(40)271 『ヴァリアントハンター外伝(14)』



彼我の距離、956m。
南南西の風、秒速約1.7m。
誤差を修正。
呼吸は正常。
夜半だが、月明かりのおかげで対象は十分に捕捉可能。
肩づけで固定した銃身にブレもない。
発砲。
着弾を確認。
次の目標を捕捉、発砲。
次。そしてさらに次。

「こちら亀井。カメラや警備、逃走車両は全部潰したよ。後はよろしく愛ちゃん」
『了解』

三年前に出現した最後のヴァリアントによる未曾有の災害の爪痕が深く残る場所。
東京都西部の、まだ再開発の手が生き届いていない場所に絵里はいた。
伏射姿勢を崩し、少し肩や首を回して筋肉をほぐす。
敵状の監視も兼任していたとはいえ、流石に三時間以上同じ体勢を維持するのは骨が折れる仕事だ。
壁面の崩れたオフィスビルの屋上から、眼下に見える廃病院を"鷹の目"で俯瞰する。
すでに戦闘は始っているようで、病院の窓からは敵が反撃しているのだろう、
銃器のマズルフラッシュの明滅がせわしなく漏れている。
病院の敷地をぐるりと囲む外壁の周囲では、
絵里が今しがた撃ち倒した警備兵が地面をのた打ち回っていた。
銃弾はのきなみ脚元に着弾させた。重要な血管は外し、弾頭から吹き出した風の刃で
移動に必要な大腿の筋肉を最低限引き裂いただけなので、放っておいても死にはしないはずだ。
しばらくすると、戦況を不利と判断してか院内から何人かがわらわらと湧いて出てくる。
ロータリーに停めた車がすべてパンクさせられていると気づき、
徒歩による逃走を始めた彼らを改めて"鷹の目"で捉え、ライフルを構える。
"鋼の狼―スタールヴォルフ―"。
半壊した圭の"鉄の狼"と、なつみの大剣"リヒト・フリューゲル"の柄に使われていた素材を溶かしこんで作った、絵里の新たな愛銃だった。
"鉄"よりもさらに硬い"鋼"は、未熟な絵里の腕にはまだまだ重くのしかかる。
実戦で扱えるレベルにはなったとは言えその真価を完全に引き出せているとは思えない。


しかし、いつの日か。
今日よりも明日。明日よりも明後日。
一歩一歩踏みしめるように技術を高め、経験を増やし、
いつかは彼女たちの期待に応えられる最高のスナイパーになってやる。
その決意は、きっと"鋼"よりもさらに硬い。
目標を素早く捉え、絵里は立て続けに引き金を絞った。

  *

『こちら亀井。カメラや警備、逃走車両は全部潰したよ。後はよろしく愛ちゃん』
「了解」

絵里からの通信に短く応え、愛は待機場所から駆け出しつつ病院内へ瞬間移動で転移する。
今回の標的は超能力者専用の刑務所から脱獄した囚人を中心としたテログループだ。
院内に飛んだ愛の姿を見咎め誰何する男には、両手の拳銃の引き金を絞ることで応えてやった。
手足を撃ち抜かれた男の絶叫と銃声に呼び寄せられるように現れ、
サブマシンガンをでたらめに乱射する連中の弾幕を廊下の角でやり過ごし、最低限の銃撃のみで沈黙させる。
逃走者が出始める頃になって、一人の男が銃も持たずに悠々と廊下を歩み寄って来た。
ゴーグルを暗視モードに切り替え、容貌を確認する。
凶悪な目つきに、ひょろりとした貧弱そうな体躯。
グループの首謀者になっている超能力者だ。

「ったく、どいつもこいつも使えねぇな。
 そもそも銃に頼らなきゃ戦えもしねぇんじゃ、最初から話になんねーか」

愛に対する嫌味を含めたつもりだろうか。
レベル10の念動力がどうだの、逮捕されたのは油断がどうだの、
傲岸不遜な態度でペラペラとまくしたてる男に辟易しつつ、愛は溜息を吐く。
この手の馬鹿を相手にしていると、藤本美貴の気持ちが理解できないでもない。
そんな愛の態度が気に喰わなかったのか、男は額に青筋を浮かべて掌をかざしてきた。
幼稚な雄叫びと共に放たれる念動力の刃。


床のリノリウムを抉りながら廊下を突き進む、直撃すれば即死するだろう攻撃を前に、
それでも愛は内心で溜息を吐く。
レベル10の念動力があれば、もっと有効な攻撃手段もあるだろうに。
そもそも念動力の一番の脅威は、愛がいまつけている超能力エネルギーを可視化するゴーグルでもなければ
"力"そのものが視覚で捉えられないことにある。
銃弾以下の速度で床を抉りながら突き進んでくる刃など、ヴァリアントに比べれば何の脅威にもならない。

「ぎぁっ!?」

瞬間移動で男の真後ろに回り、一瞬だけ顕現させた光の刃で男の手足を浅く斬り裂いて蹴り倒す。
愛のベルトには、刃のない双剣の柄が提げてあった。
飯田圭織の愛剣"ツヴァイ・ティーゲル"。
愛の掌と特性に合わせて改めて削り出し調整した装備は、
"光の剣(ディバインブレード)"を従来より効率よく安定して顕現させることのできる代物だ。
しかし、こんな馬鹿を相手に使うのは気が引けた。
後藤真希ほどではないにしろ、飯田圭織も愛にとって大切な人だった。
今はそれを素直に認めることができる。

無様にのたうち回る男の頭を踏みつけて気絶させると、愛は手錠を取り出した。
こんなクズでも殺してはならないとは、公務員とは難儀な職業だ。
とはいえ紺野に言わせれば、現場判断での発砲許可など、
超能力者を相手取る危険性を盾に上層部を黙らせるのに中澤がずいぶん苦心してくれているらしいが。
警視庁刑事部捜査一課特殊犯捜査第5係。
ヴァリアントの出現がなくなり、職を失った愛と絵里は中澤に拾われるような形で刑事をやっている。
階級は巡査。
給与はハンター時代に比べて格段に減った上、待遇が特別良いわけでもないが、不満を言えた立場でもない。
職務内容は卓越した戦闘技能を利用した超能力犯罪者の逮捕だ。
今回のように、超能力者によるクーデターを目論み違法行為に手を染める連中の相手をすることも多かった。
世間にはヴァリアント出現におけるユニオンの暗躍など、
ほとんどの事実が公表されたが、納得していない者も多い。
魔術師の存在を伏せたことなども遠因だが、そもそも超能力者のみが狙われた異例の事件だ。
超能力者を恐れた国家による陰謀説などの憶測や、憶測に従って決起する者は後を絶たない。


今の愛には、事件の真相を全て知る者として、そうした同族の暴走を抑える程度のことしか出来なかった。
妹を想うがゆえに凶行に走り、その妹に殺されることで幕を閉じた一人の魔術師の悲運な人生。
憎悪の対象でしかない相手だが、今では少しばかりの同情も覚える。
彼女は殺戮を望んだわけでない。
愛する妹を守るためには、自身の破滅を含んだ殺戮以外の選択肢が残されていなかっただけなのだ。
この仕事の中で、彼女の懸念は幻想などではなかったと思い知らされている。
それでも愛は、仕事を続けている。
惰性でもなく。諦観でもなく。
憎悪だけを糧に生き抜いていたあの頃の自分とは違う。
今の愛には、他に守るべき願いが、約束がある。

  *

「お疲れー」
「ええ、ほんとに」
「疲れましたぁ~」

被疑者を迎えの護送車に押しつけた愛と絵里が本庁に戻ると、
人の出払った特殊犯捜査第5係のデスクで書類仕事を片づけていた紺野が労ってくれた。
今は彼女が愛と絵里の直属の上司だ。
第5係の係長。
キャリア組で、しかも有能なだけあって人事の印象も良い。
階級は年齢のこともあり未だ警部だが、この調子なら順調に出世街道を躍進していくことだろう。
とはいえ本人にその気があるのかないのか。
相も変わらず科捜研と警視庁の間を行ったり来たりしている。
今の役職にいるのも、自ら開発した対超能力者用装備の実戦での運用データを取り易い、
という理由の方が大きそうな印象を受ける。

「他の連中は?」
「一部は久々の非番で帰宅。他は捜査に出払ってるよ」

捜査一課は元々多忙な部署だが、最近の第5係は中でも特に忙しい。


一応は愛と絵里も捜査を手伝うことはあるが、
二人は基本的に荒事専門の人員だ。
体調管理などもあり、あまり全面的には参加できていない。
他の捜査員には申し訳なく思うが、睡眠不足や栄養管理の不備は実戦では命に関わる。
二人の実力を知る同僚たちがそのことに理解を持ってくれているのは僥倖だった。

「とは言っても、流石に二人であれだけの人数相手にすんのは疲れるよねぇ……。」
「仕方ないやろ。地取りに張り込み、尾行、潜入。いくら相手と同じ超能力者でも、
 人手不足で四六時中捜査に駆り出されてる連中に集団相手の銃撃戦は危険すぎる」
「せめてれいながいてくれたらなぁ」
「アホ。おらんやつのことアテにしてどうする」

絵里をたしなめつつも、愛の視線は自然と、そこだけ綺麗に片づけられているデスクに向かった。
田中れいな。
あの事件の後、再び揃って同じ病院の同じ病室で入院生活を送った彼女のことを思う。
リハビリが終わった頃、愛は彼女と二人で病院の中庭を散歩していた。
ベンチに座り、陽光を木陰で避けながらぼんやりとしていた時だ。
その時ふと眺めた彼女の横顔は、ひどく辛そうに見えて、それでつい、尋ねてしまった。

『……やっぱり後悔、してるんか?』

尋ねてから、何を当たり前のことを聞いているんだと自戒する愛に対し、
けれどれいなは微笑を浮かべて首を横に振った。

『自分で決めたことやけん。他に選択肢があったとも思えんし。
 ……ただ、れなはまだ、弱すぎるなぁって』

呟くように言って、れいなは首から提げた小粒の水晶を掌に乗せ、視線を落とした。
しかし愛には言葉の意味がよくわからなかった。
少なくとも彼女は、自分を本気で殺そうとする、
それこそ後藤真希ですら敵わなかった百戦錬磨の魔術師である姉に勝ったというのに。


"能力殺し"という特異体質があるとは言え、
悔しいが少なくとも彼女に愛自身が敵うとも思えない。
そんなれいながどうして自身を弱いと評するのか。
それも、謙遜でも自らを卑下するわけでもなく、それが事実であるというように。
多少自分の矜持を傷つけられた部分もあり、愛はそのことを口に出して質した。
れいなはまた、ゆっくりと首を振った。

『あの時、れなは本気の美貴ねえに勝てたわけやない。
 お互い最後の力を振り絞っての一合。
 あれは確実に、美貴ねえの刃の方が速かった。
 じゃなきゃそもそも、こんな傷負ってないし』

そう言った彼女の額には包帯が巻かれている。
ギリギリで脳には届いていないらしいが、頭蓋骨を深く斬られたと聞いている。
れいなが最後に放ったのは突き技。
確かに、れいなの突きの方が速かったのなら、
刃を突き刺した勢いのまま懐に潜り込み、そんな傷は受けないかもしれない。

『あの一瞬。ちょうど、れなの服の下からこの水晶が飛び出した瞬間。
 美貴ねえの瞳には確かに理性が戻ってた。
 れなの突きが心臓近くの冠動脈を抉って、美貴ねえはほぼ即死だったから確実なことはわからんけど。
 でも、れなの頭蓋に達してた、そのまま振り下ろせば確実に殺せた刀の軌道を、
 あの瞬間に美貴ねえが無理やり変えたのは確かやけん』

れいなが見つめている水晶には、小さいが確かな刀傷が刻まれていた。
藤本美貴は理性を取り戻した一瞬に刃の軌道を手前に向けて変え、結果、空中に踊っていた水晶を浅く斬り裂いたのか。

『これ、れなが実家を出る時に美貴ねえがくれた御守なんだ。
 ほんとは本物の魔力が詰まってて、れなが手にした時から力を失ってたはずなんだけど。
 ……結局れなは、この御守に、美貴ねえに助けられた』
『……それでも、アンタが藤本美貴と互角以上の勝負をしたのは事実やろ。
 そんな奴が弱いはずない』


ああ、とれいなは愛が引っ掛かっている理由に気づいたように頷いて、
それからそういうことではないんだと三度首を振った。

『確かにれなは、自分で言うのもなんやけど、そこらの超能力者なら簡単に殺せるくらいには強いよ。
 あの美貴ねえに鍛えられて、その美貴ねえとまともに渡り合えたんだからそれは間違いなか。
 でも、れなに必要なのはそういう、殺すための強さとは違うから』

その時の愛には、れいなの言う"強さ"の意味がよく理解できなかった。
それまでの愛にとって強さとは、自分自身が生き残るための、
つまりは敵を殺すための強さでしかなかったからだ。

『れなは、守りたい。自分自身はもちろん、目の前で苦しんでる誰かも、全部含めて守りたいけん。
 けど、同時に誰も殺したくない。わがままかもしれんけど、それが嘘偽りないれなの本音。
 実際ずっとそうしてきたし、"能力殺し"って異能を持って生まれた自分にならそれができるとも信じてた。
 だけどそれは結局、傲慢な、甘えでしかなかった』

誰も殺さず、誰をも守り、救う。
他の誰にもない異能を持って生まれ、彼女はそんな枷を自らに課し、警官になった。
実際、彼女は多くの犯罪者を一度として殺すことなく捕え、
多くのヴァリアントを屠ることで人々を守ってきた。
姉の行方を捜すことが目的にあったとしても、根源には決して揺らがぬそんな行動原理があった。
けれどそんな彼女の半生も、すべては両親や、
実の姉が多くの人間を、罪もない人々すら含めて殺すという苦しみを負った上で支えられたものだった。
両親や姉が悪質な魔術師を殺す職務に就いていることは知っていた。
しかしそれが、実際にはどういうものかを本当の意味では理解できていなかった。
そして彼女は実の姉の凶行、自らのために引き起こされた厄災によってその真実を突きつけられた。
自分が振りかざす理想論が実際には数多の罪なき人々の屍の上に築かれた、血塗られたものである現実。
れいなという人間にとって、それは知らなかったで済ませられる事実ではなかったはずだ。


『れなが一番守りたい、救いたかった人は結局、れなのこの手で殺すことでしか止められなかった。
 世の中には、もう殺すことでしかどうしようもない事態があるんだって思い知らされた。
 しかもその事態はれなの甘えのせいで起きた。
 自業自得とまでは言わんけど、それが原因なのは事実やけん』

あるいは、姉の真意を汲んでその事態を静観するという選択肢もあったはずだ。
しかし、彼女にそんな選択肢は見えていなかったのだろう。
罪もない人々が自分のために、自分のせいで、実の姉によって殺されていく。
たとえそれが、すでに犠牲になった人々の死を無駄にするようなものだったとしても、
彼女は姉を殺し、姉を止めることでしか自分の願いを貫けなかった。

『れなのこの手はもう、一番救いたかった人の血で汚れてる。
 それでも……ううん、だからこそれなは、もう二度と誰も殺したくない。
 誰も殺さず、みんなを救う。
 美貴ねえを殺した以上、美貴ねえを殺したからこそ、れなはその願いを貫きたい』

貫かなければ嘘になる。
姉や、彼女が手に掛けた人々の犠牲が本当の意味で無駄になる。

『けどきっと、願いを貫こうとすればするほど、れなは現実に打ちのめされる。
 美貴ねえが考えたみたいに、自分が救った人に裏切られることもあるかもしれない。
 美貴ねえみたいに、もう殺す以外にないほど手遅れな事態もあるかもしれない。
 今のれなにはまだ―― 絶対それに絶望して折れたりしないって断言できるだけの強さがない』

願いを貫くための強さ。
どんな残酷な現実を前にしようと、
たとえまた人を殺めるしかなくなろうとも、
それでも前に進み、願いを貫き続けるだけの強さ。
自身の願いに何度裏切られ、何度打ちのめされてもまだそれを願えるだけの、途方もない、強さ。
それほどの強さを彼女はまだ持っていない。
だからこそ自身を弱いと、彼女は言った。


『だけど最期に、美貴ねえと約束したから。
 強くなるって。今は無理でも、いつかきっとその強さを手に入れてみせるって。
 あの時、事切れるまでのほんの一瞬、れなの腕の中で美貴ねえは笑った。
 「今のれいなになら、できるよ」って呟いて、確かに笑いかけてくれた。
 あの笑顔を嘘にしないためにも、れなは強くなりたい』

強く言い切って、彼女は伏せていた顔を上げた。
鋭く細められた双眸が太陽を睨む。
彼女の願いは、きっとあの太陽に似ている。
あまりに眩しく、近づこうとすればするほど彼女の身を焦がす願いだ。
最期はイカロスのように、翼を溶かされ突き落とされるのかもしれない。
けれど愛は、そんなれいなを愚かだと笑うことはできなかった。
自分では共にあの太陽目掛けて飛ぶことなどできない。
愛にはあんな眩しい願いは直視することすら難しい。
けれどそんな自分にも、彼女の翼を限りなく溶けにくい蝋で固めてやる手伝いくらいはできるかもしれない。

『そんなら、あーしもひとつ約束する。
 あーしはれいな、あんたに命を救われた。
 救われた身として、絶対れいなを裏切らない。
 一緒には無理かもしれんけど、あーしのできる範囲でれいなの願いを守る。
 少なくとも、超能力者と一般人の戦争なんて起こさせんわ』

愛はそれまで、ただ憎悪を糧に生きてきた。
だからもう、愛にとっては全てが終わったような気がしていた。
けれど自分の復讐に決着をつけるには、れいなや絵里の助けは不可欠だった。
利用ではなく、協力。
手段ではなく、目的。
仲間と認めた彼女が自身の願いを貫くというなら、せめてその手伝いくらいはしてやりたい。
愛の申し出にれいなは驚いていたようだが、やがて優しく、穏やかに微笑んだ。

『ありがとう』


その一言がひどくむず痒く、同時にどこか心地良かったのを鮮烈に覚えている。
そうして、その翌日。
れいなの姿は病室になかった。
愛や絵里が朝目覚めると、綺麗に整頓されたベッドの上には警察手帳と辞表、走り書きのメモが置かれていた。

「『ちょっと海外行って来ます』って、一言だけなんだもんなぁ。
 水臭いっていうか、せめて別れ際の挨拶くらいあってもいいのに」
「まあ、相変わらず毎月ちょっとずつだけど貸したお金の返済分が封筒で送られてくるから健在なんだろうけど。
 ……返済は嬉しいんだけど、せめて日本円にして送ってくれないものかね。
 ドルやユーロはまだしも、ポンドにフラン、レアル、元、ウォン、ペソ、果てはクローネに新シェケル。
 毎月毎月違うから、今どこにいるのかすら見当つかないよ」

藤本美貴の結構な額に上る遺産は両親が預かっていた彼女の遺書に従ってれいなに渡ったというから、
旅費などにはそれほど困っていないのだろう。
彼女のことだから、世界中を飛び回っては紛争の火種を消して歩いているに違いない。
れいなの願い。
愛が守ると誓ったそれを貫き続けるために。
送られてくる紙幣に日本円がないのは、
この国のことは愛や絵里に任せるというメッセージと受け取っても良いのだろうか。
流石に感傷が過ぎるか、と愛は首を振り、そこでふと思った。

「……そういえばアイツ、"ちょっと"行って来るって、
 公務員は一度辞めたらまた試験受けなきゃいかんって知らんのか……?」
「え゛……あ、そういえば」
「……知らないかもね。あの子、頭の回転は別に悪くないけど、採用試験ギリギリだったし」

まあ、帰ってきて警官に戻れないと知れば、勝手に修羅場に首を突っ込んで来るだけのことだろうが。
それに、彼女の辞表を持って行ったのは中澤裕子だ。
優秀な人材は手元に置きたがるあの女のことだかられいなの間抜け加減も察し、
病気で休職中とかなんとか巧いことやっていそうだ。
……いや、れいなのデスクが未だに残っていることを考えると、間違いなくやっている。
そんな緊張感のない事案に考えを巡らせていると、紺野のデスクで電話が鳴った。


「はい、特殊犯捜査第5係。はい、ええ、二人とも戻ってます。
 現場は……渋谷区。わかりました。所轄にはこちらの到着まで、
 出来るだけ犯人を刺激しないよう、周囲の民間人の避難誘導をお願いします」

詳しいことは行きの車両の無線で聞けばいい。
自分のデスクから予備の弾薬を補充すると、
愛はコートを翻らせ、絵里はライフルケースを担ぎ、迷いのない足取りで現場へ向かった。


  *  *  *


黒い肌の少女が山林を走っていた。
深夜だが、周囲の景色は不自然に明るい。
少女の走る山林は、赤々とした炎に包まれつつあったからだ。
まだ十歳の彼女の故郷は太平洋上の小さな島の漁村だった。
数十年前の山火事で村人が残らず焼死したため、
島の住人からは忌み嫌われていた村だが、それゆえ彼女たちが身を隠すのにはうってつけだった。
超能力者。
生まれた時から他の人々にはない異能を持ち、
島中のどの村からも迫害を受けた人々が身を寄せ合って作ったのが今の村だ。
村の長老は人間の意識を操作する能力を持っていて、
これまでは長老が作った"そこに村などない"という暗示の結界によって村は守られてきた。
だが、一昨日その長老が寿命を迎えて亡くなると、すぐに村は他の島民に見つかってしまった。
だからと言ってまさか、こんなに早く襲われるなんて少女を含め村人たちは思っていなかった。
自分たちが異能を持っているとは言っても、同じ肌の色と同じ言語を持つ同じ人間だ。
対話の余地はあると思っていた。
結論として、それは甘い考えだった。
小さな島だが、それゆえ他国の犯罪組織が武器の密輸の経由地として使うことも多い。
よその村の島民たちはそれぞれライフルや手榴弾で武装し、
自分たちが寝静まる頃を狙って奇襲を仕掛けてきた。
「話し合おう」と両手を挙げて島民に歩み寄った隣の家のおじさんは一瞬で肉片にされた。


駆け寄った奥さんは手榴弾でバラバラの肉塊に変わった。
音に驚いて泣き出してしまった最近生まれたばかりのはす向かいの家の赤ん坊は、
泣き声を目印にしたかのように、抱いていたおばさんごと蜂の巣になった。
それからはもう、阿鼻叫喚の地獄絵図だ。
逃げ出す者、立ち向かう者。
多勢に無勢な上、そもそもたいして強力な能力者がいないから迫害されてきたのだ。
あっという間に立ち向かった人々の半分が全身から血を噴いて倒れてしまった。
少女は怖くなって逃げ出した。
ただただ夢中で走り続けた。
けれど、村を囲んでいた島民たちに見咎められ、徐々にその足音は近づいてきている。

「逃がすな! 子供とはいえ悪魔だぞ! 成長したらどんなことをするかわからん!」

ちがう。私は悪魔なんかじゃない。ちがうの。
か細い反論は怒声と銃声に呑まれ、少女のすぐ脇にあった樹に銃弾がめり込んだ。
恐怖のあまり、少女は悲鳴を上げてその場にしゃがみこんでしまう。

「追い詰めたぞ……おい、慎重にな……。」

ライフルを構えた大人たちが、少女を取り囲むようにして慎重に近づいてくる。
周囲は炎に包まれているが、大人たちは手榴弾も持っている。
少女の能力を使えばきっと自分も爆発に巻き込まれてしまう。
手榴弾の破片が脚に刺さって苦しんでいた担任の先生の姿が脳裏をよぎる。
痛いのはいやだ。でも死にたくない。
どうしよう。どうしたら。
迷っている内に、少女は完全に取り囲まれてしまった。
大人たちの指が引き金にかかる。
もうダメだ。

「うあっ!?」
「な、誰だおま……ぎゃああああああッ!」


ぎゅっと瞑ったまぶたのせいで、すぐには何が起きているのか理解できなかった。
断続的に響く銃声。
近くから漂う錆びた鉄の臭い。
おそるおそる目を開けると、そこには信じられない光景が広がっていた。
赤い炎を背に、小柄な人影が踊っていた。
正確には、少女には踊っているように見えた。
軽やかなステップを刻み、少女の周囲を縦横無尽に走り抜け、影は躍る。
それが踊りではないと気づいたのは、人影が細長い刃物を手にしていたからだ。
すでに周囲には少女を囲んでいた大人たちの半分以上が倒れている。
向けられた銃口を華麗に避け、人影が大人の近くで踊るように旋回する度、
彼らは悲鳴を上げて地面に倒れる。
人影は時に刃物で大人たちの身体を薙ぎ、
また時にバレリーナのように高々と上げた脚で大人たちのアゴ先を蹴り上げ、
あっという間に二十人はいた大人たちを全員地面に倒してしまった。
と、人影がこちらを向く。鋭い双眸が少女を射抜く。
人影は滑らかな手つきで腰に手を回すと、次の瞬間には少女に銃口を向けていた。
乾いた銃声が響く。
少女に異変はない。
人影を少女の味方と考え彼女を人質に取ろうとしていた男が、背後で悲鳴を上げて倒れる。
だが、少女には男の悲鳴など聞こえていなかった。

「まったく。美貴ねえの初仕事の場所と聞いて来てみれば……まだこんな土地残っとったとね。
 こっちはそろそろ隠居したいってのに、ほんと運が良いんだか悪いんだか」

しわがれた声で聞き慣れない言語を呟きながら、人影が少女に歩み寄ってくる。
炎に照らされた横顔から、人影の正体が異国の老婆だとわかった。
いや、老婆と呼ぶにはあまりに若々しい。
揺れる炎の陰影で、肌にそれまでの苦労の数を表すような深い皺が刻まれているのはわかるし、
無造作に伸ばされた髪も真っ白に染まっている。
それでも老婆の背筋は若者以上にまっすぐ伸びていて、挙動にも鈍りなど感じられなかった。


「あー、大丈夫? 村の方は片づけたからもう平気だよ。
 今は水や風を扱える能力者を中心に山火事の消火に取り掛かっとぅ。
 今回はほんと偶然居合わせただけだから何人か間に合わなくて申し訳なかったけど……。
 ……って、日本語通じるわけないか。ええと、英語なら通じるかな。
 Can you speak English?」

少女は英語も理解できないが、それ以前に老婆の言葉そのものが聞こえていなかった。
助けに来てくれたのだと思った。
けど違った。
この人は撃った。
今、私を殺そうとした。

「あ、うあ、あああああああああああああああああああああああッ!」

少女は無我夢中で自身の能力を発動する。
国際基準でレベル4程度の発火能力だが、
周囲にこれだけ炎があればそれを操って人間を焼き尽くすくらいはできる。

「わ」

間の抜けた声を上げて、老婆の身体が周囲の木々からかき集めた炎に一瞬で包まれる。
やったという安堵感と、やってしまったという後悔が少女の胸中で鬩ぎ合う。
だが次の瞬間の光景が、少女のそんな想いをまとめて吹き飛ばした。

「ぅあっつー」

顔を掌で扇ぎながら、老婆は火傷ひとつ負わずに炎の渦から悠々と歩み出て来た。
老婆に道を開くかのように、炎は一瞬で霧散してしまう。
驚きのあまり少女の思考が停止する。
その間に、老婆の顔が眼前まで迫っていた。
そこで改めて少女は老婆の容姿を確認する機会を得た。
絵本の魔女が着ているような黒装束から覗く両手足は、炎の光を鈍く照り返す鉛色の機械義肢。


首からは古ぼけた、小さな傷の刻まれた小粒の水晶を提げている。
目つきが鋭く、顔中に無数の古傷と、
額には際立って大きい刀傷もあるが、どうしてか悪い人には見えなかった。

「えっと、君の能力あれば消火活動思ったより簡単に終わりそうっちゃけど。
 その前に落ち着いてもらわないとダメだよね。
 あー、この辺ってこれ別に侮蔑とか卑猥な意味の表現じゃなかとね?」

老婆は何かを逡巡するような顔を見せてから、やがて穏やかな笑顔を浮かべた。
顔の横で親指を立て、少女に見せる。
サムズアップ。
この地域でも「大丈夫」とか「OK」とか、そういう肯定の意味だ。

「ひょっとして拳銃が怖かったかな? でも大丈夫だから、ほら」

老婆が少女の背後を指差して見せる。
そこには、転がったライフルの近くで男が倒れていた。
脚を押さえて身悶えているが、まだ息はある。
出血もたいしたことはなさそうだった。
よくよく周囲を見ると、他の大人たちも銃を撃ったり動いたりはできないようだが全員生きている。
老婆の纏う漆黒は、「死」を司る死神の色。
けれど彼女が「死」を司るというのなら、「死」をもたらさないという選択もまたあるのだ。
状況を理解すると、老婆がどういう人物なのかもわかった気がした。
ぶわりと、両目から涙が溢れ出した。

「ごめんなさい、ごめんなさい」

老婆の胸に顔を埋めて必死に謝る。
服越しに、ところどころ胴体や背中にも金属部品があるのが感触でわかった。
おそらくは内臓もいくつか人工のそれに取り替えているのだろう。
なぜだろう。


それが老婆がこれまでの人生で、自らの命を幾度となく見も知らぬ他人のために賭した証だと、
少女には直感のように理解できてしまった。
感動でもなく、憐憫でもなく、少女は彼女の人生に想いを馳せ、さらに涙を溢れさせた。
泣きじゃくる少女に老婆は少し戸惑ったようだったが、優しく背中を撫でてなだめてくれた。
少女は悟る。
この人は、きっと今まで出会ったどんな人とも違う。
うまくは言えないが、自分たちとも他の島民たちとも異なるのだ。
そしてきっと、誰よりも強くて、誰よりも優しい。

「サニー」
「うん?」
「サニー」

少女は自分を指差しながら名前を言って、その指を女性に向けた。
老婆は意を察したようにサニーを指差し、それから自分を指差して言った。

「れいな」
「レイア?」
「れ、い、"な"」

レイアは語尾を強調して間違いを正そうとしていたが、
サニーは気づかず「レイア」「レイア」と嬉しそうに口の中で何度も呟いた。
はしゃぐサニーを見て訂正を諦めたのか、レイアは頭をかいてサニーの手を握り立ちあがらせた。
腕を引いて歩きだす彼女が、サニーには何よりも神々しく見えた。
レイアとは、この島に伝わる神話で大地の女神の名前だ。
特に漁村であるサニーの村では信仰の深い、海の神の母親でもある。
大地の女神が助けてくれた。
握り返した老婆の手は、機械のはずなのにとても優しく、温かい。
先ほどの炎の熱のせいだと頭で理解していても、サニーにはそれが老婆の心の温もりに思えた。
彼女に手を引かれている、それだけでもうサニーは救われた気分だった。
同時にサニーは憧れた。
彼女の雄姿に。彼女の勇気に。



サニーがその日本人の老婆……藤本れいなに弟子入りし、
やがて彼女の願いを引き継ぐ者の一人となるのは、まだもうしばらく先の話だ。


Fin.



最終更新:2014年01月18日 15:16