本編23 『少女たちの選択肢』

定食屋さんを出ても相変わらず行く宛ての無かった9人は
いよいよ強さを増した風を避ける為にもと、街で一番大きなショッピングモールに入ることにした。

建物内には外の暴風を感じさせない穏やかな音楽が流れていて
賑やかな装飾の店が並んでいる。
特にこの街独特というわけでもない、どこにでもありそうなショッピングモールだけれど
年若い女の子達にとってウインドウショッピングはやっぱり心躍った。

衣梨奈達と緩く会話をしながら
さくらは定食屋さんで思いついたことをずっと考えていた。
自分が街を離れなければならない時間。
大魔女がどれくらい、自分の事、『先生』のことを察知しているのか。
そして二人の気持ち。

障害が多い。
何度も考えて、確実と言える方法は無いことを改めて確認する。

一番の問題は、聖と香音の気持ち。
二人に事情を説明して、納得した上で一緒に来てもらう。
それが理想だけれど、もうきちんと説得するだけの時間は残されていない。


二人が自分たちを『因子持ち』だと自覚していればまだ少し話が早いだろうけれど
一緒に居て、さくらは二人がそのことを知らないのだろうと思った。
魔法使いの存在について知っているかどうかも怪しい。
それくらい、衣梨奈達6人は魔法使いとしてではなく普通の女の子として振る舞っていた。

自分の事を友達と言ってくれた
衣梨奈、里保、亜佑美、優樹、遥、それに黒猫の春菜と聖と香音。
彼女たちを騙している。
それはとても心苦しい。
だけど、そうやって中途半端に戸惑って、結局何も出来ないことが一番嫌だった。

自分は魔法使いで、『西の大魔道士』の弟子。
どう頑張ったところで、今の自分はそれ以外の存在にはなれないし
それが唯一の自己同一性なのだと、さくらには分かっている。

さくらは長い時間をかけて心を決めた。
全て上手くいけばいい。
結果的に皆が納得して、幸せになれる可能性が無いわけじゃないから。
そうなってくれるように願いながら、行動を起こすことを決めた。



『譜久村さん、鈴木さん、ちょっとだけお話したいことがあるんです。
一緒に、来て貰えませんか?』

不意に頭の中に響いた声に驚いて、聖はビクリと肩を震わせた。
確かにさくらの声。それが耳では無く、頭の中に直接響いた。
聖は急に緊張に襲われ、キョロキョロと辺りを見回した。

香音と目が合う。
香音も驚いた顔で自分を見ていて、同じ言葉が頭の中に聞こえたのだと分かる。
それから二人、弾かれるようにさくらを見た。

さくらは柔らかく笑って二人の視線を受け止め、小さく肯いた。

「あの、私お手洗いに行ってきますね」

さくらが里保や亜佑美達に告げる。

振り返りさくらを見る面々。
衣梨奈が心配そうに声を掛けた。

「さくらちゃん大丈夫?具合悪いん?」

「あはは、大丈夫です。ちょっと行ってきますね」

さくらの笑顔に、衣梨奈達も渋々引き下がる。
お手洗いに向かう為、さくらが振り向く。
その一瞬、その目が聖と香音に合図を送った。

聖は酷く動揺しながら、その視線を受け取った。


魔法だ、と思った。
その考えが、聖の混乱に拍車をかける。

さくらは魔法使いじゃないと、衣梨奈達に聞かされていた。
だけどさっき頭に響いた声は、魔法以外では説明がつかない。
訳がわからない。

話したいこと。
そう言われた。
だけどその内容にまで思考を及ぼす余裕は到底無かった。

ただ咄嗟に、声に出さずに告げられたこと、
衣梨奈や里保に相談するわけにもいかない、とだけ考える。
聞かれたく無いから、魔法を使ったのだというさくらの心情。
それだけを聖ははっきりと感得していた。


「あ、あたしもちょっとトイレ行ってくるよ。一緒に行こ、さくらちゃん」

不意に香音が声を出した。
香音も戸惑っているのが分かる。
先ほどの言葉が「ついてこい」という意味だとは聖にも分かった。

今は自分もそれに従うべきなのだろうか。
突然頭を襲った混乱を何一つ整理出来ないまま、聖も声を出した。

「あ、私も一緒に行くよ…」

香音と聖の声を聞き、さくらはもう一度微笑んで歩き出す。
3人は他の皆と別れて、ショッピングモールの隅にあるお手洗いへ向かった。


お手洗いまでの道すがら、聖は必死に頭の中を整理しようとしたけれど
何一つ纏まることは無かった。
隣を歩く香音もまた戸惑い、険しい顔で考え事をしている。

今まで少し不思議な、だけど普通の女の子だと思っていたさくらが
本当は魔法使いだったのだとすれば、今朝からのこと、その意味も全て変わってしまう気がした。
いや、昨日衣梨奈達が会ったというその時からの全てが、嘘になってしまう。

さくらはお手洗いの前の人気の無い踊り場で歩を止めた。
程よく喧騒が聞こえ、だけどそこには誰もいない。
前を歩くさくらに聖は小さな恐怖を抱いていたけれど
改めて向き直ったその顔は、朝から変わらない、可愛らしいさくらのそれだった。

「ごめんなさい、急に呼び出したりしてしまって」

さらりと、事もなげに言うさくらに、聖がかえって戸惑っい言葉が出なかった。
香音も同じなのだろう、数秒沈黙が続く。
それから、何とか香音が言葉を紡いだ。

「やっぱりさっきの、さくらちゃんだったんだね…」

「はい、そうです。
お二人に話したいことがあって、だけど他の皆さんには出来れば黙っていたいことだったので
頭の中にお話しさせて頂きました」

さくらは穏やかな口調を崩さない。
だけど、話を急いでいるようにも感じた。


お手洗いと断って来たからには、そんなに長時間話をしているわけにもいかないから。
情報が錯綜して、混乱して聖の頭はほどんど思考停止に陥っていたけれど
さくらの為にも、着いていかなければならないと思った。

「さくらちゃんって、魔法使いだったの…?」

やっとの思いで聖がそれだけ口にする。
動悸が走り、思った以上に口の中が渇いていたことを知覚した。

「はい。
それも、生田さん達には秘密にしていました。
理由は…簡単に言うと、『道重さゆみ』さんという方と、私の先生の仲が悪いからなんです。
あの、お二人は『道重さゆみ』さんのこととか、魔道士のことについてもそれなりにご存知なんですよね?」

「…うん。知ってるよ。道重さんが『大魔道士』だってこととか」

香音の答えに、さくらは少し真剣な面持ちを作って続ける。

「生田さん達6人が魔道士だということも知ってますよね?」

「うん…」

聖はそう答えてから、まだ混乱する自分の頭の中に一点の沁みのように寂しさが浮かんだのを感じた。
ざわざわと鳴る踊り場の音が、どこか遠くから木霊する。


あまりにも急な、想像だにしない情報の奔流に
まるで夢を見ているような気分になった。
思えば今朝から、風が強くて体がふわふわと浮き上がりそうで
微睡の中のような感覚がずっと残っていたのを思い出す。

だけど、次にさくらの口から語られた本題は、急に水を被せられたかのように聖の身体の熱を冷ました。
さくらは少し大きく息を吸い込み、言った。

「手短に、率直に言います。
譜久村さん、鈴木さん、お二人は魔法使いになりたいと思ったことはありませんか?
もし今から魔法使いになれるとしたら、なりたいですか?」

聖の隣で、香音がハッと息を吸い込み呼吸を止めるのが分かった。

 

 


沈黙が訪れた。
聖にとっては長い長い沈黙だったけれど、それは実際には数秒。
その間、聖は身動ぎすることさえ出来なくなっていた。

頭が真っ白になる。
何も考えることが出来なくて、ただ頭の中に梵鐘のように
さくらの言った『魔法使いになれる』という言葉が木霊した。
香音の様子を窺うことも、出来そうにない。

二人の沈黙をある程度予想していたのだろう、
さくらは返事を待たず話を続けた。

「私の先生は、今その魔法を研究しています。
魔道士でない人、魔力を持たない人が魔力を持ち、魔法使いになる魔法。
だけど、誰にでもなれるというわけじゃないんです。
譜久村さん、鈴木さん。お二人だけに、その可能性があります」

「なんでうちらが…?」

震える香音の声を、聖はぼんやりと聞いていた。
話の内容は、多分理解出来ている。
だけどまるで心が身体を抜け出して上から眺めているように
現実感も、感興も沸いてはこなかった。

「お二人はご自身が『因子持ち』であることをご存知ですか?」


「因子…?」

初めて聞く単語。
香音が戸惑いながら声を出した。
聖は、何もかも分からなくなった思考の世界で
隣にいる香音だけが自分と同じ立場であることに安堵していた。
自分は到底声を出すことも出来そうにないから。

きっと香音も自分と同じに違いない。
その『因子』という知らない言葉に、何か淵から湧き上がるような不安と恐怖を覚えていることも。
そうであって欲しかった。

「やっぱり、聞かされていませんか…」

さくらが少し時間を気にするように、焦った素振りを見せた。

聖はぼんやりと、もう終わりにして欲しいと思った。
全部冗談だと、デタラメだと、こんな話は最初から無かったとさくらが笑って
皆の所に戻ってくれたら。

だってこの話の続きを、聞きたくない。

「お二人は魔道士にとって、とても特殊で希少な体質を持っているんです。
でもその存在を知っている魔道士も今は殆ど居ない。
古に失われた魔法の知識と深く関わる特別な存在、なのだそうです」

そんなこと知らない。
聞いていない。


自分たちはただの子供で、普通に学校に通って、普通に過ごしているだけなんだ、と。
笑いながらさくらを諭したかった。
どうして自分の口が、身体がそう動いてくれないのかが分からない。

だって、自分たちがもし特別だったのなら―――

「だけど”大魔女”道重さゆみさんは、絶対にそのことを知っているはずです。
だからご本人には告げていなかったとしても、譜久村さんと鈴木さんの側に生田さん達をいつも置いていたんだと思います」

ヤメテ

聖は叫んだ。
だけど叫びは声にはならず、筋肉の一つも動かすことは無かった。

衣梨奈が初めて転校してきた日を思い出していた。
それから、香音と3人で色々なことをして、他愛のない思い出を積み重ねて。
いつも、衣梨奈は聖たちの側に居てくれた。
その理由を、考えたことは無い。
考えようとしなかった。

理由なんて無いと、信じていた。

 


.


「私は、『因子持ち』であるお二人を探しにこの街に来ました。
そして出来れば一緒に、先生の所へ来てほしいんです。
簡単に返事が出来るようなことではないのは分かっています。
だから、先生から直接詳しい話を聞いて、それから改めて考えて頂きたいんです」

さくらは早口でそこまで言い、一度言葉を切って二人の顔を見渡した。
余程衝撃が大きかったのか、二人とも微動だにしない。
だけど話は聞いて貰えているのだと判断した。

自分が因子持ちであることも知らなかったのだとしたら、情報量が多すぎるのも分かる。
酷く混乱させてしまっていることも、落ち着いて話せないことも申し訳なかった。
だけどとにかく、自分には時間が無い。

「私は今晩にはこの街を出なければなりません。
それまでにもう一度お二人の所に伺うつもりです。
もし直ぐに、『魔法使いになんて全くなりたいと思わない』と判断出来て
この話に一切の関心が湧かないというのなら、無理強いはしません。そう言って頂いて構いません。
だけどもしほんの僅かでも考える余地があるなら――」

さくらは一度大きく息を吸い直した。
これから自分は、ズルい言い回しをする。
だけど、本当のこと。

「このこと、私が魔道士であることや先生のこと、今聞いた話を決して道重さゆみさんや、生田さん達にはしないで貰いたいんです」

「……どうして?」

また香音が震える声を出した。


「さっきも言ったように、”大魔女”道重さゆみさんと私の先生とは相容れないんです。
私がこの街に居ることも本来なら”大魔女”が許さない。
今ここに私が居るのも、いわばズルをして、その目を誤魔化しているんです。
もし私のことに気付いたなら、恐らくこの街から追い出されるか、殺されるか――」

「ころさ…れ…?」

「それは言いすぎかもしれませんが。
だけど確実に、もう二度と皆さんの前に姿を現すことも出来なくなります。
もしキッパリと断るつもりなら、生田さんや鞘師さんや、道重さゆみさんに告げて貰っても構いません。
それで金輪際、この話も、私の存在も無かったことになると思います」

二人がまた黙り込む。
さくらは自分の言い回しの卑怯さを十分承知していた。
それは、二人が少なからず自分に対して友情を示してくれた、その心を利用する最低のものだと。
信頼ということであれば衣梨奈や里保に対するそれが何百倍も上であるのは分かっている。
だから敢えて、自分の命とその信頼とを秤にかけるような物言いをした。

実際にさくらのことを知った道重さゆみがどんな行動を取るのかは分からない。
まだ一度も会ったことが無い人だから。
だけど「先生」と同格の魔道士。
もし先生と同じような人だとしたら、自分が殺されるというのもあながち大袈裟な話ではない。

さくら自身、”大魔女”と対峙し、戦ってみたいという気持ちも無いわけではなかった。
自分の魔法にだって、それなりに自身がある。
それに自分は、ただの魔道士。自分がどうなろうと、世の中にも、誰にも何の影響も無いことは分かっているから。


「お二人は今晩、道重さゆみさんのお宅に行く予定なんですよね?」

香音が僅かに肯く。

「もし道重さゆみさんがお二人の心を読む魔法を使うなら、どの道同じですね」

さくらは小さく苦笑した。
そう考えると、この賭けはあまりにも分が悪すぎる。
自分の身の安全を考えるならば、今この場で二人を攫ってしまって
とりあえず連れ帰ってから話をする方がよっぽどいい。

だけど出来るだけ、二人の判断を仰ぎたかった。

さくらは物心ついた時から魔道士だったから
そうで無い人の気持ちは想像することしか出来ない。
だけど、身近に魔道士がいて親しい関係を築いている二人が
一度も「魔法使い」に憧れを抱かなかったとは思えなかった。

だからそれも、ズルい言い方だ。


魔道士でない人が、魔道士になる。
そのことが、どれだけ人生を激変させるのか、
それを思えば、考える時間はいくらあっても多すぎることは無いはずなのに
殆ど時間を渡すことが出来ない。
だからせめてもの猶予を。

「ま、その時は仕方ないです。
急にこんな話をして、しかも急かすようなことを言って本当にすみません。
少し、考えてみてください。
さ、あんまり時間をかけるとまた生田さん達に心配されちゃいますので、皆さんのところに戻りましょう」

さくらは明るい声を出して話を切り上げ、さっさと歩き出した。
背後から二人がそぞろに続く気配を感じ、一つ安堵の息を漏らす。
一方的に、返事も待たず言うだけ言って歩き出した自分を酷いと思う。

だけど二人が今何か返事が出来るわけのないことも分かっていた。

 


皆の所に戻り、合流してまたショッピングを楽しむ。
その間のことを聖は殆ど覚えていなかった。
ただ、身体は自動人形のようにいつも通り動いて、普段通り振る舞って
だから衣梨奈にも里保にも誰にも、聖の心がそこに無いことを気付かれなかった。

自分はそんな便利な身体を持っていただろうか。
みんなの話の内容を殆ど理解していないのに、相槌も打てるし笑える自分が不思議だった。
誰かが聖のことを注視していたなら、何かしらの異変に気付いたのかもしれない。
だけど今は9人も一緒に居て、とりわけさくらのことを皆気にしていたから、聖はそこに居られた。

なんとか頭を働かせる糸口を掴もうとするのに、まるでオーバーヒートした感情の激流の中で藁を探るように
その手に何も掴むことが出来ない。

魔法使いになりたいか、とさくらは訊いた。
魔法使いになれる。
自分と、香音だけがなれるのだと。

自分たちは特別で、だからさゆみや、衣梨奈達は側に居た、とさくらは言った。

その先へ、思考を及ぼすことは出来ない。
それが本当でも嘘でも、それを考えるだけで聖の心は切り裂かれる。

さくらの言ったことの全てが嘘なら、何もかもデタラメで
悪意を持って自分の心を引き裂こうとしているのだったら、それが一番安心出来る。
だけどさくらがそんなことをする意味も、意図も、あるとは思えなかった。
何より、決してさくらには悪意があったわけでは無いことをその表情や、声や、目から感じ取ってしまった。

さくらが魔法を使えるのも本当。
それを衣梨奈達に隠しているのも本当。
それ以外のことが嘘、というにはあまりにもさくらの目は真っ直ぐだった。


程ほどにショッピングを満喫した9人は
再び建物の外に出た。
相変わらず風が吹き、灰掛かった空の上で群青に染め上げられた分厚い雲が
轟々と音を鳴らし流れている。
薄暗い街の景色が、夕刻の近さを教えていた。

誰かの提案で、街の高台にある緑地を目指すことになった。
展望台で、こんな風の日に街を見下ろすと、さぞ面白いだろう。
優樹や遥のはしゃぐ声を遠くに聴きながら、聖も皆の後に続く。

香音と何か話したいけれど、9人で移動する間はずっとその機会は訪れなかった。


すっかり辺りが薄暗くなった頃、9人は今朝集まった公園に移動していた。
会話の中で、さくらが帰らなければならない時間が迫っていることを知っていた。
だから、お別れの場所として、誰からともなくその場所が選ばれた。

薄暗い風の吹き荒ぶ街は、どこか恐ろしい雰囲気を纏い始めている。
一日中はしゃいでいた子供たちも、何となく口数を減らしていた。

「それじゃあ、私は帰ります。
昨日と、今日と、本当に楽しかったです。有難うございました」

さくらが、全員に聞こえるよう声を張り上げ、大きく頭を下げる。
改めて心地いい声だな、と誰もが思った。


「うちらも楽しかったよ。ありがと、小田ちゃん」

里保が言う。
続いて優樹も声を掛けた。

「また来てくれる?」

「わかりませんが…是非来たいです!」

明るいような、寂しいような、暴風に掻き回された訳の分からない空気。
だから、皆笑うことが出来た。
来年の夏、またさくらがこの街に来てくれる、と
根拠の無い予感が衣梨奈や里保や亜佑美や、優樹や遥の胸に湧く。

さくらは一人ひとりと言葉を交わし、感謝を告げた。
聖と香音にも同じように告げた後、小さく別の意味を込めた目で微笑んだ。

さくらはもう一度全員に深く頭を下げて、ゆっくりと公園を後にした。


昼間会話をする中で住まいを尋ねられた折には、
今は南の海上の孤島に住んでいると告げた。
じゃあ船に乗らなければならないのかと訊かれ、曖昧に肯定した。

どちらも嘘では無いけれど、正確な答えでも無い。
決まった家は無く、今は先生の手伝いで島に身を寄せている。
船と言っても「飛竜」という、普通じゃない船。

そんなことも全部押し込んで、さくらは笑顔で衣梨奈達に別れを告げた。
もう、この街に来ることは出来ないだろう。
衣梨奈や里保達にも、もう二度と会うことは出来ないだろう。

だけど二日間、心から楽しめたことをしっかりと胸に刻み、きっと死ぬまで
今日一緒に過ごした8人のことを忘れないだろうと思った。

あとはもう、一魔道士、大魔道士の弟子としての小田さくらに戻ろう。
薬の効き目は、多分明日の朝を待たずに切れる。
だから、聖と香音を今晩迎えに行く。
もし二人の答えが「ノー」ならば、戦おう。
”大魔女”と。場合によっては、衣梨奈や里保、亜佑美や優樹や遥、それに春菜とも。

何もせず「先生」の所に逃げ帰る選択肢もあるけれど
何となくそれは嫌だった。
魔道士としての自分がそう感じるのか、衣梨奈達と出会った一人の女の子としての自分が
そう感じるのかはよく分からない。

ただ、スッキリしない。

彼女たちに嘘つきのペテン師だと失望されても、それは仕方の無いこと。
実際に自分は、彼女たちを騙していたんだから。
だけどさくら自身は、どんなことがあっても衣梨奈達のことを好きでいるだろうと思った。
そう思えることが嬉しかった。


.

さくら達と別れた流れで、聖は皆と一緒に道重家を訪れていた。
この夏休み、何度も何度も訪れたこの場所。
もう明後日には学校が始まるから、皆で夏休み最後の思い出を。
その提案に、昼までは心を弾ませていた聖も、今はただ重苦しい気持ちでいた。

相変わらず普段通り振る舞えている。
その間に、長い時間を掛けてようやく、頭の中の整理が出来始めていた。

さくらの言ったことをもう疑ってはいない。
多分全て、本当のことなんだろうと思えた。

そしてその上で、さゆみや、衣梨奈や里保に隠し事なんて自分には出来ないと思った。
さくらのことを、全て話してしまおうと一度決めて、それでようやく宙に浮いていた聖の心が身体に戻ってくる。

だけどそうして考えているうちに、次々ともう一人の自分がその考えを打消しにかかった。

自分達が因子持ちだから側にいた、そのことを尋ねる勇気があるの――?

もう一人の自分の声に
背筋が震える。

さくらちゃんの身の安全を、貴方に保障出来るの――?

さゆみが、さくらを傷つけたりなんて絶対にしない。
さゆみはそんな人じゃないと、聖の心が叫ぶ。

あなたは道重さんの何を知っているの?魔法使いの何を知っているの――?

次第に、対抗しようとする聖の心が萎びてくる。
何も知らない、それが事実だから。


8人の大所帯で道重家を訪れると、さゆみはいつものように笑顔で子供たちを迎え入れてくれた。
衣梨奈や里保や亜佑美が夕食の準備に取り掛かり
その間に遥や優樹が食卓を整えるのを聖達も手伝った。

風が益々強くなっているから、雨戸を閉める。
それがガタガタと音を立てて、なお一層台風の存在を主張していた。

もう慣れ親しんだ9人でテーブルを囲む。
今日会ったこと、さくらのことを嬉しそうにさゆみに報告する優樹や亜佑美達を
聖は相変わらず自動人形のように相槌を打ちながら見ていた。

話の合間、ふとさゆみが聖を見た。

聖はドキリとして、肩を跳ねさせた。

――もし道重さゆみさんがお二人の心を読む魔法を使うなら、どの道同じですね――

不意にさくらの言葉が脳裏に過る。
心を読む魔法、そんなものがあるのだろうか。
さゆみにはいつも心や考えを見透かされているようだった。
さゆみは何でも知っているのだと思っていた。
だけど、もしいつも心を読まれていたのだとしたら――

さゆみは不思議そうに小さく首を傾げ「どうしたの?」と柔らかく笑う。
聖は「何でもないです」とだけ答えた。


聖の中で、全部話して相談しようと決めたはずの心は殆どその形を崩していた。

そんなわけは無いと思いつつ、少しでも疑念を抱いたことが後ろめたく、
それさえ見透かされているのではと思うと恐ろしくて、もうさゆみのことを見ることさえ出来なくなっていた。


何度も言ってしまおうと考えるけど、楽しそうに話す皆の空気に流されて
消極的なその気持ちはどんどん行き場を失っていく。

そして、何よりも聖を躊躇させるものが香音の存在だった。
何も話し合うことが出来ていない。
唯一同じ立場のはずなのに、ここまで話し合うタイミングが全く無かったことで
香音のこともまるで分からなくなっていた。

香音は何も言わない。
さゆみや衣梨奈達にさくらのことを告げようとする気配は無く、ただ普段よりは大人しく
自分と同じように皆の話に相槌を打っていた。

もし香音が、「魔法使いになりたい」と思っていたとしたら
自分の行動がそんな香音の気持ちを踏みにじることになりかねないと思うと、何も言い出すことが出来ない。
だけど聖は心の奥底で、それもただの言い訳だと分かっていた。

もう一人の自分が、一気呵成に弱った聖の心を責め立てる。

そもそもあなたは、魔法使いになりたかったんじゃないの――?

衣梨奈や里保と同じ景色を見ることが出来る、そのチャンスをふいにするの――?

ずっと寂しかったんでしょう――?

里保に、嫉妬していたんでしょう――?

聖の心は打ちのめされて、もう欠片も反駁する力は残って居なかった。
さゆみに、衣梨奈に、さくらのあの話をすることは自分には出来ない。
それが行き着いた結論だった。


 


食事を終え、暫く皆でテーブルを囲んで緩々と時間を過ごす。
皆静かな興奮を湛えていて、だけどそれは台風の夜と混ざり合って小さな倦怠を生み出していた。

ふと会話が途切れる。
丁度その時雨戸を叩く風が弱まった。

「ふくちゃんと香音ちゃん、今日は泊まってく?今晩大分荒れるみたいだし」

静かの中で不意に、さゆみが二人に声を掛けた。
皆が聖と香音を見る。

聖は酷くびくついて、言葉を詰まらせ
それを誤魔化すように伏し目がちにさゆみを見返し髪に手を当てた。
見られている。
それが怖いと思ってしまう。

話を振られているのが自分たちだから見られるのは当たり前。
さゆみも、衣梨奈も、里保も、遥も、優樹も、亜佑美も、春菜もみんな、自分たちを見ていた。
ただ見ているだけ。
それなのに、「7人の魔道士」に視られている、と感じてしまう。
まるで7人が「心を読む魔法」を使っているような、そんな錯覚を覚え、
聖は必死に笑顔を浮かべ、頭の中のそんな想念を振り払った。

視界の端同士で、香音と目が合った。

「えっと、その…今日は遠慮します。もうすぐ学校も始まるし…」

説得力を持たせたくて付け加える言葉を探すけれど、何も無く声は消え行ってしまう。
だけどさゆみはそんな聖の様子を追求することは無かった。


「そっか。香音ちゃんは?」

「うちも、今日は帰ります。今日本当に有難うございました」

香音は聖よりはいくらかハッキリとした声で、そう返した。

今丁度風が緩んでいるし、まだ雨も降っていないからと
そのまま二人はお暇することになった。
それに合わせて春菜も立ち上がり、帰り支度をする。

聖は、どこかホッとした心持で玄関に立っていた。
道重家を離れるとき、そんな気分になったのは初めてのことだった。

「お邪魔しました。ご馳走様でした」

さゆみ達5人が玄関で見送り、聖と香音、それに春菜が挨拶する。
当たり前のように衣梨奈も靴を履き、二人を自宅まで送る準備をしていた。

「えりぽん、いいよ、今日は…」

思わず呟いた聖の言葉に衣梨奈は少し驚いて、それからカラカラと笑った。

「何いいようと?いつものことやん。
てか今日こそ風が強いけん、怪我でもしたら大変やん」

「えりぽんだって危ないじゃん」

「えりはそんなんへっちゃらやって。知ってるやろ?」

ドヤとばかり笑う衣梨奈に、聖は返す言葉を無くした。
知っている。知っているから嫌だと思う。
自分たちと衣梨奈は違うから。


「じゃ、気を付けてね。3人とも、またね」

さゆみが聖と香音と春菜に手を振り、3人はもう一度礼をして外に出た。
玄関で春菜と別れ、衣梨奈と香音と聖は、風吹く夜の町を歩き出す。

一瞬、香音が聖の側に寄り、小さな声で言った。

「あたしは、聖ちゃんの考えに従うから」

聖はその言葉を胸に畳み込み、大切に鍵を掛けた。
その意味するところは分かるけれど、今は考えたくないと思う。
一人になってしまう気がするから。

道重家が背中から遠ざかるのを感じて、聖ははじめて寂しいと思った。

 

.


街灯が嵐の影を映し出す住宅街にさくらは立っていた。
目の前には『譜久村』の表札のかかった大豪邸。

迎えに行く、と格好つけた割に、二人の家が分からなかったさくらは
慌てて街の電話帳を捲り、何軒もある『鈴木』の家を後回しにして、一軒だけあった『譜久村』の家を訪れた。
これで聖の家も分からなければ、さゆみに見つかるリスクをおして二人をストーキングしなければなからかったから、取りあえずは良かった。
だけど、想像以上の豪邸に、少し尻込みしている。

まだ道重邸から戻っていない可能性も高い。
だけど自分自身に時間があまりないから、どちらにしてもチャイムを鳴らし、確認してみなければならない。
聖が居れば、香音の家も教えて貰ってそちらを回る。
居なければ、いよいよ道重邸に向かわざるを得ないと考えていた。

さくらは立派な表札と、その横にある随分と押し心地の良さそうなチャイムのボタンを見上げていた。
手を伸ばし、何となく薬指でチャイムを押してみようとする。
案外難しい。
バカなことをやっている余裕は無いのだけれど。

と、その時道の向こうに気配を感じた。
さくらは振り返り、それが『気配』とは別のモノであることに気付いた。

『因子』の感覚。
一度知覚してしまうと、それはこんなにも存在感を放つものなのかと驚く。
まだ視界に二人が居るわけでは無い。
恐らくまだまだ道の向こうから、ゆっくりとこちらに近づいている。
柔らかいような暖かいような不思議な感覚。
さくらはチャイムを鳴らそうと伸ばしていた薬指を引き戻し、小さな笑みを浮かべた。

それから街灯の照らす影の中を、二人に向かって歩き出した。


.


3人で夜の町を歩いていると、衣梨奈が不意に声を出した。

「今日なんか聖も香音ちゃんも元気無かったっちゃね。何かあったと?」

聖がゆっくりとした動作で衣梨奈の顔を見上げる。
衣梨奈は笑っているけれど、その笑顔がぎこちない。
これは衣梨奈特有の、あまりにも不器用な作り笑いだ、と直ぐにわかった。

やっぱり、気付いていないわけが無かった。

「なんで?普通だよ」

香音が言う。

「えー、さっきやって全然しゃべっとらんかったやん」

「そういう時もあるよ」

あしらう香音に、衣梨奈はそれ以上食い下がるのをやめた。
納得している風でも無いけれど、問答する気も無いらしい。
そのまま衣梨奈は体を回し、聖の肩に手を乗せた。

「聖は?もしかして宿題終わったと思ったらまだ残ってたとか?」

言って、衣梨奈は自分で吹き出した。
彼女の中では渾身のギャグだったらしい。

少しだけ、聖も笑った。
笑って首を振った。


本当に空気の読めない子だと思う。
衣梨奈に心配されるのも、声を掛けられるのも、笑い掛けられるのも
今の聖にとっては一番辛い。
全て話してしまいたい。話す勇気が出ない。その綱引きで胸が軋む。

だけどそんな思考とは全く別の、心のある部分が暖かい。
衣梨奈の不器用な笑顔が、そこを温めてくれて
だからどうすればいいのか全く分からないのに、聖の心は少しだけ軽くなった。

やっぱり、好きだなと思う。

苦しいけれど。

「そんなんじゃないよーだ!」

聖がお道化て言うと、衣梨奈が「なんだよー」と笑って
それ以上の追及は無かった。


.


道重家から聖と香音の家のある辺りまで、道程の半分を過ぎた頃、
3人が住宅街の角を曲がると、視界の奥にこちらに向かってくる人影が映った。

こんな嵐の夜に、と自分たちを棚に上げて胡乱な目を向ける3人。
だけどその人影が街灯の下に入った時、ハッキリと見覚えのある影だと分かった。

聖の思考が現実に引き戻される。
だけど何一つ考えが纏まる間もなく、3人と1人の距離はあっという間に縮まった。
互いの顔がハッキリ見える位置まで、ものの数秒。
聖の手は僅かに震えていたけれど
こんな風の中、衣梨奈がそれに気付くはずも無い。

いや、衣梨奈は今目の前の少女に釘付けになっているから、聖の方なんて見るわけも無かった。


「え、さくらちゃん…?」

衣梨奈が驚きの声を上げる。
いつの間にか互いにすぐ側まで来ていて、向かい合って立ち止まった。
聖の身体は錨を下したように動かない。
さくらも些か驚いた表情で衣梨奈を見ていた。


衣梨奈が驚きの声を上げる。
いつの間にか互いにすぐ側まで来ていて、向かい合って立ち止まった。
聖の身体は錨を下したように動かない。
さくらも些か驚いた表情で衣梨奈を見ていた。

「え?え?どうしたと?もしかしてえり達が引き止め過ぎて船に乗れんかったん…?」

さくらはその言葉を聞いて、ふっと笑みを漏らした。
それから小さく聖達3人に頭を下げ、衣梨奈に言葉を返す。

「あ、いえそういうことじゃないです。大丈夫です、生田さん」

「え、じゃあなんで…」

さくらがなお戸惑う衣梨奈に微笑みかけて、聖と香音に視線を向けた。

「こんばんは。えっと、これは『イエス』なんでしょうか。『ノー』なんでしょうか」

少し困ったような顔で、だけど軽い、相変わらず可愛らしい声でさくらが言う。
聖は、自分の横で香音がビクリと身体を震わせるのを、この嵐の中でも感じていた。

 


 


さくらは聖と香音の表情を注意深く観察していた。
返事は何もない。二人の目には迷いが浮かんでいて、心を決めかねているのだと分かる。
1人戸惑いの声を上げて、三人の顔を忙しく見渡している衣梨奈の様子で
さくらは衣梨奈が何も知らないことを理解した。

「何?え?え?
あ、もしかして台風で船が出れんかったとか?
それやったらえりたちの家に…」

「それも違います。心配かけてすみません。だけど私は今晩、帰ります」

さくらはもう一度衣梨奈に笑い掛けた。
そうしながら、どうすべきかを考える。

聖と香音が『守られている』のだとしたら、本人達が思う程に行動の自由は無いのかもしれない。
衣梨奈がついて来たことも二人の意思で無いのだとしたら、そして衣梨奈に打ち明けていないのだとしたら、
返事は少なくとも『ノー』ではないといえる。
だけど、決めあぐねている表情。
もう時間が無い。
強引にでも、行動を起こすしかない。
それがはっきりと衣梨奈の心を裏切り、憎まれることだとしても。

「意味が分からん…。さくらちゃん、ちゃんと説明して」


衣梨奈が訝し気にさくらを見る。
敵意は無いにしてもその目は鋭くて、さくらは初めて衣梨奈に笑顔意外の表情を向けられたことに気付いた。
昨日からずっと優しかった。
優しさをずっと注いでくれて、気に掛けてくれていたことを思い知る。
衣梨奈の眼差しが好きだと思ったし、その暖かさの中に居られることが幸せだと感じていた。

だから少し、心が揺らぐ。
話せるものなら全部話したい。
出来るわけは無いけれど。
先生の元で魔法を勉強をする魔道士。それ以上の意味が自分には無い以上、それ以外の選択肢は無い。

衣梨奈の問いに答える言葉が無いから、さくらはまた視線を外し聖と香音を見た。
二人は口を結んでじっとしている。
香音の手が、聖のそれに繋がれているのが分かった。

視線を外された衣梨奈は焦れて「さくらちゃん!」と少し大きな声を出した。
さくらはそれでも反応を示さない。
衣梨奈は振り返り、聖と香音を見た。

「聖、何?どういうこと?何かあったと?」

衣梨奈の言葉は幾分荒々しい。
だから詰め寄られた聖は、少し身を引き怯えたような表情を見せた。
街灯の無機質な電光の下、風に巻かれる髪の奥に見えた聖の目に
さくらは悲しみをみつけた。

何か聖には、衣梨奈との間に食い違っていることがあって、それを責められていると錯覚しているようだと思った。
想像でしかないけれど、もしかしたらその原因は自分の持ちかけたことなのかもしれない。
また少し、悲しくなった。


不意にさくらの身体を違和感が襲う。
もう何度目か。この感覚の意味がよく分かっていた。
最後の薬、その効き目が切れかかっている。
もういよいよ時間が無い。
さくらは風を避けるふりをして胸に手を当て、緊張に高まる鼓動を抑えた。

「生田さん、私は選ぶのが苦手なんです」

不意に言ったさくらの声に衣梨奈が振り返る。
短い時間の中にあまりにも意味の分からないことばかり。衣梨奈の眉間には深く皺が畳まれていた。

「二つの選択肢があって、望みがあって、それを叶えられるかもしれない選択があって、でもリスクもあるかもしれなくて。
それを選ばなければ何もないけれど、望みは一生叶わない場合、生田さんならどんな風に考えますか?」

衣梨奈はますます胡乱げに目を細めた。

「何?何の話しようと…?」

さくらは応えず、ただ衣梨奈の目を見返した。
また、自分はずるいことをしている。
だけど、もう引き返せない。
いや、最初から。

衣梨奈はさくらの視線に押し返されておずおずと口を開いた。

「えりは…やらないで後悔するくらいなら、やって後悔する。そっちを選ぶとよ」


やっぱり。
さくらは心の中で独り言ちた。
何となく衣梨奈ならそう答えるだろうと思った。
今まできっと何一つ後ろめたいことが無く、真っ直ぐに正しいと思えることだけを選んできた。
衣梨奈はそんな風に見えるから。

さくらにはとても真似出来ないこと。
1人の魔道士として、小田さくらとして行動することと
今衣梨奈に嫌われたく無いと叫ぶ心のどちらが、後悔しない選択かなんて分からない。
いや、さくらは後悔なんてしない。
ただ少し悲しくなるだけだ。
それはどちらを選んでも同じこと。

だから、小田さくらとして生きる。魔道士小田さくらとして魔法を使う。

「ですって。譜久村さん、鈴木さん。来てください、一緒に」

さくらの言葉に再び衣梨奈が驚いて振り返る。

聖と香音は手を繋ぎ、衣梨奈の顔を見て、その視線を逸らして、一歩さくらに向けて足を出した。

さくらはその一歩を、返事と受けとめ、二人のすぐ側まで歩を進めた。

それからゆっくりと、聖と香音の肩に触れる。
すると二人の身体から力が抜け、その場に崩れ落ちた。

「え?聖?香音ちゃん!?」

「ごめんなさい生田さん。本当に、有難うございました」


.


衣梨奈は何一つ理解出来ないまま眼前の出来事に目を丸くしていた。
二人が、さくらに触れられただけで倒れた。
それはまるで魔法。
眠らせる、そんな類の魔法のようだと思った。

だけど魔力を感じない。
さくらが魔法使いで、魔法を使ったのなら必ず感じるはずのもの。

だから魔法では無い。
じゃあスタンガン?クロロホルム?
そんな物を持ち出している様子が無いことは一目瞭然だった。

ただ呆気にとられた一瞬、衣梨奈はすぐに倒れた二人に駆け寄ろうとした。
そこで気付く。
さくらが手を翳し、衣梨奈の胸に向けていた。

もし少しでも魔力を感じたなら、衣梨奈の身体は反射的に防御の体勢を取っただろう。
だけど衣梨奈の身体は何も反応せず、ただその手を見ていた。
さくらの手から、闇夜に煌めく薄紫の閃光が迸る。
それを見た瞬間も、衣梨奈にはそれが何なのか分からなかった。

「え…?」

分からないまま、光は衣梨奈の胸を貫き、その体は凄まじい勢いで投げ出され、高い住宅の塀に叩きつけられた。
衣梨奈は意識の最後に、悲しげに自分を見下ろすさくらを見た。


.


春菜は自身の一瞬の躊躇を呪った。
頭では、この状況を一刻も早くさゆみに報せる為踵を返し全力で逃げることが正解だと分かっていた。
だけど、身体は一瞬だけ、衣梨奈を助けようと前に出た。

あるいはここで心を決めて、さくらと相対するつもりになればまだ戦えたのかもしれない。
だけど春菜は自分の存在がはっきりとさくらに認識されていると気付き、慌てて背を向け駆け出そうとした。

一歩を踏み出す前に、春菜の身体は淡い紫の光の縄に捉えられていた。

「ごめんね、はるなんちゃん」

さくらの声を最後に、小さな黒猫の身体もまた衣梨奈と同じように弾き飛ばされ、壁に叩きつけられた。

 

.


激しい音を立てて、衣梨奈と春菜が崩れ落ちる。
だけどそれは風の音に紛れて、辺りに届くことは無かった。

さくらは意識を失った衣梨奈と黒猫を道の脇に寝かせ、倒れている聖と香音のところに戻った。
それからポケットから柔らかい布を詰め込んだ小瓶を取り出し蓋を開ける。

「あまり寝心地は良くないかもしれませんが…少しだけ、我慢してくださいね」

さくらが手を翳すと、二人の身体はみるみるうちに小さくなり、ビンの中に吸い込まれた。
さくらはビンの蓋を締め、大事そうにポケットに仕舞いこむと
代わりに小さな角笛を取り出した。

それを口に咥え、力の限り吹く。
音は何も出ず、ただ掠れた息が風に紛れただけだったけれど
程なく、巨大な影がさくら頭上を覆った。

恐ろしい羽音を響かせて飛竜が飛ぶ。
家々の屋根の上に降りることは無く、その翼をゆっくりはためかせ浮いていた。

さくらが塀伝いに家の屋根を駆けあがる。
それから飛竜の背に飛び乗ると、その首を一つ撫でた。

「ありがとう、すぐ来てくれて。
ちゃんとお薬も飲んでるね。本当にお利口さん。
時間が無いの。お願い!」

飛竜は一つ大きく首を伸ばすと、荒れ狂う風を切り裂いて一気に空へと舞い上がった。

 

 

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最終更新:2015年02月17日 19:58