(25)113 タイトルなし(桜と小さな春)



「うー、寒い」

久住小春の声は夜の大気に溶けていく。
暦の上ではもう春だと言うのに、どういうわけかここ数日冬に逆戻りしたかのように寒い。

電車のモニターで見た天気予報。お天気のお姉さんはこう言っていた。
寒さが堪えるのは、体がもう春モードに入っているからだとか、何とか。
だから、そこまでの寒さでなくても必要以上に寒いらしい。

もっと早く知っていれば、もう少し温かい服装で出かけたのに。
そう思ったところで、この寒さが和らぐわけでもない。
小春は溜息を付きながら家路を急ぐ。

見間違いかと、そう思った。
だが、その後ろ姿を小春は知っている。
声をかけようか躊躇いながら、付かず離れずの距離のまま歩く。

一体、何処に行こうというのだろうか。
彼女の家はこの辺りではないはずだ、それは付き合いが浅い小春でも知っていることだった。
しかも、この辺りは住宅街であり…商用施設は駅の方まで戻らねば存在しない。


「…ねぇ」


小春の、呟くような呼びかけに彼女が振り返る。
一瞬だけ驚いた顔を見せた後、彼女―――ジュンジュンは不思議そうに首を傾けた。


「久住…?
お前モ、桜を探シに来タのか?」

「桜って何のこと?
あたし、家に帰る途中でたまたまあんたを見かけただけだし」


思わず口調がきつくなってしまう小春を見ても、ジュンジュンは大して顔色を変えない。
小春のこういった物言いに慣れているのか、そうかと言ったきり黙り込んでしまう。

この辺りに桜なんて咲いていただろうか。
そもそも、まだ桜が咲くには少しばかり早い気がする。

不意に足下から寒気が上ってきて、小春は自身を抱き締めるような格好のまま口を開いた。


「てか、見間違いだって。
こんなに寒いんだよ、それなのに桜なんて咲いてるわけないじゃん。
それに、この辺に桜の木なんてないし」

「うルさイ、ジュンジュン、確カに見タ。
電車ノ窓かラ見えタんだ」

「そんなの気のせいだって、ていうか、早く帰らないと電車なくなっちゃうんじゃないの?」


小春の言葉に返事することなく、ジュンジュンは再び歩き出した。
その場に立ち止まったまま、小春はジュンジュンの背中を見つめながら考え込む。


このまま、ジュンジュンを放って家に帰ろうか。
ジュンジュンは成人しているのだし、警察に補導される心配はないだろう。身分証明書を持っているかは知らないが。
第一、小春とジュンジュンは“共に戦う仲間”ではあるが、決して仲がいいわけではない、むしろ犬猿の仲と言ってもよかった。

今夜は冷える、早く家に帰らねば風邪を引いてしまうかもしれない。
芸能人でもある小春にとって、体調管理は仕事のうちだ。
万が一にも仕事に穴を空けるようなことがあっては、周りの人間に多大な迷惑がかかってしまう。

だが、この辺りの地理など知らないであろうジュンジュンを放置して帰っていいものか。


「あー、もう!」


むしゃくしゃした気持ちのまま、小春は歩き出す。
肩で風を切りながら多少早足気味に歩いた先には、首を左右に動かしながら辺りを見回すジュンジュンがいた。


「…帰ラなくテいいノか?
今日ハ寒い、風邪を引いテしまウぞ」

「それはあんたもでしょ。
ほら、いくよ…早く見つけて、さっさと帰んないと」

「さっキ、お前ハ見間違いダと言っタ」

「あー、もー、うっさい!
あんたが嘘付くような奴だと思わない、だから…一緒に探してあげる」


小春の言葉に、ジュンジュンは一瞬虚を突かれたような表情を浮かべた後…小さく微笑んで何かを呟いた。
その言葉の意味を尋ねようと小春が口を開くよりも先に、ジュンジュンは歩き出す。


付かず離れずの距離を保ちながら、小春は後ろから声をかけてジュンジュンをナビゲートしていった。


     *    *    *


ジュンジュンと小春が探索を始めて数十分。
もうそろそろ駅に向かわねば、電車がなくなってしまう時間に差し掛かる頃だった。

ジュンジュンの足が止まる、そして、小春もまたその場に立ち止まる。

小さな児童公園の脇。
そこに、確かに桜の木が生えていた。

幾多の薄紅色のつぼみに混じるように、開きかかった桜も僅かながらある。
街灯に照らされた桜は何処か幻想的で、思わず声を失わずにはいられない。

ジュンジュンが小春の方へ振り向く。
開かれた口から飛び出した言葉は、余りにも意外だった。

よし、帰ろう。たった一言、そう告げて満足げに微笑むジュンジュン。
ようやく見つけたのに、もう少し見ていけばという小春の言葉にも首を横に振る。

何故か、それ以上言ったらいつものように激しくぶつかり合う気がした。
悪い雰囲気ではないのに、わざわざ険悪な方向へと変える必要は何処にもない。
歩き出したジュンジュンの背中に、小春は聞こうと思っていた一言を放つ。


「ねぇ、あの桜を探すのにどのくらいここにいたの?」

「夕方くラいからだナ」

「はぁ、あんた、馬鹿じゃないの?
見つけられるかどうかも分かんないのに、何時間もかけて…あたしが来なかったら、見つけられなかったかもよ」

「そウだな」


まるで他人事のような返事に、気持ちが苛立ってくる。
その苛立ちのまま、小春が口を開こうとしたその時だった。


「…見間違いカと、最初ハ思ったンだ。
お前が後五分、声をカけなケれバ。
私のコとを知ラないフりして帰っテいれバ、帰っテいたト思う。
でモ、お前を見テ…あの桜ハ絶対にアるっテ、そう思っタんだ」

「…何で?」

「お前ノ名前ハ?」

「久住こは…」


最後の一文字を言い終わるよりも先に、小春は思わず言葉を失う。
先を歩いていたジュンジュンが、してやったりと言わんばかりの表情で笑っていた。


初めて顔を合わせた日。
自己紹介をする際に、自分の名前の意味を言った記憶が蘇る。小さな春と書いて、小春という名前なのだと。

些細なことなのにジュンジュンは覚えてくれていた。
そのことが何だか嬉しくて、でも、何と言えばいいのか分からなくて小春はやっぱり黙ったままだった。

それを知ってか知らずか、ジュンジュンは小春に声をかける。


「ほラ、久住。
早く歩ケ、電車がナくなっテしまう」

「はあ、あんた、さっきあたしが言ったこと、もう忘れたわけ?
あたしの家この辺だし、何で駅まで戻らなきゃなんないのさ」

「…冷たイ奴だナ」

「冷たくて結構」


ずっと、付かず離れずだった距離が言葉を交わす度に近づく。
それは、物理的な距離だけではなかった。
立ち止まっているジュンジュンの隣に小春が追いつく。


同時に歩き出した二人を、銀色の月が柔らかく照らしていた。


最終更新:2014年01月17日 14:13