(29)468 『少年の瞳』



久住小春は空港のホールを一人歩いていた。LAでの仕事を終え、たった今帰国したばかりである。担当マネージャーは現地メディアとの打ち合わせがあり、めずらしく単身での帰国となっていた。

「あれ!?『きらり』だ…!」
「ね、あれ、『月島きらり』じゃない?」

周囲から軽い驚きの声が上がる。しかし、『芸能人モード』ではない時の、小春特有の『クールなオーラ』の所為か、足早に歩く彼女に声を掛けられる者はいなかった。

ふと、ホールに別のざわめきが広がる。

何やら、騒々しい雰囲気を撒き散らしながら、あきらかに『暑い国』から帰ってきた風情の二人組みがホールへと入って来ていた。

イスラム圏の女性が着用する、民族衣装の黒い薄布のコート(アバヤ)を着込み、頭を包む為のスカーフ(シェイラ)を首に巻いている。
黒髪に大きな瞳、口元のホクロが印象的な女と、金髪にハーフっぽい端正な顔立ちをした女だった。

特に金髪の女はそこそこの長身でもあり、きびきびとした動きもあってか、明るくもやや騒々しいオーラを放っている。
鼻の頭や、おでこのあたり、白い肌に赤く日焼けの跡が残っており、端正な顔にやや幼い、少年のような印象を付け加えていた。


「吉澤ぁ~!何でこんな乗り継ぎ便にしたのよ全く~!ウチラだったら別にチャーター便でも良かったハズだよぉ!」
黒髪の女がぼやく。
「まあ、いまさら良いじゃないスかぁ~、先輩。もう着いた事だし。あんましチャーターとか言う柄でもないっしょ、ウチラ」

「しかしアンタも全く、使えないんだか出来るんだか…。カーン博士と意気投合したのはお手柄だけどね…」
「いやまあ、“天才は天才を知る”ってヤツですかね~!?だっはっは」
「…何調子乗ってんのよアンタ」

「…なんだアレ、外人か?」
「いや、でも日本語だぜ?」

周囲のざわめきをよそに、二人はホールを横切り、ちょうど別方向からくる小春と、ホールの中心部で合流する形となった。

自然とホール中の視線が集中する中、金髪の女と、小春の視線が正面からぶつかりあう。

「あー!!」
次の瞬間、金髪の女が大声を上げる。
「きらり!アンタ『月島きらり』だろ!?すげえ、こんな所で会うなんて!」
その大声に若干身を退きながら小春が応える。
「…そうですけど…、あなたは?」

「ああ、いやいや、ええと、ただのファンだYO!ほら、アニメとかもやってるだろ? …ええと、そう、『プリキュア』とか!!」

「…やってません」
小春が冷ややかに言い放つ。

し…ん と、ホール中が緊張感で静まり返る。


数秒の、緊張感漂う沈黙の後…。

「…ま、こまけぇ事はいいんだYO!!とりあえず、ここらへんにサインしてくんないかな!?」
金髪の女はコートをはだけると中のシャツの裾をひろげてサインをねだる。

「押し切りやがった…」「外人つえー」「外人なのかアレ?」
緊張から開放された周りがざわつく。

「…あ、いいですよ…。ここでいいですか?」
小春はあまりかかわらない方が良いと判断したのか、とっととサインをして立ち去ろうとする。
「うん、そこそこ、そこらへん」
そう指差しながらサインを書いてもらっていた金髪の女は、突然声をひそめ、小春にささやいた。

「…オマエ、高橋の…、高橋愛のチームにいる、久住小春だろ?」
小春の手が止まる。

「…あなた…、何者ですか?」
顔をあげずに小春が問う。
「オマエに渡したい物があるんだよ…。後で上着のポケットの中を見な」

「渡したい物…?どういうことですか?」
「まあ、ここは普通にサインしてくれればいいよ…後で連絡をくれ」

「吉澤ぁ!何やってんの!?行くよ!」
ロビーを先に進んでいる黒髪の女の呼ぶ声が聞こえる。


「ハイハイ!今行きますよ!」
「じゃあな。“後で”だぞ? …いや、ありがとう!!ありがとう!!がんばってね!」
金髪の女は急にわざとらしく大声でお礼を言うと、バタバタと黒髪の女を追って走って行った。

ロビーのど真ん中に一人残された小春は、しばらく茫然としていたが、ふと思い出して上着のポケットを探る。…しかし、そこには何も無かった。
「…なんだよ…」
がっかりしたような、ほっとしたような気持ちで小春が溜息をついたその時、上着の胸元で“カサッ”と言う音がした。

「…!?」
もう一度小春がポケットを探ると、そこにはさっきは確かになかったはずの、一枚のメモが入っていた。
「…どういう手品…!?」

小春がそのメモを開くと、そこには殴り書きの携帯番号と、住所が書かれていた。

「中央区月島…!?」

*** ***


「金髪の女」こと吉澤ひとみはタクシーを降りると、いかにも下町、といった風情の月島の細い路地を歩き始める。下町の町並みと、民族衣装をまとった吉澤の姿が、奇妙な雰囲気を醸し出している。

陽はだいぶ傾き、夕暮がせまってきていた。

ふと吉澤が脚を止める。その視線の先、細い路地の真ん中に立つ細長いシルエット…。久住小春だった。


「なんだ、もう来たのか?気が早いね」
苦笑まじりに吉澤が言う。
「…気になりますからね…。アナタ、何者ですか?アタシたちの事、何を知ってるんですか?それにさっきのメモ…どうやってアタシのポケットへ?」
疑わしそうな眼差しで、矢継ぎ早に問い掛ける小春。

「…まあ、落ち着けよ…。俺の家はすぐそこだ…。ゆっくり話そうぜ」
吉澤はニヤリと笑みを浮かべると、小春の返事も待たずに路地を歩き出す。
小春は一瞬ためらいを見せるが、意を決したようにその後を追った。

さらに細い路地を入った奥にある、今どき珍しい程の、古びた木造モルタル造りのアパートが、吉澤の目的地だった。

「…ここですか…?」
小春が恐る恐る訊く。
「ふふ、そうだよ。面白いだろ?…ま、仮の住まいだけどな」

そこへ突然、今にも表面が剥がれそうなドアを開けて、小学生くらいの男の子が中から飛び出してくる。
「あー!兄貴!かえって来たんすか!?またスゲーかっこっすねー!!今回はインドっすか、取材は!?お仕事お疲れさまっす!!」
「ちげーよ、これはアラブの衣装だっつーの」
「またサッカー教えて下さいよ!…って、…あれ…!?」
男の子が吉澤の隣に立つ小春に気付き、眼が大きく見開かれる。


「兄貴ー!!この人、『月島きらり』じゃないっすかー!?…本物っすかー!?」
「ああ、そうだよ」
吉澤がニヤニヤしながら答える。
「兄貴、スゴイっす!!『月島きらり』と知り合いっすか!?マジスゴイっす!!」

「いや、知り合いっつってもさっき会ったばかりだけどな…。つーかなんだオマエその話し方は…?キモイよ?…それに俺は“兄貴”じゃねーつーの」
吉澤が苦笑いしながら言う。
「あ、これは俺の今のマイブームっす! …いやー、しかし、兄貴は只物じゃないとは前から思ってたんすよー!いやー、『月島きらり』っすかー!」

「おまえ、そんなにファンなのか?」
「いや!オイラは硬派っすからね!アイドルとかには興味は無いんすけどねー!」
「でもねー、きらりは最新シングルもオリコン1位になってますしねー!今の日本のアイドルではトップじゃないすかねー!?学校の女子にも大人気っすよ!」

「詳しいじゃねーかよ…。ま、いいや。いいかヒロシ、この事は秘密だぞ?いいな?」
「了解っす!!絶対秘密にしまっす!!」
ヒロシと呼ばれた男の子はビシッ!と敬礼してみせる。

「どうも軽いな…。それはそうと、俺の留守中は、ちゃんとあの任務は果たしてくれてたんだろうな?」
吉澤が訊くと、ヒロシはニヤッと笑って答える。
「もちろんっすよ!今も任務実行中だったっす!」
「そっか、サンキューな。…じゃあ、ちょっと俺らは話があるからさ、また明日な」

そう言われたヒロシはあからさまに落胆した様子で、
「そうっすか…。そうっすよね…、話があるんすよね…」
とブツブツ言いながらも立ち去ろうとしない。


そんな様子をかわいそうに思ったのか、小春が、
「ごめんねー、ヒロシ君…」
と手を合わせてあやまると、ヒロシは飛び上がるほどあわててぶんぶんと手を振る。
「いや!いや!きらりちゃんがあやまる事無いっすよ!すみません!行きまっす!」
「兄貴をよろしくお願いしまっす!」

「…何言ってるんだ、アイツ…?」
やっとぶんぶんと手を振りながら立ち去ったヒロシを見送ると、吉澤は再びボロボロのアパートのドアを開けた。
「さあ、どうぞ、お嬢様」

*** ***


そこは、いわゆる1Kといわれる間取りだった。畳敷きの6畳間と、安っぽい柄のビニールの床材の張られたキッチンの間を、古臭い曇りガラスの入った引き戸が仕切っている。
まだ照明もついてない薄暗い室内に入ると、魚のような濃い匂いが鼻をついた。

「あー、あいつら、さすがに掃除はしてないか…」
吉澤はそう言うとバタバタと部屋の窓を全部開け放つ。
新鮮な風が、こもっていた部屋の空気と、濃い匂いを押しのけて飛び込んで来た。柔らかい夕方の光が部屋の中を照らす。
そして吉澤は、キッチンに散乱していた大量のペットフードらしい空き缶をガラガラとまとめると、ゴミ袋に放り込み、ギュッと口を縛り上げた。

小春はその様をキッチンに立ったまま見ていたが、ふと、自分の脚元に近づいてくる小さな影に気がついた。



「ミャ~…」
呼びかけるような、甘えるような声。薄茶色の猫が、小春の脚元に歩み寄ってきていた。そして、まだ幼さの残る動作で、小春の脚に頬を擦り付けてくる。

「…え!? ねえ…!どうして!?」
小春は思わず声をあげる。
ほとんど成猫の大きさにまで成長してはいたが、ぺたんと垂れた耳にほとんどまん丸な大きな眼、ハッキリしない薄い茶の縞模様…。それはかつて『組織』との戦いの中で命を奪われた、「あの子猫」にそっくり…というよりも、そのものに見えた。

「ああ、もう気がついたか?」
キッチンの流しにエサの皿を放り込んでいた吉澤が声を掛ける。
「『渡したいもの』ってのは、その子だよ…」

*** ***


片づけを終えた吉澤が民族衣装のまま、6畳間の奥に座る。粗末な古ぼけたちゃぶ台をはさんで、小春がこれも古びた座布団の上にぺたんと座った。その膝の上には、先程の猫がちゃっかりと座ってゴロゴロと喉を鳴らしている。

「…どうして、この子が…?」
小春が下を向いたまま、ずっと猫の頭を撫でながら問い掛ける。
「ああ…。ちょっと前に俺の出来の悪い後輩がさあ、おまえらのトコから人質…じゃねえや、猫質?をさらって来た、っつーのを聞いたんだよ」
「そんでなんだか、凍らして“殺す”だか“壊す”だかって言ってるからさ…。」

「まあ、別に『敵』でもなんでもねえコイツは殺す必要もねえだろ、って思ってな…。ちょちょいっと、ちょろまかしてきたんだよ、寸前にな」
吉澤はそう言うと、スッと右手を前へ差し出す。突然、その手の中に小さな光が宿ったかと思うと、そこには、なぜか黒いブタのぬいぐるみが出現していた。


「う…。思ったよりブサイクだったな…」
吉澤はぬいぐるみの顔を眺めると、横においてあった洗濯物用と思われる、大きな白いプラスティックのかごへと無造作に放り込む。
「…あのメモも、そうですか?」
「…ん?ああ、そうだ。あれが俺の『能力』…『物質転移』だ」

「物体を手元に取り寄せたり、遠くの空間に送り込む事が出来る。もちろん交換もな。…“あの時”は適当なぬいぐるみと寸前に交換してやった…。どうせ凍っちまったらわからねえだろうと思ってな」
「あとは『転移フィールド』を開いて、他の空間へ直接アクセスする事も出来る…」
吉澤は若干得意げに説明を続けようとしたが、ふと口を閉じた。

小春は、たぶんもう聞いてはいなかった。じっと膝に乗せた猫を見つめ、その頭を撫で、喉をくすぐっている。
「…よかったね…。大きくなったんだね…」
そう言う小春の声は、少し涙声になっていた。
吉澤もまた、無言でその姿を見つめている。
窓から差し込む夕焼けの光が、二人と一匹の姿をオレンジ色に染めていた。



最終更新:2014年01月17日 17:40