(26)445 『復讐と帰還(5) 戦う獣』



「私は、土手は作らない」

声に、静かな決意があった。
いきなり何を言い出すのかと、一瞬ジュンジュンは耳を疑ったが、すぐに気を取り直し、
里沙に語りかけた。

「しかしニーガキ、これには土手を作れと書いてあるゾ」

この手の店には簡単な説明書きが壁に貼ってあったり、
各テーブルに手順を書いたプレートが置いてあったりする。
この手の店、とは客が自分でお好み焼きやもんじゃ焼きを作る店の事だ。

もうすぐ日本を離れることになる里沙に、何か日本でしか食べられない物を、
ということで彼女たちは今、もんじゃ焼き屋で昼食をとっている。
その矢先に、新垣里沙の破天荒な発言があったのだ。

里沙は無言でキャベツを混ぜっ返している。
その目には、溢れんばかりの意思が込められていた。
やると言ったらやる。という目だ。

「考え直せ、ニーガキ。食事とは楽しむもので決して挑戦するものでは――」
「いーじゃんどうせ混ぜちゃえば同じなんだし」

横から久住小春が口を挟んだ。
土手を作ってから混ぜようが、作らずに混ぜようが、別にどうだっていいだろう、
という口調だった。


「クスミ、お前はもうちょっとデリカシーというものをだな…」
「ジュンジュンにデリカシーが無いって言われたー!」

小春はわざとらしく声を上げて隣にいる里沙にもたれかかる。

「小春!火傷するからよっかかんないの!」

この三日の間で、里沙の小春の呼び方が小春ちゃんから呼び捨てに変っていた。
それだけ打ち解けたという事なのだろう。

「ニーガキ、もんじゃに土手は必要だ」
「で、デリカシーってどういう意味ですか?新垣さん」
「出前よ」

三人のやり取りをリンリンはニッコリと微笑んだまま無言で見つめていた。
もんじゃ焼きを食べたことがないのでどっちの言い分が正しいか分からない、
という事もあるが、なにより、リンリンはいい子だからである。

ジュンジュンの言葉を無視し、里沙はもんじゃ汁を高温の鉄板に勢い良く流し込む。
もんじゃ汁が具材の間を無軌道にすり抜けて、もうもうと湯気を上げるのを見たとき、
ジュンジュンは海が見たいと、ふと思った。



昼食を終えた四人は、午後の山下公園で約束の時間までのしばらくの間を過ごしていた。
横浜港を見渡す楕円形のバルコニーに立ってジュンジュンは海を眺めている。
風が匂い立つ。
潮の香りがした。

「いい風ね」

隣にいる里沙が言った。
太陽と海と風に包まれて、幸せそうな顔をしていた。

「綺麗な海だ」
「うん」
「私のふるさとは内陸だから、海はあんまり見た事がないんだ」
「そうなんだ」
「その代わり、スゴク大きい河があるぞ。向こう岸が見えないくらいの」
「へえ…私も見てみたい」
「でも、この海みたいに青くはないな」
「青い、海…」

里沙は名残を惜しむように、海を見つめた。
日本を離れれば、当分の間、この景色は見られなくなる。
少しでもこの空と海の青を瞼の奥に刻みつけておきたいのだろう。

「ジュンジュン、あそこに船が見えるでしょ?」
「うん」
「秋になるとね、あの船を留めている鎖にかもめが止まるの。たくさん」
「――」
「また、見れるよね」
「刃千吏にはサイコ・ダイバーもいるから、ニーガキの記憶を取り戻す手がかりを見つけてくれるよ」
「サイコ・ダイバー?」
「心に潜る超能力者だ。ニーガキもそうだったんだよ。とびっきりの」


そう言って微笑んだジュンジュンの頬を風が撫でていった。
里沙は下唇を噛んで目を伏せて、そして、言った。

「ごめんね…かもめの事は覚えてるくせに、みんなの事、思い出せなくて」
「――謝らなきゃいけないのはコッチの方だ。私達がもっと強かったら、ニーガキを守れるのに」

声に、悲痛な響きがあった。

「ゴメンな、ニーガキ」
「ジュンジュン…」
「もし、どうしても日本を離れたくないんだったら…嫌だって言ってくれてもいいんだ」
「私、みんなの事思い出せないけど、分かる事があるの。私の心には今、とても大きな穴が開いてるって、
 何よりも大切なものを失くしてしまってるって、分かるの。
私は私の大切なものはみんなの事だって信じてるから、だから、私はジュンジュンを信じるよ」

里沙は、そう言って真っ直ぐにジュンジュンの目を見つめた。
ジュンジュンは胸の内からこみ上げてくるものをやり過ごすようにして、時計に目を移す。

「そろそろ、時間だ」

二人が振り返ると、小春とリンリンが屋台でアイスクリームを買っているのが見えた。

「じゃあ、行こうか」

里沙が視線を戻した先、そこにいたジュンジュンの表情に、一瞬の緊張が走った。
不安が、里沙の胸を締め付ける。



「ジュンジュン?」
「ニーガキ、先に行っててくれ」
「え?」
「必ず、後から行く」
「でも…」
「大丈夫ダカラ、早く」

真剣なジュンジュンの声に促されて、里沙は小春とリンリンがいる所まで駆けていった。
その背中を見送って、視線を右に向ける。
カップルとおぼしき二人組が、ジュンジュンの方へ近づいてきていた。

「着替えを持ってきておいて正解だったな」

ぼそり、と呟いた。
二人組は彼女から3メートル程の距離を置いたところで立ち止まった。
異様な二人だった。
女の方はどことなく愛嬌のある顔立ちをしているが、男の方が異常だ。
全く表情がない。そして、やたら体がでかい。
肉の壁がそこにあるようだった。
女の方がジュンジュンに話しかける。

「よく気付いたわね。これでも気配を消すのは得意なんだけど」
「そいつのにおいで分かった」

ジュンジュンはアゴをしゃくって男の方を指し、そして、

「獣のにおいがする」

と吐き捨てて、女を睨みつけた。
女はジュンジュンの視線を微笑を浮かべてやりすごし、落ち着いた口調で言った。

「場所を変えましょうか。こんな所じゃたたかえないでしょ?」


里沙と小春、リンリンの三人は中華街の街並みを足早に歩いている。
横浜中華街の一画に店を構える『穂是南亭』という中華料理店を目指していた。
旨い炒飯を食わせる店として、そこそこの評判がある。
有名すぎてもいず、無名すぎてもいない。そういう店だった。
表向きはそういう店だが、その店の主こそが“協力者”なのだ。

「ジュンジュンは後から来るって言ったんですか?」
「うん」
「何かあったのかな…リンリン、どう思う?」

小春の言葉に振り向いて、少しだけ沈黙を置いた後に、リンリンは口を開いた。

「…とにかく、急ぎまショウ」

ジュンジュンが考えなしに別行動をとるとは思えない。
何かあったとすれば、敵が現れたと考えるのが一番自然だ。
しかし、協力者である穂是南亭の店主は信頼の置ける人物だ。
彼から情報が漏れたとは到底思えない。では、何故…

そこで、リンリンは立ち止まった。

「ちょっとどうしたの急に」
「…囲まれてマス」
「え?」

前方に黒い革ジャンを羽織った金髪の女が立ちふさがっている。

「見つけたぜ、新垣」


金髪の背後に大男が六人、さらに里沙たちの後ろにも虚ろな表情をした大男が六人、
逃げ場をふさぐように立っていた。
小春は里沙の手をとって、自分に引き寄せ、金髪を睨みつけた。

「何だよ」
「お前らを殺しに来たんだよ」

金髪の女―吉澤ひとみはぞろり、と言葉を吐き出し、強烈な微笑を頬に貼り付ける。
小春は背筋に冷たいものが走るのを感じながら、それでも、小声で里沙に「大丈夫」と声をかけた。

「今日は連れ立ってチャーハンでも食いに来たのかい?」
「どうして…!?」
「どうしてだろうな」

リンリンの困惑をしゃぶり尽くすように、吉澤は三人に視線を絡みつかせる。

「中華料理なんかよりもっと楽しい所に連れてってやるよ」
「誰がお前らなんかと」
「何だ、来てくれないのか。残念だな」

ぽりぽりと頭を掻きながら、吉澤は周囲の雑踏を見やった。

「じゃあここで始めるか?通行人に巻き添えが出るけど」
「そんな事したらお前たちだって…!」
「ま、組織は困るだろうな。でも、私にとっちゃどうでもいい」
「ふん」
「脅しだと思うか?」


小春を睨みつける吉澤の瞳の奥から、闇が這いずり出して来た
憎悪、憤怒、殺意、それら全ての感情が凝縮された闇だった。
黒い衝動がもたらす恐怖が、染みが広がるように小春の心を蝕んでいく。

里沙が小春の手を、ぎゅっ、と握り締めた。
里沙の手から伝わる体温が、萎えかけた小春の心を奮い立たせていく。
小春は吉澤の瞳の闇を射抜くような視線で見つめ返して、言った。

「お前は卑怯だ」
「ああ、そうだよ」
「…ワカッタ、場所を変えヨウ」

苦い顔で、リンリンが吉澤の提案を呑んだ。

「いい子だな」
「ドコか当てはあるのか?」
「ああ、付いて来な。一応言っとくけど、お前らが逃げ出したら私は何をするか分かんねえぞ」
「どういう意味だ」
「ここいらにいる人間どもに八つ当たりをするかも知れないって事さ」

「卑怯者!」と、小春はもう一度心の中で毒づいた。



「ここなら人目に付かないわ」

ジュンジュンが連れてこられてのは空店舗だった。
元は飲食店か何かだったのだろうが、今は見事なまでに何もない。
打ちっぱなしのコンクリートに包まれた正方形の空間だ。
印象としては喫茶リゾナントの地下トレーニングルームよりやや狭いか。

「ここは組織の持ち物だから、遠慮せずに暴れていいわよ。もっとも壊す物もないけど」
「ふん」

ジュンジュンは着替えの入ったボストンバッグを壁際に放り投げ、軽く辺りを見回した。
罠か待ち伏せでもあるかと警戒していたが、妙に馴れ馴れしい女と無表情の大男以外には誰もいないようだ。
まあいい、とっとと片付けてニーガキ達の所へ行くだけだと思い直し、全身に力をみなぎらせた。

「来い」
「あなたの相手をするのは私じゃないわ。これよ」

女が合図を送ると、男が異様な咆哮をあげた。
みるみる全身が黒い毛で覆われていき、男の肉体が更にひと回り膨張した。
飛び出した爪と牙がぬらぬらと鈍い光を放ち、凄まじい殺気が空間を震わせる。
数瞬の間に男は異形の獣に姿を変えていた。

「これが、ダークネスの新兵器“戦獣”よ。肉体を獣に変化させる力を持った戦士。
 人を殺すために作り出された獣。はっきり言って、強いわよ」
「獣…」

ジュンジュンの全身を包む熱が異常な程の緊張を帯びていく。

「こんなモノを作るために私の一族は殺されたのか」
「詳しい事は私も知らないけど、恐らくそうでしょうね」
「そうか」


ジュンジュンの唇が斜めに吊り上げられて、その顔に笑みが貼り付けられる。
それは微笑と呼ぶにはあまりにも鋭く、そして、悲痛であった。
胸の奥に眠っていた激情が、彼女の肉体から氾濫するかの如くほとばしる。

「あの時、私を殺さなかった事を後悔させてやるよ」

ジュンジュンは咆哮し、獣との間合いを一気に詰め、中空から強烈な蹴りを獣の頭部に叩き込んだ。
がつん、という衝撃音がコンクリートに響いた。




その頃、里沙たちは埠頭にある倉庫群の一つにその身を置いていた。
薄暗い照明と、重苦しい恐怖感が圧し掛かってくる。
倉庫として使用されているような形跡はない。
コンクリートの床にある黒い染みは恐らく血の跡だろう。
ここもまた組織の所有物なのだ。
入り口の大きなシャッターを塞ぐように、十数名の大男が立っている。
そして、吉澤ひとみは里沙たちの目の前に立って、薄い笑みを浮かべていた。

「さて、どうする」
「何をダ」
「いっぺんにやるか、それとも一人ずつやるかって話さ」

そう言って吉澤は里沙の顔に視線を絡みつかせた。

「このままお前らをなぶり殺しにするのは簡単だけどな、それじゃ私は面白くない。
 だから、お前らに一つチャンスをやる」
「チャンス?」
「私とサシで殺り合って、勝てたら家に帰っていい」
「何だと」
「約束してやるよ。ま、私に勝てたらの話だけどな。さあ誰からやる?」


吉澤の突然の提案に、里沙たちは困惑の色を隠せないでいた。
狙いが全く読めない上に、彼女たちを包む恐怖が正常な判断力を鈍らせている。

「リンリン、どうする?」
「私がたたかいマス」
「でも」

小春の言葉を遮って、リンリンは透き通るような笑顔で「大丈夫です」と頷いた。
念写能力しか持たない小春よりも、炎を操るリンリンの方がたたかいには向いている。
里沙と小春の二人を守るのだという濃厚な意思が伝わってくるような笑顔だった。

「リンリン…」
「新垣サン、心配いりまセン。必ず、帰れます」

リンリンの力強い言葉が、灯火のように里沙の心を照らしていく。
その時、冷や水を浴びせるような声で、吉澤が口を開いた。

「横から妙な真似をしたら、そこにいる戦獣どもが一斉にお前等を殺すぞ」
「分かっている。一対一だ」

リンリンは間合いを測るように、吉澤の前に立った。
吉澤から放たれる威圧感が、彼女の皮膚に突き刺ささる。

「炎とカンフーを使うんだってな」

吉澤は軽く足を開いて、腰を落とし、構えを取った。
その様子を見ただけでも、相当の使い手だという事が分かる。
自分より強い。
リンリンの勘と経験がそう告げているが、それでも他に選択肢はない。自分がやるしかない。
たとえ勝てなくても、次に続く小春のために敵の手の内を露にし、
できるだけダメージを与えるのが自分の役目だと自覚していた。


「一つ聞きたい。ナゼ、私達が今日ここに来ることを知っていた?」

協力者が裏切ったのか?
まさかそんな筈はないと信じているが、懸念が口からこぼれる。
たたかいの前にそれだけははっきりさせておきたかった。
しかし、吉澤は

「もう始まってるぜ」

と言って、無造作に距離を詰める。

――何故吉澤が里沙たちの行動を察知出来たかというと、協力者が情報を漏らしたからだ。
だが、協力者が裏切ったという訳でもない。
マインドコントロールである。
吉澤はあらかじめ協力者に接触し、一種の催眠をかけていたのだ。
「共鳴者から連絡があったら知らせろ、そして自分に知らせた事を忘れろ」といった内容の暗示だ。
こういう暗示を共鳴者に協力的と見られる人物に吉澤は随分前から掛けて回っていたのだ。
これがダークネス諜報機関の“網”と呼ばれている。

これがリンリンの疑問の真相なのだが、別に一々質問に答えてやる義理はない。
それで相手が混乱してくれるのならそれを利用するまでだ。
毛の先程も相手にペースを握らせない。

リンリンは数歩下がって吉澤との距離を保つ。
心に動揺を抱えたままたたかえる敵ではない。集中しなければあっというまにやられる。

「何だ、来ないのか」

吉澤の言葉を無視し、右手に意思をこめる。

「ならこっちから――」
「発火ァ!」


更に続く言葉を遮って、リンリンは吉澤に向けて炎をばら撒いた。
迫り来る炎に対し、吉澤は無表情で念動力を発動し空気の障壁を作り出す。
炎は障壁に阻まれて吉澤の体を焼くことが出来ない。

「これじゃあ私には届かないな」

炎を念動で振り払った時には、リンリンは眼前から消えていた。

―!

「シィ!」

鋭い呼気と共に死角からの回し蹴りが吉澤の顎を狙う。
咄嗟に顎を引いてかわす。
爪先が空気を切り裂いて鼻先を通り抜けたと思った瞬間、その蹴りが軌道を変えて踵から振り下ろされてきた。

―何!?

踵がこめかみ目掛けて襲い掛かってくる。
このタイミングではかわせない。ガードも出来ない。

「ちいっ!」

吉澤はリンリンとの間合いを詰めて打点をずらした。
頭部に当たるのが踵ではなくふくらはぎのあたりならばダメージはかなり軽減される。
蹴りをもらいながら拳をリンリンの顔面目がけて放つ。
リンリンはそれを両手でガードしながら後方へ跳んだ。

攻防の後に一瞬の静寂があった。


「なかなかやるじゃないか。それがカンフーか」
「功夫の真髄はもっと深い所にある」
「…そうだな、お前の親父はもっと強かった」
「何?」

一瞬にして吉澤は距離を詰め、リンリンの耳元で囁いた。

――あの時、お前の親父の目を抉ったのは私だよ。

リンリンの目の前が真っ赤になった。
強烈な怒りが、視界を赤く染め上げているのだ。
七年前、こいつが、父の、こいつのせいで、父はたたかえない体に…

「きさ――」

貴様!と叫ぼうとした瞬間、彼女の思考が停止した。
吉澤が精神干渉能力でリンリンの心を“突き飛ばした”のだ。
サイコ・ダイバーがよく使う技だ。これを食らうとわずかの間朦朧とした状態になる。
時間にすると一秒に満たないであろう。
しかしそれが、致命的な隙を作る。

吉澤の爪先が吸い込まれるように美しい弧を描いてリンリンのこめかみにヒットした。
乾いた音が倉庫に響く。
当たり所が悪ければ命に関わる、という正にそこをやられた。
一発で意識を体の外へ弾き出され、リンリンは棒のようにその場に倒れこみ、気絶した。

「先ず、一人」

静かに呟いて、吉澤は里沙を見た。
里沙はその視線を逸らすことが出来ず、真っ直ぐに吉澤と見つめあう。

美しい復讐鬼の顔がそこにあった。


最終更新:2014年01月17日 15:49