(40)691 『輪廻の雨――Purge person's doubt』



激しい雨だった。
土を、アスファルトをも削ろうかという激しさだった。
夕方だというのに辺りは暗く、土砂降りの雨で数メートル先の視界さえままならない。

遠くの空でストロボがたかれた。
低くなった空に走る電光に目を眩まされる。
遅れて耳鳴りを覚えるほどの轟音が、女性の身体を揺さぶった。
それに反応して隣にあった段ボールの中身が、がさがさ、と鳴る。
女性はただのゴミかと思っていた物からの発信だったため、思わず一歩引いた。

 「……何?」

段ボールへ視線を落とし、雨除けに被せていたらしいビニールシートには水が溜まっている。
女性は警戒しながらも箱の側面を手でコツコツと叩く。
がさがさと言う音は変わらないが、意を決してそれを捲ってみた。

 「猫…?」

にゃあと、箱の中から小さな泣き声が上がる。
此処は住宅街から少し外れた神社の本殿の裏側。
どうやら、"捨て猫"というものらしい。
仔猫はもう一度甘えた声で鳴いた。

普通の女性であればその声を聞くだけで顔を綻ばせるのだろうが、女性は何も感じなかった。
相手はただの仔猫。
誰が何の為に捨てたのかなんて事でさえ興味も無い。
ごまんと居る中の"生きている物"に、何の好奇心が沸くのだろう。
女性、石川梨華は微かに震えている仔猫を見下ろしながらそう思っていた。


だが、こんな何も無い所でロクに飲食せず生き残っているのは少し不思議に思った。
近所の小学生が好奇心で食べ物を分けていたのか。
それともこの仔猫が捨てられたのがごく最近だっただけなのか。
ただそんな事は時間つぶしにもならずに頭から消えて行った。

今はただ、このどんよりとした雨が早く止めば良いのにと思う。

 「仕事のあとの仕打ちとしては、割に合わないわね」

石川梨華は外界で使う本来の名前―――。
"組織"では粛清人Rとして"粛清"の役割を補っている立場に在る。
粛清とは反対勢力や将来自分を脅かす存在になりそうな人物を排除する事。
他にも内部でのクーデター弾圧の時も駆出された事があった。

死刑執行、暗殺、強制収容所への送致。
"組織"として成り立たせるには、そうした暗部のような存在も必要という事だ。
綺麗な手では成し得ない事を、汚れた手で除去する。
そう、"粛清人"は汚れているのだ。

 「…寒いな」

凍えるような手を擦り合わせようとして、梨華は自身の手を見る。
ちゃんと洗った筈の手が、何故か薄ぼんやりと赤く見えた。
命を潰したあの感触が、"チカラ"を通じて伝わってきたのを思い出す。
他人の命を自身が持っているというあの優越感と高揚感。

―――初めて握り潰したのは、誰の心臓だったか。
 雨が窓を叩く音、風が景色を揺らす音。
 脈を打つ鼓動の音、鳴り止まない電話の音。
 不協和音。


 胸騒ぎがした。
 ドクドクと動悸が早まり、雨の激しさにシンクロする、衝動―――

 「にゃー」

ゆるい鳴き声。
胸の辺りを触ると、人間よりも早い鼓動を感じた。
"生きている物"の生きている証。
神社には人気は無い。
仔猫はこのまま誰にも見つけられなければ、命を亡くした器の醜態を晒すだろう。
ついには骨になり、何十年か後には形の面影すら無くなり、段ボールと共に朽ち果てる。

"粛清人"は言わば洗礼者なのだ。
罪を背負うものを赦す者。
"生きてはいけない物"を赦し、排除する。
其の為に与えられた役目だと思えば、少しは冷静で居られた。

なのに、この不安は何なの?

 「―――殺しちまうのか?」

疑問を間近で投げ掛けられ、梨華は不意に強めていた手を緩めた。
両手には仔猫がこちらを見て甘い声で鳴く。
自分の危機感さえも知らずに。

 「…私の対象は能力者ですから。っていうか遅いですよ?」
 「悪い。転送装置の具合がいまいちでな、パーツごと変えた所為で時間かかったんだ」
 「メンテナンスぐらいちゃんとしておいてください。おかげで無駄な時間過ごしちゃったじゃないですか」
 「オイラから見れば、お邪魔だったみたいだけど?」


傘を頭上に差しながら、矢口真里が顎で仔猫を指す。
梨華は自分の手の中で鳴き続ける仔猫を、真里にへと差し出した。

 「私はいらないから、矢口さんが好きにして良いですよ」
 「良いのか?ケッコーかわいいヤツだぜ?コイツ」
 「なら飼えばいいんじゃないですか?」
 「上司に向かって上から目線だなオマエ」
 「こういう性格に歪むような役目を持たせたのダレですか」
 「あーそうかいそうかい」

傘を自分の隣に放り投げ、真里はドスッと座った。
視界には雨の樹。痛いほどの雨。
冷たい感触を手で、頬で感じる。

 「帰らないんですか?」
 「何だよ。オイラと会話するのがイヤなのか?」
 「…今の間ってそういう事なんですね」
 「オマエがそういう顔してたからだろ?」
 「―――は?」

この小さい上司は今、何を言ったのだろう。
梨華は理解できないと眉をひそめ、その顔を見て真里も眉をひそめる。
「にゃー」という泣き声が、その沈黙を破った。

 「この猫、どうするつもりだったんだ?」
 「…別に、どうともしないですよ」
 「ふぅん。まぁこのまま置いてたらコイツは死んでただろうな。
 多分この雨で衰弱して、明日の朝にはあっちの世界に確実に逝ってただろうし。
 ラッキーだったなーオマエー」
 「……本当に、そう思うんですか?」


梨華は、自分の疑問に驚いた。
先程まで興味の「き」の字も無かった筈のモノの"生"への疑問。
真里は「はぁ?」と、問い掛けた人間よりも在り得ないと言いたげな声を上げた。

 「だってそうだろ?もしオイラ達がここに出くわしてなかったら死んでたんだぜ?
 ラッキーじゃなかったら何だってんだよ」
 「猫なんて必要なんですか?」
 「動物に必要とか不必要とか無いだろ。癒しだよ、癒し系」
 「……そんなの、一時の感情に過ぎないでしょ」
 「―――だから、殺そうと思ったのか?」

心を覗かれた様だった。
心を覗かれるのは"粛清人"にとっては屈辱でしかない。
自身でしか判らない感情を、他人に曝け出される事の屈辱。
―――無能な精神系能力者にプライドを裂かれたあの激動は今でも忘れられない。

 「はっ、オマエももう立派な能力者なんだな、自分で殺したいと思うなんて」
 「っ、私は、粛清人ですよ。殺して何が悪いんですか?」
 「……オイラの"チカラ"は能力者を一時的に"人間"にする。
 だがな、中途半端に人間ぶった所で、そいつは能力者なのは変わらない」
 「何が言いたいんですか?」
 「違う所はただ一つ―――諦めるか諦めないかだ」

きょとんと、梨華は真剣な真里の表情を見た。
不意に、笑いが込み上げてくる。噴出す様に梨華は笑った。

 「ゲームのし過ぎじゃないんですか?諦めても諦めなくても私達は能力者なんですよ?
 どんな事があってもその事実は変わらない」
 「この意味が判らないんじゃあ、あの新垣よりも下だな、オマエって」


ピクリと、眉間が震えた。

 「…あんな裏切り者よりも、私が下なワケがない」
 「そこだよ石川。"裏切り者"というレッテルを貼られても尚、アイツはあそこに残ってる。
 自分を偽り、目的を偽ってきたヤツが、裏切ってきた世界に居ることを望んだんだ。
 その選択を、あいつらは許した。
 普通の人間なら裏切られた事に怒り、そいつを罵って捨てるのに。
 裏切った人間もまた、その背徳行為に苛まれてその場から逃げるか―――」

 ―――自殺するか、殺人者へと成り果てる。
 スパイというのは、そういう事なのだ。
 その対象者と親しめば親しむほど、その道へと進む者は数知れない。

特に精神系能力者は自身の"チカラ"にも蝕まれるため、使い捨てとして利用されるのが現実だ。
それにも屈しない、精神力の持ち主である新垣里沙という存在は"組織"としては利用価値が十分にあった。
異常過ぎるほどの繋がりを持った『リゾナンター』という存在への畏怖も計り知れない。

 だからこそ真里は言う、"粛清人"は、"新垣里沙"よりも下等だと。

 「いくら矢口さんでも、これ以上は許さない」
 「なら"粛清人"として、あいつを処理するだけかもな。こっちからは既に要請は出てる、オマエの意志に任せるよ」 
 「…意志も何も、上等じゃない」

梨華―――"粛清人"は笑った。
"殺人者"なのは自分が十分理解している領分。
そんな自身があの裏切り者よりも下等であるはずなど無い。


 雨が上がったと同時に、梨華と仔猫は真里の導きにより消えた。
 以来、あの仔猫にも真里にも会っていない。
 梨華は一人向かう。

 唯一"粛清人"が赦せなかった―――孤独の死闘へ。



最終更新:2014年01月19日 23:19