本編7 『交錯』


里保は鉛のように重い気持ちを抱えたまま
局長への報告をしていた。

『そうか……わかった、仕方ない。これからのことはこちらで検討する。
無理を言って済まなかったな。取り敢えず休んでくれ。里保、怪我は無いか?』

いつになく打ち沈んだ局長の声に、里保の肩がズキリと痛む。

「……はい、大丈夫です。すみません」

『気にするな』

「いまからでも……まだ、追えます。二人はかなりのダメージを負ってます。
今から追えば、簡単に捕まえられますし、そうすれば」


『駄目だ!……もう二人はM13地区の中にいる。分かっているだろう』

分かっていた。

M13地区の中で、協会魔道士として二人を捕まえることは出来ない。
以前戦闘したことはあるが、それは一魔道士としての『勝負』だった。
今は街の魔道士達も里保への感心を薄めている。
でももし、里保が協会魔道士として二人を捕まえれば
たちどころにその情報は伝わって、街の魔道士達の敵意が一斉に向くことになる。
二人と同じように協会から街に逃げ込んだ魔道士は山ほどいるのだ。

しかもこの街では、協会のルールも通用しない。
協会から身を守る為に手段を選ばない魔道士達に囲まれて
里保が生き抜くことは出来ない。
それが、里保が暮らして感じたこの街の意思。

『とにかく、関わることはもうしなくていい。
何かあればまたこちらから指示を出す。それまで、今まで通りの任務に当たるように』

「……はい、分かりました」

通信が切れる。
局長の声はどこか切迫していて、感情をつとめて抑えようとしていた。
今まであまり聞いたことのない声。それは今日最初に話した時からそうだった。
何かあるのだろうか。協会にとって重要な問題が。
それを自分が招いてしまったのだろうか。


最初の接触で、有無を言わさず二人を捕らえることはできた。
いくらでも、その機会があったのに、行動出来なかった。
今までなら出来ていたのに。

遥と優樹の表情を思い出す。

何故あそこまでして、逃げようとしたのだろう。
現に今負っている傷は深いはず。

里保の刀は、身体を切り裂きはしないが、相応のダメージと痛みを与える。
優樹に与えた一太刀は、身体が真二つになるほど深く入っていた。
普通なら、動くことはおろか意識を保つことも無理だろう。
気力で走り去ったとはいえ、それも長く保つはずがない。

下手をすれば命も失いかねない状況。それでも里保に向かってきた。

分からない。
ここ一ヶ月ほどの任務で、M13地区の魔道士達の営みや、新しい魔法について多く知った。
でもそういえば、里保は自分が所属しているはずの協会について、あまりにも知らなかった。


局長の声を思い出す。
焦りの所為か、どこか冷たく突き放すようだった。

役立たずだと思われただろうか。
『優秀な協会の執行魔道士』とは、もう思ってくれないかもしれない。

言いようの無い不安が里保の頭に擡げた。

局長が自分を大切に思ってくれていることは頭では分かっている。
でも里保は、そもそも『優秀な協会魔道士』になることを期待され
生田の家に引き取られたのだ。
そうでなくなれば、たちどころに局長との繋がりが薄れ、
消失してしまうかも知れないという不安が拭えない。

里保は局長を父親のように思っていたけれど、一度も父と呼んだことは無い。
どうしたって、血は繋がっていないのだ。

同じように育ったけれども、衣梨奈とは違う。
衣梨奈は、協会に所属していなくても、家出して大魔道士の弟子になったとしても、局長の娘だ。
どれだけ自由奔放に生きても、それだけは変わらない。
そんな衣梨奈が羨ましい。そんな衣梨奈に憧れ、そんな衣梨奈が憎い。

里保の頭の中がグラグラと揺れて
心許ない想念だけが跋扈していた。

トンネルを見つめる。
街に戻っても、自分が出来ることはない。
ただいたずらに、自分より年若い魔道士に傷を負わせて
戻った里保を、衣梨奈やさゆみはどんな目で見るだろう。


いっそ、もうこの街を離れてしまおうか。
でも、今の里保には、どこかに自分が帰れる場所があると思えなかった。


「里保!!」

打ち沈み、立っていた里保の耳に、大きな声が届いた。
見ればトンネルから、猫の姿をした春菜に先導され、衣梨奈が駆けてくる。

どうしてここにいるんだろう。
里保はぼんやりとその姿を見ながら思った。

「里保、大丈夫!?」

側まで走ってきた衣梨奈は、すぐに里保の様子がおかしいことに気付いた。
春菜も里保の周りをくるくる周り、狼狽している。

「えりぽん…なんでここにいるの」

「やっぱり心配やったけん、はるなんに居場所教えて貰ったと…」

おせっかいな友人だ、と思いながら
その顔を見て、里保の打ち沈んだ気持ちが少しだけ洗われる気がした。


たった今、憎いとまで思った衣梨奈の、真剣に自分を心配する顔を見ていると
なんだか泣きたい気持ちになる。

「里保、怪我しとーやん!?」

里保の肩からは、焼けたような魔力の残滓が漂い
白い制服のブラウスにうっすらと血が滲んでいた。

「大丈夫だから…」

「大丈夫やなか。ちゃんと治さんと」

「こんくらい大丈夫だから!ほっといてよ!」

里保の声が響く。
くるくる踊っていた春菜が、びくりと毛を逆立てて静止した。

八つ当たりだ。
でも里保は、自分が何に対して苛立っているのかも分からなかった。


何か一つ歯車が狂って、機械全体が壊れてしまうと
もうどこがおかしかったのかも分からない。

大切な友達。大好きな友達のはずの衣梨奈も、何か小さな自分の欠陥のせいで
失ってしまうのだと思った。

蝉の声がやみ、不意に辺りが静寂に包まれる。
吐き捨てた里保は、もう衣梨奈の顔を見ることも出来なかった。


「ほっとかないよ。もうえり、里保のこと一人にしないって決めたけん。
もう絶対、放っとかないから」

予想外の言葉が降りかかる。
それは穏やかで、力強い声だった。


里保の心が不意に、形を取り戻す。
どこが狂っていたのかも分からないまま、また機械が動き出した。
それはまるで、魔法のよう。


里保が恐る恐る視線を上げる。
美しく西日を受けた、柔らかい笑顔があった。

不意に今までの振る舞いが恥ずかしくなって
里保は顔を伏せた。
でもまた、その笑顔が見たくなって顔を上げる。

「帰ろう」

衣梨奈が里保の肩にそっと手を当て
もう片方の手を差し出した。
鈍く疼いていた痛みが、温もりに溶け出しす。

「うん」

里保は差し出された衣梨奈の手をそっと握った。

衣梨奈が暮らす、さゆみの家に帰ろう。
そう思った。


衣梨奈と里保が歩きだすと、春菜もそれに続く。

「はるなん、案内してくれてありがとね」

里保を気遣いながら、衣梨奈が春菜に声をかける。

「いえいえ。それで鞘師さん」

「うん?」

「あの二人は、一応追跡しますか。多分まだ可能ですが」


トンネルを抜けると、M13地区の街並みと、夕焼けに燃える海が見えた。

「ううん、いいよ。もう……任務終わったから。ありがとね」

「いえ、それならばいいんです」

色々なことを考えなければならない。
でも、今は家に帰りたい。さゆみの家に。

二人が街のどこかで無事に居てくれればいいのだけれど。

朱い坂道では、蝉のかわりに夜虫の合唱が始まっていた。


 


トンネルを抜け、住宅街の坂を暫く走った優樹は
遥の意識が戻るのを感じ足を止めた。

塀の影に遥を下ろし、人の姿に戻る。
遥はゆっくりと目を開け、緩慢な動作で辺りを見回した。

「……まーちゃん、ここは」

「トンネルの向こう側だよ」

まだ覚束無い頭が、ゆるゆると状況を把握し始める。

「そっか……。やればできるじゃん」

「へへ」

遥の言葉に、優樹は照れたように笑った。

遥は何となく、理解した。
変身した優樹が、情けなく落ちていた自分を担ぎ里保を突破したこと。

やはり優樹の底力は凄いと思う。
ちゃんと制御出来るようになれればいいのだけれど
本人にあまりやる気が無いのだから本当に勿体無い。

 

とにかく、自分たちは逃げ果せた。
もうここはM13地区で、協会の手は伸びない。
そのことに心底安堵した遥は、意気揚々と立ち上がろうとした。

途端、全身がぎりぎりと痛んで顔を顰める。

「痛ぅ…あー、ハルまじ魔力すっからかんだわ」

言って笑う。

「ま、とにかくどっか休めるとこ探さないとね」

意識がはっきりすると
街の中に漂う、様々な魔力の残り香が
遥の身体を緊張させた。

これがM13地区という場所。
殆ど抵抗力もない自分たちが、協会魔道士でなくとも
他の魔道士と接触するわけにはいかない。

「行こう」

「ん」

優樹の短い返事を聞いて、のろのろと遥が歩き出す。
暫く歩いて、ついてこないことを不思議に思い遥が振り返った。

遥の目には優樹が前のめりに崩れ、倒れる姿が映った。


「まーちゃん!!」

慌てて駆け寄り、覗き込むと、優樹は大粒の汗を顔中に浮かべて
苦しそうに息を吐きながら目を閉じている。
お腹のあたりにを両断するように、横一文字に赤い帯状の線があって
物凄い熱を発していた。

里保から受けた傷であろうことはすぐに分かった。
でもその傷は想像以上に深く、魔力の殆ど残っていない優樹の身体には重すぎる。

「まーちゃんっ……そんな、どうしよぅ、やだよ」

遥は何とか優樹を抱き上げ、運ぼうと試みたが
全身に力が入らず、優樹の身体を持ち上げることすら出来ない。

気休めの治癒魔法すら使えない。
今の遥には魔力が全く残っていなかった。
ここは始めて来た街。どこに何があるのかも、まるで分からない。

苦しそうに喘ぐ優樹に覆い被さり
どうすることも出来ない遥の目には涙が浮かんでいた。

「嘘でしょ、ねえまーちゃん、ねぇ」

次々と涙が溢れ、視界が歪み、思考が歪む。
幼い子供のように、遥は泣いた。

 

勉強をするために形から入ろうと街の文房具屋さんを回っていた聖は
すっかり染まった夕空を見て焦っていた。

こんなだから自分はバカなんだと、後悔しても遅い。
とにかく早く帰らなければと、住宅街を歩いていた。

その時、子供の叫び声を聞いた。
急ぎ、声の方へ走り角を曲がる。

高い家の塀の長い影の中で
少年のような少女が、泣きながら踞っている。
その手の中で、もう一人少女が倒れていた。

聖が慌てて駆け寄る。


「ねえ、どうしたの!?大丈夫?」

不意に現れた人影に遥が目を向ける。
涙の幕の向こうに、髪の長い女性の像が映った。


聖は状況に混乱していた。

少女からは血が出ている様子は無いけれど、酷く苦しそうに臥している。
少年は泣きはらした顔にさらに涙を浮かべて少女に縋っていた。

何も分からない。でもとにかく助けなきゃ、と思った。

「その子、怪我したの?大変…病院に!
えっと、救急車って何番だっけ…
あーもう、聖のバカ!そうだ、爺やに車で来て貰えば…!」

聖はまず落ち着こうと一つ息を吐き
それから勢いよく電話を掛けて急を告げた。

こんな時、聖の足りない言葉でもすぐに事態を察してくれる
お手伝いさんが本当に頼もしい。
急を告げる会話は数秒で終わり、すぐに車を出してもらえた。


遥は不意に現れた聖が何者なのかの判断も出来ず
ただ、自分たちを害する人ではないとだけ確信する。
そして慌てつつも助けを呼ぶ聖の姿を見て、不思議な安心感を抱いていた。

聖は、泣く遥の背をさすり、安心させるように早口で言った。

「大丈夫だから。すぐ病院に連れてってもらうから。ね、泣かないで」

数分もしないうちに、閑静な住宅街に黒い車が到着した。
中から勢いよく降りた初老の男性は、聖に目配せすると
テキパキと優樹を抱え車に乗せる。

「すぐ近くに病院あるから。ね、一緒に行こう。きっと大丈夫だから」

遥は涙を拭いながら頷き、
聖に促され車に乗り込んだ。

「爺や、急いで!」

「かしこまりました」

車が勢いよく走り出した。

 


車に揺られながら、遥はようやく落ち着きを取り戻していた。

あのまま自分が泣いていて、ずっとあの場に蹲っていたら
優樹がどうなっていたかは分からない。
自分の横に座り、手を握ってくれている女性を改めて見た。
魔力は無い、本当にただの通りすがりの人なのだろう。

それなのに、必死で優樹を助けようとしてくれたことが嬉しく
ただ泣いていた自分が恥ずかしくなった。
その手は柔らかく暖かくて、心を覆うように落ち着かせてくれる。
まるで、お母さんのようだ。

 

遥の目が、幾分の強さを取り戻す。
その顔を見て、聖は微かに微笑んだ。

「少し、落ち着いた?」

「はい……ありがとうございます」

「もうすぐ病院につくからね。きっと、大丈夫だから」

「はい……」

未だ苦しそうに臥せている優樹を見ながら、その傷について思いを巡らせる。
赤い傷跡に残る魔力が、里保の太刀を浴びたことを如実に表していた。
血は出ていないし、外傷と言えるものは無い。
それだけに、不安だった。

里保のことを思い出す。
自分たちとそう年頃も変わらない子供だった。
威圧的な無表情を常に湛えていたけれど
あちらから攻撃はしてこなかった。
任務に忠実だとしても、協会魔道士。
相手を傷つけたり、殺したりしてしまう可能性を下げる魔法を開発したのだろう。
普通の刀での傷ならば、優樹はもう既に死んでいる。

でも、消耗しきった優樹の身体にはこの傷も充分な驚異だ。
しかも、今向かっている医者が普通の医者ならば、その治療は多分難しい。


「到着しました。すぐに先生にお話して参ります」

不意の声と車の揺れに、遥の思考が中断された。
聖のお手伝いさんが、車を泊めすぐに建物の中に駆け込む。

程なく、お手伝いさんと、病院の職員と思しき人が
担架を持って出てきた。
そして優樹を慎重に乗せ、手際よく院内に搬送していく。

話が早いことが助かった。
まだ何も、事情も説明していなければ、名前すら名乗っていないというのに。

でも遥には、この親切な人達に説明出来る言葉が無かった。
今の遥と優樹は、身体一つで見ず知らずの街にいて、それ以外は何もない。
街に逃げ込めばどうにかなると、何も深く考えていなかった
自分たちの浅薄さが嘆かわしい。

しかし今はとにかく、優樹の治癒が先で
その後のことはその後考えるしかない。


優樹が担架で運ばれ、遥と聖は待合室で待つことになった。
手続きから戻ったお手伝いさんも加わり、三人沈黙の中で待つ。

何か事情を話すべきだと思ったが
二人は何も聞いてこなかった。
多分、それは治療を受けるにも必要なことで
時々お手伝いさんは何か聞きたそうな顔を遠慮がちに向けた。
でも聖は、側に座ってただ優しく遥を勇気づけてくれる。

思ったよりずっと早く、先生が姿を見せ遥たちを呼んだ。
院長と思われる風格のある老医師が、難しい表情で聖と遥を見る。
その表情を見て、遥は察した。


「先生、どうですか!?」

聖が真っ先に身を乗り出し、必死の顔で問う。
先生は、落ち着くように一拍置いてから
しかつめらしく重々しい口調で語りだした。

「すみません。あの患者さんは、うちでは治療出来ません」


「そんな」

聖が漏らす横で、遥は俯いて聞いている。

「様態が特殊で……専門医のいる所でしか診れんのです。
正直に申し上げて、我々共では、あの子が現在危険な状態なのか
そうでないのかすら解りません」

先生が、お手伝いさんに目配せした。

「少し離れていますが、隣の隣の街に、あのような患者をみれる専門医がおります。
私が紹介状を書いてすぐに患者をそちらへ……」

「それはダメ!」

不意に割り込んだ遥の声が響いた。

今この街を出てしまえば元の木阿弥。
M13地区を出ることは絶対に出来ない。


聖とお手伝いさんはびっくりして遥を見たけれど、
先生はどこかその言葉を予想していたように、難しい顔のまま二三頷いた。

「やはり…。私も長くこの街で医者をやっておりますので
こういうことは始めてではありません。事情が、おありですな」

先生がじっと遥を見る。
それから、聖のお手伝いさんの方へ顔を向け
慎重な口ぶりで言葉を続けた。

「この街に、恐らくあの子を治療出来る方がおります。
ただその方は医者では無いですし、診ていただけるかも分かりません」

「その方というのは…」

「道重さゆみという方を、ご存知でしょうか?」

その名前に、聖と遥、そしてお手伝いさんは、三様の驚きの声を漏らす。

遥は、今の今まで、その存在について考えてもいなかった。
そもそもこの街、M13地区が、『大魔道士道重さゆみ』の縄張りであるということを思い出す。


「道重さん!?」

遥の横で、聖が声を上げる。

「ご存知でしたか」

「はい、道重さん、普段からよくして貰ってるんです。
道重さんなら治せるんですか?あの子、助けられるんですか?」

「さっきも申しました通り、私共では何とも言えないのですが、恐らくは。
しかしあの方とお知り合いとは、なんと僥倖な。
普段あまりこういうことを請け負って下さらないのですが」

老医師は驚き、感心したように聖を見やった。
先生の言葉を聞いて、聖の気持ちが高まる。
遥の手を握り微笑むと、お手伝いさんに向けて言った。

「よかった。爺や、すぐ行こう。きっと、道重さんなら私のお願い、聞いてくれるはずです」


「はい、お嬢様。先生、我々は道重さまと懇意にさせて頂いておりますので
直接出向いてお願い申し上げようと思います」

「それがいいでしょう。我々の力不足で申し訳ありません。
そういうことでしたら、あの患者をすぐに運びましょう」

遥は話の流れを追いながら、思考を巡らせていた。
魔法の傷は、魔力の無いお医者さんでは治せない。
魔道士が開業している病院がこの街に無い以上、
治療を請け負う魔道士もどこかにはいるだろうが、何も知らない遥には探せない。

遥が知る中で、一番その能力が保証されているのは間違い無く「道重さゆみ」だろう。
三大魔道士と言われる人物。なんとなく恐ろしい風貌の魔女を想像した。
でもその人と、さっき偶然出会った聖とが知り合いだというのは、幸運と言うしかない。

不安が渦巻いていた遥の心に、ようやく一筋の光が差した。

 

 


衣梨奈と共に戻った里保を、さゆみは何も言わず迎えてくれた。
肩の怪我には勿論気付いただろう。
さゆみは衣梨奈に

「御飯、遅くなってもいいから」

と言って、部屋に戻るよう促した。
その意味が、里保の治療を、ということだと衣梨奈はすぐに分かった。

衣梨奈の部屋で、ベッドに腰掛ける里保。
里保の肩に衣梨奈が手をかざす。


「痛いの痛いの飛んでけー!」

「えりぽん、飛んでかないでね」

「ん、なに?どういうこと?」

「なんでもない」

ともかく、衣梨奈の手に淡い魔力の光が宿った。
それをゆっくり里保の肩にあて、摩る。
暖かさが傷口に広がり、痛みがみるみるうちに和らいだ。

「ん、ありがとう。もう…」

「まだ。ちゃんと治さんと」

立ち上がろうとするのを衣梨奈に止められて
またベッドに腰を下ろす。


夕日の朱の差し込む部屋で、里保はじっとしていた。
衣梨奈の真剣な表情、彫像のように整った顔に夕日の影がかかる。
その顔をぼんやりと見ていた。

衣梨奈が一心不乱に治癒魔法を掛けてくれている。
里保に何も尋ねることなく。

「えりぽん、うちね……」

「ん?」

里保が、何か言わなければと思って声を出したけれど、続けることは出来なかった。
一体何を言おうとしたのだろう。

協会の任務を失敗したこと。
衣梨奈を憎いと思ってしまったこと。
健気な少女に深い傷を負わせてしまったこと。

どれも言葉にすることは出来なかった。
まだどれも、ちゃんと自分の中で処理出来ていない。
それに、この場で話すのに相応しいこととも思えなかった。


「えっとね、その…えっと」

それでも何か言葉を探していると
今まで肩に寄せていた視線をふと里保の目に向けて、衣梨奈が笑う。

「焦らんくていいとよ。話せる時に、話せるだけ話してくれたら、衣梨奈は嬉しいけん」

「うん…ありがと」

里保は、やっぱり衣梨奈の笑顔が好きだと思った。
衣梨奈は当たり前のように里保を信頼してくれている。

この笑顔が、いつまでも側にあって欲しいと思うならば
その信頼を裏切らないだけの、気持ちの強さが要るのだと思った。

その為に自分は、もっと悩み考えるべきなんだろう。

肩に当てられた衣梨奈の手が気持ちよくて
愛おしくて、里保はその手をそっと握った。

ふと悲しさが襲う。


あの少女達には、こうやって手を当ててくれる人がいるだろうか。


「生田、りほりほー」

下からさゆみの呼ぶ声が聞こえた。
衣梨奈の魔法が中断する。

「はーい、何ですかー?」

「ふくちゃんが来たみたいだから、出迎えてあげて」

「聖が?」

何だろう、と里保と衣梨奈が顔を見合わせながら下へ降りると
程なく道重家のチャイムが鳴らされた。


 


車を降り、目の前の建物を見上げた遥は身を固くしていた。
一見古風な洋館だが、飛び交う魔力の波が恐ろしい。
抵抗力の弱っている遥は、立っているだけでその魔力に酔いそうになる。

聖が勝手知ったるという風にチャイムを鳴らすと
間髪いれず、門の奥の扉が開いた。

中から衣梨奈が顔を出す。
あれが三大魔道士かと身構えた遥の考えはすぐに否定された。

「聖、どうしたと?連絡もせんと」

「あ、そうだね、先に連絡したらよかった。ごめんね、えりぽん。聖、道重さんにご用があるの」

早口に捲し立てる聖と、出てきた少女の会話を聞いて
その人が道重さゆみでないことを知る。
遥は取り敢えず胸をなでおろした。


しかし次の瞬間、衣梨奈の後ろから現れた人物に、遥の身体が硬直する。
扉から現れたのは、先刻自分たちの前に立ちはだかった協会魔道士であり
優樹に傷を負わせた張本人だった。


遥のこめかみを汗が伝った。
何で。一体何で協会魔道士が街の中にいるというのか。約束が違う。
逃げる、ということは考えられない。
意識の無い優樹を連れて逃げることなどできっこ無い。

それよりも遥は、自身の中に膨れ上がる敵愾心を押さえつけるのに必死だった。
戦ったって勝目は無い。優樹の様態を考えれば、もはや抵抗することは出来ない。
でも、そう年も変わらないのに自分たちを圧倒した、優樹に深手を負わせたこの少女がとにかく憎かった。
勝てないまでも、一発殴ってやりたい。


里保もまた、遥の姿を見て目を見開いた。

「あ、里保ちゃん、ごめんね道重さんいるかな?」

「え、あ、うん。ちょっと待っててね」

聖に声を掛けられたのを好機に
里保が、鋭く睨みつける遥の視線から逃げるように家の中に戻ろうとする。
するとすぐにさゆみが玄関から顔を出し、戻ろうとする里保の肩を押して外に出た。

「はーい、道重さんいるよー。どうしたの、ふくちゃん」

さゆみが自然に里保の手を取って門まで歩く。
里保は仕方なく、よろよろとさゆみの後に続いた。

衣梨奈が門の前で待っていた聖たちの元へ駆け寄る。
門を開いて客を招き入れると、さゆみ、里保、衣梨奈と
聖、遥、お手伝いさんが向き合う形で対面した。

深々と頭を下げる聖のお手伝いさんに
「こんにちは」と微笑んださゆみが、視線を遥に移す。

 

里保を睨んでいた遥は、不意の「大魔女」の登場にまた緊張を強いられて
もはや一体どういう状況なのかも分からなくなっていた。

敵がそこにいる。そして大魔女は予想外の美人。
最初に出てきた女の人は何だろう。
もう訳が分からない。

視線が会ったまま逸らせないでいた遥に
さゆみが柔らかく微笑んで片目を瞑った。
そしてさりげなく手を払う仕草をしたかと思うと
建物を包んでいた放埒な魔力の奔流がパタリと止んだ。
代わりに、どこか暖かい、優しい魔力が家を包む。

里保と衣梨奈は、『道重さんスポットの魔法』だとすぐに分かった。

遥もその魔力の変化に気付く。
疲れきっていた遥の身体が包まれ、癒されていくような感覚。
そしてそれと同時に、里保に抱いていた敵愾心が突き崩されていく。
強く意識して維持しないと、里保を憎いと思えない程に。
遥の目線の先に、どこか怯えたように口を結んで上目にこちらを見ている里保がいる。
それは、幼い少女の顔だった。


「あの、道重さん。怪我をした女の子がいるんです。
それで、お医者様に行ったら、道重さんなら治せるって、それで…」

聖がさゆみに説明しようとするけれど、焦って中々要領を得ない。

けれども、お手伝いさんが説明しなおそうと前に出ると
それを笑顔で制してさゆみが言った。

「後ろの車の中?」

「はい…」

「生田、家の中に運んで」

呼ばれた衣梨奈が車に駆け寄り、お手伝いさんも戻って車を開ける。
衣梨奈は苦しそうな優樹の様子に驚き、すぐに抱きかかえた。
それから慎重に家に運ぶ。


「とりあず診てみます。どうぞ」

さゆみはそう言って、聖たちにも入るよう促す。
それから聖の後ろで動けないでいる遥に言った。

「君、名前は?」

さゆみが遥に尋ねる。
聖が咄嗟に紹介しようとして、自分も知らないことに気付いた。
仕方がないので、耳を傾ける。

「……工藤遥。あの子の友達です」

大魔女を前に些か緊張して答える遥に、さゆみが花のように微笑んだ。
聖もその名前をしっかりと頭に刻み込んで、衣梨奈の後を追う。

「工藤、遥ちゃんね。私は道重さゆみ」

「…はい」


「大丈夫だから、おいで」

言ってその手を取り、もう片方の手で
遠慮がちに様子を覗っていた里保の手を取った。
遥と里保が驚いて、目を見開く。
さゆみはそんな二人にそれぞれ悪戯な視線を送ると手を引いて歩き出した。

何とも言えない微妙な表情で、遥と里保もさゆみの後に続く。

夏の夕日がようやく沈もうとしていた。


 

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最終更新:2014年07月14日 22:59
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