(25)602 『復讐と帰還(4) おもいで』



「そんなの関係ないだろ!」

久住小春の怒声が喫茶リゾナントの窓ガラスを震わせた。
胸ぐらを掴む手に力がこもる。
ジュンジュンは怒りに震える小春の瞳を、真っ直ぐに見つめ返していた。

「新垣さんがスパイだったから何だっていうんだよ!」
「じゃあニーガキをここに置いておけというのか」
「当たり前だ!」
「ここにいたらニーガキは殺されるぞ」
「え?」
「ニーガキはダークネスのスパイだった。ニーガキは一人でたたかっていたんだぞ」
「どういうことよ」
「日本語がウマク言えない。
…ダークネスのスパイはニーガキだった、この意味が分からないのかと言ってるんだ」

それでもなんとか、といった様子でジュンジュンが言葉を続ける。

「もしニーガキ以外の人間がスパイとして私達のところに送り込まれていたら、どうなっていたと思う?
 ニーガキは私達の事を好きでいてくれた。だからニーガキは一人でたたかっていたんだ」
「新垣さんが一人でたたかっていた…?」
「私はずっと考えていたんだ」

里沙の“たたかい”とは何か。
それはつまりきっと、決戦の時を引き延ばす、という事だろう。
――今のリゾナンターではダークネスには勝てない。
その事実をダークネスの構成員だった里沙は痛切な程知りぬいていた。
仲間達と心を通わせれば通わせる程、その事実は里沙に重く圧し掛かる。

だから少しでも決戦を先送りにしなければならない。
虚偽と真実の入り混じった報告で、組織の決断を鈍らせ、その間に少しでもリゾナンターに力を付けさせる。
仲間を救うにはこれしか無かったのだ。


これが、新垣里沙のたたかいだった。
仲間にも、組織にも、誰にも知られてはならないたたかい。
たった一人、仲間を守り、仲間を欺く。
闇と光の狭間で、たった一人、絶望的とも言えるたたかいに身を投じたのは何故か。

――それが新垣里沙だから、としか言えない。

一時でも長く共鳴者の命脈を保つ為、里沙は決戦の抑止力としてぎりぎりの所まで立ち回って見せた。

ここまではいい。では何故、新垣里沙は組織と袂を分かったのか?

組織の真の目的がはっきりしない以上確かなことは言えないが、
組織の側に決戦を急がねばならない事情があった筈だ。
その“事情”が里沙の決断を早めさせた。

つまり、リゾナンターは抑止力を失った。
その先にあるのは血で血を洗う決戦だ。
三日前の、廃ビルと工場跡で繰り広げられた死闘は正にその序曲だろう。
結果、愛は死線を彷徨い、里沙は記憶を失った。

果たしてリゾナンターは生き残ることが出来るか?
それは分からない。
だが、一つだけ確かなことがある。

「きっとヤツラは本気で来る」

砂を噛み潰すような顔で、ジュンジュンは言った。
小春はいつの間にか、ジュンジュンの胸元から手を離していた。

「私が、新垣さんを守る」

病室のベッドで不安げに小春を見つめていた里沙の顔が脳裏をよぎった。


「ヤツラは強い、私の一族はヤツラに勝てなかった」
「だからって新垣さんを見捨てるのは許さない」
「誰も見捨てるなんて言ってない。しばらく身を隠してもらおうと言ってるんだ」
「身を隠すって、どこに?」
「…琳、刃千吏に頼めないか?」

そう言って、視線をリンリンの方へ向ける。
リンリンは一瞬の躊躇いを見せたが、しかし力強く、こくりと頷いた。

「日本にいる協力者にあたってミマス」

刃千吏にダークネスと表立って戦う程の戦力は残されていないが、里沙一人を匿う位なら可能な筈だ。
組織としても、共鳴者との戦いの最中に裏切り者一人のために中国まで戦力を割きはしないだろう。
そういう公算があって、ジュンジュンは里沙を自分達の傍に置くべきではないと言っているのだ。
冷静といえば冷静な判断だ。間違ってはいない。
それが、小春には気に食わない。

「嫌だ。新垣さんは仲間だ。仲間を守るのは仲間の仕事だ」
「クスミ、気持ちは分かるが、私達ではニーガキを守りきれない」
「死んでも守ってみせる!」

そう叫んだ瞬間、小春の頬に熱が走った。
それと同時にパアン!と音がして、それから頬がジンジンと痛み出す。
視界にもう一度ジュンジュンの顔を捉えなおしてやっと、自分が彼女に頬を張られた事に気が付いた。

「覚悟も無いくせに死ぬなんて言うな!…もう少し大人になれ」

―覚悟?
―大人になれ?

頬の痛みよりも遥かに小春から冷静さを奪ったのは、その言葉だった。
ああ、またかと思う。


頭ではジュンジュンの言う事が正しいというのは分かる。
若さが拒絶するのだ。
正義感が嫌だと叫んでいる。
青臭い理想?現実的じゃない?
そうかもしれない。
だけど

――正義が青くて何が悪い。

「ガキで悪かったな!」

そう叫んで小春はリゾナントを飛び出した。
いや、飛び出そうとした。
丁度その時絵里に伴われた里沙がリゾナントのドアをくぐろうとしていたのだ。
鉢合わせして、里沙と目が合った。
その不安げな表情を見ていると、小春はもうどうしようもなくやりきれなくなって、
そして、彼女の脇をすり抜けて、雑踏の中へ駆け出していった。

どれくらい時間が経っただろうか。
小春は喫茶リゾナントの近くにある公園に一人佇んでいた。
啖呵を切って飛び出したはいいが、飛び出した後のことは全く考えてなかった。
公園のブランコに腰掛けて、ただ物思いにふけっている。
自分は逃げ出しただけなんじゃないだろうか?という思いがこみ上げる。
現実から、仲間から、里沙から――
だからといって、じゃあどうすれば良かったのかなんて、分かるはずもない。
リゾナントに戻るきっかけもないまま、小春は己の葛藤と向き合って、ため息をついている。

「隣、いいデスカ?」

小春の憂鬱の傍らに、努めて明るい声をしたリンリンがそっと寄り添っていた。


「リンリン…」
「ジュンジュンのコト、怒らないであげてくださいね」
「私、別に怒ってなんか」
「久住サンは間違ってないって、皆思ってます。ジュンジュンも、そう思ってます」

リンリンは小春の隣のブランコに腰を下ろして、そっと視線を送った。
優しくてかなしい目をしていた。

「仲間を守りたいと思うコトはとても大事なコトデス」
「リンリンって本当、大人だね。私なんかよりよっぽど」
「そんなコトありません。久住サンとあんまり年は変りません」
「うん…そうじゃなくてね、リンリンもジュンジュンも、何て言うのかな…
ちゃんとしてるっていうか…覚悟がしっかりしてるって言えばいいのかな?」
「覚悟…デスカ」
「私駄目なんだよね、リゾナンターのくせに、正義の味方のくせに、分かってないんだ」

ダークネスという“悪”を止める為にリゾナンターはいる。
リゾナンターは死を賭して“悪”を打ち破らねばならない。
死を賭すという事は、命を落す事と共に命を奪うという事、
そして仲間の誰かの死に直面するかもしれないという事も覚悟せねばならないのだ。
小春はそういう覚悟を持てない、痛い程の自覚がある。
まだ十代の少女に殺すとか殺されることをリアルに考えろという方が無理な話なのだが、
現実問題として、たたかいはその水準まで到達しつつあるのだ。
少なくともダークネスはその水準にいる。
そして愛と里沙はそこに到達してたたかった。死を賭した。
そんな中、自分は取り残されつつあるのではないかという不安が首をもたげる。
久住小春の鋭敏な感受性が、若さという名の青い正義が、その心を締め付けるのだ。

「どうすれば私も覚悟が出来るかな?」
「久住サン、ワタシとジュンジュンが日本に来た理由、知ってマスカ?」

リンリンが小春の葛藤へ、そろりと言葉を滑り込ませた。


そして、――復讐です。と、いつもと変らないような口ぶりで、言った。

「復讐?」
「モウ、7年前のコトになります――」

ぽつり、ぽつりと、何とか日本語を振り絞るようにリンリンが言葉を紡ぐ。

「――中国の奥地に、獣化能力を持つもの達がひっそりと暮らしていました。
でも、ある時、獣人の存在が組織に知られました」
「組織って」
「そうです、ダークネスです。何故、獣人の存在がダークネスに知られたのかは分かりません。
そういう能力者がいたのか、彼らを守るべき使命を持った“刃千吏”の誰かが漏らしたのか、
それとも全く別の理由なのか、それは分かりません。――闇は獣人族に、選択を迫りました」

――服従か死か

「彼らは、誇りを選びました」

リンリンの瞳の奥にあるかなしみの色が濡れたような色彩をはなつ。
そしてしばらくの沈黙の後に、再度リンリンが口を開く。

「私達は、彼らの無念を晴らす為に、闇を葬る為に、日本に来たのです」

声に、静かな決意があった。

「ごめんね…辛い事を思い出させて」
「でも、日本に来て私達はミナサンに会えました。久住サンは私にいっぱい楽しい思い出をくれました」
「私が?」
「ハイ、そして、私の覚悟は復讐の為にあるものではないと、教えてくれました。
 ミナサンともっといっぱい素敵な思い出を作るためにあるんだと、教えてくれました」
「リンリン…」
「帰りましょう、リゾナントへ。ジュンジュンもミナサンも待ってます」


――小春達がリゾナントに戻った頃には、里沙のこれからについて既に大方のことは決まっていた。

愛が目覚めるまで、三日間は待つ。
これが、先ず方針としてある。
もし、三日待っても愛の意識が戻らなかった場合、
リンリンが刃千吏の協力者に連絡を取って中国へ渡る為の手配を頼むことになる。
その前に愛が目覚めた場合は、リーダーである愛の意見を聞いてから里沙の事をもう一度話し合う。
愛も里沙が中国へ身を隠す事には反対しないだろうが、
知らない間に里沙が居なくなってしまったのでは辛いだろうから、三日間の猶予を置いたのだ。

愛が粛清人Aに致命傷を負わせ、里沙が粛清人Rを倒したことを彼女たちは知らないから、
今のリゾナンターの戦力では三日が限界だと考えたのだろう。

そしてその間、常に誰かが里沙に付き添うことも決まった。

里沙自身リゾナントに来た時点では、リゾナンターやらダークネスやらには半信半疑な部分があったのだが、
彼女達の真摯な言葉が功を奏し、その提案を呑むことになった。
記憶を失っても心は通じるものなのだろう。


その晩、里沙のアパートのドアを叩く音があった。

「あ、きら…じゃない小春ちゃん?どうしたの?」

大量の荷物を抱えて、小春が里沙の前に立っている。
一瞬、ニコリと微笑んでそのままズカズカと部屋の中に入ってきた。

「新垣さん一人だと危ないんで、小春が傍にいます!」
「えええ!ちょおっっとー!」
「大丈夫です!小春が新垣さんの面倒見ますから!泊まり込みで!」
「いやいいから!」
「新垣さんご飯食べます?小春作りますよ!」


里沙の返答を待たずに小春はキッチンへと歩いていった。
それから10分も経たないうちに、キッチンから焦げ臭い匂いが漂ってくる。

「小春ちゃん焦げてるよ!」
「大丈夫です!新垣さんなら焦げても食べられます!」
「食べないから!」
「好き嫌いしたら大きくなれませんよ!」

結局、小春の強引な言い分を押し切って里沙が食事を作る事になった。
「まったくもう」とぶつぶつ呟きながら、苦笑を浮かべてキッチンに立つ里沙の姿を見ながら、小春は思う。

―苦笑いでも何でもいい。もっと笑っていて欲しい。

後どれくらい一緒に居られるかは分からないが、決して長くはないことは分かっている。
それならばせめて、一緒に居られるこの短い間に、たくさん思い出を作ってもらおう。
三日間ならば三日間の思い出を、少しでも多く宝石で散りばめよう。
思い出が、この人の心を照らす光となることを信じる。それが、久住小春の覚悟だった。






「そう、ガキさんが…」

病室のベッドで愛がぽつりと呟いた。

「愛佳、あたし一週間も寝てたんだっけ。ガキさんが起きたのは」
「四日前です」
「じゃあ三日間待つってのは過ぎてもうたね…今ガキさんはどこに?」
「昨日の晩にリンリンが刃千吏の手助けをしてる人に連絡してましたから、今頃はその人と会ってるんじゃないですか」
「そうか…」
「高橋さん、新垣さんの記憶、戻りますよね?私達の事思い出してくれますよね?」

愛佳が嘆願するような口調で言った。
この子も色々な思いを抱えて、それでも気丈に振舞ってきたのだろう。
愛佳の瞳を見つめ、愛が口を開こうとした瞬間、

―とくん

と、胸が高まった。


薄暗いダークネス本部地下通路を無機質な音を立てて歩く影があった。
黒い革のジャンパーのポケットに手を突っ込んでいる。
一見気だるく、無防備な足取りに見えるが、全く隙がない。
かつては青年のようなカラリとした空気を纏っていたが、今は微塵も感じられない。
まなざしの奥から黒い炎がうねる様な光を放っている。
―粛清人、吉澤ひとみ。
残忍で美しい、復讐鬼の姿があった。

「もう、出られるので?」

不意に、横から声がした。女の声だ。
声の主は、壁際に立って吉澤を見つめている。
声をかけられるまでその存在に気付かなかったことに、吉澤は不快そうな顔をした。

「いつからそこにいた」
「先程から」
「ふん」

ツカツカと歩みを進める吉澤の後を追って、その女は吉澤の横で歩調を合わせた。

「生化研の小川です」
「生化研?」
「戦獣の実戦データを」
「邪魔をするなよ」
「巻き添えを貰わないように気を付けます」

生物化学研究所所属、小川麻琴と、その女は名乗った。
目元に愛嬌のある顔立ちをしているが、十中八九擬態だろう。
吉澤が気配を察知出来なかったのだ、只者ではあるまい。

「共鳴者の動きが掴めたので?」
「網にな、掛かった」


リンリンが協力者に連絡を取ったその数十分後には、その事が吉澤に知らされていた。
粛清人と、組織の諜報機関のトップを兼任しているのは伊達ではない。

「小川といったな?」
「はい」
「生化研より諜報部の方が向いてるよ、お前」

小川麻琴の背筋に冷たいものが走る。
しかし、それを決して吉澤に気取られないように、おどけるように声を上げた。

「いやー、私はどんくさいもんで、神経すり減らすようなのは全然無理ですよ」

一瞥もくれず、吉澤は無言で転送室のドアを潜った。

その背中は粛清に向かう者のそれではなく、復讐者のものであった。



最終更新:2014年01月17日 14:51