(25)712 『ひかりのはる』



四月に入ったというのに駅のホームを吹き抜ける風はまだ冷たい。
愛佳はカッターシャツの袖を指先でキュッと握った。
今年は春が来るのが少し遅いらしい。
駅前の桜はまだ満開とは言い難く、開花した桃色に混じり硬い蕾が揺れていた。

寒いなぁ…ブレザー、着たいなぁ…

駅のホームには誰も居ない。ラッシュと終電の狭間は閑散としていた。
愛佳は肩から下げていたカバンをおろす。
ジッパーをゆっくり開けて、ブレザーを取り出した。
真新しい黒のブレザー、その半分が茶色にくすんでいた。

クリーニング、いくらかかるんやろ
でもボタン取れんでよかった。破られんでよかった
…みつかって、よかった。

堅いブレザーって字、書きにくい。
そう思って脱いだのがいけないかった。椅子の上に掛けっ放しにしておいたのいけなかった。
トイレから帰ってくると、椅子にかけてあったはずのブレザーが消えていた。
あったのはクラスメイトのニヤニヤとした厭らしい笑みと、いくつか同情の視線。


「なぁ!あたしのブレザーどこやったん!?」
「さぁね」

答えと共に聞える嘲笑。
愛佳は唇を噛み締め教室を飛び出した。後ろからドっと笑い声が聞える。
泣いたらなんか、負けるような気がして。血の味が口いっぱいに広がっても、その強さを止めなかった。

慣れない校舎を駆け回りひたすら探し回る。
何人か先生に呼び止められたが振り向きはしなかった。
わざわざ愛佳を探し、囃し立てる声が聞えたが見向きもしなかった。
一緒に探そうか?
その言葉にさえ愛佳は首を振る。
あんたもいじめられるで。こんなん、愛佳ひとりで十分やろ?ありがとう
本当は信じられなかったのだ。もしかしたらこいつも。そしたら明日からもっと。



誰も信じひん。誰にも助けてもらわへん!愛佳一人で。一人で…!



掃除用具のロッカーにぐしゃぐしゃと丸められ、
ご丁寧に泥水までかけられたブレザーを見つけたのは、すっかり日が落ちてからだった。
重い足取りで帰り路につく。クリーニング屋はもう閉まっているだろう。
愛佳は綺麗にたたんでブレザーをバックへ閉まった。



「あーぁ。」

誰も居ないホームに愛佳の溜息は吸い込まれるように消えていった。
突然競り上がってきた涙に思わず空を仰いだが、それ以上の感情に掻き消され、視線は足元に落ちた。
ポタリと落ちる涙。視界がぐにゃりと揺らいだ。

なにしてんねやろ。ホンマに。アホみたいやん

風が吹き抜けた。歪んだ視界で黄色が揺れた。

「…あ、タンポポ」

向かいのホームの下。大粒の砂利を掻き分けて、線路際に一輪のタンポポが咲いていた。
冷たい風に揺られ、今にも倒れそうだ。

「そんなとこに咲いてしもて。アホやなぁ」

黄色い花に目を細める。
頼りないその花は愛佳を余計寂しくした。

「アンタも愛佳と一緒、一人ぼっちや」

不意にクラスメイト達の声がリフレインする。嘲笑が耳元で聞えるようだ。

「いややなぁ。明日、学校行きたくないなぁ…またなんかされたらどうしよ。…いややなぁ」

吸い込まれるように、愛佳はタンポポへ向かい足を進めた。
遠くに電車の光が見える。



引き寄せられる。ふわふわと愛佳の足は向かいのホームへ歩みだす。


――― 1番線に電車が参ります。危険ですので白線の内側でお待ちください ―――


涙が堰を切ったように溢れた。
負の感情は愛佳をいとも簡単に潰した。

死んだら楽になるんやろか。なんも隠されへんようになるなぁ…あんな笑い声も聞かんでいい。
あー…そやけど、遺書くらい書いとけばよかった。あぁ、けど。相手にされへんかもしれん
痛いんかなぁ…でも電車やったら一瞬か―――…
さよなら、―――って、そんなん言う相手もおらんかったわ。…ははっ。もぅ…疲れた…


愛佳の足は白線を越える。汽笛が五月蝿いくらいに傍で響いた。



「ね、飛び込むんなら次の電車にしてよね。あたし、帰れなくなっちゃうから」







―――…っ!っつ…ー!みっ…いー!!みっつぃーってばぁ!!!


「えぇぇ!?」

突然肩を叩かれて愛佳はハッとした。

「なにぼけーっとしてんの!顔、イってたよ」
「うわ!久住さん!なんでこんなとこにいるんですか!」

顔を覆っていた大きいサングラスが外される。
小春はくひひ、と悪戯っ子のような笑みを浮かべていた。

「近くでロケがあったの。で、車乗ってリゾナントまで送ってもらおうと思ったら
 ちょうどみっつぃーがホーム入って行くの見えてさ。後着いて来ちゃった!」
「全然気付かんかったです」
「だってみっつぃー超ボケーっとしてたもん。なんかこの世の終わり、みたいだったよ。」

この世の終わり。
そうだ。2年前のあの時、愛佳の世界は終わってた。


「あ!またボケーっとしてるっ!」
「あはは。すんません。でもね、久住さんが言った事、間違いじゃないですよ」
「え?何」
「この世の終わり。」
「…どういうこと?」
「2年前の、ちょうどこの時期、この場所で、愛佳、死のうと思ってたんです」
「…ちょっと、今日はエープリルフールじゃないよ?」
「ホンマですもん…」
「えぇー!?」
「見てください、あそこのタンポポ」

愛佳は向かいのホーム下にある一輪のタンポポを指差した。今年も同じところに咲いている。
でもあの頃とは違う、温かい風にふわりと揺れていた。

「あ!あんなとこにタンポポ咲いてる!!すごい!みっつぃーよく見つけたね」
「ずっとずっと下向いて生きてたから。あのタンポポみたいにたまーにしか。
 ほんのちょっとの人にしか見つけてもらえへんで…暗いところにひとりぼっちで…愛佳みたいやった。」
「……」
「そんなら、なんか吸い込まれるみたいにタンポポへ向かって歩いていったんです。電車の来たホームに向かって」

小春の視線が自分に向けられているのが分かった。
だから愛佳は風に揺れるタンポポから視線を外さなかった。


「電車がきて、めっちゃでかい音で、汽笛が鳴って」
「みっつぃー死んだの?」
「ちょっ!!!ほんなら愛佳、今ここにいませんやん!」
「あ、そっか…!それで?」

ほんまにこの人は。
自然と愛佳を救ってくれる。目に見えない手で、掴んでいてくれる。
それが狙っていないから、余計に愛おしくそして悔しい。

「高橋さんが急に現われて『ね、飛び込むんなら次の電車にしてよね。あたし、帰れなくなっちゃうから』って
 ぐいっと肩掴まれて、助けてくれました」
「ね、なんで高橋さん標準語?」
「えー!そこー!?」
「なに?どこ!?」

愛佳は呆れて笑った。同情して欲しいなんて思ってなかったけど
こうもアッサリかわされるとまでは思わなかった。

「ねー!何で笑ってんのよぉ!」

小春も笑った。愛佳が笑ったからつられて笑った。
同情はしたくないと思った。だからアッサリかわしてやった。
そのことに愛佳が気付いても、気付かなくてもいいと思った。


二人して電車に乗り込む。
仲良く座り、流れる景色を眺めた。桜が満開だ。
ピンク色が目の前を何度も何度も通り過ぎる。

「そういえばさ。」
「?」

小春がおもむろに話し出す。

「みっつぃーは下ばっかり見て生きてたっていうけど。小春はどこも見てなんかいなかったよ」
「え?」
「下も、上も、右も左も、真正面さえも見てなかった。小春は周りを見ないようにして生きてきた。
 だから、みっつぃーに会えてよかったよ。小春一人だったら、あのタンポポ絶対見つけられなかったもん。
 小さな春を教えてくれて、ありがとうね」

かける言葉が見つからなかったから、愛佳はまっすぐ小春に向き、うなずいた。

「ね、今度お花見いこうよ!みんなで、ね!いい考えじゃない?」
「うわー!めっちゃいきたい!賛成!愛佳、東京来て一回もいった事ないんです」
「小春もだよ!じゃぁ今日作戦会議ね!みんなリゾナントにいるかなぁ?」
「いるんやないですか?あそこはあたしらの場所ですもん。」
「そうだよね!」

電車のドアが開くと同時に二人は走った。
風を切るスピードで改札を抜け、リゾナントへ向かう。桜の花びらが二人の後を追った。
CLOSEの看板を勢いよく押し開ける。




   ただいまぁ!!


   おかえりー!!!!!!!



最終更新:2014年01月17日 14:58