「ならば愛佳さん。一つだけお聞かせください。愛佳さんにとっての幸せとは何ですか?」
「わたしにとっての…幸せ?」
「ええ、あなたは今本当に幸せだと言えますか?」
「わたしは…わたしはみんなと一緒にいられる今が…!」
「幸せですか?本当に?いつまで続くか分からないのに?それが本当の幸せと言えるのですか?」
「……!わたしは……」
「愛佳さん。私たちはあなたを必要としている。あなたのそのチカラがあれば、世界中の多くの人が救われるんです」
「わたしの…チカラが…?」
「そう。愛佳さん、この世界はあなたを必要としています。私たちと共に歩めば、必ずこの世界に…そしてあなた自身に幸せが訪れる」
「世界に…幸せが……」
「そう、誰もが笑顔で暮らせる平和な未来が訪れるのです。あなたのそのチカラを然るべき人の下で有効に使いさえすれば」
「平和な……未来……みんなが笑顔……わたしのチカラで……」
「もう一度聞きます。愛佳さん、あなたにとっての幸せとは…何ですか?」
「わたしにとっての……幸せは――――」
「愛佳、前に教えたことなかったっけ?マインドコントローラーの質問には答えてはいけないって」
不意に背後から聞こえた声に、男は眉を顰めながら振り返った。
豪奢な部屋の入り口に設けられた壮麗な木製の扉が、いつの間にか大きく開かれている。
開け放たれた扉からゆっくり歩み寄ってくるのは、一人の小柄な女性だった。
「新垣…さん………?」
「どちら様ですか?」と男が問うより早く、傍らの光井愛佳が虚ろながらわずかに光の戻った目で女性の名を呼んだ。
女性―新垣里沙は、愛佳に向かって小さく笑いかけ、優しく静かに話しかける。
「マインドコントローラーの質問はねぇ、常に用意された答えを言わせるための誘導。相手のシナリオに乗らないで」
「…失礼ですが先ほどから一体何を仰っているのですか?マインドコントローラー?まさか私が愛佳さんを洗脳しているとでも?」
冷静さを取り戻した男が、肩をすくめるようにしてそう言いながら困ったような微笑を浮かべる。
「あんたは“洗脳屋”―奈月朝人(なづきあさと)……そうでしょう?」
だが、男の仮初めの微笑は、里沙のその一言によって瞬時に霧散した。
「お前……何者だ?」
「問いには、問いを。それがマインドコントローラーに相対したときの基本。…覚えておいてね、愛佳」
再び愛佳に向かって柔らかく微笑み、里沙は視線を男に戻した。
「でもその問いには答えてあげる。私はあなたの夢先案内人。――終わりなき悪夢への……ね」
その双眸には確固たる熱い決意が宿り……しかし同時にどこまでも冷たく暗い炎が揺らめいていた。
「新垣…新垣……?そうか…どこかで聞いたことがあると思ったが、あの組織のマインドコントローラーか。だが何故あの組織の人間が…」
男の言葉に、里沙の顔が一瞬強張る。
微かに物問いたげな表情を浮かべた愛佳から意識的に視線を逸らし、里沙は男の顔を見据えた。
「…さあね。私はその子を取り戻しに来ただけ。邪魔をする者に容赦はしない……ただそれだけ」
「ふん…どうやら組織はこの件には絡んでいないらしいな。個人的な行動か」
里沙の様子を見て取り、僅かに狼狽らしき色が浮かんでいた男の表情に余裕が戻る。
「で?お嬢さん一人で俺とやり合ってこの子を連れて帰る気なのか?“洗脳屋”も舐められたもんだな」
自信と嘲りを隠そうともせず、男は里沙に向かって右手の指を3本立てる。
「俺が再起不能にしてやった人間の数だ。……言っておくが3人じゃないぞ?」
小馬鹿したように嗤う男に、里沙は冷めた視線を向けた。
「そんなものを数えていつまでも引き摺っているようじゃ“洗脳屋”が聞いて呆れる。それとも自分のしたことを後悔しているの?」
里沙の言葉に、男の表情が歪み、目元に微かに朱が差す。
「……後悔するのはお前の方だ。その道のプロを敵に回したことをな」
「あんたには後悔すらも与えない。仲間を傷つけたあんたを私は絶対に許さない」
怒気と優越感が綯い交ぜになったような男の声に対し、里沙は相変わらず無機質に返す。
―だが、そのやりとりをぼんやりと眺めながら、愛佳は感じていた。
里沙のその目に、そしてその声に…愛佳が初めて見るほど激しく…同時に何故か悲しげな色が漂っているのを。
「仲間…?ああ、あの喫茶店にこの子と一緒にいたとかいうお嬢さんか。そういえば反抗したから痛い目を見てもらったとか言ってたな」
男がそう鼻で笑った瞬間、未だ夢と現の狭間にいた愛佳は漸くはっきりと意識を取り戻した。
同時に、ここに連れてこられたときの出来事が鮮明に脳裏に甦る。
複数の能力者にたった一人で立ち向かい、血だらけになりながらも最後まで自分を庇ってくれた田中れいな。
それを目の前にしながら、何もできずに震えているだけだった情けない自分――
「田中さん……新垣さん、田中さんは……っ!?」
様々な感情が渦巻く中、愛佳は里沙にれいなの安否を必死に尋ねた。
「ちっ……また最初からやり直しか」
傍らで声を上げた愛佳を見遣り、男は忌々しげに舌打ちをする。
この新興宗教団体から受けた依頼――光井愛佳を我が教団の予言者として迎え入れたい――は、完遂される寸前だったというのに。
いつもに増して破格の依頼料を手にできるはずだったのに。
癪に障るこの小娘さえ現れなければ――
そんな苛立ちを押し殺して、男は視線を里沙に向ける。
だが、里沙の視線は再び愛佳へと移っていた。
「まだ意識は戻らないみたいだけど大丈夫。命に別状はないよ。傷はさゆがきれいに治してくれたし、みんなもついてくれてるから」
力強く答える里沙の言葉に、愛佳の目から安堵の思いと不甲斐ない自身への情けなさとが入り交じった涙が溢れる。
その涙を慈愛に満ちた笑顔で包んだ後、里沙は感情を消した瞳を男に戻した。
「血の気が多い部下が申し訳ないことをしたようだ。俺からもちゃんと言っておくよ。……今度は手加減しなくていいってな」
直後にかけられた、意図的に感情を逆撫でしようとする男のその言葉にも、里沙の表情は微動もしなかった。
「今度?あんたたちにそんな未来は存在しない。…ねえ、どうして私がここに来られたんだと思う?」
「何?」
言われて初めて男は思い至った。
巨大な新興宗教の総本山とも言えるこの広大な施設建物の一室。
里沙は一体どうやって目的の場所がここであることを知り、真っ直ぐに辿り着くことができたのか。
しかも、外部の立入りが一切禁じられたこの場所に、誰にも遮られることことなく―――
「まさか……」
「そう、私をここまで案内してくれたのはあんたの部下。とっても素直ないい子たちね。だから代わりに悪夢の世界に案内しておいてあげた」
「バカな……!あいつらにはマインドコントロールに充分抗することができるだけのノウハウは叩き込んで――」
「原始的な感情は操作しやすい……その程度のことも教えてなかったの?“洗脳屋”の通り名も高が知れてるみたいね」
「………っ!」
激昂しそうになる感情を押さえつけながら、同時に男は背筋が冷えるような思いを禁じえなかった。
なんだこいつは……
長いことこの世界にいるがこんな相手は今まで……
呑まれそうになる自分を感じ、男は慌てて気を取り直した。
相手のペースに乗せられてはいけない。
主導権を握られてはいけない。
能力自体は絶対に自分の方が上なのだから――
「御託を並べるのは終わりにして、そろそろ始めないか?俺も色々と忙しい身なんでね」
殊更にシニカルな笑みを浮かべながら、男は少し離れたテーブルの上を指差す。
「あの砂が落ち切るまでに終わらせようじゃないか」
テーブルの上で唐突に巨大化した砂時計に、里沙は僅かに眉を動かした。
それを確認し、男は口元を吊り上げる。
「見えてるみたいだな。つまり既にお前は俺の術中にある。残念ながらもう後戻りはできないぞ」
自分の“フィールド”に里沙を引き込んだことに満足し、男は勝ち誇った笑みを浮かべる。
それはすなわち相手の脳への侵入が成功したことを示していた。
あとはいつものように引っ掻き回して滅茶苦茶にしてやるだけだ。
人一人が発狂していく様子は何度観察しても飽きない。
だが、その不遜な笑みは直後に凍りついた。
「……何がおかしい?」
里沙が、先ほどまでの無表情から一変してニヤニヤとした笑いを顔に貼り付けている。
その不気味な笑顔に、男は言いようのない不快感と…そして得体の知れない悪寒を覚えた。
「それは何?」
神経に障る薄笑いを浮かべたままテーブルの上を指差してそう問う里沙に、男は不快さを隠して尊大に笑い返す。
「知らないのかお嬢さん?これは………」
だが、再びその笑みは凍りつき、中途半端に男の顔に貼り付いた。
―名前が出てこない。
つい先ほどまで当然のように頭の中にあったはずの名前が。
度忘れしただけだ…それだけのことだ…
そう思いながらも、男は妙な汗が背筋を伝うのを感じずにはいられなかった。
「分からないの?“それ”の名前」
男の動揺をよそに、テーブルの上を指差しながら里沙は楽しそうに言葉を重ねる。
「…分かるさ。だが名前なんてどうでもいい。肝心なのはお前がそうやって笑っていられるのも時間の問題だということだ」
男のその言葉に、里沙は首を傾げる。
「ふーん……どうして?」
「さっき言っただろう?あの砂が落ち切る頃には………なっ!?」
男は自分の目を疑った。
テーブルの上の“それ”が、グニャグニャに歪み、揺らめいている。
以前までと同じ風景の中、“それ”だけが。
「くっ…お前……俺の脳に……!」
始めて他人から干渉される屈辱に、男は里沙を血走った目で睨みつけた。
「『名前なんてどうでもいい』って言った?あんたはこの世界がどうやって成り立っているか理解してないみたいね」
だが、その男の形相にも顔色ひとつ変えることなく、里沙は静かに口を開く。
「単に事象を識別するために人間が便宜上つけたものが“名前”だとでも思ってるんじゃない?だから平気でどうでもいいなんて言える」
「なんだと?」
「私たちは全ての物を“名前”で把握してる。つまり“名前”は実体そのもの。そして実体を支配するもの――いわば事物の存在そのもの」
「何わけの分からないこと言って――」
「じゃあ聞くけど“あれ”の名前は?ちゃんと言える?」
言いながら、里沙は先ほどに増して歪み揺らめく“それ”が載せられた物を指差す。
「……ふざけるな!」
青白い顔から汗を滴らせ、男は必死に喚いた。
分からない…思い出せない…どうしてだ!くそ!…だがそれが何だ!“あれ”は上に物が置ける…!それが分かれば事足りる…!
「“物を置くもの”とか言わないでよね」
「……!!」
だが、それを見透かしたかのように、里沙は薄気味の悪い忍び笑いとともにそう言う。
「物を置くなら、“これ”にだって置ける」
そして、足元を指差しながら口角を吊り上げた。
「つまりあんたにとって“あれ”と“これ”は同じ物ってわけだ」
里沙がそういった瞬間、男の中で2つの差異が失われる。
「ひ………!」
視界が…足元がドロリと溶け出し混ざり合い始める。
“世界”を覆い始めたその混沌に抗うように、男は必死で頭を振った。
「“名前”とは事物を分ける境界線。縁取りを失えばその存在は背景に溶け込む……ねえ、あんたは自分の名前が言える?」
元の無感情な表情に戻り、里沙は静かに男に尋ねる。
「あ、当たり前だ!俺は奈月…奈月朝人!どうだ!はは!俺の名前は奈月朝人だ!」
しかし、自身の拠り所を探り当て安堵の表情を浮かべながら叫ぶ男に、里沙は小さく首を振った。
「いいえ。あんたの名前は『奈月朝人』なんかじゃない」
「何をバカな!俺の名前は間違いなく奈月朝人だ!そんな手には―――」
「よく思い出してみて?ここであなたの名前を最初に呼んだのは私。あなたはそれを受け入れただけ」
「……そ、それがどうしたんだ!」
「『奈月(なづき)』は『脳(なずき)』から連想した架空の名前。『朝人』は私の友達のお兄さんの名前。…どちらもあんたのものじゃない」
「な………バカな!違う!俺は…俺の名前は……!」
「『そろそろ始めないか?』なんて言ったとき…あんたは既に終わってたのよ。あんたはもう自分の名前を無くしてたんだから」
「そんな……そんなはずは……」
「じゃあもう一度聞くわ。ねえ、あんたは自分の名前が……言える?」
「俺は……俺は……名前……俺の……」
「そう…言えないの…。つまりあんたには名前がないんだ」
焦点の定まらない目で呟く男に、里沙は告げる。
“世界”の創造主の意思を伝える預言者のように静かに、厳かに。
「この世界で名前のないものがあるとすれば…それは何ものでもない」
「何ものでも……ない……?」
「そう、何ものでもない。存在しないといってもいい」
「存在……しない……俺は……」
男の“世界”が、加速度的に混沌の渦に飲み込まれてゆく。
全ての事物の境界がその縁取りを失い、互いに溶け合って曖昧になってゆく。
“名前”を失った自分自身も例外ではなかった。
やがて――
男の“世界”の中で全ての関係性の秩序が奪われたとき、男はこの世界に存在しながら存在しないモノになって横たわっていた。
* * *
「帰ろう、愛佳。みんなのとこに」
いかにも高級そうな絨毯の上に倒れ伏す男にはもう目もくれず、里沙は愛佳に歩み寄り、その肩に手を置いた。
「はい。…あの…新垣さん、その人は…どうならはったんですか?新垣さんが…その…倒したんですよね?まさか…死んで…?」
うつ伏せになった男を見遣りながら、愛佳はこわごわ里沙にそう尋ねる。
傍から見ていたら、途中から2人とも睨み合っているだけのように見えたが、きっと愛佳には見えない戦いが繰り広げられていたのだろう。
「……ううん。気を失ってるだけだからそのうち目が醒めると思う。だから今のうちに」
「分かりました。あの、本当にありがとうございます。私なんかのために……」
「何言ってんの!仲間でしょ。当たり前なんだからそんな風に言わないのっ。さ、帰ろ。れいなもきっと今頃目を覚まして待ってるよ」
「…はい!」
微笑む里沙に、愛佳はニッコリと笑い返した。
“仲間”―――
そう口にする里沙の目に、再び悲しげな色が過ぎるのを感じながら。
そして――あの男が何か里沙に関して言っていたような気がするのに、記憶に膜がかかったように思い出せないもどかしさを感じながら―――
最終更新:2014年01月17日 14:35