「おっそいなージュンジュンとリンリン。何してるんだろ」
落ち着きなく時計を見たり入り口を見たりしながら、久住小春は少し苛立った様子でそう言った。
「今日は久住さんがたまたま早く来たからですよ。いつもは時間ギリギリやのに」
小春の…そして自らの緊張をほぐす意味も込めて、光井愛佳はわざと微笑みながらのんびりとした答えを返す。
だが、その試みが失敗に終わったことを愛佳はすぐに知った。
いつもならば簡単に緩む空気も、そして小春をはじめ他の皆の表情も硬いまま。
何より言葉を発した愛佳自身、今自分が浮かべた笑顔を鏡で見る勇気はない。
―でも仕方ないやん…
愛佳はそう自分に言い訳をする。
「ジュンジュンとリンリンは色々と…後片付けがあるから…その、少し遅くなるって。あ、でもすぐ行くって」
高橋愛ですら、ぎこちない笑顔で慌ててそう説明するのが精一杯なのだから。
自分にとってはほぼ完璧な存在といっていい、あの誰よりも強い愛が硬くなっているのだ。
誰よりも弱虫の自分が落ち着いてなどいられるはずがない。
この先の“未来”は何故か愛佳にもまったく“視”えない。
予知能力で貢献できない自分など足手まといでしかないのではないか。
そんなじれったいようなもどかしいような気持ちがここのところ常にある。
少しは強くなったつもりでいたが、結局のところ自分は…弱い。
そう考えると再び形容し難い不安が押し寄せ、愛佳は無意識に口を開いていた。
「あの…亀井さんと道重さんはほんまに…よかったんですか?」
言ってしまった途端その場の空気が曇るのを感じ、愛佳は慌てて言い添える。
「いや…そら…みんなで決めたことですし…高橋さんの意見は私も正しいと思いますし…その……すみません変なこと言って…」
ただでさえ不安なのに、これまでいつも一緒だった仲間が欠けている。
その無意識下の不安を、あまりにも不用意に口にしてしまった後悔と自己嫌悪が押し寄せる。
誰だって不安なのは同じだ。
亀井絵里と道重さゆみがこの場にいない淋しさも。
いや、一番新参の自分などよりも、他の皆の方がずっと胸の痛みを感じているに違いない。
それなのに今さら…
「気持ちは分かるよ愛佳。…だからそんな顔しないで」
「絵里もさゆも恨んだりせんて。…ってまあ自分にもそう言い聞かせとるっちゃけど」
新垣里沙と田中れいながなだめるような声を出し、愛佳はさらに落ち込んだ。
こんなところまで来て他のみんなに気を遣わせている自分が情けなかった。
気遣いの言葉を発した当の里沙とれいなの声も微妙に震えているのを感じては、もはや謝罪の言葉すら出てこない。
「ジュンジュンとリンリンが来たらすぐ出発…でいいんですよね?」
しばらくの沈黙の後、再び小春が口を開く。
その目が、自分のように下を向いてはおらず、愛の目をしっかりと見据えていることに気付き、愛佳は再び落ち込んだ。
自分だけがこの場に及んでまだグズグズと言っている。
これではいけない。
かつて…自分は何のために生まれてきたかさえも分からず、誰のために生きているのかも分からなかった。
今と同じように“未来”が“視”えてはいたけれど、そこから目を背け続けていた。
でも…あの駅のホームで自分は出逢った。
高橋愛という光に。
それまでまるで意味を感じなかった未来を照らし、その素晴らしさに気付かせてくれた存在に。
あの日、ホームの端っこで命を揺らしていた自分に、愛は言ってくれた。
明日は変えられると。
自分で変えてゆくものなのだと。
その言葉に、そして何より愛という存在そのものに自分は救われた。
愛との出逢いは同時に仲間との出逢いでもあった。
里沙に、れいなに、小春に・・・この場にいない絵里やさゆみ、ジュンジュンやリンリンにもどれほど心を救われたことだろう。
皆に囲まれての日々は愛佳にとって、本当の意味での人生が始まったように思える毎日だった。
―自分も少しはみんなの心の支えになってるんやろか
正直あまり自信はない。
自信はないが・・・少なくともそうであろうとするべきだろう。
与え、与えられる関係こそが仲間なのだから。
そう、少なくとも今ここで下を向いていることがみんなの役に立つわけはない。
愛佳の目にも決意の光が宿る。
あの日、明日を見据えて生きてゆくと決めたことを改めて思い出して。
決然と上げられたその視線は、小春と並んで愛の目に真っ直ぐ向けられた。
愛は2人のその視線を正面から受け止めた。
怒っているような、微笑んでいるような、泣いているような…形容のしがたい表情で。
「ごめんね」
一瞬の沈黙の後、愛の口から出た言葉は予想外のものだった。
「…何で謝るんですか?小春は…小春たちは自分で高橋さんに最後までついて行くって決めたんですから」
「そうですよ。あんまり役には立たへんかもしれんけど…でも一緒に戦うって自分らで決めたんです。そんな謝ったりせんといてください」
怒ったような真っ直ぐな小春の視線。
懸命で真摯な愛佳の視線。
2人の眼差しを、変わらぬ表情で受け止めながら愛はもう一度言った。
「小春と愛佳の気持ちはよく分かってる。……だから…ごめん。あんたらは連れてけん」
「っっ…!?」
何かを言いかけて口を開いた小春は、身を乗り出した体勢のまま静かに崩れ落ち、抱きとめられた。
いつの間にか背後に回りこみ、その首筋に手刀を叩き込んだれいなの腕に。
「なんで…!」
あまりにも突然の・・・あまりにも理不尽な愛の言葉。
迷うことなくそれに従ったれいなの行動。
眼前の光景を静観している里沙の複雑な表情。
だが、その真意を問うべく愛佳が向けた視線の先には、もう愛の姿はなかった。
背後からもう一度「ごめん」と呟く愛の声が聞こえたような気がしたときには、愛佳の体は既に崩れ落ちていた。
頬を伝う涙。
それだけが、愛の腕に抱きとめられた愛佳に許された最後の抗議だった―――
* * *
愛佳が喫茶「リゾナント」の2階のベッドの上で目を覚ましたとき――隣には目を瞑って横たわる小春がいるだけだった。
意識を失う直前の出来事を思い出し、愛佳は1階へと駆け下りた。
さっきのが夢だったらいいと願いながら。
だが、そこにはもう誰の姿もなかった。
カウンターの中でカップを磨く愛の姿も。
ボックス席にコーヒーを運ぶれいなの姿も。
カウンター席に腰掛けて愛と談笑する里沙の姿も。
もうそのような光景を目にすることは多分ないのだ―――おそらく二度と。
――自分は置いていかれた
その現実を改めて思い知らされた愛佳は、耐え切れずにうずくまって嗚咽した。
愛たちが二度と手の届かないところに去ってしまったような絶望感。
自分は“仲間”として認められていなかったのかという淋しさと悔しさ。
あの出逢いは…そして今までの毎日は何だったのかという虚無感。
これから一体自分はどうすればいいのかという不安。
様々な感情のこもった涙が頬を伝い、喫茶「リゾナント」の床を濡らす。
「なんで?」「どうしたらええの?」
「なんで?」「どうしたらええの?」
「なんで?」「どうしたらええの?」
頭の中に同じ言葉がぐるぐると回り、流れる涙を拭う気すら起こらずにうずくまったままだった愛佳の肩に誰かの手が置かれた。
ビクリと振り返った愛佳の目に入ったのは、こんなときですら ――綺麗やなぁ…―― と反射的に思わずにはいられない端整な顔だった。
「久住さん…」
愛佳の目を真っ直ぐ見つめる小春の顔には明確な怒りの色が浮かんでおり、それがまた凄絶な美しさを呼び込んでいる。
「みっつぃー。他のみんなは?」
驚くほどに冷静な口調で、小春は愛佳に問いかけた。
だが、その声に含まれた怒気は隠しようもない。
全身から立ち上るかのような怒りのオーラは、下手をすると「リゾナント」の天井を突き破ってしまうのではないかとすら思わせた。
「私が…私もさっきまで意識がなくて…目を覚ましたときにはもう…」
静かながらあまりに激しい小春の怒りに、愛佳は思わず目を伏せながら口ごもった。
「……さない」
「…えっ?」
「小春絶対に田中さんのこと許さない!高橋さんのことも!新垣さんのことも!」
バンッッッ!
力任せに傍らのテーブルに拳を叩きつけ、小春は入り口のドアを睨みつけた。
自分たちを置いて、そこから出て行ったであろう愛たちの背中が今もそこにあるかのように。
愛佳は知っていた。
誰も信用せずに生きていた小春が、最初に「この人なら…」と信用したのが愛であったことを。
“逆念写”事件で孤立しかけた小春を、優しく皆の下へ引き戻したのが里沙であったことを。
それまで眠っていたれいなのチカラが初めて明確に発動したのは、小春を助けるためであったことを。
小春にとって、特別な仲間の中でもさらに特別だったであろう3人。
その3人が自分を置いて去ったという事実は、小春にとって到底受け入れることのできない出来事であるに違いない。
「みっつぃーは悔しくないの!?置いていかれたんだよ小春たち!足手まといだと思われたんだよ!」
座り込んで泣いているだけの今の自分は、小春の目にはさぞかし不甲斐なく映っているに違いないと、慌てて濡れたままの頬を拭う。
「……?」
そして、そのとき初めて気付いた。
ずっと手に何かを握り締めていたことを。
ゆっくりと開いたその手の中にあるものが何かを知って、愛佳は驚愕した。
「これは…高橋さんと新垣さんの…」
それは手作りのお守りだった。
驚きに目を見開き絶句していた愛佳の耳に、小さく震える声が届いた。
「どうしてこれが…」
愛佳が目をやった先には、同じく固まったままの姿勢で自分の手の中を覗き込む小春の姿があった。
その手の中…先ほどテーブルに叩きつけた拳を開いた手の中にも、色違いのお守りが握られている。
「R」&「A」
里沙が作って愛に贈ったお守り。
2人で互いのものを交換して持っていたお守り。
里沙が“戻って”くるきっかけになったお守り。
2人の絆とも言うべき、かけがえのないはずの…お守り。
それがここにあるということは…?
「R」の文字が縫われた、愛が肌身離さず持っていたはずのそのお守りを見つめながら、愛佳は半ば呆然としていた。
「久住さん…これ…」
愛は、里沙は…このお守りに何を託したのだろう。
自分たちに何を託したのだろう。
小春の考えを聞こうと視線を移した愛佳の目の前に、「A」の文字がぶら下がる。
「え?…あ。……ええっ?ちょっと…久住さん?」
小春が目の前に突き出した「A」のお守りを思わず受け取ってしまってから、愛佳は慌てて立ち上がり、怒っているかのような小春の背中に向かって弱々しく呼びかけた。
「それはみっつぃーが持ってて。2つとも」
「でも…」
いくら愛や里沙が大切にしていたものでも…いや、だからこそ小春は持ちたくはないのかもしれない。
まるで形見のような、自分たちが置いていかれたことを否応なく思い出させるこのお守りを――
だが、振り返った小春の目には怒りの色はもうなかった。
いつもの、強く真っ直ぐな光がそこには宿っていた。
「高橋さんたちは…小春とみっつぃーを置いていったんじゃない」
「えっ?」
置いていったんじゃ…ない?
エネルギーに満ちた瞳でキッパリとそう言い切る小春を、愛佳は呆然と見つめた。
まだショックが後を引き、頭が上手く働かない。
「高橋さんは…新垣さんと田中さんは、小春と…愛佳に未来を託したんだと思う」
小春に初めて名前を呼ばれ、愛佳はびくりと肩を震わせた。
そこに小春の揺るぎない決意を感じ取ったから。
「未来を…?私たちに…?」
呆然とその小春の言葉を繰り返した愛佳は、手にしたお守りの重さを改めて感じた。
そして同時に、やっぱり愛たちは戻ってはこないのだという思いがこみ上げる。
「もしも高橋さんたちが……戻ってこなかったら」
一瞬言いよどんだ後、小春ははっきりとそう口にした。
「もしも」とは言っているが、その可能性が高いであろうことを予感している口調なのは愛佳にも分かる。
だが、それに続く言葉はあまりにも予想外だった。
「愛佳、あなたがリーダーになって」
「……!!私が…リーダーに!?」
驚いて叫んだ後、思わず愛佳は大きく首を振った。
「無理・・・無理です!私がリーダーなんて!それやったら久住さんの方が…」
「愛佳」
真っ直ぐに見つめながら静かに自分の名前を呼ぶ小春に、抗弁しかけた愛佳は言葉を封じられた。
「高橋さんが愛佳にお守りを預けたのはそういう意味だよ。高橋さんは愛佳の強さをよく知ってたから」
「そんな…私は強くなんて…」
「ううん、小春も知ってる。どんなに辛い“未来”にも胸を張って毅然と立ち向かっていく愛佳の強さ。小春も密かに尊敬してたんだよね、愛佳のそういうとこ」
「久住さん…」
「もちろん、小春のことも頼ってね。高橋さんの側に新垣さんや田中さん、他のみんながいたように…愛佳だって一人じゃないんだから」
そう言って微笑みを浮かべた小春の顔は、今までのどの瞬間よりも頼もしく…そして綺麗だと愛佳は思った。
「そやったら…やっぱりこれは持っててください」
思わず微笑みを返しながら、愛佳は「A」のお守りを小春に手渡そうとした。
里沙が小春に握らせたのであろうお守りを。
だが、小春はゆっくりと首を横に振った。
「ううん、それはどっちも愛佳が持ってて」
「そやけど…」
「高橋さんと新垣さんにとっては、そのお守りは2人の間の絆を表すものだったのかもしれない。でも、小春と愛佳にとってそのお守りは“旗印”。ただの…象徴」
「旗印…?」
「そう、そのお守りに高橋さんや新垣さんの心が宿っているわけじゃない。みんなの心は…」
小春は一度言葉を切ると、拳を作り胸元に掲げた。
そして、その決意の宿った瞳を真っ直ぐに愛佳に向けたまま言葉を継いだ。
「…ここにある」
言いながら、拳で自分の心臓辺りをトンと軽く…それでいて力強く叩く。
先ほどテーブルに叩きつけた拳とはまるで違う意味を込めて。
「共鳴は途切れない。誰かがそれを伝え続けていく限り」
そして決然とした言葉と視線と共に、小春の拳が愛佳の心臓の上に移動する。
その拳から、そして脈打つ自らの心臓から、愛佳は感じ取った。
胸のうちに鳴り響く共鳴の息吹を―――
決して止むことなき共鳴の連鎖を―――
最終更新:2014年01月18日 10:20