(35)058 『美人薄命(前編)』(俺シリーズ)



都内某所にある高級クラブ『月下美人』
ほんの一時間前には大勢の客で賑わっていたこの店は、営業中にも関わらず水を打ったような静けさに包まれている。
この店で現在酒を楽しんでいるのは、中央の大きなソファーで肩を寄り添う一組のカップルだけ。
「呑みすぎじゃねぇか?これからお前仕事だろ?」
「呑まなきゃやってられないわよ。よっすぃー、ねぇ聞いて?」
先程までいた客や店員は全て、よっすぃーと呼ばれた女によって眠らされている。

吉澤ひとみ。闇の世界で暗躍する超能力組織『ダークネス』の幹部の一人。
精神干渉能力を得意とする彼女にとって、この場にいる全ての人間を眠らす事など赤子の手を捻るより簡単な事だ。
この者達が再び眠りから醒める時が訪れるかどうかは、この女の気分次第だろう。
「久しぶりに大きな仕事が来たと思ったら、リゾナンターとかいうガキの集団を始末しろだって…。粛清人『R』を馬鹿にするんじゃないわよ!!」
粛清人『R』。彼女は現在ダークネスの戦闘能力者集団『DD』に所属しているのだが、組織からぞんざいな扱いを受けていると苛立ちを隠せずにいた。
巨大な敵対組織の壊滅などは同僚である『A』や『G』に任されるているのに対し、『R』の任務は組織の謀反人や役立たずの後始末のみ。
任務に失敗した構成員をいたぶり処刑する“『R』のお仕置き部屋”は彼女にとって恰好のストレス発散の場となっていた。
「そう言えば、この前あの部屋に連行されたキモイ下級兵、よっすぃーの指示通り生かしておいたけど何だったの?」
「あぁMr.Tに頼まれたんだよ。何故だか知らないけど、お前に手加減するように口添えしてくれって。」
「なんであんな髭男の頼みを承諾したの?よっすぃー彼奴とどんな関係な訳?」
「馬鹿、何でもねぇよ。お前だって結局彼奴を殺さなかったんだろ?」
「そりゃ、よっすぃーの頼みだもん。それよりあのMr.Tて何者なの?大体男の分際でコードネームまで持っているとか不相応にも程があるわ。」
「何者かは知らねぇな、興味ねぇし。だけど仕事が出来る男なのは確かだぜ。」


『R』の頭をポンポンと叩きながら笑う吉澤に、彼女は臍を曲げる。
自分以外の人間を誉められると毎回嫉妬してしまう。その理由を『R』は知っている。
自分は、吉澤ひとみを愛してしまっていることを。そして吉澤には、自分以外にも愛する女が存在することも…。

無理もない。是ほど魅力的な吉澤に惚れてしまわない女などいない。そう無理矢理自分を納得させている『R』だが、本来彼女は独占欲の強い性格だ。
吉澤に近づく全ての者達を殺してしまいたい…。そんな衝動に駆られる時も何度もあった。
だが、そんな暴挙に出れば勘の鋭い吉澤ならばそれが自分の仕業だと直ぐに気付き、軽蔑の眼差しを向けてくるであろう。
そんな事態に陥る事は絶対に避けなければならない。吉澤に嫌われる事は『R』にとって全てを失う事を意味するのだから。
だから『R』は覚悟を決めた。例え吉澤が別の日に他の女と愛を育もうが構わない。
そう。今、この瞬間だけは私だけのモノだから…。そう自分に言い聞かせ『R』は吉澤を抱きしめた。
「いいか、焦ったら負けだぜ?その内お前にいい風が吹いてくる。先ずは目の前の仕事をキッチリ片付ける事だ。」
「ガキ9人片付けて本当にいい風が吹いてくるのかしら。」
「でも美貴だってやられちまったんだろ?油断してたら痛い目みるかもしれないぜ?」
「…何その寂しそうな顔、あれ?もしかして美貴ちゃんが死んじゃってショックだった?」
「私はお前を失いたくないんだよ。『R』…お前のいない世界なんて考えられない。」
「…嬉しい。でも二人きりの時には『R』じゃなくて“梨華”って呼んでほしいな…。」
「…残念だけど二人きりじゃねぇようだぞ?」
「…え?」
「…隠れてないで出て来いよ、おじゃマルシェさんよ。」
『R』が慌てて振り返ると、物陰から白衣を纏った一人の女が現れた。



Dr.マルシェ。ダークネスの科学技術部門の最高権威。非戦闘員でありながら、その飛び抜けた頭脳を武器に組織の中で揺るぎない地位を築き上げた若きマッドサイエンティスト。
「…アンタ、いつから其処に…?」
「おや?私如きの存在にお気付きにならなかったとは。やはり好いた御方のいる前では、粛清人『R』と言えども普通の女の子に戻ってしまうんですねぇ。」
挑発とも取れるマルシェの発言に『R』は激昂し、自身の能力である“念動力”を彼女にぶつけるべく立ち上がり手を翳す。
「落ち着け『R』。言ったろ?イライラしたら負けだって。奴の術中に嵌るだけだぜ。」
愛しいヒトに呼び止められた『R』は渋々手を下ろしながらも、殺意の籠もった低い声でマルシェに尋ねた。
「…で、アンタ一体何しに来たの?」
「粛清人『R』がリゾナンターへの刺客に選ばれたと耳にしましたので御節介だとは思ったのですが彼女達の戦闘データをお届けにあがりました。」
「…アンタ私を誰だと思ってるの?たかがガキ9人を始末するのに、そんなデータ一切必要ないわ。」
「いけません。過信は身を滅ぼしますよ?それと、これは飯田さんの“予言”ですけど“リゾナンターとの戦いは大変危険、避けるが吉”との事ですし。」



飯田圭織。ダークネスの予知能力者。だがその精度は眉唾物だと組織では専らの噂だ。
「私が奴等に負けるとでも?馬鹿馬鹿しい。組織に戻ったらカオタンに伝えといて。貴女の予言も最近焼きが回ってるようだから、引退を考えたらどうですか?って」
高らかに笑う『R』に冷ややかな視線を送るマルシェ。そんな彼女を無視して、『R』はテーブルにある一輪挿しの花瓶を見つめている吉澤に声をかける。
「今から行ってくる。一時間で戻ってくるから、帰ったらまた呑みましょ。」
「私は朝まで此処で待ってるよ。…いいか、必ず戻ってくるんだぞ?」
「…分かってる。心配しないで、じゃあ。」
愛しい人とのしばしの別れ。いつもなら優しい笑顔で見送ってくれる吉澤だが、今日は何故か花を見つめたまま此方を向いてくれない。
少し寂しさを感じつつも『R』は気持ちを切り替え戦地に赴くべく店を跡にした。

「止めなくてよかったんですか吉澤さん?彼女、…もう帰って来ないかも知れませんよ?」
「カオリンのあの予言が当たるってのか?」
「確かに飯田さんの予言にはムラがあり外れる事も少なくありません。しかし、恐ろしい事に彼女の不吉な類の予言は100%の確率で的中しているんです。これは統計学的に証明されています。」
吉澤は統計学には興味はないが、彼女自身の鋭い直感がこう告げている。
飯田の予言は当たり『R』はリゾナンターに敗れてしまうのではないか…。
だから先程は敢えて『R』を見なかった。視線を合わせてしまえば、本当にもう『R』とは二度と会えない気がしたから…。

「綺麗な花ですね。月下美人ですか。」
吉澤は花瓶から一輪の白い花を取り出しその芳香に酔いしれていた。
月下美人。夕方から咲き始め夜中満開となるが、朝には萎んでしまう一夜限りの儚い花。
「…花の命は短い。だから美しいのかもしれないな。」
「まさに“美人薄命”ですね。」
人の一生など瞬きをする間に過ぎ行くものだとこの美しい花は告げている。
そう感じずにはいられない吉澤であった。



最終更新:2014年01月18日 11:47