(30)284 『言ってはいけない』



「お願い、助けて」
「大丈夫、心配しないで。 あなたは私が助けるから」

女の人が脅えている。
可哀そうに、ぶるぶる震えてる。
髪も化粧も装飾品も派手なのが、彼女の感じている恐怖を引き立てている。

「さあ、こっちへ来て。 私が助けてあげるから」
「いやあーつ、寄るな。 化け物」

かわいそうな人。 気が動転して、敵と味方の区別がつかないのね。

「私はあなたを救うために、ここにいるのよ」
「寄るんじゃねえよ。 この化け物が」

汚い言葉。
手にはカッターナイフ。
 危ないわ。

「頼むから落ち着いて。 私はあなたの敵じゃ無い。 私ならあなたを苦しみから解き放ってあげれる」
「ふざけんじゃねえよ。 この人殺しが」
「殺したって、何のこと」
「お前が、お前が、あの人を殺したんだ」
「あの人? ああ、あなたの息子さんに大怪我をさせた人。 あの人も、私が救ってあげたのよ」
「救っただって! お前があの人を殺したんじゃないか」


本当にわからないことを言う人だ。
とりあえず刃物は取り上げた方がいいわね。
手を差し伸べながら、私は興奮している女の人に近づいた。

「さあ、そのナイフを渡して。 危なッ、痛い」
「ざまあ見ろ、この化け物が。 近づくとただじゃおかないよ」

掌が切れていた。
赤い血が流れてる。

「私はあの男の人を殺したんじゃない。 解放してあげたのよ、無価値な人生から」
「価値が無いだって。 ふざけんな」
「いいえ、私はふざけてなんかいない。 あの男も、そしてあなたにも価値なんて無い。 
あなた達の人生に意味は無い。 
子供に乱暴する男、それを笑って見ている母親。 
運び込まれた病院で看護婦の目を盗んで、子供を脅して口止めをするあなた達。
そんな生き方って、虚しいでしょ。 
そんなふうに生きたってなんの喜びがあるというの。  だから、私が救ってあげる。 解放してあげる」
「ひっ、やめてお願いだから」
「いいこと。 崩壊は解放。 
壊れて粒子になって やがて無になって 人は苦しみから解き放たれる。
塵に還りなさい  
自分の愚劣さを、卑小さを、残忍さを、無知蒙昧さを、無価値さを思い知りなさい。 
塵に還りなさい。  
神は塵芥から人を、世界を作った。  塵に還って、そこからあなたの生をやり直しなさい」

裁きの言葉を告げると、愚かな母親は体の芯が抜けたように、うなだれた。
私は彼女の首に手を回し、唇を耳元に近づける。


「これは決まり事です。 これから行われることは私怨を晴らすのではなく、大いなる意志の代行。 
でももしもあなたが私のことを恨むなら、 そしてもしもあなたの魂魄がこの世に留まることが出来たなら、
 今から伝える私の名に祟りなさい。

 一人で立ってられない彼女を支えながら、私は「さ」から始まる三文字の言葉を彼女に囁いた。
 物質崩壊という力を与えられた私への神からのもう一つの賜りもの、聖なる名前。
 その名を告げ終わったとき、それは始まった。
 哀れな女の額に一つの黒点が現れた。
 それは瞬く間に顔中、体中に広がった。
 女の肌は月の表面のように、焼け焦げた木のように変貌し、どんどん崩れていって、
 やがて大量の塵となった。
 ほんの少し前、彼女と一緒にいた男がそうなったように。
 人を塵に還した後はいつも思う。
 一体こんなことを何度繰り返せば、この世界は調和の取れた正しい姿になるのか。
 人間なんてみんな価値がない。生きている意味はない。
 ならばいっそのこと私の力でこの世の尽くの人間を消失させてしまおうか、と。


 ドアが開く音がした。
 誰かが屋上にやってきたのだろうか。
 それはそうだろう。
 不特定多数の人間が出入りする病院の屋上なのだから、誰が来ても不思議ではない。
 頼りなげな足音。
 一体何の目的で来たのだろう。
 もしかして私の力が見られたのだろうか。
 仮に見られたところで誰も私を罰することは出来ない。
 私の力はそういう類のものだ。
 足音が近づいてくる。
 面倒を避ける為に屋上にある建造物、配電室や給水タンクの陰に隠れようと思ったが、間に合わなかった。

 「何してんの?そんな所で思いつめた顔して。 危ないよ」

 足音だけでなく声までどこか頼りない響きが混じっている。
 何とか勇気と空元気を振り絞ったような声だ。
 若い女性、というより私と同じ年頃の少女が儚げな笑みを浮かべながらそこにいた。
 パジャマを着ているところを見ると、入院患者だろう。
 戸惑って声が出ない私に近づいてくる。
 あるいは自殺志願者と思われたのだろうか。
 顔を見て思い出した。
 彼女のことはこの病院で何度か見かけたことがある。
 その時はもっと青白い生気の無い顔をしていた。
 車椅子に乗せられて、検査室に運ばれているのを見た事もある。
 余り長くは生きられないだろうな、と思ったことがある。


 「血が出てるよ」

 思いのほか強い力で手を取られた。
 カッターナイフで切られた手だ。
 浅い傷なので、それ程は痛んでいない。
 強い力で手を握り締められている。
 こんなに強く手を握られたのはいつ以来だろうか。
 ひょっとしたら初めての経験なのかもしれない。
 胸が高まる。

 「手が汚れるから」

 声が上ずっているのが自分でもおかしい。
 何だろう、この気持ちは。

 「大丈夫。 私は絵里、亀井絵里っていうの。 あなたは」

 言えない、それだけは言えない、言ってはいけない。
 私の名前は崩壊へのパスワード。
 もし言えば、そしてもしそれを耳にすればあなたは…
 私が押し黙っていると、彼女の顔は真夏の朝顔のようにたちまち萎れてしまった。
 違う、私が名前を言わないのはあなたを崩壊させたくないから。

 本当に、本当に馬鹿みたいな話だけど、今初めて話すあなたなのに、
 これまでに会ったどんな人にも感じたことのない感情が生まれている。
 俯いた彼女は、私の手を離し、じゃあーねっと力なく呟き私の許から去っていく。
 私の傷口から付いたのか、手から血が滴り落ちている。


 そうじゃない。 
 行かないで、行って欲しくない。
 私の傍にいて欲しい。
 私の手を握って欲しい。
 もっとお話していたい。
 私は意を決した。
 そして、その名を告げた。

 「さ…ゆ…私の名前は道重さゆみ」

 さゆみ、それは崩壊の力を持って生まれたが故に、人と交わることを禁じられた私が一人遊びの時に
 想像した架空の妹。
 暗く、陰鬱な私に対して、明るく前向きなさゆみ。
 さゆみ。 
 いつか友だちとして誰かと付き合えるようになったなら、私の名前として告げようと思っていた。
 でも生まれてから一度も口にしたことの無い名前。

 「さゆみ、素敵な名前だね」

 振り返った絵里の顔が笑いで綻んでいる。
 私は今日という日を一生忘れない。
 今日は私に生まれて初めての友だちが出来た日。
 そして私の中からさゆみが生まれた日。 



最終更新:2014年01月17日 18:08