あたしは嫌な夢を見て眼を覚ました。
暗い夜道で一人、幼いあたしが泣いていた。
「お母さんがいない… お母さんがいないよ…」
ふと気がつくと、目の前に母親が立っていた。やさしく両手を広げて。
「お母さん!!」
喜びに声を上げて母を見上げる。 …母親には顔が無かった。
*** ***
「…まだこんな夢を見るんかの…」
コップに水をついで、飲み干しながらつぶやく。冷たい汗が身体にまとわりついていた。
あたしのかつての名前は 『実験体:i914』。あたしはガラス管の中で生まれた。
最初から母親などいない。
「もう23歳にもなるのに… 情けないのお…」
同じ夢を昔から何回も見ていた。そのたびに情けないと思う。
母親を“失った”人間ならともかく、あたしには最初から『母親』なんていなかった。なのになぜ?
自分が他人の玩具を欲しがる、わがままな子供のように思えた。そんな自分が、嫌だった。
「あたしは、高橋愛。あたしは1人で生まれた。あたしは、1人で生きていく」
…自分にそう言い聞かすように言う。
「…仲間はいるけどね…」
そう言って、やっと少し笑う事ができた。
*** ***
最近、『幽霊』を見ることに慣れてきた。
あの日、あたしは幼い日の自分自身と同化した。4歳の頃に置き去りにしてきた、自分の膨大な“殺戮の記憶”たちを再び引き受けた。
それ以来、1人になると、あたしの周りには、『幽霊』たちが現れる。
喫茶『リゾナント』での仕事を終え、部屋に入る。薄暗い部屋の奥に、ボウ…っと中年の男の虚ろな顔が浮かぶ。…あたしが最初に“消した”男の顔だ。
…いや、ごめん…“殺した”…だよね? …そんな不満そうな顔をしないで…。
次はあんたやね…。今夜も順番に出てくるんやね…。ご苦労様…。
なく、広くも無い部屋はあたしの“殺した”人間たちの『幽霊』で埋め尽くされる。満員電車の中みたいやよ…。まあ、“触る”ことはできないんで、気にしなければ何の問題もないんやけどね…。
…でも、あたしが“殺した”人間の数はそんなもんじゃない…。この前はあんまり部屋の中が鬱陶しいんで窓を開けたら、夜空が死顔で埋め尽くされとって…。
…さすがにあたしも思わず大声上げそうになったわ…。
しかし、人間の“慣れ”というのは恐ろしいもので…。最近はそんな『幽霊』たちとの生活も、あたしには当たり前のことになって来ていた。
でも、あたしには1人だけ… “1人”でいいんかの?『幽霊』の場合…?
気になる『幽霊』がいるんよ。
白衣を着た、20代後半くらいの女の人…。その人だけ、なんて言うんかな…。眼が虚ろじゃないんよ。何か本当に?見られてる”様な気がするんよね…。
なんか不思議な…、やさしい顔しとるしね…。それに、その人だけ“殺した”覚えもないんよ…、忘れとるだけかも知れんけどね。
…白衣を着とるから、あの『研究所』におった人かな?なんで覚えとらんのに“現れる”のかはわからんけど。なんかあの人見ると、ちょっとほっとするんよ…。
*** ***
シャワーを止めてバスルームを出る。一日の仕事の後の至福のひと時。
身体をタオルでぬぐい、髪の毛にタオルを巻きつけ、裸のまま体重計に乗る。
「…ん」
大丈夫、と頷き、『幽霊』たちの群れの中をすり抜けてベッドへと向かう。
「…!」
ぎょっとした。実体の無い『幽霊』たちの間に、光を放つような、少女の姿があった。
「あんた…!?」
…それはあたし自身だった。…いや、正確に言えば、14歳くらいだろうか?
少女の頃の、あたし自身だった。
白いブラウスに、(苺っぽいから)お気に入りだったピンクのチェックのスカートをはいた「あたし」は、鼻の上にしわを寄せて、照れくさそうに笑いながら話しかけてきた。
「…あーしなあ、おっきくなったやろ?…あんたのなかで、あの頃からぐっと成長して来たんよ」
「あんた…? …“あたしの中にいた” …あたしか…!?」
「うん、おねーちゃんが…、自分のことおねーちゃん言うのも変やけど…。あの恐い人たちを引き受けてくれたおかげで、あれからおねーちゃんのあと追っかけて、大人になってこれたんよ」
「…でもなあ、大人になってきて、色々なことがわかってきたら、おねーちゃんに悪い事しとったなあ、思って…」
「…悪い事…?…何?」
「うん…、あーし、嫌なもんばかりおねーちゃんに押し付けたけど…、大事なものは渡し忘れたんよ…」
少女はすっと愛に歩み寄ると、手のひらを愛の胸に当てた。
…『声』が飛び込んできた。
あなたの記憶を変えるよ
わたしは最初からいなかった
素敵なお母さんが“いた”なんて嘘はつけない つきたくない
でもそれ以上に「過去」にしたくない
あなたを愛している
生まれたときからあなたを愛している
これからもずっと、これからもずっとあなたを愛している
あなたは愛
あなたはわたしの愛
あなたを愛している 愛している 愛している 愛 愛 あい…
…気がつけば、愛の眼からとめどなく涙があふれていた。
「…これは… なに…?」
少女はまた照れくさそうに笑って答える。
「あーしの宝物。ずっと、ずっと大切に持っていた…」
「“お母さん”はあたしの記憶を変えたんやね…。でも、その時のお母さんの心の『声』が、あーしには聞こえてたんやと思う…」
「まさか…!? こんな… こんな事って…!」
「うん、知らんかったやろ?…ごめん。あーしが抱えとったから…」
少女は再びゆっくりと愛に歩み寄ると、その胸に手のひらをあてた。
「もうひとつ。あーしのとっておきの宝物…」
あたしは夢を見ていた。
草の深い草原を、幼いあたしが走っている。
幼いわたしよりも背の高い雑草が生い茂り、先を走っているお母さんの姿が見え隠れする。
風が強い。草のなびく姿が、まるで海が波打っているように見えた。
ふとあたしの麦わら帽子が風で飛ぶ。お母さんは逃げるのをやめて、麦わらをつかまえにいった。
麦わらをつかまえたお母さんがゆっくりと帰ってくる。風でボサボサになったあたしの髪の毛をとかして、帽子をかぶせてくれる。
あごにゴムの紐をかけて、頭をぽんぽんと叩く。
お母さんの顔はやさしく笑っていた。笑って、笑って…。
静かな砂浜をあたしは裸足で走っていた。足跡がつくのが面白くて。
時々打ち寄せる波が足を濡らす。
波打ち際に立って、波が打ち寄せてはひいていく感触を、飽きもせずにずっと確かめていた。
離れたところにいたお母さんがゆっくりと近づいてくる。
「お母さん、これ面白いよ!!」
語りかけるあたしに、お母さんは手のひらを開いてみせる。
お母さんの手の中には、きれいな色の小さな貝殻が、たくさん入っていた。
わあ、と驚くあたしの顔を見るお母さんの顔は、ちょっと得意げに、やさしく笑っていた。
笑って、笑って、笑って…
*** ***
眼が覚めると、あたしはベッドの中で裸のままシーツに包まっていた。胎児のようにひざを抱え、丸くなって。
シーツが涙でぐしょぐしょに濡れていた。何か身体の中の「何か」が大量に流れ出したような気がする。妙にすっきりした気分だ。
窓に近づいて外を見れば、素敵な青空に小さな雲が浮かんでいた。
あたしは、空に向かって言ってみる。
「あたしは、高橋愛。…あたしは、愛されて生まれた」
「あたしは、ずっと…“愛”を抱いて生きていく」
…自分に言い聞かすように言う。
「…仲間たちと一緒に…」
最終更新:2014年01月18日 10:49