(27)126 『ヴァリアントハンター Ver.Ai Takahashi』



「ガアアアアアアアアア!!!」


低く濁った咆吼が辺り一帯に木霊する。
その咆吼を上げているのは、2メートルを軽く超える異形の者。
赤黒い肌の色、異常発達した筋肉、血走った双眸…常人であれば、この姿を見た時点で腰を抜かすだろう。

異形の者が吠える度に、その全身から吹き出すのは青白い光だった。
その光は大気を切り裂く空気の刃と化し、常人の目では視認不可能な速度で“標的”へと放たれる。

黒い服に身を包んだ小柄な女性は、目に見えぬ刃を紙一重で回避した。
その動きは、まるで風に靡く柳の如く。
一切の無駄を感じさせない回避を見せながら、女性は両手に持った拳銃を構えて発砲した。

放たれた弾丸は、異形の者の全身を覆う淡く輝く“障壁”へと命中する。
刹那、弾丸は破砕し―――鮮やかな黄色の閃光が障壁へと炸裂した。


「…そろそろ終わりにするで」


感情を押し殺した低い呟きは異形の者の咆吼にかき消される。
障壁を傷つけられたことで更に全身から青白い光を吹き出した異形の者を一瞥しながら、女性は己の持つ拳銃を操作する。
グリップの底部からマガジンが排出されたのと同時に、異形の者の攻撃が女性に向かって放たれる。

女性はその攻撃を回避しながら、もう一つの拳銃も同様に操作しマガジンを排出した。
先程よりも更に激しさを増した刃の嵐、それを回避しながら女性は己の着用している服へと手を掛ける。

全開したコートの下に女性が着用していたのは、黒い防弾ベストだった。
女性はベストに装着されていたマガジンを抜き取ると、素早くそれを装填する。
装填と同時にスライドを引き初弾をセットした女性は、もう一つの拳銃も同様に操作する。


準備の整った女性は、異形の者目がけて飛び出していく。
刃がコートの裾を切り裂くことなど気にも留める素振りはない。
一気に懐へと飛び込んだ女性は、異形の者が手を伸ばしてくるよりも速く―――トリガーに力を籠めた。

両手合わせて秒間10発という驚異的な速度、加えて至近距離。
異形の者を覆う障壁は、僅か数秒にも満たない時間で完全に崩壊した。


「それがないとただの肉だるまやな」


女性の呟きに、異形の者が吠える。
刹那、刃が女性の目の前に出現し―――そこで、女性の体は切り裂かれるはずだった。

女性を切り裂くはずだった刃は、その役目を果たすことなく遥か後方へと飛んでいく。
突如起こった事態に異形の者が動きを止めた、その瞬間だった。


「バイバイ」


感情の籠もらない声が“背後”から異形の者の耳朶をうつ。
次の瞬間、凄まじい連射音と共に異形の者の全身から鮮血が吹き出した。

異常発達した筋肉の鎧を纏っていても、至近距離でマンストッピングパワーの高い弾丸を雨のように浴びれば一溜まりもない。
弾丸は破砕しヴァリアントの筋繊維を破り、破砕した弾丸から漏れた閃光が全身を内側から焼く。

―――僅か十数秒という短い時間で、異形の者は事切れた。


ただの肉塊と化した異形の者を見つめながら、女性は腰のホルダーに拳銃を仕舞う。
軽く一息吐く間もなく、携帯電話の甲高い呼び出し音が鳴った。


「…もしもし。
はい、今完了しました。
これからユニオンに行って手続きしてから戻ります、では」


会話を終えた女性は、今度は別の所へと電話をかける。
“抹殺”した異形の者の遺体処理、それは女性の仕事の管轄外である。
遺体処理の手配を終えた女性は携帯電話を仕舞うと―――事切れた異形の者を一瞥する。

その眼差しの鋭さは異様と言っても差し支えがなかった。
見る者が思わず息を呑む程の、憎悪を剥き出しにした鋭い眼差し。

どれほどの時間が経っただろうか。


女性は異形の者から視線を離し―――その場からかき消えた。


ヴァリアント・ハンター。

超能力との親和性に富んだ特殊鋼を素材とした武器・通称SSA(special steel arms)を持ち、
超能力(PK系能力)、超感覚(EPS系能力)を有する、人の姿を持ちながら、人ならざる存在
―――“異形の者-ヴァリアント-”を狩る者達の総称である。

ヴァリアントは銃弾等の兵器攻撃を無効化する特殊な“障壁”を持ち、
常人には不可視である“超能力”と呼ばれる力を用い、
破壊本能のままに街を、人を、何もかもを引き裂き破壊し続ける。

人としての知性、理性を持たないヴァリアントとの共生は不可能と判断した各国首脳は、
対ヴァリアント用の兵器の開発、そしてヴァリアントと同様、超能力を有した人間を、
対ヴァリアントのスペシャリストとして育成する方針を打ち出した。

全人類に関わるけして見過ごすことの出来ぬ災厄を前に、各国は力を合わせて全ての作業を急ピッチで進めていった。
ヴァリアントが出現してから数年、今まではただただ蹂躙されるしかなかった人間達の反撃が始まる。

危険極まりない戦いに身を投じ、人々を守るヴァリアント・ハンター。
一見華やかにも思えるヴァリアントハンター界、だが、そこに在るのは華やかさだけではない。


―――けして公になることのない闇の部分も、確かに存在するのだ。


ユニオン本部“エヴォリューション”。
全国に存在するヴァリアントハンターを統括するユニオンの本拠地であり、
所属人員は千人を超える地上地下合わせて53階にもなる高層ビルである。

エヴォリューションの35階にあるフロアに、女性が足を踏み入れた瞬間だった。

それまでもそのフロアに溢れていた喧噪が色を変える。
フロアに居た人々から漏れるどよめきの声を気に留めることなく、女性は目的の場所へと足を進めていく。


「おい、高橋愛だぜ…」

「ああ…それにしても、相変わらず只者じゃねぇ雰囲気だな」

「当たり前だろ、何せ“暗闇の星-ダークネス・ノヴァ-”一番の稼ぎ頭。
まず間違いなく、次期“撃墜王-エース-”はあいつだろうな」


聞こえてくる声に、女性―――“高橋愛”は表情一つ変えない。
いつも愛の姿を見るたびにどのハンターも馬鹿の一つ覚えのように同じことだけ口にする。
愛にとって驚嘆、畏怖の声はここを訪れる度に聞こえる“雑音”に過ぎなかった。

愛は受付の前に立つと、コートのポケットから“ハンター証”を取り出して提示する。
世間話に適当に相づちを返しながら、淡々と愛は手続きを進めていった。

数分程で報酬受け取り手続きを済ませた愛は、次の“依頼”を請け負うべくフロアを後にする。

“暗闇の星-ダークネス・ノヴァ-”。
大手のヴァリアントハンターギルドであり、ヴァリアントを根絶やしにすることを目的として活動しているギルドである。

ギルドの加入条件は二つ、一つはある程度の実力を持つこと。
もう一つは、ヴァリアントのせいで大切な者や存在を奪われた者であることだった。


依頼料が高い代わりに確実にターゲットを早期抹殺するため、ユニオンでの評判はともかく外部からの評判は高い。
だが、金に物を言わせて強力なSSAを独占し、高額のヴァリアントを中心に依頼を独占しようとするやり口には、
反感を覚えているギルドも少なからずあった。

愛はダークネスノヴァの次期エース候補と噂される、かなりの腕のハンターだった。
ハンターの資格を得てから僅か三年の間に屠ったヴァリアントの数は、軽く数百を超える。
幾ら大手ギルドとは言え、実力がなければ到底なしえない数字を叩き出しつづける愛の存在はこの業界ではかなり有名であった。

二丁拳銃という、男性でもそう簡単には実戦レベルに到達できないバトルスタイル。
加えて、普通のハンターでは請け負うことの出来ない高難度の依頼を早期かつ無傷で完遂する。

愛はまさにエースという称号を与えるに相応しい、確かな実力者だった。


報酬受け取り手続きを済ませた愛が次に向かったのは、突発案件を扱うフロアだった。
突発案件、その名の通り突発的に発生した案件を取り扱うフロアである。
依頼の難度は低難度から高難度まで様々であり、その殆どは早急な対応を求められるものばかりだった。

またしてもフロアに起きるどよめきを気にも留めず、愛は受付のデスクへと向かいハンター証を提示する。


「今現在発生している案件で、一番高難度のやつを」

「…は、はい、検索致しますので少々お待ち下さい」


淡々とした愛の口調に、受付の女性の声が裏返る。
だが、その動揺を一瞬で沈めた女性は検索用PCのキーボードを軽快に叩いていく。

待つこと、数十秒。

女性は一瞬だけ大きく息を吸い込んだ後、口を開いた。


女性の告げた内容に受けるとだけ返事をした愛は、コートの裾を翻してフロアを後にする。
またしてもフロアに広がるどよめきに一瞬だけ顔を顰めた愛は、足早にエントランスへと向かった。

エントランスに着いた愛の視界に飛び込んできたのは、黒いスーツに身を包んだ集団だった。
スーツの上からでも分かる体格のよさ、所作の一つ一つから愛はこの集団が只者ではないことを知る。

その集団とすれ違う際に、愛の視界の端に映ったのは原色のスーツ。

愛の心が大きくざわつく。

黒服の集団に囲まれていた人物は―――警視庁ヴァリアント関連事案対策本部管理官中澤裕子だった。
ど派手な金髪、加えて丁寧とは程遠い関西弁。
極めつけは、アニマルプリントが施された原色系のスーツである。
どこをどう見ても、警視庁という組織に所属している人間には見えない。

水商売の女性ような外見に反して…中澤は、恐ろしく有能な人間だった。
幾つもの難事件を解決に導いた手腕が評価され、数年前僅か30歳という年齢にして対策本部管理官として抜擢された。
キャリア組とは言え、新規に立ち上がった対策本部の管理官という重要な役職に就くことなど、まず有り得ないことだった。

そして―――“横取り制度”を生み出した、ハンターからすれば憎悪の対象でこそあれ、間違いなく尊敬などといった感情を向け得ない相手。

横取り制度、その名の通り、依頼を横取りすることを許す制度。
横取りの際に、先にその依頼を請け負ったハンターに危害を加えても罪には問われないという、恐ろしい制度である。
今のところは突発案件のみにその制度が適用されているが…いつ、その対象が拡大されるかと、ハンター達は戦々恐々としていた。

この悪法としか言えない制度が生まれた背景は二つあった。
一つは、需要に対する供給過多。
そして、もう一つは―――ヴァリアントが、超能力が使える人間の突然変異体だという学説があることである。

この制度を適用することで、より有能なハンターだけが生き残り、徐々に需要と供給のバランスが取れて来るであろうということ、
そして、人々を脅威から守る存在でありながらヴァリアントになりうる危険因子である可能性を秘めた超能力者達を、
合法的に抹殺可能であるということ。


巨大ではあるが民間組織であるユニオンは、その制度をただ受け入れるしかなかった。
今のところは、横取り自体はあっても“同胞”を傷つける事態は両手に余る程度だが…それも、いつ風向きが変わることか分かったものではない。

だが、愛の心が大きくざわついたのは、それだけが理由ではなかった。
愛が両親と妹を失い、自身も左足を切断、腹部には今も尚大きく残る傷を負うことになった“悪夢の日”。

10年前のあの日、一体何が起きたのか。

公に出ることのない“真実”を知りうるであろう人物、それが中澤であった。

いつか、中澤と接触出来る程の地位を得て真実を知ってみせる。

―――エントランスを抜けて公道に出た愛の瞳は、これ以上ないほどに鋭く光輝いていた。


     *    *    *


エヴォリューションから徒歩15分程度の場所にある、地上地下合わせて32階立ての高層ビル。
“R2”―――ダークネスノヴァが所有するギルド専用の多目的型施設である。
講義室、トレーニングルーム、一定のランク以上のギルド員の居住スペースなどがあり、
ダークネスノヴァの心臓部と言っても過言ではない。


「…この辺で切り上げて射撃訓練行こうかな」


グレーのTシャツの裾を軽くつまみ上げながら、愛はランニングマシーンから降りた。
額から頬へと幾筋もの汗が伝い落ちる。
ランニングマシーンのディスプレイに表示された時刻は二時間ちょうど、愛はその間ずっと足を留めることなく走り続けていた。


体力をつけておくに超したことはない、極限のレベルの死闘ともなるとほんの十数分の戦いでも恐ろしく体力を消費する。
ランニングで持久力を、そして、腕立て伏せなどで筋力を常に高いレベルで維持することは前線に立つアタッカーならば至極当然のことと言えた。

タオルで汗を拭いた愛は、温めのお茶を飲みながら引き受けた依頼の内容を思い返す。

ランク5のヴァリアント抹殺…ランク5のヴァリアントは、わずか数時間で人口10万クラスの街を壊滅させるレベルである。
まず、ギルドのエース格やマスターでなければ依頼を請け負うことが出来ない、強大かつ凶悪な敵だった。
現在休息期に入っているが、ユニオンの調査によるとそのヴァリアントはβタイプ…休息期に自らの細胞を活性化し、
より強力なヴァリアントへと“進化”することが予測されている。

どの程度の進化を遂げるかは予測不能、休息期に一気に叩く必要がある。
もっとも、βタイプに関する研究は未だにデータ不足で、活動期への移行を正確に予測することは不可能。
休息期の終わりは明日の午後3時頃と言われているが、それより早く休眠期が終わりヴァリアントが暴れ出す可能性も十分にある。

万が一ヴァリアントが活動期に突入していたとしても、早期抹殺を可能とするハンターにしか請け負えない依頼。

愛の目に宿るのは、鮮やかな炎。

どれだけ凶悪なヴァリアントであろうと、愛の目に宿るその鮮やかな炎を消し去ることは出来ない。
全てを奪い去ったヴァリアントへの復讐の想いだけで生きる愛にとって、相手の強弱など大した意味を持たないのだ。

―――この世の全てのヴァリアントを屠る、愛はその為だけに生きているのだから。

愛はトレーニングルームを出ると、一旦部屋に戻り“相棒”を装着する。
ハンター試験を受けるまでの期間、そして今も尚ヴァリアントと戦う愛にとってはなくてはならないアームズ。

“ツヴァイハンダー(二本の腕)”と名付けられた、二丁拳銃。
愛の為に、当時のエースであった人物がドイツの製造元に特注で作らせた拳銃は、
軽量かつ取り回しのしやすい形状に加え、従来の製品よりも20%エネルギー変換効率、弾丸の射出性を向上。
また、右手用の“愛(リーベ)”、左手用の“雪(シュネー)”、
ほんの僅かに大きさの違うそれぞれの手に馴染むように職人の手によって削り出されたグリップは、
まさに愛の腕そのものであるかのように良く馴染む。


特筆すべきは、一度に装填できる弾丸数―――その数、一丁につき20発。
ヴァリアントを覆う強力な障壁を破る為には、一点に連続して銃弾を叩き込む(剣などの場合は一点に打撃を集中させる)必要がある。
連射性能にも優れている上、拳銃としてはかなりの弾丸を一度に装填出来る、
これは頻繁に弾丸の装填をする必要がないと言う点で対ヴァリアント戦のみならず、対人戦にも優位であった。

練習用の弾丸は射撃場に十分にある。
愛はゆったりとした足取りで屋外にある射撃場へと向かった。


     *    *    *


射撃場には誰もいなかった。
時刻が遅い上に、大概のハンターは愛のように間を空けることなく依頼をこなすわけではない。
また、愛のように依頼の有無に関わらず毎日ハードな訓練を行うハンターはいなかった。

愛は射撃場の棚に常備されている練習用の弾丸をマガジンに装填していく。
淀みなく、恙なく。
数分後、予備のマガジン二本も含めて計80発の弾丸を準備した愛は、射撃場の脇に置かれているパソコンを操作する。

数十秒程で、50メートル先に設置されていた幾多の標的が縦横無尽に動き出した。
大手ギルドならではの充実した設備は、維持費だけでも一日辺り数百万とも言われている。

動かない的に弾丸を当てるのは最低限の当たり前。
そして、そんな訓練は生きて動くヴァリアント相手に対して大した意味を持たない。
数億とも言われる金を投じて作り出された射撃場は、ハンター垂涎の訓練施設であった。

愛は右、左の順に拳銃のスライドを軽く力を籠めながら引く。
これで初弾が装填され、いつでも銃弾を撃ち出せる状態になった。


人体型の的を見据えながら、愛は集中を高めていく。
活動期のヴァリアントと交戦ともなると、集中力の差がそのまま生死を分けることに繋がる。
常に動きを止めることなく、常に相手に最大限の攻撃を仕掛けなければならない。
瞬発力と集中力。

刹那、愛は両腕をあげ標的に向かって銃弾を発砲し始めた。

ランダムな動きをするようにコンピューター制御された的が、次々に破壊されていく。
的の中心を確実に射貫いていく銃弾。
銃弾が撃ち出される度に発生する衝撃が愛の両腕、肩の筋肉に負荷を与える。

だが、愛は全く顔色一つ変えることはなかった。
日々の訓練で磨かれた身体に加え、愛は“部分筋力増強(PMSR)”という超感覚を有している。
腕の筋力を増強し、発砲することで生じる負荷を最低限に抑えている愛にとって、
通常の人間ではまず耐えられないような連射、訓練ですら“肩慣らし”の範囲だった。

銃弾が切れるタイミングと同時に、愛はマガジンを排出し予備マガジンを装填する。
数秒もしない間にそれぞれのマガジンを交換した愛は再び連射を開始する。


「Congratulation! Perfect Score!」


スピーカーから流れてきた音声を無視するかのように、愛は再び銃弾の準備をするべく棚に足を向ける。
その時だった。


「今日も練習熱心だな。
たまには息抜きに飲みにでもいこうぜ?」


声をかけてきたのは、ギルドの中堅に位置するアタッカーだった。
愛程とまではいかなくともそれなりの戦果を上げている、それ以外の情報は愛の頭の中にはなかった。

男は愛の方に向かって歩いてくる。
だが、愛は笑顔の一つすら浮かべることなく弾丸をマガジンに装填し続けていた。


「おいおい、まだやるのか?
明日も依頼あるんだろ、この辺で切り上げたらどうだ?」

「余計なお世話や。
あんたと飲みに行っとる暇があるなら、その分訓練した方が何倍も自分のためになる。
…あんまりしつこいと、あんたを的にするで」


感情の籠もらない声とは裏腹に、愛の体から放たれる殺気に男は後ずさりしながら射撃場を出て行く。
その情けない姿すら、愛の視界には入らない。
男のおかげで削げた集中を、愛は再び高めていく。

愛はパソコンを操作し、先程とは別のパターンを設定する。
先程の的は、あくまでも一定の範囲内を自由に動き回るだけだった。
だが、今度の的は…攻撃目標を選別した上で、愛へと攻撃を仕掛けるように設定してある。
とはいえ、せいぜい付属のアームで殴りかかる、といったレベルではあるのだが。

愛は素早く初弾を装填すると、的の方へ向かって駆け出す。
先程は所定の位置からの射撃だったが、今度のはより実践的な射撃である。


振り回されるアームをかいくぐり、愛は左右の腕を振り弾丸を撃ち出す。
その独特のフォームは“デュアル・ハンドガン・コンバット・シューティング”と言われる技術であり、
映画のようなフィクションの世界でしか有り得なかった二丁拳銃による戦闘を“実戦的”に改良したフォームである。

左右の腕を無駄のない動きで振り回しながらのシューティング。
状況に対応するための独特の“呼吸”。常に相手の死角を意識して動く独特の体さばき。

ハンターになるために訓練を受け始めた頃は、一丁でも上手く扱えない拳銃を左右に二丁持って戦うなんて有り得ないことだった。
だが、今では…二丁同時に撃つ方が的への命中率が高い。

愛の素質を見抜いた当時のエースが徹底的に叩き込んでくれた技術を、今でも愛は磨き続けている。

再び、スピーカーから放たれる音声を聞きながら、愛は本日三度目の訓練を行おうとして…射撃場の出入り口の方に目を向ける。
そこに立っていたのは、甘い雰囲気を纏った少女だった。

愛が視線を向けたと同時に口元に笑みを浮かべた少女は、悠然とした足取りで愛の方へと歩み寄る。


「愛ちゃん、お疲れ様なの。
例の件、報告書としてまとめてきたから後で見てほしいの」

「ああ、ありがと。
しかし、よくここにいるって分かったな」

「これでも“情報屋”だし。
雇い主の行動パターンくらい、とっくに頭に入ってるの」


報告書を手渡してくる“道重さゆみ”の頭に手を伸ばしながら、愛は小さく微笑む。
先程の男とは雲泥の対応を見せる愛に、さゆみも小さく微笑みを浮かべる。


道重さゆみは愛個人が雇っている“情報屋”だった。
その名の通り、情報と呼べるもの全てを調査し、それを必要な人間に売ることで生計を立てる稼業。

さゆみは見た目こそ、おっとりとした雰囲気の少女に過ぎない。
だが、その手腕はかなりのものである。
特に、ハッキングスキルの高さは…セキュリティの堅牢性の高さを売りにしている企業ですら、一瞬にして攻略してしまう。
手に入れられない情報などない、それがさゆみの信条である。

有能な人間を雇い続けるのには、稼ぎ続けなければいけない。
特に、優秀な情報屋を囲うことは…そのまま、それが自衛にも繋がる。

報告書を受け取りながら、愛はさゆみの手をとり…指先に口付けた。
そのまま、それを口に含み軽く歯を立てながら愛は微笑みを浮かべる。


「大変やったろ」

「そんなことないの。
さゆみに出来ないことなんてないの…でも」

「でも?」

「…次、この件に関する依頼をするなら、報酬をあげてもらいたいの。
向こうも優秀な人間雇ったみたいで、かなり苦労させられたし」

「ええで、ま、この話はこのくらいにして」


言葉の続きを口にする必要はなかった。
さゆみは愛が何を望んでいるのか分かっていたし、愛はそのことに対してさゆみに拒否権を与えるつもりはない。
そこに純粋な恋愛感情は存在しなかったし、そんなものを愛もさゆみも互いに求めていなかった。


さゆみにすれば“仕事の内”、愛からすれば煩わしくなく相手に出来る人間。
雇う側と雇われる側という単純な関係からはみ出る行為ではあるが、そうした歪みなどいちいち気にする程の物でもない。

煩わしくない、というのは愛にとっては非常に重要なことだった。
過去に幾人かはそうした関係をもったこともあるが、長続きしたことはない。
付き合ってきた人間全てが愛にこの仕事を辞めろと言い、その度に愛はその存在を切り捨ててきた。

今では、特定の恋人を持つくらいならばさゆみのような人間を相手にする方がよかった。
さゆみは愛に絶対にそんなことは言わない、さゆみが愛の持つ金を愛することはあっても愛自身を愛し、縛り付けることがないと確信しているからだ。

さゆみを連れて歩きながら、愛は自身の中に高ぶるものを感じてふっと息をつく。
次期エース候補という地位まで上り詰めても、豪華な食事や性欲を満たしても尚、愛の心は満たされることはない。

今も、目を閉じれば脳裏にまざまざと蘇るあの日の記憶。
そして―――ヴァリアントを屠るその瞬間にしか得られないカタルシス。

血まみれになった床の上に転がるのは、バラバラになった両親と妹。
ヴァリアントはその命を奪っただけでは飽きたらず、愛にもその牙を向ける。
左足の付け根と、腹部の傷が疼き出す。

記憶の中で何度も何度も、愛はヴァリアントを屠るイメージを描いた。
屠るまでの過程も、屠った時に自分の内に一瞬だけ湧き上がるであろうカタルシスも。

背筋がゾクゾクするのが分かる。
全身をヴァリアントへの憎しみが支配し、駆け巡る殺意の衝動に愛は小さく微笑んだ。

自分はどこかおかしいのだと気付きながら愛は笑う。
気付いたからと言って、今更引き返すことの出来ない道を選んで歩き出したのは他ならぬ自分自身だ。


渦巻く狂気と憎しみに全て呑まれても構わない。
欲しいのはあのカタルシス、そして闇の中に沈んでいるであろう真実ただ一つ。

内耳に蘇る“師匠”の声に、愛は心の中で同意する。


―――さあ、明日の狩りを楽しむために、この一時を楽しもう。


     *    *    *


午後一時五分、愛は東京都北区の一角に足を踏み入れた。
既に辺りは完全に封鎖されており、ゴーストタウンと言うに相応しい静寂に包まれている。

愛は端末を操作し、ヴァリアントのポイントまでの地図を表示する。
自分の持つ超能力“瞬間移動(テレポーテーション)”を行使しないのは、エネルギーの消費を抑えるという意図からだ。

瞬間移動、文字通り一瞬の間に空間を飛び越え別の場所へと移動する超能力。
効果や範囲は能力者の能力レベルによって変わり、また能力に長けたものはその能力を応用し、
任意の対象物や対象箇所のみを別の空間へと切り取って移動させてしまうことも可能である。

だが、物理の法則を無視する代償は大きい。
愛の場合、瞬間移動を行使した場合、超能力エネルギーのみならず、体力も消耗してしまう。
移動した距離が長ければ長い程、消耗は激しいものになるのだ。
普段から鍛えているとは言え、頻繁に行使してもいい能力ではない。

愛は目標地点へと歩きながら、情報を脳内で整理していく。

目標はランク5のヴァリアント、現在休眠期、念動力での攻撃を行う。
念動力のタイプはエネルギー変換型であり、物体を念動力で動かして攻撃を加えると言ったパターンはまずない。
だが、休眠期から活動期へ移行した場合は、能力のタイプが変化する可能性も考えられる。


愛は無意識のうちに、装着したベストへと手を伸ばす。
既にツヴァイハンダーに装填してある数を含め、今回準備した弾丸数は160発。
普段の愛が持ち歩く量の倍である。

愛の脳裏を過ぎる、鮮烈な映像。
数百メートルという離れた地点からスコープの類もなしに見事な狙撃を行い、ヴァリアントを屠った一人の少女。
ランク1のヴァリアントに対して、少女は過多と言っても差し支えのない銃弾を所持していた。

それに対し、自分はランク1のヴァリアントだからと、通常通りの弾丸しか所持していなかった。

思い返すだけで、自分の未熟さに歯噛みしたくなる。
少女の見事な狙撃に、ヴァリアントハンター実技試験満点を取ったという、その才能に嫉妬し。
冷静さを欠いた結果、弾丸切れを起こし―――横取りに失敗したのだ。

もう、そんな無様な姿は晒すわけにはいかない。

高ぶってくる感情を抑え込むように、愛は何度も深呼吸を繰り返す。
目標地点が近づくにつれ、愛は自分の中に渦巻くモノを押さえ込むように息を吐く。


「…まだ大丈夫そうやな。
早く片―――!」


ヴァリアントまで数十メートルという地点に愛が足を踏み入れた瞬間だった。
足下を掠めるように、地面に弾丸が着弾した。
着弾と同時に吹き出す炎に愛は顔を顰めながら背後を振り返る。

振り返った視界には、誰も見当たらない。
愛はそのことに焦ることなく、辺りの気配を探る。


大手ギルドの次期エースから獲物を横取りしようだなんて、一体どこの物好きだろうか。
愛は警戒態勢を解くことなく、腰のホルダーに手を伸ばす。

同じ轍は二度踏まない。見つけ次第―――四肢を撃ち抜き、邪魔出来ないようにしてやる。

愛の足下に再び弾丸が着弾する。
着弾した弾丸の威力、方向から愛はおおよその見当を付けて―――かき消えた。

愛が着地した地点から数十メートル離れた位置に立つ男性が一人。
突如消えた愛の姿を探して首を右に左と向ける動作を鼻で笑いながら、愛はホルダーから銃を抜き迷うことなく発砲した。

左肩、右肩、左太腿、右太腿にほんの数秒足らずの間に正確に弾丸を撃ち込む。
叫び声を上げながら血を吹き出しその場に倒れ込んだ男性を見て、愛は銃をホルダーに差し込んだ。


「…ここで死なれても困るしな…幾ら制度的に問題ない行為とはいっても、
さすがにギルドの人間が死んだってなったら向こうも黙っちゃいないだろうしの」


呟きながら、愛は倒れ込んだ男性の方に手を翳す。
愛の体からゆらゆらと立ち上る金色にも似た黄色の光がまばゆさを増した瞬間、男性の体はその場からかき消えた。

瞬間移動の応用。
愛は本来なら自身のみしか対象に出来ないその能力を行使し、男性をこの場から“離脱”させたのだ。

愛は大きく肩で息をする。
本来の使い方ではない使い方をした上に、北区から大分離れた目黒区にある大学病院へと男性を飛ばした。
これからランク5のヴァリアントと対峙しなければならないというのに、大きな誤算である。

呼吸を整えながら、愛はヴァリアントの元へと歩き出す。
大手ギルドの次期エース候補に喧嘩を売る物好きが、彼一人だけとは限らない。
そう何度も相手をしていたら、肝心のヴァリアントを倒すだけの力がなくなってしまう。


邪魔が入るよりも先に、獲物を仕留める。

集中を高め始めた愛は大きく舌打ちをしながら横転する。
先程まで愛が立っていた位置を薙いでいくのは、暗い色の念動波だった。


「…さっきので起こしてしまったみたいやの」


活動期への移行が予測されている時刻よりも大分早く、ヴァリアントが目覚めた。
その全身から溢れ出るエネルギーの強大さに、愛の中の何かは呼応する。

血が駆け巡る。
体が燃えるように熱く、全身に漲るのは―――憎悪と歓喜。

ホルダーから銃を抜くと、愛はヴァリアント目がけて駆け出す。
次々に飛来する念動波を避けながら、愛はヴァリアントの展開する障壁へと攻撃を開始した。

一点を狙って、激しい攻撃をかいくぐりながら射撃を行う。
愛は僅か10メートルにも満たない位置からそれを行っていた。

類い希な運動神経、反射神経を持つ愛だからこそ可能なことである。
並のハンターでは、まずまともに狙いを定めて撃つことなど不可能だ。
絶え間なく飛来する念動波を避けるだけでも至難の業、その上に狙いを定めて発砲など有り得ないレベル。

軽やかに、舞うように。
念動波がどのような軌跡を描いて飛来するのか、予め分かっているかのように愛はそれを避ける、そして発砲する。
命中したら、まず命はない。
極限の状況が、愛をどこまでも冷静にさせる。


死ぬわけにはいかない。
真実へ到達するために、この世の全てのヴァリアントを屠るために。

脳裏を過ぎる、いくつもの記憶。
大切な者を奪われたあの日、血を吐くほどの訓練に耐え続け、ようやくハンターとなった日。
数えるのも面倒な程屠ってきたヴァリアント、SPに囲まれ笑う中澤裕子、
駆け出しでありながら技術はその辺のハンターとは比べものにならない少女。

あらゆる記憶が綯い交ぜになりながら、駆け巡る。

愛は大きく息を吐きながら、マガジンを交換するために後退した。
立ち止まって交換する間などない、愛は横転しながら一丁ずつマガジンを排出しベストに装着した予備マガジンを装填する。

転がりながらマガジンを交換した愛は、体勢を立て直して再びヴァリアントへと近づく。
活動期へと移行したヴァリアントの障壁は固く、まだ亀裂の一つすら入っていなかった。

それでも愛は、予め決めたポイントへとひたすら攻撃を回避しながら弾丸を撃ち込む。
どうにかしてこの障壁を崩さなければ、屠ることなど不可能なのだ。

常時“部分筋力増強(PMSR)”を行使しながら、ヴァリアントへ発砲し続ける。
常にエネルギーを放ち続ける体が悲鳴を上げかけているのを感じながら、愛は歯を食いしばる。

ここで引くことなど出来ない。
必ず獲物を仕留める、その思いだけが愛を突き動かす。

弾丸が切れると同時に後退し、再び予備マガジンに切り替える。
残りの弾丸数は装填した分を含めて80発。
全てを撃ち尽くすまでに障壁を破れなければ、愛に成す術は残されていない。

超能力を使って攻撃するという術がないわけではないが、あくまでもそれは障壁を破った後に限られる。
物理エネルギーを無効化し、並大抵の超能力による攻撃では傷一つ付けられない障壁。
これを破らなければ、愛の能力では勝ち目はない。


破けろ、破けろ、砕けて跡形もなく消えてしまえ。

残りの弾丸数をカウントしながら、愛はひたすら攻撃を回避し弾丸を撃ち込み続ける。
最後のマガジン交換を前にして、ようやく僅かに亀裂の入った障壁に弾丸を撃ち込んだ愛は横転しながらヴァリアントとの距離を置く。

軽く息を吐きながら、マガジン交換を行う。
残り40発、出来るならば残り30発前後で障壁を破りたい。

愛は今まで以上に体からエネルギーを放出する。
弾丸を撃ち出す際に籠めるエネルギーを高めることで、より大きなダメージを障壁に与えることが可能となるが。

トリガーに籠めるエネルギーが増す分、ほんの僅かに生じる射出までのタイムラグ。
ラグが大きくなりすぎたら、その分だけ自分の命が危うくなる。
籠めるエネルギーとその分生じるタイムラグ、自分の回避能力の最大限の交差点を見誤ることなく対処しなければならない。

愛の体が跳躍する。
絶え間なく続く念動波をかいくぐりながら、確実に弾丸を一点へと命中させる。
時折、避けきれなかった念動波が愛の服に裂け目を作っていく、だが、そんなことを気にする余裕は愛にはなかった。


『でも、絵里はこの依頼だけは絶対譲れない。
ハンターになるために何年も努力してきたし、絵里がハンターになれるように自分のことみたいに必死になってくれた人達がいる。
絵里はこの依頼を成功させないと、その人達と一緒にヴァリアントに立ち向かうことが出来ないの。
―――お願いだから、退いて』


愛の内耳に木霊する、少女の声。
自分とは違い、純粋な思いでヴァリアントハンターという生き方を選んだであろう少女。
その純粋さが眩しくて、あの時は傷つけることが出来なかった。


いずれは、あの少女も―――今日の様に傷つけるのだろう。
そうすることが出来なければ、これから先生き残っていくことは難しい、愛はそれを誰よりも分かっていた。

その声を振り払うように、愛は弾丸を障壁へと撃ち込む。
残りの弾丸が両手合わせて10発になる頃、ようやく障壁が崩壊した。

瞬間、愛は己の能力を展開する。
消耗は大きいが、真正面から撃つよりもより確実に相手を屠るために―――空間をねじ曲げ跳躍する。

ヴァリアントの背後に回り込んだ愛は残りの力を振り絞るように、トリガーに力を籠めた。
秒間10発という、凄まじい連射。
弾丸はヴァリアントの肉体にめり込むと同時に破砕、そこから溢れた光がヴァリアントを内部から焼き尽くしていく。

幾ら“進化”するタイプのヴァリアントとはいえ、至近距離でこの攻撃を食らえば生きていられまい。
愛がヴァリアントに背を向けた瞬間だった。


「…しぶとい」


言葉と共に、愛は振り向き様に両腕で十字を描く。
愛に最後の一撃を見舞おうとしていたヴァリアントの体は4つの肉塊と化した。

ツヴァイハンダーの銃口から放たれる、鮮やかな光。
一メートル程はあろうかという、光の刃、これがヴァリアントに止めを刺したのだ。

弾丸を撃ち尽くした際の、奥の手。
“光の剣(ディバインブレード)”と師匠が名付けてくれた技は、愛にとってまさに最終手段だった。


元々、愛が有している超能力“光使い(フォトン・マニピュレート)”は、
超能力エネルギーを光という形に変えて放つ超能力である。
光線という形でしか放てない光を、ツヴァイハンダーという物質を介しそこに留めることで生まれる光の剣。
ツヴァイハンダーという媒介があるとは言え、無理矢理ベクトルをいじっているが故に、長時間発現させておくのは難しい。

光を消したツヴァイハンダーをホルダーに仕舞うと、愛はいつものように携帯電話を取りだし連絡する。

午後1時45分。

依頼を完了した愛はヴァリアントを一瞥した後、エヴォリューションへと向かった。


     *    *    *


ランク5のヴァリアントを屠った翌日のことだった。
いつもならば、次の獲物を仕留めるために行動している愛が立っているのは、街の片隅にある小さな墓地である。

雲間から僅かに漏れる光が愛を照らし出す。
全身黒い服に身を包んだ愛の横顔は、どこまでも感情が読み取れない。

愛の左手には、包装された白い花束。
そして、愛の目の前には―――父親、母親そして妹三人の名前が刻まれた墓があった。

愛は花を手向けると、そっと目を閉じる。
胸の内に湧き上がる悲しみと憎しみが、涙に変わって頬を伝った。

10年前の今日、起きた惨事…通称“ナイトメア事件”。
死亡者数914人という今では考えられない程の犠牲者が生まれた、まさに悪夢と呼ぶべき事件。
愛はその事件唯一の生存者であった。


当時、ヴァリアントに関する研究はまだ始まったばかりであった。
あらゆるデータを集めたいと考えた政府は、ユニオンが抱えていた研究施設へ協力要請を行った。

―――生きたヴァリアントのデータ、これを収集せよと。

まず、驚異的な自己再生能力を持ったヴァリアントを生かさず殺さずに捕まえるだけでも至難の業である。
仮にそれを成功させたとしても、その後どのようにしてデータを収集し続ければいいのか。
とてもじゃないが、当時の科学力、技術ではその要請には応えられるわけがない。

だが、研究施設の最高責任者…愛の父親は、その要請を受け入れた。
何故その無謀とも言える要請を受け入れたのか、その理由は今も明らかにはなっていない。

公式の記録として唯一残っているのは、ヴァリアントの捕獲には成功したものの、
ヴァリアントは数時間足らずで完全回復し、研究施設及びその近隣の住宅街を破壊しつくしたという報告書だけである。

愛は家族が眠る墓の前から、今度はその隣の墓の前に立つ。
その墓に眠るのは、愛を絶望の淵から拾い上げてくれた師匠であり…“撃墜王”の称号を持つに相応しいハンターだった。

あの日、家族を奪われ、そして自分の命も消えようとしていたその時。
愛の目の前に降り立ちヴァリアントを一瞬にして屠った、栗色の髪を靡かせた彫像のような女性。

ヴァリアントを屠った女性は愛の方を振り返って一言こう言った…死にたいの、と。
感情の籠もらない声だったが、その声は何よりも愛を揺さぶった。

冗談じゃない、ここで死んでなるものか。
自分が死んだら、一体誰が家族の無念を晴らすというのか。

左足を切断され、腹部に深い傷を負い今にも死にそうな愛の目に宿る憎しみの炎。
それを見た女性は、愛をダークネスノヴァへと引き入れたのだった。


その日から、愛が立ち止まったことはただの一度もない。
義足というハンデを抱えながら、どんな厳しい訓練にも耐え抜いた。
思うように動かない自身の体に、泣きながら訓練に取り組むこともあった。


『…千年誰かを愛することは出来なくても、千年誰かを憎むことは出来るんだよ』


愛の内耳に今も鮮やかに木霊する、師匠の声。
そう言って目を伏せて微笑んだ師匠は、横取り制度が始まってまもなく、他ギルドの人間の“誤射”によって命を落とした。

圧倒的な実力を持っていたから、憎まれた。
愛と同じようにヴァリアントに家族を奪われ、憎しみのままに生きてきた師匠は他人の憎しみによって潰されたのだ。

いずれは、愛も師匠と同じ末路を辿ることになるのかもしれない。

頬を伝う涙を拭い、愛は墓地を後にする。

他人が憎しみの刃を向けてくるのなら、それ以上の憎しみを見せればいい。
あの事件唯一の生き残りとして、誰よりも深いヴァリアントへの憎しみを見せつけるだけだ。
闇に眠る真実を暴くために、この世の全てのヴァリアントを屠るために。
どんな憎しみも飲み込んでしまうほどの闇を抱えながら、この世界を生き抜いてみせる。

温い風が愛の体を薙いでいく。



―――道端に咲いた一輪のタンポポが、物言いたげに揺れていた。



最終更新:2014年01月17日 16:11