本編 26 『接触』


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月光の下、仄かな秋風の舞う空を切り裂いて飛ぶさゆみの眼前に異様な光景が広がった。 
海上に無数に浮かぶ岩。大きなもの、小さなもの。 
それらは何の意味も持っていないというように、西の大魔道士の魔力でただ浮かんでいた。 

速度を落とし、岩の間を縫うように飛ぶと 
目的の島が見えて来た。 
どこか不穏な、だけど美しく月明かりを照り返す黒い島。 
そこかしこに漂う魔力の残滓は、記憶の中にあるつんくのそれに間違いは無かった。 

と、さゆみの行く手にある岩の一つに人影が見える。 
つんくの物とは違う、だけど強い魔力を纏って。 

さゆみは、構うかすり抜けるか少しだけ逡巡し 
その人影がどうやら女の子であることを確認して、羽ばたきを止めた。 

キラキラと輝く水面の上空にさゆみが留まりふわふわと浮いている。 
その、十数メートル先の岩の上にりえは立っていた。 

「道重さゆみさんですね?」 

りえの問いに、さゆみは小さく笑い答えた。 

「そうだけど、君は? 
もしかして君が『小田さくら』ちゃん?」 

さゆみの言葉に、りえがいくらかムッとして首を振る。 

「違います。私は西の大魔道士つんくの弟子、筆頭の金子りえと言います」 


「そう。弟子、なのね。 
どういう風の吹き回しなんだか」 

さゆみが独り言のように呟く。 
もう随分と長い間、つんくはたった一人で誰とも関わらず生きていたと思っていたから 
さくらやりえの存在がさゆみには意外だった。 

だけど思い返せば、若い時のつんくは孤高ではあっても孤独では無かった。 
教えたがりで、よく自分の研究を他の魔道士に披露していたし 
さゆみ自身、教えを受けたこともある。 
まだつんくが「人間」だった頃。 
気の遠くなるような昔の話だ。 

「君の先生、後ろの島にいるんだよね?」 

さゆみの問いにりえが肯く。 

「君は、アイツのところまで私を案内してくれるの?」 

「いいえ。あなたを師の所へ行かせるわけにはいきません。 
お引き取り下さい。もし断るなら、阻止させて頂きます」 

波の音が微かに聞こえる。 
静かな月夜には、りえの少し細い声も良く通った。 

さゆみはぼんやりと、りえの柔らかい顔立ちに、きついメイクや金髪があまり似合っていないと思った。 



りえは、改めて目の前に浮かぶ道重さゆみの凄まじい魔力と威風を感じていた。 
月の光に照らされ、青白く輝く巨大で美しい翼をはためかせた姿。 
その漆黒の長い髪と、息を呑む美しい顔貌。 
その全てが、何かこの世の物とは思われない存在感に満ちている。 

りえの手が小刻みに震える。たぶん、武者震い。 
普通の魔道士が、こんな恐ろしい魔力を前に戦意を持てるだろうか。 
りえが平静を保てているわけは、同格の大魔道士である師の側にいたからだろう。 

さゆみの怒りを纏った魔力は、静かな海の上の一点を 
まるで世界の中心であるかと錯覚させる。 
吸い込まれそうなほど美しい瞳には、師と同じように不敵な笑みが浮かんでいた。 
やはり二人とも普通とは違う、どこか超越した存在。 

「私、急いでるんだけどな」 

さゆみの声は、澄んだ夜の空気に良く響いた。 
りえはただじっと魔力を高め、さゆみを見据える。 

さゆみの魔力はただ巨大で、だけど変化していない。 
戦う気にはなっていないようだった。 

さゆみの口からさくらの名前が出た時、りえは少しだけ苛立った。 
『大魔女』までさくらなのか、と。 
まるでりえのことなど眼中にないようで、焦燥に駆られる。 
さくらと自分、そんなに違うというのだろうか。 

「本当に、私と戦うつもりなの?」 


「あなたが退かないというなら」 

「そっか」 

さゆみの声と同時に、りえは一気に魔力を開放した。 
岩の浮かぶ異様な海に吹いていた穏やかな風は 
ピリピリとした魔力に震え緊張を増す。 

りえが軽く飛び、少し後ろの岩に飛び移る。 
それと同時に轟音が響き、眼下の海から巨大な岩の塊が飛び出した。 
海の水を巻き上げ、幾筋も恐ろしい速度で岩が天に突き上げる。 

りえが更に魔力を込めると、その岩の先が錐状に伸び 
さゆみに襲い掛かった。 

ふわりとさゆみが身をかわす。 
さらに黒い岩石がせり上がりさゆみを追うように襲い掛かった。 
さゆみはひらひらと、綿毛のように伸びる岩の間を舞った。 

空中に浮いていた岩からも、錐状の岩石を飛ばす。 
りえは両手で複雑な印をきり、次々に岩の形状を変化させ波状にさゆみにけしかけた。 

さゆみはそれらを全て、無駄のない動きでふわりと交わす。 
一度攻撃を止め、りえが最後の印をきると 
蠢いていた岩石がすべてピタリと静止した。 

海から突き出した岩岩は、そこに巨大な足場を形成している。 
りえはゆったりと、足場に飛び降りた。 


「少しは、分かって貰えましたか?」 

りえが変わらぬ表情でさゆみを見据える。 
足元の岩の感覚を確かめ、しっかりと踏みしめて再び魔力を高める。 

さゆみは、りえと相対する位置で相変わらずふわふわと浮いていた。 

「うーん。 
魔力も技術も申し分無し、なんだけど。 
なんか勿体ないね」 

また、独り言のようにさゆみが呟く。 
りえはそれを聞いて眉を顰めた。 
以前、師からも似たようなことを言われたことがある。 
一体自分に何が足りないというのか、それは教えて貰えなかった。 

りえの得意な大地や岩や鉱物を操る魔法は、確かにあまり効率が良い物では無い。 
特に空を飛ぶことが出来る魔道士と戦う場合の相性は最悪。 

だけどりえはそんなことは承知で、得意なものを磨いて来た。 
自分がさくらのように器用では無いことは分かっている。 
この魔法で、自分は力をつけたと実感していた。 

「ちゃんと相手してあげたいとこだけど、急いでるからごめんね」 

さゆみの言葉に、りえは身構えた。 
自分の魔法を見た上で、高速で飛んですり抜けようとしているのか。 
逃がすつもりはない。 
りえの魔法が、飛べるさゆみの相手にならないと判断したのなら 
それはりえの目論見通りと言える。 
そんなに自分の魔法は単純なものではない。 


だけど次のさゆみの言葉は、りえの想像していたものとは違っていた。 

「半分で相手してあげる」 

さゆみが続けた言葉の意味が分からず、 
更に警戒を強めたりえの視界が一瞬、歪む。 
何かおかしいと、咄嗟に瞬きしたりえの眼前で、さゆみの姿が二重に映った。 

さらにどんどんとさゆみの像が二つに別れ、離れて行く。 

驚きに目を見開くりえの前に、気付けば道重さゆみが二人浮かんでいた。 


その巨大な白い羽も、姿も何も変わらない『大魔女』が二人。 
同じ不敵な笑みを浮かべ、そこに居た。 
それは残像でもなければ虚像でも無い。 
その証拠に、その長い髪はそれぞれに風を受け僅かに揺れていた。 

美しいけれど、あまりにも異様な光景。 
りえは暫し呆気にとられて二人のさゆみを見ていた。 


1人のさゆみの翼が大きく動く。 
と思う間にその姿が迫り、加速していた。 
呆けていたりえが慌てて魔力を高める前で、さゆみは進路をりえから外した。 
すり抜けようとしている。 

阻止しようと顔を向けた瞬間、 
背後から恐ろしい魔力の威圧を感じ硬直した。 

1人、さゆみが悠遊とりえの横をすり抜ける。 

りえがゆっくりと振り返ると、残っていたさゆみがその手に 
禍々しい魔力を纏った美しい剣を握り、切っ先をこちらに向けていた。 

りえは、島に向かったさゆみを追うのを諦めた。 

「君の相手はね、こっち」 

残ったさゆみが笑みを深め言う。 
りえのこめかみに一筋汗が伝った。 

やはり目の前に居るのは師と同じ「怪物」なのだと、りえは改めて思った。 

 

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りえの元に分身を残し、さゆみが飛ぶ。 
眼下には巨大な島、そして巨大な城が広がっていた。 

恐らく長い長い時を掛けて、つんくが作った城。 
それは、まるで生き物のように強大な魔力を蠢かせていた。 
ネオンの看板や、工場のような設備、石造りの古城が入り混じった建物が延々と続く。 
それらの全てが、無意味に種種雑多な魔力を纏っているらしかった。 

さゆみは、そのセンスを到底理解できなかったけれど 
それを作る気持ちは分かった。 
とにかく時間がいくらでもあって暇だから。 
意味なんて求めず、気の向くまま徒に何かを作る。 
それは自身も少なからず通った道だった。 

さゆみは、つんくがそこに居ることを漸く確信した。 
魔力とは別の、二人の大魔道士を感じる為の魔法が反応している。 
そして暫く意識を注ぐと、恐らく聖と香音のものであろう、因子の放つ雰囲気も感じ取ることが出来た。 
目的のものは全てここにある。 

だけど、状況は思わしくなかった。 
つんくも二人も、この城のどこにいるのかが分からない。

幾つかの魔法で城の内部の遠視を試みたけれど、全て城の魔力に阻止された。 
もしここに居るのがつんくだけならば、城を全て破壊して炙り出していたところ。 
だけど今ここには、聖と香音が居る。 

下手に破壊して巻き添えになった二人を救う術が無い。 
城の内部は完全にさゆみの領域の外だ。 

入って探すしかない。 
言うなればそこは、つんくの体内。 
圧倒的な地の利を相手に与えることになる。 

この城を、さゆみの対策の為に作ったのでは無いだろう。 
だけど明らかに、外敵を意識して二人をここに移動したのだと思える。 
M13地区から二人を攫うことを考えた時点で、恐らくつんくはこの状況を予想していた。 
つまり、同じ三大魔道士である”大魔女”道重さゆみと事を構える、喧嘩を売る意思がつんくにはあった。 

またさゆみの中に沸々と怒りが湧き上がった。 
夜風に翼を揺蕩わせ、それを落ち着ける。 

状況がどうであろうとつんくが何を考えて居ようと自分はただ二人を連れ帰るだけ。 

さゆみの手の中に、自身の羽が一枚。 
それに魔力を込めると淡い光を纏い、羽は剣に変わった。 
りえと対峙している分身が持っているものと同じ。 
それを直下に向け、急降下する。 

頑強な黒い石で出来た城の一部を 
轟音を辺りに響かせ、噴煙を夜空に巻き上げ、光の塊となって突き破った。 

衝撃に空が震え空気が唸る。 
それが収まると、さゆみは立ち上がり背に生えた翼を消した。

幅の広い廊下のような場所。 
破れた天井の横から点々と電燈が連なって、いちいち奇妙な壁飾りと幾つもの部屋のドアが見える。 
廊下は複雑に折れ、入り組んでいるらしいことが分かった。 
そして空から見ていた以上の、魔力の圧迫。 
強い敵意。城自体が意思を持つように、警戒を顕わにしている。 
恐らくさゆみの遠隔魔法は殆ど阻害されて使い物にならないだろう。 

つと、背後から足音が響いた。 

「おいおい、人ん家に天井壊して入ってくるか?普通」 

聞き覚えのある、含み笑いを纏った粘り気のある声。 
どれだけぶりに聞いただろう。 

足音が近づく。 
さゆみは振り向きざま、刹那の速さで剣を薙ぎ払った。 

視界に男の姿が入った時、既にその首は胴体から離れ飛んでいた。 
ばたりとその場に倒れる身体。 
壁にぶつかり跳ね返る頭部。 

それらが次第に形を崩し、さらさらと砂のように溶ける。 
そして床と壁に飲み込まれ、消えてしまった。

『久しぶりに会った元先生にいきなりやることかそれ!』 

城に、声が響いた。 
さも可笑しいというように、声は弾み笑いを含んでいる。 

さゆみは忌々し気に剣を振り、歩き出した。 

「だれが先生よ。 
ま、なんでもいいわ。出て来なさい、殺してあげるから」 

『怖いわ!誰が出てくっちゅうねん。 
せやけどアレやな。りっちゃん可哀想やろ、ちゃんと相手したれや。 
あっちに居るのん、2割くらいやん』 

廊下を歩きながら状況を整理する。 
つんくからは自分の動きは完全に見えている。 
外でりえと対峙している分身との力配分もほぼ正確に把握されている。 
声は相変わらず笑っているけれど、敵意はひしひしと感じていた。 

恐らく城全体を使って、さゆみを殺そうとしているのだ。 
全てがつんくの意思通り動くこの城で。 

これだけの地の利があって、大人しくさゆみの前に姿を現すことは無いだろう。 
探すしか無い。それも自分の足で。 
二人を早く探さなければならない。

「弟子なんでしょ? 
”大魔女”にぶつける捨石にする方が可哀想」 

『いや自分で行きたい言うてんもん。小田かて別に無理強いしたわけとちゃうで。 
まあ俺の頼み事を断れるんかは知らんけどな』 

廊下は幾つもの扉で仕切られていた。 
扉を開けるたびに、廊下の様相が変わる。 
色々なモチーフで彩られた廊下は、どれも奇妙でズレていた。 

直接歩いた道程はさゆみ自身の魔力でマークしている。 
だけど暫く歩くうち、気付いた。 
部屋や廊下は、到底構造的正しさを持っていない。 
上下も、左右も。それどころか、部屋も廊下も蠢き、その位置を入れ替え、 
自由気ままに恐ろしい迷宮を作り上げていた。 

今天井を突き破って、果たして本当に地上に出られるのかも怪しい。 
そしてもしさゆみが焦れて手当たり次第破壊しようとすれば、聖と香音が居る場所を 
さゆみの矛先に移動させることもつんくには可能らしかった。 

広い部屋に出る。 

部屋一面に、珍妙な骨董品が並んでいる。 
剥製に、壺に、和洋の甲冑。 

『せやけどまさか、お前がブチ切れて乗り込んで来るとは思わへんわ。 
これでも結構遠慮しとったんやで。あの二人。 
手出したら悪いか思って。 
全然使うような気配無かったからこっちで使わせて貰おう思ただけやん』 

つんくがさゆみを苛立たせようとしていることは分かる。

「なら直接私のところに来なさいよ。 
こそこそ弟子を使ってないで」 

『お前無意味に怒りそうやもん。 
どっちにしても怒ったけどなぁ。 
どないすんねん、三大魔道士がどっちか死んだら、二大魔道士になってまうで』 

「私とあの人の二人、その方が絵面がいいでしょ」 

『むむむ。確かに』 

「何がむむむよ」 

『それやったらお前が死なへんように、せいぜい頑張らななぁ。 
ま、ゆっくりしていきや。この建物な、弟子らのアスレチックにと思って大改造したんやけど 
誰も来たがらへんねん。おもろいと思うんやけどなぁ』 

さゆみの背後から動く気配がした。 
振り返ると、数体の甲冑が武器を振り上げている。 
前にも、左右にも。

城全体の魔力で動いているそれは、個々からの魔力の動きが殆ど読み取れない。 
勿論人が入っているわけではないけれど、予想外の機敏な動きで重い甲冑たちがさゆみを取り囲み襲い掛かって来た。 

さゆみが剣を一閃。 
幾重にも放たれた神速の斬撃が、甲冑たちを切り刻み、一瞬でそれらは金属片に変わった。 
同時に部屋に置いてあった骨董品も寸断され、ガラクタになって転がる。 

足元に這い寄っていた剥製の蛇に剣を突き刺し、さゆみは大きくため息を吐いた。 

「そりゃ、こんなとこ来たく無いでしょうね」 

散らかった部屋をそのままに次の間へと歩く。 
城はまた、うぞうぞと敵意を強め蠢き出した。 

 

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聖はいつか見た満開のひまわり畑に立っていた。 
これは夢。 
それがはっきりと分かる。 
だけど、酷く奇妙な夢だった。 

周囲に咲き誇るひまわりは、何時間か前に見たひまわりでは無い。 
これは去年見た満開のひまわりだ。今年はもう枯れてしまっていた。 

こんな夢があるだろうか。 
夢なのは間違いないのに、あまりにも感覚がリアルで、現との境さえ分からなくなる。 
眠りに落ちる前、ずっと街に風が吹き、身体はふわふわと覚束なかった。 
さくらの話を聞いてからは心もどこか宙に浮いてしまって、そちらの方がよっぽど夢の中にいたようだった。 
悪い夢の中に。 

もしあれも夢なら。 
覚めたら全部無かったことになっていたら、きっと自分は何も惑うことが無いのだろう。 
さくらも居ない。魔法使いになれる、そんなわけも無い。 
魔法なんて無い。 

もしそうなら、さゆみも、里保も、衣梨奈も、いない。 

不意に胸が締め付けられキリキリと悲鳴を上げた。 
まるでそこに自分の身体があるように。 

その苦しさに呼応して辺りは陰り、風が吹き、満開だったひまわり達は枯れてしまった。

さゆみも里保も衣梨奈も、優樹も遥も亜佑美も春菜も居ない世界に自分が目覚めること。 
その情景がよぎった瞬間、聖の両の目から涙が溢れだした。 
涙はとめどなく流れ、空から雨となって降り注ぎ辺りを浸していく。 

夢じゃない。 
衣梨奈たちと過ごした時間の全てを思い出し、そう自分に言い聞かせる。 
それはつまり、今自分が置かれている迷いが現実のものであると肯定すること。 
だけど衣梨奈たちが居ない世界を思えば、些細な事だと思えた。 

さくらの言葉をはっきりと思い出すことができる。 
そして触れられ、自分が眠りに落ちたその瞬間も。 

聖は顔を上げ、涙を拭い枯れたひまわりの花を手に取った。 
さくらが言ったように、その花は枯れてなお美しい。 

時の流れから逃げず、進まなければならないと思った。

ぴちゃりと、雨降るひまわり畑の水溜りを弾く音がする。 
振り返るとそこには香音が立っていた。 
すみれ色の雨の景色に浸されたような悲しい顔をして。 

いつもの太陽のような笑顔を、もう随分と見ていないなと思った。 

「聖ちゃん、ごめんね」 

香音が言う。 
聖は、香音が何故謝るのか分からず戸惑った。 

今目の前にいるのは、聖の夢の登場人物としての香音。 
普通の夢ならば、聖の思いが作り出した幻であるはずなのに、そう思えない。 
確かに香音が、聖でない鈴木香音がそこにいるのだと、そうとしか思えなかった。 

「ううん。どうして香音ちゃんが謝るの?」 

聖は少しだけ微笑んだ。 
そうすれば、香音も笑ってくれるかもしれないと期待して。 

「無責任なこと言っちゃったから、さ」 

香音は寂しそうに小さく笑った。 

見ればひまわり畑の真ん中に小さなベンチがある。 
雨は降っているけれど、夢だから寒くない。 
だから聖と香音は身を寄せ合ってそれに腰かけた。 

寒くないのに、肌を寄せると仄かに温かかった。

「しょうがないよ、聖だってどうすればいいか分かんなかったもん」 

「急過ぎだよね、まったく」 

温かさが嬉しくて、二人は遠慮がちに笑い合った。 

「これ、夢だよね?ちょっと変すぎないか、この夢」 

「うん、変だね。だって普通、夢の中で香音ちゃんに会えないよね」 

そう言ってからふと、考えがよぎる。 

「魔法…なのかな…」 

聖の言葉を聞いて香音がつと黙り、俯いた。 

もしかしたら自分たちはもう魔法使いになっていて、こんな魔法を使っているのだろうか。 
魔法というのは、そんないい加減で無責任なものなのだろうか。 
聖は魔法について知らない。 
だから何も分からない。 

衣梨奈たちの使う魔法を見たことはある。 
だけどお伽噺の中で見た、どんな夢でも叶う魔法とは違うと思った。 
だっていくら魔法が存在したとしても、聖達が住む世界は現実でお伽噺じゃない。 

自分は魔法使いになりたいと確かに心のどこかで思っていた。 
だけど何か魔法を使いたいと思っていただろうか。 

小さな頃にはあったかもしれない。 
魔法の実在を知らなかった頃に。でも今は――

「正解や」 

不意に聞えた言葉に、聖と香音が顔を上げる。 
見れば何とも形容しがたい雰囲気の男が、倒れたひまわりを避けながら歩いて来ていた。 
そしてまるで我が家とでも言うように、聖達の前にいつの間にかあった椅子にどっかと腰かける。 

「この夢は俺の魔法やで」 

男はギョロリとした目で聖と香音の顔を見渡し、不敵な笑みを浮かべて言った。 

「あなたは…」 

香音の呟きに、男が笑みを深める。 

「どうも、つんくです」 

突然の登場にどうすればいいかも分からず戸惑っている二人を尻目に、つんくは得意気に胸を張った。 

「小田からちょっとくらい話聞いてへんか?小田の師匠のつんくです。 
ところで自分ら名前なんなん?」 

「鈴木香音です…」 

「譜久村聖…です…」 

「鈴木と譜久村やな。いやいや、突然ですまんな。 
ほんまは二人とも目覚ましてからゆっくり話したかったんやけど。 
なんつーか立て込んどってなぁ。 取り急ぎ夢ん中で喋らして貰うことにしてん。 
別に自分らのプライバシー侵害するつもり無いから安心してや。 
まあ景色くらいは気分が反映されてまうかもしれんけどな」 

「はぁ…」

二人は独特のイントネーションで捲し立てるつんくに気圧されて曖昧に肯いた。 
聖はそこでようやく、さくらの口から何度か出た「先生」のことを思い出した。 

さくらの「先生」で、大魔女と呼ばれるさゆみと折り合いが悪い、という人物。 
具体的に風貌を想像していたわけではないけれど、ぼんやりと考えて居たどの先生像ともつんくは違っていた。 

「しかし、えらい景気悪い心象風景やね。 
いや、こういうんも風情があってええんやけどな」 

つんくが辺りを見回す。 
雨に濡れ、そろそろくるぶしまで水に浸されそうなひまわり畑。 
倒れたひまわりのいくつかは、もう水に浮いていた。 

「小田から聞いたやんな? 
自分ら魔道士になりたいと思わへんか?」 

つんくは、それを何でもないことのように口に出した。 
聖は不安に襲われ、呼応するように雨が強さを増す。 

一層叩きつける雨に、つんくは面白そうに笑って膝を叩いた。 

「考え中、って感じやな。 
それが普通やで。 
俺としては是非やりたい実験やし、自分らを魔道士にしたいねん。 
せやけどな、そんだけ気持ちがとっ散らかっとったら確実に成功せえへん。 
ようは自分らの気持ちが一番大事なんよ」

つんくの口振りに、聖は不思議な安心感を覚えていた。 
分からないことが沢山ある。 
だけどつんくは、聖と香音が何を知らず何を惑っているか、全部了解しているように思えた。 

夢だからだろうか。 
人見知りな聖も、初対面の人と話している割には緊張がない。 
ともすれば馴れ馴れしいと感じる親しげなつんくの話し方も 
かえって良く作用しているらしかった。 


「せやからええ機会やし、悩みがあるんやったら吐き出してみいひんか?」 

「え?」 

「この際実験のこととか置いとってええわ。 
魔道士になるかならへんか、それ以前の悩みやろ。 
俺は口固いし、それなりに人生経験豊富やから聞き手くらいにはなったるで。 
お互いには聞かれたくないんやったら個別にでもええけど」 

聖と香音は思わず顔を見合わせた。 
つんくは、明らかに胡散臭い。 
だけどそのあからさまな胡散臭さが、かえって裏を消しているようにも思えた。 
隠していることはあっても、少なくともこれまで話した言葉の中に嘘は無い。 
そんな気がした。 

そしてどこかに岸部を探していた自身の心に、つんくの言葉が魅力的に響く。 

さゆみや里保や衣梨奈に相談できなかった。言いたくても言えなかった、自分でもよく分からない気持ちを 
どこの誰とも知らないおじさんになら吐き出せる。そう思えた。 

聖と香音は暫時目で会話し、肯き合った。

▲ 
▼ 

衣梨奈と里保は、漸く嵐の雲の下を抜けていた。 
全身がしとど濡れ、それは夜風で乾いていったけれど 
体温を奪われて肌寒さを感じる。 
美しい月の下に、仄かな秋が香っていた。 

もう衣梨奈は危なげなく自由自在に飛ぶことが出来る。 
だから里保も、衣梨奈の補助をするという意識は殆ど無くなっていた。 

今は二人の力を合わせて、より速く飛ぶ。 
実際二人の魔力が合わさった飛行魔法は、凄まじいスピードで夜の海を横切っていた。 
だけど、さゆみにはとても追いつけそうにない。 

里保はさゆみの飛行を目の当たりにし、改めてその魔法の高みを見た。 
何か、風や魔力の推進力とは全く別種の、発想の根本を異とするような魔法。 
幻影や想いが空を駆け巡るように、さゆみの翼は何の抵抗も阻害も無く舞っていた。 

恐らくさゆみはもう目的の島に到着しているだろう。 

里保はふと、根拠の無い想念に囚われた。 
さゆみの速さがもしその想いの翼なら、それはとてつもない大きな力。 
だけど、脆さがありはしないか。 
だって道重家を出立したさゆみには、確かに焦りがあったから。 

同じ三大魔道士に出し抜かれ、聖と香音を攫われ、さゆみの心が揺れているならば 
その魔法もまた不安なものになってしまうのではないだろうか。 
さゆみが誰よりも強い魔道士であることは知っている。 
大きく暖かく優しい、最強の魔道士だと。 

だけど道重さゆみという人の寂しげな顔や、弱々しい笑みを里保は確かに見たことがあった。 
だから、不安になる。

守りたい、といえばあまりにも身の程知らず。 
信じたい、それも違う。 
自分はさゆみのことを知らず、さゆみの気持ちを知らない。 
一緒に過ごした時間もまだほんの数か月。 
気持ちが近づいたと感じても、まだ赤の他人では無くなったという程度。 

きっと自分は、側に居たいのだ。 
側に寄り添って、出来るだけ悲しい顔や寂しい顔をしないでいて欲しい。 
さゆみがそんな想いを抱かない為に、何か出来ることがあるならしたい。 

里保にとってさゆみは縁者でもなければ師でも無い。 
だからさゆみから何か求めることをしてはいけない。 
自分の為に、自分の想いの為に動く。 

不器用だから出来ることは少ないけれども。 
里保はそう考えていれば 
自分の為に生きることが出来る気がした。 

二人は言葉少なに飛んでいた。 
互いにいろいろな考え事に追われているのは分かっている。 

里保は漸く身体が乾ききってから、一度携帯端末を取り出し目的地の位置情報を確認した。 
もうすぐだ。 

そうしてまた別のことを考え始める。 
本当に、今起こっていることは難しすぎて、いくら考えても分からない。 
みんなの、それぞれの想いと未来のことが。 
そもそも西の大魔道士を相手にするのだ。悠長なことではない。

「あとどんくらい?」 

不意に衣梨奈が口を開いた。 
久しぶりに聞いた衣梨奈の声が、里保の冷えた身体を仄かに温めてくれる。 

「もうちょっと。この分だと30分もかからないよ。 
体力的には余裕でつけそう」 

「やね」 

「えりぽん、寒くない?」 

「んー、ちょっと涼しいけど、まあ気持ちいいくらい」 

衣梨奈が笑う。 
そういえば衣梨奈は、昨日台風の海に飛び込んだのだった。 
バカなことをしている割に、衣梨奈は怪我も病気も滅多にしない。 
きっと風邪もひかないのだろう。 

「里保寒い?抱きしめてあげようか?」 

衣梨奈がニヤニヤと笑いながら言う。 
顔は明らかにからかっているという風だけれど、 
言葉には冗談とも本気ともとれる響きがあるから本当にやっかいだ。 

「いい。いざとなったらえりぽん燃やすから」 

「ちょ、やめてー」 

二人笑い合う。決して笑っていられる状況では無いのに。 
頭の中を様々な煩瑣な問題や、嫌なイメージが跋扈しているのに、心は妙に穏やかだった。 
そういえば嵐の雲を過ぎてから、海もまるで月夜を映した写真のように凪いでいる。

ふと、二人が声をひそめた。 
沈黙がいくらか続いたあと、衣梨奈が静かに声を出す。 

「里保、今何考えよった?」 

尋ねられ、はたと思考を巡らせる。 
色々と考えて居たけれど、直近には何を想っていただろうか。 
とにかく衣梨奈とは、考えを分け合いたい。 
結果はともかくとして、里保は衣梨奈となら前へ進めることを自覚していた。 

答えようとして、口を開く。 
その口から出た言葉に、自身でも驚いた。 
だけど思えば、彼女のこともまた悩ましく思考の一部分を占めているのは事実。 

「亜佑美ちゃん…」 

「亜佑美ちゃん?」 

「なんで怒ったのかなって…」 

「ああ」 

衣梨奈が少しだけ笑う。 
里保は笑われた理由が分からず、頬を膨らませ衣梨奈の横顔を睨み付けた。

「あれは怒るやろ。亜佑美ちゃん、里保のことライバル視しとっちゃん」 

「え?ライバル視?」 

素っ頓狂な声を上げた里保に、今度は遠慮もせず衣梨奈が笑った。 

「ちょっと、え?だってうち、一応亜佑美ちゃんの上司だし、あの街では二人だけの協会員の仲間だよ?」 

「別に関係ないやん」 

「いや、意味が分からん。 
えりぽん、ちょっと笑ってないでよ。後でちゃんと謝ろうと思ってたのに、どうやって謝ればいいか分からないんだよ」 

いよいよ衣梨奈が大笑いしだした。 
里保は、ますます分からなくなって、不安になった。 
最近衣梨奈と亜佑美は妙に仲がいい。いつの間にか、自分より衣梨奈の方が亜佑美のことを 
知っているということになっていないか。それはとても悔しい。色々な意味で悔しい。 

衣梨奈は一頻り笑ったあと、すっと声を落ち着けて言った。 

「謝らんでええって。そんなんしたらもっと亜佑美ちゃん怒るとよ、多分。 
ふふ、里保はもっと亜佑美ちゃんのことよく知ったほうがええね。遠慮しすぎやし」

子供をあやすような優しい衣梨奈の声と、少なからず自覚していた指摘に里保は押し黙った。 
幼少の頃からの友達である遥や優樹は別格としても、立場上亜佑美に一番近い存在は自分だと自負していたのに 
どうも上手く近づけない。 
亜佑美とはお互いに遠慮が拭えない。 
それだけに声を荒げた亜佑美に酷く驚いてしまったのだけれど。 

「ま、里保もそうっちゃけどど亜佑美ちゃんも不器用やし、焦らんでいいけんいろいろ話してみたらいいやん」 

そういって衣梨奈が里保の頭をぽんぽんと叩いた。 
なんだか衣梨奈の方が大人のようで癪に障る。 
里保はぐうの音も出ないのが悔しすぎるから、小さく「ぐぅ」と呟いた。 

「でも、亜佑美ちゃんのおかげで本当に助かったんよ。 
えりぽん達が倒れてるの見つけた時、亜佑美ちゃんがめちゃくちゃ取り乱してくれたおかげでうちは冷静でいれたから。 
そのお礼は後でちゃんとしなきゃ」 

「いや…それも言わんでいいと思う」 

 


.

「えりぽんは、何考えてたの?」 

暫くの沈黙の後、今度は里保から尋ねた。 

衣梨奈が小さく浮かべていた笑みをすっと消す。 
それから真っ直ぐに前を見つめた。 

「聖と香音ちゃんのこと、とさくらちゃんのこと」 

里保も同じように前を見つめ、一つ肯く。 
飛んでいる間、散々考えたのは里保も同じ。 

「聖と香音ちゃんね、もしかしたらさくらちゃんが魔法使いやって知っとったかもしれん」 

「え?」 

「二人が連れてかれた時、さくらちゃんと話したんよ。 
っても殆どさくらちゃんが喋っとったっちゃけど。 
そん時『二つの選択肢のどっちを選ぶか』って話をね、えりにしてきたと」 

「二つの選択肢?」 

「うん。そん時は意味分からんかった。 
やけん今から思えば、あれは聖と香音ちゃんに聞かせる話やったと思う。 
そんでね、めっちゃ悩んだ顔して、結局二人ともさくらちゃんの方に行こうとした」 

里保は押し黙り、考え込んだ。 
衣梨奈の説明でその時の状況をイメージするのは酷く難しい。 
聖と香音がさくらが魔道士であることを知っていたというのも、肯定しがたい。 
だけど確かに夕食時の二人の様子はおかしかった。何かを悩んでいた。 
『二つの選択肢』それが何かは分からないけれど、二人は何か大きな決断を迫られたということだろうか。 
そして、さくらの元に行こうとしたというなら――

「ふくちゃん達が自分から攫われたかもしれない…ってこと?」 

衣梨奈は不安気に目を伏せ、小さく何度か首を振った。 

「わからん。そんな積極的に、じゃないかもしれん。 
けど二人とも悩んでた、と思う。凄く」 

「そっか…」 

二人の悩みが、里保には見当もつかない。 
西の大魔道士、その使いである魔道士小田さくら、因子、それらは 
直接彼女達の身に降りかかったことだとしても、魔道士ではない二人が思い悩む要素では無いという気がする。 

それともさくらの口から、『因子持ち』であることが告げられてしまったのだろうか。 
もしそうだとして、二人が一体何を思い詰め、悩んだのかは想像もつかなかった。 

衣梨奈の顔が不安に歪んでいる。 
付き合いの長い衣梨奈でも、二人の気持ちは分からないのだ。 

つくづく、人の心は難しいと里保は思った。 
亜佑美のこともそうだけれど。

きっと誰も人の心を完全に知ることなんて出来ない。 
だから話し合い、伝え合う。 
今、衣梨奈と話せていることが心強い。嬉しい。 

早く話したいと思った。 
聖と。香音と。少しでも知りたい。 
そしてさゆみと。さくらとも。 
まだ見ぬ西の大魔道士の気持ちに、少しでも触れることが出来るだろうか。 

里保は、そんな考え方をしている自分が、以前とは随分と変わっていると思った。 
M13地区に来てから、みんなと出会ってから確かに変わっている。 
いいのか悪いのか、そんなことは分からないけれど、今自分が飛んでいるのはその気持ちのせいだと 
それだけははっきりとわかった。 

「ちゃんと、話してみようよ。香音ちゃんたちと」 

里保が呟く。 
衣梨奈が数秒噛みしめて、肯いた。 

「そやね。急ごう」 


 

 

 

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最終更新:2015年08月05日 23:37