(30)814 『過去との別れ > 明日への誓い』



「もうすぐ……かな…」

沈みゆく夕陽に照らされたオレンジ色の街を見下ろしながら、道重さゆみは小さく呟いた。

「んぅー?なぁんか言ったぁ?さゆぅ」

背後からあくび混じりの声が聞こえ、さゆみは慌てて窓の外から部屋の中へと視線を移した。
白い壁に囲まれた白いベッドの上で、いつものように退屈そうな顔をしている亀井絵里の姿が目に入る。

「ううん、別に。ただ、なんだか夕方って切なくなるなーって思って」

心のうちを悟られまいと、さゆみは両手を胸に当てて殊更に大げさな身振りでおどけてみせる。

「さゆが切なくなる理由、当ててあげよっか」

不意に絵里がそう言いながら悪戯っぽく笑い、さゆみは一瞬ぎくりとした。
だが、絵里の口から出たのは思いもよらない言葉だった。

「お腹が空くからでしょ?『ああ、お昼に食べたベーグルサンドさんは一体どこへ消えたの?お腹がせつな~い』……みたいな?」
「ひどーい!さゆみそんなに食いしん坊じゃないし。それにモノマネも全然似てない」

内心で胸を撫で下ろしながら、さゆみは絵里を睨みつけて膨れてみせる。

「冗談だってばー。…だけどさ、お腹が空くのは生きてる証拠だよ。いいこといいこと」
「なるほどー、それはまあ言えてるかも」

顔を見合わせて笑いながら、さゆみはその言葉を噛み締めていた。
おそらくは絵里自身もそうに違いない。
冗談っぽく言っているが、今生きていることの幸せを誰よりも感じているに違いないから。

だから……自分は“ここ”にいるのだ―――


――いや、それは言い訳だ。

なんて卑怯なのだろうとさゆみは思う。

全てを「知って」いるのに、何も知らないフリをして“ここ”にいる自分が。
本当に何も「知らない」絵里を口実にして、みんなを裏切っている自分が。


光井愛佳が告げた“未来”――それは皆に大きな衝撃を与えた。
だが、誰も決してそれを怖れてはいなかった。
9人ならばどんな“未来”にも立ち向かえると、全員がそう思っていた。

だけど――高橋愛はその“未来”を選ばなかった。
その理由については想像するしかない。
ただ、愛のことだから、仲間を信用しなかったなどということはありえない。
むしろその逆――愛が選んだ選択が、おそらくはその全てを物語っている。


さゆみと絵里は、記憶を“消され”た。
新垣里沙の手によって。
愛佳が告げた“未来”の記憶だけではなく、みんなと過ごした記憶の全てを――

あまりにも酷いと思う。
自分にとって―そして絵里にとって―リゾナントでみんなと共に過ごした時間は、何にも代えられない大切な宝物だ。
その“過去”を勝手に奪ってしまうなんて絶対に許せない。
かけがえのない仲間と共に歩むはずだった“未来”から追い出すなんて絶対に……許せない。

でも―――同時に分かってもいる。
そんな決断を下した側の方が遥かに心が痛いのだと。
それでも、愛や里沙はその道を選んだのだと。
そうすることが、さゆみと絵里にとって最善だと判断して―――


さゆみの心の底の怯えを、愛は知っていたのではないかと思う。
戦いなんて怖い、誰とも争いたくなんてないという、意気地のない身勝手なこの心を。

――愛は優しい。里沙も優しい。みんな優しい。優しすぎるほどに。

さゆみと絵里の記憶を“消し”たのは、そうすることが2人の幸せに繋がると判断してのことだろう。
おそらく、愛は自分たちが無事で戻ってこられるとは思っていないのだ。
そうなったとき、“置いて”いったさゆみたちの中に“過去”があれば、そのことがさゆみたちを苦しめることになる。

だから―――愛は、そして里沙は、さゆみと絵里の記憶を“消す”ことを選択したのだ。
唯、さゆみと絵里の幸せだけを願って。
自分たちの記憶がさゆみと絵里の中から“消え”てしまうことに、きっと引き裂かれるような思いを抱きながら。

さゆみと絵里の記憶を“消す”際の、あの愛と里沙の悲痛な表情は生涯忘れることができないだろう。

――そう、忘れることなどできない。

さゆみにはちゃんと記憶がある。
“消され”たはずの“過去”も“未来”も――全部。

ヒーリング――あらゆる傷を治すチカラ。
物心ついたときには既に備わっていた優しいチカラは、その優しさが逆に心を切り裂く刃となり、さゆみをずっと苦しめてきた。
しかし、やがて訪れた絵里との出逢い、そして愛との…みんなとの出逢いが、そのチカラに本来の優しさと安らぎを与えた。

だけど今――再びさゆみはそのチカラ故に苦しむこととなってしまっている。

セルフ・ヒーリング――自己治癒能力。
生物に本来備わっている自然治癒能力とは意味合いを異にする、特殊なチカラ。

おそらくは――
治癒能力者故に備わっていたそのチカラが、“消され”たはずの記憶を再生したのだ。


大学の講義で記憶のメカニズムについて学んだことを思い出す。

記憶の記銘や保持、再生のメカニズムについては、おおよそ分かっているもののまだまだ分からないことも多いのだという。
というよりも、脳の働き自体が21世紀となった今も完全には解明されていないのだと先生は言っていた。

さゆみはその言葉を聞いたときに一種の諦観を抱いたものだ。
「普通の人間」の能力さえ解明されていないのだから、自分たちが「正体不明」でなくなる日はまだまだ遠い先のことなのだろう――と。

…こういった、実際に自分が経験し、見たり聞いたり感じたりしたことに関する記憶は「エピソード記憶」と呼ばれるそうだ。
つまり、一人の人間の“過去”はこのエピソード記憶があってこそ存在すると言っていい。
たとえ記憶のメカニズムについての知識があろうとも、それをどんな気持ちで学んだのか覚えていなければそれは“過去”とは呼べない。
おいしいコーヒーの淹れ方を知っていたとしても、それがどこで誰が淹れるのを見て自然と覚えたことなのか分からなければ…それは想い出ではない。

精神干渉――里沙の能力は、その名の通り精神に干渉し捻じ曲げることのできるチカラだ。
里沙はそのチカラを使い、さゆみと絵里の記憶の一部を…想い出を“消去”した。
――ただ、「精神に干渉する」とは言ったものの、それはあくまで観念上の表現であり、現実には「精神」というモノは存在しない。
精神―感情や思考といったものを実際に司っているのは、言うまでもなく脳だ。
つまり、里沙の能力は「脳への干渉」を行なうチカラであると解釈するのが妥当だろう。

一般に“記憶喪失"などと呼ばれる“過去”の喪失の原因は、大きく分けて外因性のものと内因性のものがあるそうだ。
前者は、事故等により脳が損傷することで物理的に記憶野が破壊されることによる、言葉の意味どおりの“喪失”。
後者は、記憶そのものは“喪失”されていないはずであるのに、主として心因性の原因でその想起が妨げられている状態。

里沙がさゆみと絵里に行なったのは、おそらく前者による“完全喪失”だったのだろう。
自分たちと関わった記憶に関する脳細胞だけを里沙は丹念に“破壊”し、改竄したのだ。
ただ、里沙は“破壊”を意図的に行なっていたわけではないに違いない。
海馬や大脳皮質――記憶を司っているとされる場所の詳細もまた、完全には解明されていないのだから。

里沙が望んだのは唯一つ。
さゆみと絵里が、この先も決して自分たちのことを思い出すことのないように――
――きっとそれだけだったのだろう。


――でもそれはあまりにも酷い

改めてそう思う。
もしも記憶が“消され”たままであったら、自分は何も知らずに幸せに過ごしていたのだ。
自分でも意識しないままに発動し、里沙によって“破壊”された“過去”を再生した自己治癒能力がなければ。
そう思うと、泣きたいような気持ちになる。

みんなと出逢ってさゆみは変わった。
絵里に命を救われ、生きる意味を見出せはしたけれど、その世界には結局2人だけしかいなかった。
だけど――愛に出逢い、みんなと出逢ってようやく世界はその表情を変えた。
本当の意味で、未来へと歩んでいくことの素晴らしさを理解することができたのだ。

きっと、それは絵里も同じだろう。
かつての絵里は、今と変わらない明るい笑顔を浮かべてはいても、その奥にはいつもどこか暗い翳がちらついていた。
でも、今は本当の意味での明るい笑顔で周囲を癒してくれている。
そんな笑顔ができるようになったのは、リゾナントのみんなと出逢えたからこそだ。

なのに―――絵里にはその想い出がない。
明るい笑顔はできるようになっても、それができるようになった理由が抜け落ちている。
それはあまりに切なく――哀しい。

…確かに何も知らないことは幸せなのかもしれない。
でも、同時にこの上なく残酷だ。

だけど―――だけど―――

――なんて卑怯なのだろう。

幾度となく嫌気が差す。
絵里に真実を伝えることをせず――そればかりか、そんな絵里の側にいなければいけないという口実を盾に“知らない”ふりをしている自分に。
自分達を置いていった愛や里沙のことを酷いと言いながら、記憶が戻っても結局戦いの場に駆けつけようとはしない自分に―――


「さゆ、絵里のことはいいからさ…行っていいよ」
「―――!?」

そのとき――不意に絵里の口から発された言葉に、さゆみは目を見開いた。

「行っていいって……どこに?」

驚きに掠れる声で訊ね返すさゆみに、絵里は「何を当たり前のことを訊くんだ」という表情で答えた。

「どこって……そんなの決まってるじゃん。ご飯食べにだよ。絵里は明日検査だから今夜から絶食だしね」
「………ご飯……?」

その言葉に、固まったようになっていたさゆみの体から力が一気に抜ける。
だが――それと同時に、不思議にも揺れていた心がすっと静まり、胸の中に確固たる思いが宿った。


――自分はずっと絵里の側にいる。何があろうとも。


愛は、里沙は、みんなは…そのために辛い思いを断ち切ってさゆみと絵里に無言の別れを告げたのだ。
そのみんなの思いを無駄にすることは、それこそ裏切りに等しい。

「さゆみはどこにも行かないよ、絵里を置いては……絶対にどこにも行かない」

真剣な顔でキッパリとそう言うさゆみを、絵里はしばらく口を開けてポカンと見つめていた。
そして笑い出す。

「もうさゆ~。ご飯くらいで何オーバーなこと言ってんのさ~。ウケる~」
「いいの!絵里が食べられないならさゆみも我慢する!」
「ふ~ん、まあそれもいいかもだね。ちょうどダイエットした方がいい頃だし」
「あ~!絵里ひどーい!」


頬を膨らませて絵里を叩くフリをしながら、さゆみは心の中で静かに別れを告げた。

リゾナントで過ごしたかけがえのない時間に。
短い間ではあったが、確かに心から繋がり合えた大切な仲間達に――


――だけど、さゆみの…そして絵里の心は今もみんなと共にある。


ただの比喩ではない。
記憶を“消され”る前にこっそり投入した“秘密兵器”が、さゆみと絵里の代わりだから。

絵里の発案で、さゆみと絵里のチカラを注いで作った“自動治癒装置”。
一見ただの小さいシールに見えるそれは、一回限りではあるが超遠隔治癒の力を発揮するはずだ。


――絵里も、さゆみも……みんなと一緒だよ。ずっと……


たとえ遠く離れても ―たとえもう二度と会うことがなかったとしても― 胸の奥に鳴り響く共鳴が途切れることは決してないのだから。


オレンジから灰青へとその色を変えてゆく街に視線を移し、さゆみはそっと胸に手を当てる。
傍らの絵里も、いつしかさゆみと同じ姿勢で静かな表情を窓の外に向けていた―――



最終更新:2014年01月17日 18:39