(26)552 『コンフィデンス・ゲーム』



「新垣里沙…だね?」


「………そうだけど…何か用?」


私の視線の先、街灯の薄明かりに照らされて立っているのは小柄な一人の女。
どこかで見たことがあるような気もするが、よくは思い出せない。

「何の用かくらい察しはついてるよね?たとえわたしが誰なのか思い出せなかったとしても」

私の表情から内心を読み取ったのか、女はシニカルな笑みを浮かべた。
その笑みに対し、私も苦笑とともに言葉を返す。

「“組織からの脱走者”を連れ戻しに…というより始末しにきた人…かな?」
「覚悟はできてたみたいだね」

少しずつ、記憶の隅から何かが浮き上がってくるような感覚を覚えながら、私は変わらず笑みを浮かべる女の顔を改めて注視する。

「まだ思い出せない?同じ能力の仲間なのにつれないね」

肩を竦めるようにしながら言った女のその言葉に、脳の一部が僅かに刺激されるのを感じた。

なるほど、だから見覚えがあったのだろう。
“組織”において能力者は珍しくもないが、それでもやはり同一能力者というのはそれほど多くない。

「そっか。あんたもマインドコントローラーか。…で?私と闘り合うつもりなの?」
「命までは取らないよ。――あなたの精神を別の世界に置いてくるだけ」

私は再び軽い苦笑を浮かべた。
言葉の響きとは裏腹に、それがある意味「死」よりも残酷であることはよく知っていたから。


「でもちょっと意外だったな。私に対してわざわざマインドコントローラーを差し向けるなんて」
「そう?むしろあなただからこそ…そうしたんじゃない?」

その言葉の意味は完全には量りかねた。
私が精神系能力者であるが故なのかもしれないし、殺すよりも色々と都合がいいと考えての判断なのかもしれない。

だが、正直そんなことはどうでもいい。
今の私にとって大切なこと……それは、私の帰りを待っている人がいるということ。

――それだけだ。

「悪いけど私もそう簡単にやられるわけにはいかない。…たとえあなたを再起不能にしても」

決意を込めてそう言い放つと、女の口角がさらにつり上がる。

「できるの?あなたに」

嘲るようにそう嗤う女に対し、私は自信を持って言葉を返した。

「私には護りたいものがある。帰りたい場所がある。だから私は…負けない」

一瞬……ほんの一瞬その表情に陰が差したと思った次の瞬間、女は声を上げて笑い出した。

「……何がおかしいの?」
「ねえ、あなたの護りたいものって…彼女のこと?」

私の問いに対し、笑いを止めてそう言うと、女は自分の背後の闇を指す。
その闇の中から浮き上がるようにして出てきたのは……

「……えっ?どうして……」


「……裏切ってたん?ずっと裏切ってたん?」

沈痛な表情を浮かべてそこに立っていたのは、私が護りたいと……初めて心の底から護りたいと思った大切な存在……

「何でここに……!」

動揺を隠せず、私は思わず一歩後退した。
裏切り……そう、私は彼女をずっと裏切っていた。
ずっと騙して……偽りの関係を続けていた。

だけど―――

「…違う!違うの!確かに私は……でも……違うの!今は……!」

言葉がつっかえて上手く出てきてくれない。
でも、絶対に分かってくれる……私の気持ちは伝わるはず……!

だが、縋るように向けた視線の先にあった表情は、その身勝手な期待に応えてはくれなかった。

「なんでや……信じてたのに……仲間やって……友達やって……信じてたのに……」

身を切られるようなその悲痛な声に、思わず耳を塞ぎたくなる。
けれど………

「違う!…違う!………違う!!」

奥歯を噛み締めながら、私は視線を上げた。

「……違う!あんたは……偽者!マインドコントロールの産物……!」

荒い息を吐き出しながら睨みつけた先には、薄笑いを浮かべる女の姿があった。


「やっと気付いた?それとも分かっててもやっぱり辛い?」

女はそう言うとゆっくり歩き出し、“彼女”の肩に手を置いた。

「ぐ………」

“彼女”に触るなと叫びたかったが、いつの間にか相手の術中に落ちてしまっていた今、そんなことをすればますますはまり込むだけだ。

冷静になれ。
まずは相手のペースから抜け出さなくては。

そう自分に言い聞かせ、呼吸を整える。
感情を乱しては相手の思う壺だ。

「先手を許しちゃったのは認めないとね。でも……もうあんたの好きにはさせない」

言いながら、殊更に不敵な笑みを浮かべる。
精神の戦いは気圧された方が負けだ。

「へぇ、そう?いつまでその強気が持つか見ものだね」

そう言うと、女は“彼女”の耳元に何かを囁く。
“彼女”の目の中に宿る憎悪と哀しみが、一層暗く燃え上がったのを感じた刹那―――
甲高い耳障りな音と共に、“彼女”の掌の中に鈍い光が生まれるのが見えた。

「待……!」

思わず発しかけた言葉をも待たず、“彼女”は憎しみを込めた動作でそのエネルギーを私に向けて躊躇なく放った。

「………!!」


身を翻した私のすぐ脇を、“彼女”の発したエネルギーの塊が尾を引いて通過してゆく。
殺す気だ。“彼女”は私を……本気で。

相手の創り出した虚構だということが分かっていても、その事実は胸を締め付ける。
もしも私がしてきたことを知ったなら、本物の“彼女”も私にあんな目を向けるのかもしれない……そう思うと。

―いけない、また相手のペースにはまっている……!―

私は強く頭を振り、“彼女”を睨みつけた。

そう、“彼女”…いや、あいつは……目の前のあいつは偽者……!
たとえ私が裏切っていたのを知ったとしても、本物の“彼女”は私にあんな目を向けたりしない。
だからこそ……そういう“彼女”だからこそ、私にとってかけがえのない…護りたい存在なのだ。

私は自分の袖口に仕込まれた“武器”をそっと確かめた。
直接戦闘系の能力者ではない私が、相手を直接仕留めるための“武器”――これで“彼女”を倒す。

―できるだろうか。虚構の存在とはいえ、“彼女”を殺すことが……―

いや、やらねばならない。
そうしなければ、あの女の術中から逃れることはできないだろう。
相手は私が“彼女”を殺すことができないと踏んで、これを仕掛けてきているのだから。

だから逆に、私が“彼女”を倒せば、相手の心に大きな隙が生じるだろう。
その瞬間に、今度はこちらから仕掛ける……!

そして、私は本物の“彼女”が待つ大切な場所へと帰るのだ。
絶対に―――

“武器”を強く握り締め、私は再び強い決意と共に“彼女”を睨みつけた。


“彼女”の掌中に、再び鈍く光るエネルギーが蓄積される。
それが放たれると同時に、私は地面を転がるようにして一気に間合いを詰めた。

頭上スレスレを飛び去る黎光の不気味な音と残像を感じた直後、私のすぐ目の前には“彼女”の顔があった。
嫌悪と蔑視と憎悪と……様々な負の感情がない交ぜになったその表情が、私を見下ろしていた。

―この間合いなら……―

袖口の“武器”を握る手に、汗が滲む。

―迷うな!こいつは偽者……!実体さえない虚構……!―

刹那の逡巡を押し込め、“武器”を“彼女”の喉元めがけて放つ………放とうとした。

――放てなかった。

“彼女”が、その瞬間に浮かべた哀しげな表情に向けては―――放てなかった。

三度、“彼女”の手元に暗い光が宿る。
その表情には、これから私を殺せることへの悦びが満ちていた。

この距離では避けようもない。
私の精神は、“彼女”によって殺されるだろう。

だが、仕方がない。
“彼女”が私を殺したいのならば。
私はそれだけのことを“彼女”に対してしたのだから……

“彼女”に小さく「ごめんね」と呟き、私は静かに目を閉じた。


………………?

随分時間が経ったように感じ、私は恐る恐る目を開け……そして息を飲んだ。

そこにあったのは、苦しげに歪んだ“彼女”の表情。
だが、そこから憎悪や哀しみ、蔑みといった負の表情は消えている。
そこにはただ、私を真っ直ぐ見つめるいつもの“彼女”の瞳があった。

「…ろして…殺して…早く……これは…あたしじゃない……」

― ………!!―

何かに抗うように……途切れ途切れにそう哀願する“彼女”の姿に、私の心は力を取り戻した。

―そう、今目の前にいるのは“彼女”じゃない……!迷うな!―

“武器”を再び強く握り締め、私は自分を鼓舞した。
私には本物の“彼女”がついている。
いつでも私のすぐ傍に……!

もう、迷いはなかった。
手にした“武器”を真っ直ぐ彼女に向けて放つ。

闇を切り裂くように飛んだそれは、過たず“彼女”の喉を貫いた――


瞬間、“彼女”の絶叫が響き、私は思わず目を閉じる。


目を開いたとき、そこに立っていたのは形容のしがたい表情を浮かべたあの女だった。


「あんたの負けみたいだね」

微かな笑みを浮かべながら、私は静かにそう言った。
“彼女”の幻影を消し去った今、私への精神干渉は完全に失敗したと見ていいだろう。

立ち尽くす女に対し、私は言葉を継いだ。

「どうする?まだやる?それともあきらめ………なっ?」

―消えて……ない!?どうして……!―

“武器”で貫いた……私がこの手で喉を刺し貫いた“彼女”が地面に倒れ臥している。
おびただしい血を流し、虚ろな目で横たわる生々しいその姿。
打ち払ったはずの幻影が、まだそこに……

「なんで…っっ!?」

―ありえない……確かな手ごたえで、私は干渉の触手を打ち砕いたのに……!―

「……まだ思い出せない?自分が過去に犯した罪を」
「過去……?罪……?何を言ってるの?」
「あなたは“彼女”を殺したのよ。その手で」
「違う!あれはあんたが創り出した偽物の……」
「そう、今あなたが見ているのは確かにわたしが見せている虚構。だけど―――」

何だろう、この感覚は………記憶の片隅で何かが蠢くような……

「見たことが……あるでしょう?この光景を、あなたは、過去に、その目で。よく……思い出して?」
「あ……あ………あぁ………ッッ!!」

瞬間、雪崩れのように“記憶”の奔流が私を襲った―――


そう、かつて……私は殺したのだ。
“彼女”を、この手で。
その喉を、この“武器”で貫いて。

……殺したのだ。

私のことを信じていた“彼女”を。
私はこの手で殺したのだ。

あの日、彼女は血塗れで私の足元に転がっていた。
虚ろな目を私に向けて。
断末魔の苦悶を口元に貼りつけて。

今、目の前にあるそのままの姿で……彼女は死んでいた。

  殺したのだ。私が。この手で。殺したのだ。殺したのだ。殺したのだ。

 殺した。私が。彼女を。殺したのだ。この手で。殺した。殺したのだ。


「信じてたのに……ずっと信じてたのに……。――ちゃんのこと……信じてたのに……」

貫かれた頸からおびただしい血を流しながら、“彼女”が私の方に歩いてくる。
自分を裏切った私への憎しみをその虚ろな目に宿して。

上手く動かない体を引きずるようにして、“彼女”が私の方に歩いてくる。
自分を殺した私への怨みをその虚ろな目に宿して。

“彼女”が私の方に歩いてくる。“彼女”が私の方に歩いてくる。“彼女”が私の方に歩いてくる。
私がこの手で殺した“彼女”が私の方に歩いてくる。歩いてくる。殺した。私が。“彼女”が。
“彼女”が。殺した。私が。この手で。歩いてくる。私に。歩いてくる。歩いてくる。歩いて―――――――――――


   *   *   *

女の精神が別の世界に堕ちたのを確認して、新垣里沙は重いため息を吐いた。

自分の身を守るためとはいえ、気が滅入ることに変わりはない。
相手が自分と似た―自身を“新垣里沙”だと思い込めるほどによく似た―過去を抱えているならば………尚更。

精神を…自我を破壊され、意思を奪われて人格を失った空っぽの瞳。
自分のチカラによってヌケガラになった人間。

何度見ても見慣れることはない。
自分の行なった忌まわしい行為を、表面的に正当化することもできない。
きっと今夜もうなされるのだろう。また一人…虚ろな顔が増えた悪夢によって………

だけど―――

それでも、今のわたしには帰る場所がある。
わたしを迎えてくれる、かけがえのない人がいる。

わたしを救ってくれた人。
救われる資格のないわたしを……闇の中から救い出してくれた人。
「あーしが里沙ちゃんを守る」と、はっきりと言ってくれた人。

今さらそんなことが許されるのかと戸惑うわたしに彼女は言った。
「だから里沙ちゃんがあーしを守って」と。

その一言のおかげで、今のわたしはここにいられる。未来へ向かって歩んでいける。
喩えわたしの中に、永遠に消えることのない闇が存在しようとも――――


静かに踵を返した里沙の姿は、やがてどこまでも続くかのような夜の暗闇の中に溶け込んで見えなくなった―――



最終更新:2014年01月17日 15:51