(41)138 『暑い夏のリンゴジュース』



  こんな暑い日にわざわざ会いに行くのは
  このリンゴジュースを届ける為だ

  決して 会いたくて行くわけじゃない
  このリンゴジュースを届ける為に 会いに行くだけだ



        ◇◆


病院前に止まったバスから降りて、向かう先は彼女がいる病室。
足早に歩いてエレベーターに乗り、目的の階のボタンを押す。扉が開き、すぐに足を進めた。
病室の番号を口ずさみながら、彼女がいるであろう病室の前へとたどり着く。
扉を開ける前に一度だけ深呼吸をする。三日ぶりに会うことになり、少しだけ弾んでいた心を鎮める。
そして、扉を開けた。

 「…さゆぅ~?」
 「さゆやなくてれいなやけん」
 「あ、れーなだぁ~」

うへへと笑うその顔は本当に嬉しそうで、自分もつい微笑んでしまうぐらいだった。

 「でも珍しいね、れーなが来るなんて」
 「さゆはなんかレポート?で忙しいから来れんって。代わりにれいな行ってきてって言われたけん」
 「そっかー」

来れない人の代わりに来たのに、それでも彼女は嬉しそうにしていた。
今日は体調が良いのか、それとも自分が来てくれたことに喜んでいるのか。
後者であれば、ただただ嬉しい。



 「んで、さゆに頼まれたリンゴジュース。買ってきたと」
 「やったー!ありがとれーなっ!」

またも笑顔になり、渡されたリンゴジュースを両手で掴み嬉しそうにしていた。
喜びを横揺れで表しているのか分からないが、その仕草が何だか可愛らしいと思ったのは内緒だ。

 「今日暑かったけん、ぬるくなっとらんよね?」
 「ん?大丈夫だよ、全然オッケーですよー」

ストローを刺し、リンゴジュースを飲み始めた。
ちびちびと飲む彼女の主義は、なんとなく分かる気がする。
ただ、オレンジジュースが好きだったはずだけれど。

 「オレンジジュースやなかと?」
 「今度はリンゴジュース買ってきてって、さゆに頼んだからさ」

笑みを浮かべて、自分の質問に答えてくれただけなのに。
太陽の光に照らされた彼女の顔が、何故か印象的に映って儚げに感じた。


        **


ちびちびとジュースを飲む彼女をぼーっと見ていた。
そんな時にふと、彼女がこちらを見てきた。

 「…れーな、なんか静かだね。体調でも悪い?」
 「へ?あ、いや、大丈夫やけん。絵里に言われたくなかとー」
 「へへ、それもそうだね」

しまった、と思った。
すでに後の祭り。けれど、彼女は別段気にしている様子は無かった。

なぜだろう。言葉をかけたくても、かけられない。
なぜだろう。何か言おうとしても、彼女の姿が眩しい気がして言えなかった。

 「今日お店は休み?」
 「あ、うん」
 「そっかー。愛ちゃんは何してるんだろー?」
 「たぶん、宝塚のDVDでも見てるんやなか?」
 「そうかもねー」

本当に、他愛もない話だ。
いつもはお喋りしたい自分も、何故か今はあまりしたくなかった。

普段、お見舞いに来れない為に。
普段、彼女が病室にいる所を見たことは無いから。
彼女のこんな姿を、自分は見たことはなかった。
そう思うと、なぜだか彼女の纏う雰囲気も、姿も、横顔も、全てがとても神秘的に見えてくる。
近いのに、遠い存在。



 「…絵里…」
 「ん?」
 「…え、りは…」

また、言葉にできない。それ以前に、何を言いたいのか分からなくなった。
ふと、膝の上に置いていた右手に温もりを感じた。それは彼女の温かい手だった。

 「れーな、どうした?本当に具合悪いんじゃないの?大丈夫?」

どうしてこうも、彼女の声は癒されるのだろうか。
本当は、誰よりも人を見ている。その声は心を温かくし、その笑顔は人を癒す。
どうしてこうも、彼女は心配してくれるのだろうか。
三日も会わないうちに、改めて思い知らされたことだった。

 「れーな?」
 「…大丈夫やけん。ちょっと、ぼーっとしとった」
 「ほんとに?」
 「…っよし!今日はれいなの話を聞かしてやるけん、覚悟しとってよ!」
 「…えー、れーなの話ってオチが無いんだよね」
 「ほら、聞いて聞いて!」
 「はいはい」

言いたいことはあったのかもしれない。けれど、言わなくてもいいことだったかもしれない。
彼女から学ぶことは、たぶんたくさんある。
けれどそれは、彼女と過ごしていく日々の中で見つけていくものだ。
彼女は生きている。そして今ここで、一緒に過ごしている。

とりあえず彼女は一人しかいないし、確かにここに存在している。
たとえ不安が奥からこみ上げてきても、そのせいで泣きたくなっても。
その事実が信じられるものならば、自分は大丈夫な気がした。



最終更新:2014年01月19日 23:29