生きていること。
この花畑を守る人の手に渡すよう、満々に種を抱いて枯れていく、その様は確かに美しいと思った。

その想いは、衣梨奈や里保や香音、亜佑美や遥や春菜にも伝播する。
確かに感じられる夏の終わり。
それは意味も無く寂しいことだけれど、秋が来ることが悲しいことのはずがない。
だからきっと季節の移ろうその瞬間も、目を凝らせば全部が輝いて見えるのだろう、と。

衣梨奈はすっかり感心し、無邪気に笑うさくらを目で追いかけた。
それはまるでさくらの言葉と笑顔が齎した魔法のようだと思いながら。

優樹だけが心底不思議そうに眉を寄せ、「いみがわからない」と呟いた。

 


 

風に揺られる枯れた花畑の中に9人は暫く佇んでいた。
さくらは萎れた花弁を撫でながら、時折聖の顔を窺っていた。

もちろん、心から思ったことを言ったのだけれど
打ち沈んだ聖の表情が少しは晴れれば、という気持ちもあった。
笑顔になってくれた。
だけど、聖の顔はまだどこか寂しそう。
それは、この花畑に感じた寂しさとは別の所から来るもののようにも思えた。

聖の横に立つ香音の顔も窺ってみる。
気の抜けたような柔らかい表情。
それは包み込むように聖に向けられていた。


先生に言われた通り、見た瞬間にこの二人が「因子持ち」なのだと分かった。
それは、言うなれば魔道士としての感覚に訴えかけられる存在感。
柔らかいような、暖かいような、心惹かれる雰囲気を、確かに二人は放っていた。

先生によれば、普通の魔道士はその存在を感じることは出来ない。
今さくらが知覚しているような「因子」を感じる感覚は
魔道士の中にはあるのだけれど、何らかの手段で強引に呼び覚まさない限りは発現しないらしい。

さくらの場合は、今回の任務にあたって先生自作の薬と、幾つかの複雑で胡散臭い魔法の施術によって顕現した。
他にもいくつか方法はあるけれどそれが一番手っ取り早いということだった。
もう失われて久しいという「因子」にまつわる技術。
勿論さくらも、実際に見るのは初めてだった。

まさかこんな形で目的の二人に出会うとは思わなかった。
もう半ば、先生のお使いのことは諦めて楽しく過ごそう、なんて思っていたから。

だけど見つけてしまったからには、任務を果たしたい。
役立たずだと思われるのは勿論嫌だし、何より、聖と香音に実際会って
先生の目的、その結果が知りたくなった。

だけど、二人を見つけることが出来たけれども、二人を連れ帰ることにはまだ大きな困難が立ちはだかっている。


一同がようやく花畑を後にした頃には、曇天の向こうの太陽が頂を超えていた。
腹ごしらえにとぞろぞろと移動し、衣梨奈や香音たちが馴染みの定食屋さんへと入って行く。

台風で暇をしていたお店に8人でテーブルの二つを占拠し、猫を連れて入っても
気さくな店主は嫌な顔をせず迎えてくれた。

席に着くなり、さくらの身体に違和感が襲う。
それは、昨日衣梨奈達との別れ際にも感じたもの。
薬の効き目が、切れかけている。

さくらは慌てて、だけどなるべくおしとやかに、お店のお手洗いに駆け込んだ。

個室に入って鍵をかけると、ポケットから鞄を取り出し元のサイズに戻す。
それから、薬を取り出した。

「もう切れちゃうなんて…」

思わず声が漏れる。
昨日は確かに丸一日はもったのに、今日はまだ半日と少し。
身体に耐性が出来てしまったのか、そもそも薬の質が微妙に違うのか。
魔法の薬の効果に、絶対ということはない。
まして自分で研究して作ったものならともかく、この薬は先生が作ったもの。
だからある程度、想定外を加味していたつもりだけれど
ここで切れてしまうのはとってもまずい。

残る薬は最後の一つ。
今飲むとして、同じような効果なら明日の朝を待たずに切れてしまう。
もしかしたら、もっと効き目は短くなっているかもしれない。
時間が無い。


とにかく、飲まないわけにはいかない。
さくらは小瓶の蓋をあけ一気に煽るとまた鞄を小さくしてポケットに仕舞い、
また身体の様子が元に戻るのを確認してからお手洗いを出た。

「大丈夫?」

席に戻ると里保が心配そうにさくらに言った。
慌てて席を立ってしまったから。
よくよく考えれば、身体が察知してから完全に効果が切れるまでにはかなりラグがあるから
落ち着いてお手洗いに行けばよかったのだ。

「はい。もう大丈夫です」

さくらが笑顔を作ると、「そっか」と里保も笑った。
顔色が悪いわけでも無かったから、大したことはないと思ってくれたらしい。

「ねえ、さくらちゃん。今日の夜さ、えり達の家に来ん?」

「え?」

不意に衣梨奈が告げた言葉。
見れば亜佑美や優樹も、どこか期待を込めた眼差しでさくらを見ていた。

「今ちょっと話とったっちゃけど、もうすぐ夏休みも終わってしまうけん、
みんなで夕ご飯食べようってなって。
えりと里保と亜佑美ちゃんで腕振るうけん、さくらちゃんもどうかなって」


その言葉を聞いて、さくらは複雑な気持ちになった。
タイミングがいいのか悪いのか。
是非ともご一緒したい。
だけど、今薬を飲んで、次に効果が切れたら薬はもう無い。
夜まで一緒に居て、そこで切れてしまったら大変。
それに

「道重さんも、多分さくらちゃんのこと気になっとーしね」

「うちら昨日ずっと小田ちゃんの話してたもんね」

やっぱり、とさくらは思った。
不思議と、昨日から一緒に居てその名前が衣梨奈達の口から出たのは初めてだった。
だけれども、どこかで確信していた。
衣梨奈達が『大魔女』と深い繋がりがあることを。
別に隠していたわけでも無いのだろう。
さくらのことを魔道士では無いと思っているのだから、道重さゆみという名前にもそれほど意味はないはず。
ただ、今までその名前が出るタイミングが無かっただけなのだろうけれど。

会ってみたい。
だけど、たとえ薬を飲んだ状態でも、会うわけにはいかない。
「先生」と同格の魔道士。
多分何を隠そうとしても、見透かされてしまう。


そしてますます、聖と香音を連れ帰ることの困難を思い知らされた。
思えば「因子持ち」を取り囲む若い魔道士が6人も。
それはまるで二人を守っているかのよう。
こうなっては、衣梨奈達にも知られずに、二人に話をしなければならない。
そんなタイミングがあるとは思えない。

少し強引な方法をとらなくちゃならないかもしれない。

気楽な気分でこの街に来たはずなのに、そんな綱渡りをするものだろうか。
なるべくなら手荒なことはしたくない。
だけどさくらは、二人を見つけている状況で、二人を連れず戻ることは出来ないと思った。
自分は「先生」の弟子なのだから。

「あの…、ごめんなさい。
是非お邪魔させて貰いたかったんですが…。
予定が早まってしまって、今晩には帰らなくちゃならないみたいなんです」

「え、そうなの…?」

「はい。本当にごめんなさい」

「いや、小田ちゃんが謝ることじゃないよ。
だけど、今晩かぁ」

定食屋さんの壁を風が殴りつける。
柱の軋む音に、店ごと飛ばされはしないかと心配になったけれど
店主は陽気にそれぞれの注文した料理を運んできた。

一同の中に、さくらが帰ってしまうという事実に寄り添う小さな寂しさが広がっていて
お店の中にはやかましい風と、美味しそうな匂いが混じり合った何とも言えない空気が出来上がっていた。


 

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最終更新:2015年01月19日 21:35