「どこ行くのよ石川」
いつの間にか背後を取られていたことに微かな不快感と畏怖を抱きながら、石川梨華はその感情を圧し殺した無愛想な表情と言葉を声の方に向けた。
「別にどこでもいいじゃん。関係ないでしょ」
石川の目に、闇色のスーツに身を包んだ声の主――保田圭の静かな立ち姿が映る。
「関係なくはないわよ。あんたの“管理”もあたしの仕事の一つなんだから。あたしには責任があんの」
一見落ち着いた無機質なその口調の中に幼子をあやすような響きを感じ取り、隠し切れない苛立ちが石川の顔に滲む。
「大の大人なんだから自分の管理くらい自分でできるんですけど。もうちょっと好きにやらせてよ」
「それが組織ってもんなんだから仕方ないじゃない。管理が必要だからこそあんたみたいな役目も要るんでしょ?粛清人“R”さん」
「……うっるさいなーほんと」
この人だけは本当に苦手だとの思いを新たにしながらも、石川は返すべき言葉を完全に失って視線を逸らした。
「……里沙のとこでしょ?」
「!!なんでっ!?」
だが、その直後に保田の口から発された言葉が、その視線を引き戻した。
「…あんたほんと嘘が吐けないねえ」
「……うるさい」
カマを掛けられたのだと知り、石川は僅かに呆れたような色の浮かんだ保田の静かな表情を忌々しげに睨みつけた。
「里沙には借りがあんのよ」
新垣里沙と向かい合ったあの夜のことが脳裏に甦り、石川はその端整な顔を歪ませる。
あれほどの屈辱を与えられたのは初めてだった。
そう、現在の自分の存在そのものの基盤を揺るがされるほどの―――
それを雪ぐには、自分の手で里沙との決着をつける以外にはありえない。
そして、その絶好の機会こそが今なのだ。
これを逃せば、おそらくその機会はもう二度と訪れない。
“自分”を取り戻せる瞬間は―――今このときしかない。
誰もが畏怖する粛清人の睥睨を表情一つ変えずに黙って見つめていた保田は、やがてため息を吐きながら諦めたように言った。
「……何言っても聞きそうにないわね」
「……え?」
思いもかけない保田のその反応と、そしてそれに続けられた言葉に石川は耳を疑った。
「あたしは今日あんたには会わなかった。…それでいい?」
どういう思いの下に保田がその言葉を口にしたのかは分からない。
だが、石川にとってはそんな理由など問題ではなかった。
「……ありがと。恩に着る。帰ってきたらお酒でも奢ればいいかしら?」
「ありがたい申し出だけど、あんたに奢ってもらったりしたら一生言われそうだから遠慮しとくよ」
「ほんっといちいちムカつくんだけど。……じゃ、行くから」
殊更のように素っ気なく言うと、石川は保田に背を向けて歩き出した。
僅かに体の横に差し出した手をヒラヒラと振りながら―――
* * *
その背中を見送る保田の胸中には、つい今しがた飲み込んだばかりの言葉がわだかまっていた。
「……強いよ、里沙は。もしかすると……あんたよりも」
言えなかった…いや、言わなかったその言葉を小さく呟き、保田は再びため息を吐いた。
わざわざ言わずとも、石川はおそらく誰よりもそのことを分かっているだろう。
そして、だからこそきっと石川は里沙と決着をつけなければならないのだ。
この先を生きていくにしても……ここで終わるとしても。
それを止めることなど、自分にでもできない。
いや……自分だからこそできないと言う方が正しいのかもしれない。
小さくなっていく背中をしばらく見つめた後、保田はゆっくりと体を回した。
その表情は、全ての感情を飲み込んだかのように静かで……それでいてどこか決然たる色を秘めていた。
最終更新:2014年01月19日 23:16