(33)489 『幽霊』



あたしは嫌な夢を見て眼を覚ました。

暗い夜道で一人、幼いあたしが泣いていた。
「お母さんがいない… お母さんがいないよ…」

ふと気がつくと、目の前に母親が立っていた。やさしく両手を広げて。
「お母さん!!」
喜びに声を上げて母を見上げる。 …母親には顔が無かった。

*** ***


「…まだこんな夢を見るんかの…」

コップに水をついで、飲み干しながらつぶやく。冷たい汗が身体にまとわりついていた。

あたしのかつての名前は 『実験体:i914』。あたしはガラス管の中で生まれた。
最初から母親などいない。

「もう23歳にもなるのに… 情けないのお…」
同じ夢を昔から何回も見ていた。そのたびに情けないと思う。

母親を“失った”人間ならともかく、あたしには最初から『母親』なんていなかった。なのになぜ?
自分が他人の玩具を欲しがる、わがままな子供のように思えた。そんな自分が、嫌だった。

「あたしは、高橋愛。あたしは1人で生まれた。あたしは、1人で生きていく」
…自分にそう言い聞かすように言う。

「…仲間はいるけどね…」
そう言って、やっと少し笑う事ができた。

*** ***



最近、『幽霊』を見ることに慣れてきた。

あの日、あたしは幼い日の自分自身と同化した。4歳の頃に置き去りにしてきた、自分の膨大な“殺戮の記憶”たちを再び引き受けた。

それ以来、1人になると、あたしの周りには、『幽霊』たちが現れる。

喫茶『リゾナント』での仕事を終え、部屋に入る。薄暗い部屋の奥に、ボウ…っと中年の男の虚ろな顔が浮かぶ。…あたしが最初に“消した”男の顔だ。 
…いや、ごめん…“殺した”…だよね? …そんな不満そうな顔をしないで…。
次はあんたやね…。今夜も順番に出てくるんやね…。ご苦労様…。

なく、広くも無い部屋はあたしの“殺した”人間たちの『幽霊』で埋め尽くされる。満員電車の中みたいやよ…。まあ、“触る”ことはできないんで、気にしなければ何の問題もないんやけどね…。

…でも、あたしが“殺した”人間の数はそんなもんじゃない…。この前はあんまり部屋の中が鬱陶しいんで窓を開けたら、夜空が死顔で埋め尽くされとって…。
…さすがにあたしも思わず大声上げそうになったわ…。

しかし、人間の“慣れ”というのは恐ろしいもので…。最近はそんな『幽霊』たちとの生活も、あたしには当たり前のことになって来ていた。

でも、あたしには1人だけ… “1人”でいいんかの?『幽霊』の場合…?
気になる『幽霊』がいるんよ。

白衣を着た、20代後半くらいの女の人…。その人だけ、なんて言うんかな…。眼が虚ろじゃないんよ。何か本当に?見られてる”様な気がするんよね…。
なんか不思議な…、やさしい顔しとるしね…。それに、その人だけ“殺した”覚えもないんよ…、忘れとるだけかも知れんけどね。

…白衣を着とるから、あの『研究所』におった人かな?なんで覚えとらんのに“現れる”のかはわからんけど。なんかあの人見ると、ちょっとほっとするんよ…。

*** ***



シャワーを止めてバスルームを出る。一日の仕事の後の至福のひと時。
身体をタオルでぬぐい、髪の毛にタオルを巻きつけ、裸のまま体重計に乗る。
「…ん」
大丈夫、と頷き、『幽霊』たちの群れの中をすり抜けてベッドへと向かう。

「…!」

ぎょっとした。実体の無い『幽霊』たちの間に、光を放つような、少女の姿があった。

「あんた…!?」

…それはあたし自身だった。…いや、正確に言えば、14歳くらいだろうか?
少女の頃の、あたし自身だった。

白いブラウスに、(苺っぽいから)お気に入りだったピンクのチェックのスカートをはいた「あたし」は、鼻の上にしわを寄せて、照れくさそうに笑いながら話しかけてきた。

「…あーしなあ、おっきくなったやろ?…あんたのなかで、あの頃からぐっと成長して来たんよ」
「あんた…? …“あたしの中にいた” …あたしか…!?」

「うん、おねーちゃんが…、自分のことおねーちゃん言うのも変やけど…。あの恐い人たちを引き受けてくれたおかげで、あれからおねーちゃんのあと追っかけて、大人になってこれたんよ」
「…でもなあ、大人になってきて、色々なことがわかってきたら、おねーちゃんに悪い事しとったなあ、思って…」

「…悪い事…?…何?」
「うん…、あーし、嫌なもんばかりおねーちゃんに押し付けたけど…、大事なものは渡し忘れたんよ…」

少女はすっと愛に歩み寄ると、手のひらを愛の胸に当てた。

…『声』が飛び込んできた。


あなたの記憶を変えるよ

わたしは最初からいなかった
素敵なお母さんが“いた”なんて嘘はつけない つきたくない
でもそれ以上に「過去」にしたくない

あなたを愛している
生まれたときからあなたを愛している
これからもずっと、これからもずっとあなたを愛している

あなたは愛
あなたはわたしの愛

あなたを愛している 愛している 愛している 愛 愛 あい…



…気がつけば、愛の眼からとめどなく涙があふれていた。

「…これは… なに…?」
少女はまた照れくさそうに笑って答える。
「あーしの宝物。ずっと、ずっと大切に持っていた…」

「“お母さん”はあたしの記憶を変えたんやね…。でも、その時のお母さんの心の『声』が、あーしには聞こえてたんやと思う…」

「まさか…!? こんな… こんな事って…!」
「うん、知らんかったやろ?…ごめん。あーしが抱えとったから…」

少女は再びゆっくりと愛に歩み寄ると、その胸に手のひらをあてた。

「もうひとつ。あーしのとっておきの宝物…」


あたしは夢を見ていた。

草の深い草原を、幼いあたしが走っている。
幼いわたしよりも背の高い雑草が生い茂り、先を走っているお母さんの姿が見え隠れする。

風が強い。草のなびく姿が、まるで海が波打っているように見えた。
ふとあたしの麦わら帽子が風で飛ぶ。お母さんは逃げるのをやめて、麦わらをつかまえにいった。

麦わらをつかまえたお母さんがゆっくりと帰ってくる。風でボサボサになったあたしの髪の毛をとかして、帽子をかぶせてくれる。
あごにゴムの紐をかけて、頭をぽんぽんと叩く。

お母さんの顔はやさしく笑っていた。笑って、笑って…。


静かな砂浜をあたしは裸足で走っていた。足跡がつくのが面白くて。
時々打ち寄せる波が足を濡らす。

波打ち際に立って、波が打ち寄せてはひいていく感触を、飽きもせずにずっと確かめていた。

離れたところにいたお母さんがゆっくりと近づいてくる。
「お母さん、これ面白いよ!!」
語りかけるあたしに、お母さんは手のひらを開いてみせる。
お母さんの手の中には、きれいな色の小さな貝殻が、たくさん入っていた。

わあ、と驚くあたしの顔を見るお母さんの顔は、ちょっと得意げに、やさしく笑っていた。

笑って、笑って、笑って…

*** ***



眼が覚めると、あたしはベッドの中で裸のままシーツに包まっていた。胎児のようにひざを抱え、丸くなって。

シーツが涙でぐしょぐしょに濡れていた。何か身体の中の「何か」が大量に流れ出したような気がする。妙にすっきりした気分だ。

窓に近づいて外を見れば、素敵な青空に小さな雲が浮かんでいた。

あたしは、空に向かって言ってみる。

「あたしは、高橋愛。…あたしは、愛されて生まれた」

「あたしは、ずっと…“愛”を抱いて生きていく」

…自分に言い聞かすように言う。

「…仲間たちと一緒に…」




最終更新:2014年01月18日 10:49