(28)251 『復讐と帰還(9) 戦士の戦い』



二人の戦士の間の空間が、じりじりとたたかいの熱を帯びていく。
一人の戦士は傷ついた仲間達への思いを、もう一人の戦士は亡き友への思いを、荒ぶる魂に乗せる。
人のかたちを被った獣どもが、虚ろな顔で戦士たちを取り囲んでいた。

「上から言われてるんでな、お前は殺しゃしねえよ」

すうっと腰を落とし、構えをとりながら、吉澤ひとみが言った。
その間合いの半歩手前で高橋愛は軽く右足を引いて、構えをとる。
互いに隙がない。純粋な格闘戦ならば、実力は拮抗しているようだ。

「まあ、死んだ方がましだって思う羽目になるだろうがな」

吉澤が何の感情も込めずにそう言い放った瞬間、愛の右腕が掴まれた。
たたかいの火蓋が切られた瞬間がそこにあった。

―!

吉澤はぴくりとも動いていない。念動だ。見えざる精神の腕が愛の右腕をぎりぎりと締めあげている。
右腕を引きちぎられた、一週間前のあの光景が脳裡にフラッシュバックした。
恐怖が冷気を帯びた電流となって背中を駆け抜ける。

―ちいっ!

愛は全身に力を込め、あるべき自分の姿を強くイメージした。
念動とは手を触れずに精神力で物を物を動かす力だから、
それに対抗するには自分はここにいる、ここにある、と強く集中する事が必要だ。

愛の意思が見えざる精神の腕のくびきを振り払った時には既に、半歩の間合いが潰され、吉澤の射程圏に入っていた。
いきなり、蹴りが飛んできた。疾い。
顎を引いてかわす。
爪先が空気を切り裂いて鼻先を通り抜けたと思った瞬間、その蹴りが軌道を変えて踵から振り下ろされてきた。


―何!?

踵がこめかみ目掛けて襲い掛かってくる。
このタイミングではかわせない。ガードも出来ない。

「ちいっ!」

踵がこめかみを捉えるまでの瞬間を、愛は回避よりも集中のために費やした。
咄嗟に瞬間移動能力を発動し、空間を跳躍する。
空間を跳躍し吉澤の背後に回り、後ろから蹴りを叩き込む、筈だった。
しかし、愛が空間を跳んだ先は、吉澤の正面、先程までいた場所から数センチしか動いていない。

―心を“引っ張られた”?サイコ・ダイバーか!?

そのまま振り下ろされた吉澤の踵が愛の肩を抉り、鋭い痛みが走る。
これが側頭部に当たっていたら、意識を体の外へ弾き飛ばされていただろう。
しかし、吉澤に阻害され、失敗したかに思われた僅か数センチのテレポートが、愛を危機から救ったのだ。

時間の濃度が増していき、一瞬が交錯する。

痛みへの反応、テレポート失敗の動揺、彼我の戦力の洞察、そういった諸々の物とは別の所で、愛の肉体が動いた。
高橋愛の戦士としての本能が彼女の左拳を弾丸へと変え、吉澤の胴体へ向けて線を描いた。
理想的と言ってもいいタイミングで拳がみぞおちにめり込んだ衝撃が、確かな手ごたえとなって拳から肘へと伝達される。

―入った!
「ぬるいぜ!高橋愛!」

吉澤の唇から苦痛と悦びがこぼれおちる。
愛の一撃で吉澤の中の何かがぶつりとちぎれたのか、それとも何かに火が点いたのか。
あるいは、その両方か。
灼熱の冷気をまとった微笑が、ぐん、と間合いを詰めた。
互いの体温が伝わりそうな程の距離で、愛は吉澤の瞳に宿る魔性の昂りを見た。


「そんなもんじゃ足りねえんだよ!」

吉澤の声と共に、二人を取り巻く空間が沸騰した。
至近距離から拳がすっ飛んできた。手ではじく。すぐに次が来る。潜る。更に次。

「シィッ!」

吉澤が鋭く呼気を吐いてラッシュをかけた。猛スピードで次々に拳を送り出す。
殴る。殴る。殴る。更に殴る。
そのどれもこれもが重く、鋭い。
愛はその一つずつをいなし、かわし、防ぎ、食らい、はじき、潜り、いなし…

きりがない。

愛はじっと反撃の機会を見出そうとするが、全くそれが訪れる様子がない。
吉澤の攻撃が止まる気配さえ見せないのだ。
立て続けに拳が愛の肉体に襲いかかる。
撃ち込まれる拳とともに、吉澤の荒ぶる感情が愛の心に流れ込んでくる。

それは怒りであり、憎しみであり、闘争心であり、悦びであり、そして、かなしみでもあった。

―かなしみ?

愛の心が吉澤のかなしみに反応した。
隙、と呼べるほどのものではない。
かなしみがある。と、認識した程度の事だ。

その隙とは呼べない、針の先にも満たない程の一瞬に、吉澤の右足が跳ね上がった。
初めからそこに在った様に、愛の側頭部にそれが現れた。
がつん、と愛の頭の中で音が響いた。

―!


脳を揺さぶられ、意識に霞がかかる。
その時、霞の中から、あの時の光景が浮かび上がって来た。

血涙を流しながら嗤う一匹の夜叉。

『光』の封印が解き放たれた時、愛の顔を染め上げた夜叉が、あの時の自分が、霞の向こうから愛を呼んでいる。
もう一度、こちらへ来いと。

―もう一度あれを使えと言うのか!?

刹那の逡巡が駆け巡る――

―この体のままたたかっても勝ち目は薄いあたしが万全でも勝てるかどうかそれは分かっている
でもあの力は強すぎるあんな物を使ったらあんな物に頼ったらたたかいじゃない殺戮だそんな事
をして勝って何になるあたしは兵器じゃないんだあたしは私はあんな物を――

――あの子も私の大切な愛ちゃんだから、だからね、信じて。自分の心を

!信じるとも!あたしの力はあたしの大切な人を守るためにあるんだ!今更何を戸惑っている?
今更何にびびっている?このまま殴られ続けて訳が分からなくなってそれから力を使う気か?そ
れは無責任と言うんだ力を使うなら自分の意思で使え!甘ったれるな!高橋愛!――

「あっひゃあ!!」

愛の渾身の力が込められた前蹴りが、吉澤のみぞおちを捉えた。
吉澤の体がくの字に折り曲がった隙に、愛は後方へ下がり、間合いを取る。

「ようやくらしくなってきたじゃねえか」

もっと、もっとだ。もっと体と心を痛めつけ合おうぜ。もっと血が滾るようなたたかいがしてえんだよ私は。
吉澤の心の声が愛に流れ込んでくる。サイコ・ダイバーのくせに、全く思考を隠そうとしていない。
復讐の矛先を失い、行き場の無くなった激情のはけ口を愛とのたたかいに求めているのだ。


吉澤は嗤っていた。その事に自分では気が付いていない。
唇に浮かぶ嗤いは悲鳴であり、かなしみでもあることに、吉澤ひとみは気が付いていない。

「いや、たたかいはもう終わりや」

ぽつり、と言葉を発して愛は吉澤に右手を向けた。

「あんたのかなしみは、あたしが断ち切る」

そう言って愛は心を澄ませ、もう一人の自分に語りかけた。
確固たる意志を持って、『光』を発動する覚悟が、そこにあった。

―あたし、聞こえるか?

―あたし、あたしの声が聞こえるか?

―あたし、どうした?

愛の決意とは裏腹に、もう一人のアイは、愛の呼び掛けに反応しようとはしなかった。

―どうした?あたし、返事を
「何をボンヤリしてんだよ、お前」
―!

突風のような蹴りが、愛を襲った。
蜘蛛の牙が蝶の羽を貫くように、愛のわき腹に吉澤の爪先がめり込んでいる。
わき腹を乱暴に蹴りあげられ、愛の体が宙に浮く。
吉澤の獰猛なまなざしが、愛の瞳を貫いた。
蜘蛛が獲物に止めを刺そうと、新たな牙で愛に襲いかかる。

「愛ちゃん!」


胸の奥から響いた里沙の声が、窮地に陥った愛を衝き動かした。
吉澤の拳が愛の顔面に牙を突き立てようとした瞬間、愛は空間を跳躍した。

―!

吉澤の背後に現れた愛の右足が、中空から稲妻のように吉澤の後頭部へ打ち下ろされた。
並の相手ならば意識どころか命までも容易に刈り取る程の一撃であった。
しかし、信じられない事に吉澤はそれを食らいながらも、苦痛に歪めた顔を愛に向け、反撃を繰り出そうとする。

―化け物か!?

背筋に冷たいものを感じながらも、更に愛は空中で左足を吉澤の鼻先へ振り上げる。
左足がその目的を達する直前に、吉澤の念動力によって発生したショック・ウェーブが愛の体を跳ね飛ばした。
辛うじて愛は空中で体勢を立て直し、コンクリートに着地する。
一方吉澤は、頭を二度三度ふって、意識に明瞭さを取り戻してから口を開いた。

「集中なしで上手く跳んだな。心を引っ張る暇もなかった」

吉澤の言葉から窺い知れる感情は、憎しみや怒りといったものから少しずつ変化しているようだ。
たたかいの熱がやり場のない激情の炎の熱に追いついた事で、それがかえって吉澤に冷静さを要求しているのだろう。
感情をぶつける為のたたかいから、勝つ為のたたかいに、その目的をシフトしつつある。
愛の一撃が粛清人の本気を引き出したとも言えるだろうか。

「呼吸が乱れてきてるようだけど、まだやれるかい?」

淡々とした口調の中に、吉澤の戦士としての凄みが見え隠れする。
粛清人でも復讐者としてでもなく、戦士としてたたかう。
そう割り切った吉澤から勝利をもぎ取る事は、今の愛には不可能に思えた。
唯一の切り札であった『光』が発動できないというのが何より痛い。
i914の力を司るもう一人の自分、幼少の頃に心の奥に封じ込めた分身であるアイからの反応が何故か無いのだ。
そして、愛の敗北はそのまま里沙の、小春の、リンリンの死をも意味する事になるが、
愛の胸中を占めているものは恐怖でも絶望でもなかった。


それは疑問だった。

吉澤にわき腹を蹴り上げられ、窮地に陥った愛を救ったのは里沙の声だった。
「愛ちゃん!」と、彼女は叫んだ。
愛の疑問はその事だった。何故、自分を愛ちゃんと呼んだのか。記憶を失う前と変わらない呼び方で。
いや、その前に、あの声は本当に耳から聞こえた声だったか?

―!

その時、愛の中で全てが繋がった。
愛は、やるべき事を見出した。しかし、それを実行する時間を吉澤が与えてくれる可能性は皆無であった。

「今度は逃げられねえよ」

愛の呼吸が止まった。
吉澤の念動力が愛の首を締め上げ、精神干渉能力が愛の心に絡みつく。
異なる能力の同時発動という離れ業をやってのけながら、自身は冷酷な足取りで間合いを詰める。
肉体と精神の両方から自由を奪い、止めを刺しにかかるやり方は、網にかかった蝶に牙を突き立てる蜘蛛のそれに酷似していた。

しかし、愛は孤独で脆弱な蝶ではない。強い意志と、心通じる仲間がいる。
愛の眼前にまで迫った吉澤に、突如颶風が襲いかかった。

―こいつ、いつの間に!?

吉澤は颶風の蹴りを間一髪の所で回避したが、愛を絡める網の集中が途切れた。
颶風は愛の傍らに立ち、太極拳特有の剛柔を兼ねた構えをとった。

「タカハシ、無事か?」
「助かったよ、ジュンジュン」

吉澤ひとみは怒りに燃える獣のまなざしを受けながら、ちらりと入り口に目をやった。
シャッターは閉じられたままだ。とすると、裏口から入ってきたことになる。組織の者しか知り得ない筈だが。


「小川の奴が吹き込んだか…」

さして意外そうな様子も見せずに、吉澤は呟いた。

「今度はパンダのおでましかい」

そう言った吉澤の背後にいる、傷ついた仲間達の姿がジュンジュンの目に映った。
獣が怒りに昂っていく。

「よくもニーガキ達を酷い目に合わせたな。思い知らせてやる」
「そういうのはな、お互い様って言うんだよ」

煮え滾るようなジュンジュンの視線を正面から受け止めながら、吉澤が言った。
二人のやり取りに視線を配りながら愛が口を開く。

「ジュンジュン、任せた」

意外な事を言うと、ジュンジュンの耳には感じられたが、愛の言葉には確固とした意志が込められている。
きっと、何か考えが有るのだろう。ならばそうするまでだ。
意を決してジュンジュンが突進したのと、愛が里沙の傍へ空間を跳躍したのと、吉澤の唇に薄い微笑が貼り付けられたのはほぼ同時だった。

グロゥ!

突進しながら白と黒の獣に姿を変えたジュンジュンの鉤爪が、吉澤の頭部をなぎ払う。
あらゆる物を根こそぎ吹き飛ばすような一撃が空間を切り裂いた。
しかし、その右手にあったものは手ごたえではなく、鋭い痛みだった。

「単純だよ、動きが」

身を屈めた吉澤の手に握られた黒塗りの短剣から、血が滴っている。

―暗器!?


闇から這い出してきた刃が、獣の喉笛目がけて襲いかかる。
ギリギリの所で獣は身をよじって喉に迫る刃を避けた。刃が首筋を走り抜け、血が空中に舞った。

グロゥ!

間髪いれずに繰り出された獣の反撃の左を吉澤は難なくかわし、二、三歩の間合いを取った。

「獣のあしらい方はな、最近覚えた」

獣は、己の血の温度が下がっていくのを感じていた。
それが、絡みつく恐怖によるものだという事も、ジュンジュンには分かっていた。




「ガキさん、聞いて」

里沙の瞳を見つめ、愛は言った。

「ガキさんはね、あたし達の事を忘れたわけじゃない」
「私が、みんなを忘れていない…?」

里沙の瞳に困惑の色が浮かんだ。その色を愛は慈しむように見つめながら言葉を続ける。

「ただ、あたし達の事を覚えてるガキさんは、今のガキさんの中にはおらんの」
「え?じゃあ…」
「あたしの中におる」

愛は里沙の手をしっかりと握りしめて、心を澄ませた。

「心を開いて…今から、ガキさんをガキさんに返す」

お互いの手から伝わる体温が溶け合った時、愛と里沙の呼吸が一つに重なって、そして

―とくん

と、二人の胸が高鳴った。
それは、新垣里沙の帰還が間近に迫っている事を告げているかのようであった。



最終更新:2014年01月17日 16:25