本編8 『シュワポカーの夜』

 


衣梨奈が優樹の身体を客室のベッドへ寝かせる。
それを確認したさゆみが、聖達を居間の方へ促した。
家に上がり込むことを渋っていたお手伝いさんも、さゆみに促されて後に続く。
遥も気を張り詰めながら取り敢えず従った。

「様子を見てみます。すぐ戻るので、少し待っててね。
生田、ちょっと手伝って。りほりほ、お客さんにお茶を出して上げて」

「はい」

さゆみが言い、衣梨奈が返事をする。
里保は、戸惑いながらも頷いてキッチンに向かった。

さゆみの家のヘンテコな居間で
聖と遥とお手伝いさんが、居心地悪く腰掛ける。


聖は、ようやく腰を落ち着けてから
まるで分からない状況に、酷く戸惑いを覚え始めていた。
何故、あの子は怪我をしていたのか。
何故病院では治せないのか。何故遥は他の病院に移すことを拒否したのか。
そして、何故さゆみには治せるのか。

柔らかい光に包まれたリビングの、面白い形の椅子に腰掛けながら考える。
いくら考えても、何も分からなかった。
さゆみの指示に戸惑うことなく動いていた衣梨奈には、分かっているのだろうか。
里保にも、分かるのだろうか。

どこか謎めいているとはいつも感じていた。
さゆみと衣梨奈。見た目だけならば、美人姉妹という風。
でも二人の関係は、どちらかと言えば親子、いや、先生と生徒のように見える。
衣梨奈の家出や、さゆみの家に転がりこんだ顛末も、詳しくは聞いていない。
里保が転校してきて、少しはその謎も解けるかと思ったけれど、
里保の存在によっていよいよ謎は増した。

聖は、さゆみ、衣梨奈、そして里保のことが好きだ。
でも、知らないことが不安だった。
本当の三人とは、全然別の三人がいつも目の前にいるんじゃないかと
ふとした瞬間に不安に思うことが何度もあった。

これを機に、何か話して貰えるだろうか。


いや、尋ねよう、と思い直した。
自分はただの通りすがりだけれども、遥や女の子のことを
もう後は任せてそれきりになんて出来ない。
迷惑と思われることは怖いけれど、自分が収まらないと思った。

ふと隣を見ると、唇を固く閉め
険しい顔で一点を見つめる遥が映る。

さゆみの表情を思い出した。
その顔は穏やかで優しくて、いつものさゆみ。
どんなことでも何とかしてくれるような不思議な安心感があった。
きっと大丈夫だと思う。
根拠は無い。強いて言うならば、道重さゆみだからだ。

「ね、きっと大丈夫だよあの子。道重さんなら、絶対」

聖は、遥の強ばった顔を見るのが辛くて
柔らかい声で言った。

「……はい」

聖を一瞥して、小さな声を出した遥の表情は晴れていない。


「私、譜久村聖。言うのが遅くなっちゃった」

負けまいと自らを奮い、遥に笑いかける。
遥の表情が少しだけ柔らかくなった。

「工藤遥っす…。その、本当にありがとうございました」

遥の言葉に、聖の顔が一気に華やぐ。

「ううん、聖は何も出来なかったから」

「ハルも、何も出来なかったです…」

遥はそう呟いて、優樹が寝ている部屋の方に視線をやった。

「あの子は…」


聖が言いかけた時、
お盆を持った里保が居間に戻ってきた。
そのまま続く言葉が宙に消える。

「ごめん。えりぽんみたいに上手くないと思うけど」

そう言って、どこか緊張しているらしい里保が聖の前にカップを置いた。

「ううん。ありがとう里保ちゃん。なんかすっかり道重さん家の住人だね」

「いや、そんなことは…」

硬い顔の中に、少しだけはにかんだ色を見せて里保が笑う。

「すみません、里保さま。私にまでこんな」

恐縮しきりのお手伝いさんにも、里保が笑いかけた。


それから、遥の前にも恐る恐るカップを置く。
遥の睨みつける視線が里保に刺さり、また怯えたように里保の肩が揺れた。
数瞬の沈黙の後、遥が睨みつけたまま小さく頭を下げ、カップを受け取る。
聖が一口お茶を飲んで「美味しいよ」と微笑んだ。

里保が戻ったことによって、居間には再び気まずい沈黙が流れた。
窓の外はすっかり夜の帳が降りている。
部屋に沢山ある壁掛時計の秒針の音が、やけに大きく木霊した。

いよいよ沈黙に耐え兼ねて、聖がまた何か話そうと口を開く。
それと同時に、さゆみと衣梨奈が居間に戻って来た。
お手伝いさんが立ち上がったのに続いて、聖と遥も立ち上がる。
全員の視線がさゆみに注がれた。

さゆみはゆっくりと一同を見渡してから、柔らかい口調で言った。

「さて、と。あの子の様態だけど、とりあえず命に別状は無いよ」

その言葉に、誰からともなく安堵の息が漏れ、それが部屋中に広がる。
聖が遥の手を取り、満面の笑みを向け、遥もぎこちない笑顔でそれに答えた。


「でもすぐに全快するような怪我でもないから、暫くはここで治療しないと」

さゆみが遥を見ながら言う。

「…お願いします」

遥が深々と頭を下げると、さゆみは笑顔で頷いた。

「そういうわけだから。ふくちゃんは、今日はもうお帰り」

「え?」

聖が思わず声を上げる。

「あの子が目を覚ますのはいつになるか分からないよ。
ずっと待ってるわけにもいかないでしょ?テストも近いんじゃないの?」

「それは、そうですが…」

テストのことはたった今まで忘れていた。
でも、ここでこのまま帰ってしまったら、また何も分からないままだ。
さゆみのことも衣梨奈のことも里保のことも、遥とあの女の子のことも。
それだけは嫌だった。
自分だけ仲間はずれになるのは嫌。


「あの、道重さん。聞いてもいいですか?」

「なに?」

聖は一度唾を飲み込み、意を決して言った。

「道重さんはお医者様じゃないんですよね?どうして道重さんには
あの子の怪我が治せるんですか?どうしてお医者様が、
道重さんを頼るようにおっしゃったんですか?」

聖の言葉に、衣梨奈と里保が凝っとしたように目を向ける。
部屋中の視線が聖に集まった。
何か、触れてはいけないものに触れてしまったかのようで
強く握った聖の拳の中に汗が浮かぶ。

さゆみだけが、変わらない穏やかな笑みを浮かべていた。

「そうだね、ふくちゃんももうすっかり大人になったもんね。香音ちゃんも。
二人とも、生田やりほりほよりずっと大人だから、いい機会かもね」

さゆみの言葉に、聖が戸惑う。
衣梨奈と里保は、香音の名前が上がったことに違和感を覚えていた。


さゆみがふと視線を聖から離し、隣で黙って聞いていたお手伝いさんに向ける。

「お嬢様に、私の口から告げてしまっても?」

意味深な言葉に、聖は怪訝な顔で隣を見た。
しかし聖の予想とは裏腹に、お手伝いさんは真っ直ぐさゆみを見、
その言葉の意味を了解したようだった。

「譜久村家には、あなた様のお考えに異論を唱えるものはおりません」

「そうですか」

お手伝いさんから発せられた言葉に、さゆみは頷いた。

「じゃあ、ふくちゃんには教えてあげる。でも、また今度、香音ちゃんと一緒にね」

「え…」

「ふふ。覚悟しておいて。大人の階段登っちゃうことになるから」

さゆみが艶っぽい視線を寄せると、途端聖の顔は耳まで朱く染まった。

「あ、あの…はい」

衣梨奈と里保が、怪訝な顔つきで目を見合わせる。


赤面して俯いた聖に、さゆみが続けた。

「あの子が快復したら知らせるから、ね。今日はお帰り。
お母さんも御飯を作って待っててくれてるんでしょう?」

その言葉に、聖は負けた気持ちになって素直に頷く。
お手伝いさんも、話の終わりを感じ聖を促した。

「夜分に、本当にすみませんでした。後のこと、何卒宜しくお願い致します」

深々と頭を下げたお手伝いさんに、さゆみが首を振る。

「いえ、有難うございました。後はお任せください。生田、玄関までお見送りを」

「はーい」

聖が遥に向き直ると
遥も聖とお手伝いさんに深く頭を下げた。

「じゃあ、またね、遥ちゃん」

「はい」


聖が里保とさゆみとも挨拶を交わし退出する。
部屋にはさゆみ、里保と遥が残った。

さゆみが遥を見る。
遥がまた緊張して背を伸ばした。

「さて、じゃあお話、聞こうかな」

里保もまた、小さな緊張を覚えていた。



「おいで」

さゆみに促されるまま、遥が優樹の寝ている部屋に入った。
里保もおずおずと後に続く。
遥は、優樹の顔を見て胸をなで下ろした。
その顔は穏やかで、静かな寝息を立てている。

「一応痛みを和らげる魔法を掛けておいたけど。
目が覚めるにはまだ大分かかるかな。本人の魔力が全然残ってないからね」

さゆみが優樹の側に寄り、その額を優しく撫ぜた。
淡い光が仄かに灯り、すっと消える。

穏やかに、笑うように眠っている優樹を見て
遥は泣きたくなった。
それは多分単純に、安心したせいだろう。
こうして大事を過ぎて今頃、もし優樹が死んでしまっていたら
という想像が膨らんで恐ろしくなった。

「工藤遥ちゃん」

「はい」

「この子の名前は?」

「まーちゃんは…えっと、佐藤優樹です」


「佐藤優樹ちゃん。まーちゃんね」

さゆみが笑う。
遥は咄嗟について出た呼称が恥ずかしくて俯いた。

「この子、狗族だよね?」

さゆみの口から不意に出た言葉に、遥の身体がビクリと震える。
里保も、その言葉に聞き覚えがあって、寝ている優樹の姿を見た。

遥は、優樹とさゆみの顔を交互に見て、戸惑いながら頷いた。

「……そうです」

「協会と揉めた?」

「……」

遥は、改めて目の前の人物が三大魔道士なのだと思った。
多分自分達の事情は、もう殆ど見透かされている。
優樹が狗族であることを、すぐに見抜いたこの人ならば
協会とその一族との関係も知っているのだろう。
遥自身は、優樹に聞いた断片でしか知らないことを。

「別に、まーちゃんは悪いことしたわけじゃない…」

「そっか。工藤は、まーちゃんが大切なんだね」

「……そんなんじゃないです」

耳を赤くして言い捨てる遥の顔をまじまじと見て、さゆみが笑った。
一頻りニヤニヤと笑った後、里保の方を向く。

「この子の傷、りほりほの魔法だよね?」

僅かな躊躇いの後、里保が頷いた。

「そうです」

その言葉に遥が勢いよく里保の方を振り返り、憎悪を込めて睨みつける。
この柔らかい魔法に包まれて、優樹の無事を聞いた安堵に忘れかけていたけれど
そもそも、優樹をこんな目にあわせたのはこの人物なのだ。
それが何故普通にM13地区の、大魔道士の家にいて、
自分の視線にビクビクしながらお茶なんて出しているのか。

部屋の空気が張り詰める。
さゆみの魔法で、遥の魔力が少しだけ戻ったせいだろうか。
その攻撃的な視線が、優樹の枕元に置かれたコップの水を揺らした。
それに呼応するように、里保も身を固くする。


「戻りましたー。もう道重さん、聖のことからかわないで下さいよ。
聖おかしくなっちゃったじゃないですかー」

突然の闖入者に、空気が一気に緩んだ。
空気を蹴破って戻って来た衣梨奈に、三様に冷たい視線が注がれる。
それに気付いて、衣梨奈が慌てて一歩下がった。

「空気読みなさいよ生田。てかさゆみ別に変なこと言って無いし。
魔法のことを知るっていうのは、大人の階段を登るってことなのよ」

さゆみが衣梨奈に応じたことで
遥も気が抜けて、なんだかバカバカしくなってしまう。
実際のところ、もう里保のことを憎いとも思っていなかった。
大嫌いなのは間違いないけれど。

「魔法のこと、ふくちゃん達に教えてもいいものなんですか?」

衣梨奈が空気を壊してくれたことをこれ幸いと、里保は先刻感じた疑問をさゆみにぶつけた。

「まあいずれは知ることになるだろうからね。
ふくちゃんと香音ちゃんは、特に知っておいた方がいいかもしれないし。
魔道士に関わらずに済むのが一番だけど、もしもの時の為にね」

さゆみの言葉に、衣梨奈と里保が首を傾げる。


「どういうことですか?」

「また後でお話してあげるよ。取り敢えず今は、工藤ちゃんとまーちゃんのこと、ね」

「はい…」

いよいよ不思議に思った里保と衣梨奈だったが
本題に戻ることにした。
里保にとっては、あまり戻って欲しくない話ではあったけれど
目の前で自分を睨みつける遥と、静かに眠る優樹がいるこの状況で
逃げているわけにもいかない。

「りほりほの刀の魔法だよね。
大分深く入ってるみたいだけど、どう?治せる?」

その言葉に、里保も遥も衣梨奈も目を開いた。

遥にはまるで意味が分からない。
傷つけた張本人が治すというのか。


里保もまた、あまりにも意想外の言葉に驚いていた。
簡単な治癒魔法程度なら里保も使える。
でもそれは、衣梨奈よりもはるかに拙いもので
恐らくさゆみのそれとは比べようもない。
攻撃することに長けた自分の魔法は、癒すことには不向きだと思っていた。

衣梨奈は、優樹に傷を負わせたのが里保だということに驚いていた。
しかしすぐに、今までの里保の様子や、遥が来てからのことを思い返して納得する。
里保の任務とも、何かしら関係があるのだと考え、口を噤んで見守ることにした。

「私は、治癒魔法はあまり得意じゃないんです…」

「大丈夫。普通の怪我じゃないから関係ないよ。
この子の、まーちゃんの身体からりほりほ自身の魔力を抜き取るだけ」

「そんなこと、考えたこともなかった…」

「それが一番手っ取り早く治す方法。出来ないなら
もしかしたらこの子、もう目を覚まさないかもね」

里保の顔がさっと蒼くなる。
遥も、一瞬驚いたけれど、すぐにそんなわけは無いと考え直した。
衣梨奈は、何をバカなと言うのを必死で堪えて、さゆみと里保のやり取りを見守った。

「分かりました、やってみます…」


里保が優樹に近づく。
遥は、複雑な思いでその背中を見つめた。
自分がやっておいて、何を今更そんなに焦っているのか、と思う。
相手が傷付くのが嫌なら、最初からやるな。
そんな中途半端な覚悟で戦うなと、心底里保を軽蔑した。

「じゃあ、ここはりほりほに任せて。生田、ご飯の支度して。
工藤ちゃんもお腹空いたでしょ?」

さゆみが殊更に明るく言うのを受けて、衣梨奈が返事をする。
遥は、優樹を前にじっとしている里保の背をまだ見続けていた。

「あいつに、任せたくありません」

きっぱりと言い放った言葉に、さゆみが笑う。

「ま、気持ちはわかるけど。ここじゃ喧嘩しても仕方ないんだから
使えるものは使っておいた方がいいのよ。りほりほはやる気だし
りほりほが治すのが一番手っ取り早いのも本当だしね」

「……信用できません」

「そう?じゃあさゆみが保証する。りほりほはちゃんとまーちゃんを治す。
ついでに生田の料理の腕もね。詳しい話は後で聞くけど、別に行く所無いでしょ?
ここにいて全然いいから、ちゃんと食べなさい」


半ば強引にさゆみが遥の手を引く。
然しもの遥も、大魔道士にそこまで言われてしまっては逆らえなかった。
自分達が行く宛の無いことも、優樹をここで治療してもらうしかないことも
今猛烈にお腹がすいていることも全部本当のことだ。

「うちは生田衣梨奈。世界一の魔法使いを目指してる道重さんの弟子っちゃよ。
えっと工藤…さん?何かよくわかんないけど、宜しくね」

「…はぁ」

よく分からないのはこっちだと思いながら、遥は曖昧に頷いた。

不意に遥のお腹が軽快に音を鳴らす。
ニヤニヤと顔を見合わせる衣梨奈とさゆみの間で、
遥は茹で蛸のように真っ赤になった。
それから一度優樹の寝顔を見て、いそいそと部屋を出た。


 

さゆみ達の話し声が遠ざかるのを背中で聞きながら
里保は優樹の傍らに歩み寄った。

対峙したとき幼い子供のように思ったけれど
その寝顔は綺麗で、どこか大人びている。
今は安らかに眠っているけれど、それはさゆみの魔法のおかげ。
あれだけ深く傷付いたまま、
遥を背負って駆け抜けた時の苦痛は、里保自身にも想像がつかなかった。

優樹に掛けられた毛布を慎重に捲る。
さゆみが脱がしたのだろう。白い素肌が目に入り、その胴部に
痛々しい赤い傷が走っていた。思わず眉を顰める。


遥の視線、軽蔑の眼差しを思い出す。
自分でも矛盾していると感じていた。

事情は何も分からないけれど、少なくとも優樹と遥が
協会にとっての敵であることははっきりしている。
この街の中では手出し出来なくても、一歩でも外に出るようなことがあれば
自分はまた、捕まえようとするはずだ。もう一度傷つける。

今までも、同じように魔道士達に傷を負わせてきた。
そして、その魔法を奪ってきた。
今更それがどれだけの苦痛を与えたのかを思い知る。
それを思って、里保の心がキリキリと痛んだ。偽善者もいいところだ。

でも、開き直ることも出来なかった。
せめて今は、この少女だけでも治せるのならば治したい。

里保は、友達を助ける為にお互いに死力を尽くした遥と優樹の姿に
憧憬にも似た感情を覚えていた。
二人に比べて、自分はあまりにも空っぽだ。


優樹と遥がさゆみの元に来てくれたよかったと思う。
さゆみは多分、二人のことを気に入っている。
自分が再びこの子の敵になったとしても、さゆみが守ってくれる。
そうすれば自分はさゆみと戦うことになって、多分手も足も出ず敗れるはずだ。
もう、二人は絶対に安全。


里保は自嘲気味に笑った。
あまりにも自分の思考が馬鹿げている。今はもう、考えることはやめにしよう。
この子を治すことだけを考えようと思った。
こんな思考をいくら巡らせても、きっと正解にはたどり着かない。

頭を空にして、改めて優樹の傷を見つめる。
さゆみの言葉を思い出した。
魔力を吸い出す、本当にそんなことが出来るだろうか。

里保は、優樹の柔らかい肌にそっと手を這わせた。
恐る恐る傷口に触れる。
中で、自分自身の魔力が怒り狂うように暴れ、優樹の身体を蝕んでいると感じた。
間違い無く里保の魔力だ。

吸い出す。どうやって。
分からないけれど、とにかく里保は手に魔力を込め
吸い出すイメージを持ちながら、もう一度傷口に触れてみた。

途端、呼応するように手から魔力が放たれ
優樹の体内で暴れる力が強まる。
優樹の表情が一瞬苦痛に歪んだ。

「ご、ごめん……」

里保は飛び退いて、誰に言うともなく呟いた。


もう、どうすればいいのか分からない。
一度放たれた魔力は、その攻撃的な性質を変えることは無く、里保の意思にも従わない。
それを静め、再び自分に戻す方法なんて皆目見当もつかなかった。

本当に、自分は人を傷つけることしか出来ない、能なしの魔道士なんだと思い知る。
その戦う力だって、中途半端な心で満足に使いこなすことも出来ない。
心底自分が嫌になった。

里保は暫し呆然と、優樹を見つめていた。

不意に思い出す。
さゆみが「保証する」と言ってくれた。
里保は優樹の傷を治す、と。
出来ない。
でも、さゆみにそんな言葉を言わせて、何も出来ずに戻るということもまた、出来なかった。

もう一度優樹の側に立ち、傷口に触れる。
今度は決して魔力を込めないように。

衣梨奈が、ずっと肩を摩ってくれていたことを思い出した。
まだ僅かに疼くけれども、もう殆ど痛みはない。

あんな風に癒すことが自分にも出来たらいいのに。
人の傷口に、恐れることなく手を当てられる衣梨奈が凄いと思った。


衣梨奈の手を思い出しながら
優樹の傷口に手のひらをあてがう。
衣梨奈の優しい手つきを思い返しながら、ゆっくりと傷口を摩った。

優樹の表情が、また少し穏やかになったような気がする。
里保はいくらかほっとして、それを続けた。

深と静まり返った部屋で、里保は一心に優樹の傷を撫で続けた。
窓の外はもうとっくに真っ暗で、時間の感覚も分からない。
穏やかな愛らしい寝息の繰り返しが、里保の心を落ち着けてくれた。

やがて微かな変化が訪れる。
傷口に渦巻いていた魔力が、魔力を纏っていない里保の手に流れ始めた。
それは、ひび割れた水瓶から水が漏るような
小さな小さな流れ。
でも確かに、魔力が里保に戻って来る。

さゆみの言った「吸い出す」ことの正解がこれではないだろう。
でも、少しでも出来ることがある。
それは里保の中で大きな喜びになった。
里保は只管、優しく手を当て続けた。


不意に、規則正しかった寝息が乱れる。
優樹がうっすらと、目を開けていた。
里保の心臓が早鐘のように打ち出す。

まさか、意識が戻るとは思っていなかった。
まだ傷は、殆ど癒えてはいないのに。

「……誰、ですか?」

優樹が里保を見つけ、睡たげな声を出した。
覚えていないのだろうか。
でも、それならそれでいい。優樹の身体の為にも、その方がいい。

「うちは鞘師里保、だよ」

「さやしさん……?」

「うん」

ようやく重い瞼が上がった優樹は、目だけを緩慢に動かして辺りを見回した。
状況は全然分からないだろう。
だから少しでも安心させるように、里保は優しく微笑んだ。

「ここは、どこですか…?」

「ここは、大魔道士の道重さゆみさんのおうち」

「大魔道士……あ、どぅーは!?」

不意に身体を起こそうとした優樹が、苦痛に眉を歪めて身を捩る。
里保は慌ててその肩を抑え、動かさないよう寝かしつけた。


「まだ、動くの無理だよ、じっとして」

優樹が発した言葉が何を指すのか
里保にはすぐに分かった。

「どぅーは、今あっちでご飯食べてる。大丈夫、元気だから」

その言葉を聞いて、不安に強ばっていた優樹の顔が
少しずつほぐれていく。
そして小さく、遠慮がちに笑った。

「…どぅー、元気なんだ。よかったぁ」

「うん」

「…思い出しました。まさたちと戦った強い人」

優樹の口から出た言葉に里保の身体がビクリと跳ねた。
自分のことを思い出したらしい。それならば、この子にも憎まれるのだろう。
それは仕方のないことだけれど、寂しいと思った。

でも、優樹の表情は変わらず穏やかで、敵意なんて微塵も無い。
真っ直ぐに向けられた視線に、里保は思わず俯いた。

「うちは、強くないよ…」

俯く里保に、何を思ったのか、優樹がニコリと笑った。

「…さやしさん、手気持ちいいです。ありがとうございます」

里保は殆ど意識もせず、自分が優樹の傷口を撫で続けていたことを思い出した。

「ううん。ごめんね…」

小さく漏れた里保の言葉に、優樹はまた笑った。
疲労して力ない笑顔だけれども、花のように可愛らしい笑顔だった。

ふと、優樹の表情が曇る。
そして、力なく垂れていた腕をゆっくりと里保に伸ばした。
何かと思って目で追うと、その手が里保の肩に触れる。

「…これ、まさがやったんですね。ごめんなさい」

少しだけ疼いていた傷跡が、優しい温度に包まれた。
優樹も今は魔法なんて使えない。ただ触れるだけ。
里保も、ただ触れているだけ。

「ありがとう」


二人の傷が、少しずつ癒えていく。

何だか変な光景だと、里保は照れくさくなった。
けれど心地よくて、お互いが優しく相手の傷口に手を当て続ける。

やがて優樹の手が落ち、程なく穏やかな寝息が聞こ出した。

少しだけの会話。
それだけで、ぐちゃぐちゃに打ち沈んでいた里保の心が
優しい色に包まれたような気がした。
里保は感謝の気持ちに満たされて
愛おしそうに優樹の傷口を撫で続けた。

 

 

促されて椅子に腰掛ける。
二人きりになると、やっぱりまだ少し緊張した。
それはどちらかと言うと、さゆみが綺麗過ぎるせいだ。

「さて、工藤ちゃん。さゆみもなんとなーくしか分からないんだけど
まーちゃんは何しちゃったの?」

優しい口調でさゆみが言う。
多分もう、色々と察しているだろうし、隠すようなことでも無いと思った。

「協会魔道士と喧嘩しました。
そいつ、協会のお偉いさんの息子だかなんだかで、ずっとまーちゃんにちょっかい掛けてたんです。
まーちゃんが狗族っていうのも知ってて。それで昨日、多分アイツまーちゃんに何か言って
ついでに魔法も使ったんですよ。ハルは遠くから見つけて、走ってったんですけど
何言ってるのかまでは分からなくて。で、まーちゃんが我慢の限界みたいな感じで変身して
そいつをボコボコに…」

思い返すだに、優樹は何も悪くないと思う。
その男は、狗族であるということを理由に、何度も優樹を馬鹿にしたり、横柄な態度をとっていた。
優樹は昨日のその時まで、言い返しもせず、ずっと我慢していたのだ。


「別にそんなん、ただの子供の喧嘩じゃないすか。確かにあいつ、ボロボロになってましたけど。
ハルも近くの協会支部に行って後処理して貰おうと思ったんです。
そしたらいきなり囲まれて、問答無用でまーちゃんを連れて行こうとしたんですよあいつら」

「なるほどねぇ」

「一対一の喧嘩だし、『勝負』の届け出してなかったとはいえ、普通ちょっと怒られて
ちょっと奉仕活動させられて、それで終わりのはずですよ。それなのに」

昨日のことを思い出し、徐々に熱の篭る遥に
さゆみが少し笑って口を挟んだ。

「経験あるんだ」

「何回もあります」

遥は一度空咳をして、自分を落ち着かせるように手をお腹に当てて言葉を続けた。

「最初、ハルもなんかの冗談だと思ったんですよ。でもガチで、無理やり連れてこうとして
文句言ったら普通に魔法で攻撃してきて。『狗族がこんなことしたら10年は独房だ』
とか言ってるの聞いて、プッツン来ちゃって。そいつら全員ぶっ飛ばしたんです」

さゆみは、ふむふむと特に表情を変えることなく聞いている。


遥は、再び浮かび上がるイライラを抑えながら
それからの逃亡劇、そして今日、最後に里保と遭遇して
二人共満身創痍になりながら街に逃げ込んだことをやや冗長に語った。

語り終え、遥が改めてさゆみを見る。
少し考え込むような仕草をしていた。

「だいたい、こんな感じっす」

「そっか。工藤ちゃん達の事情は分かったけど」

何か腑に落ちないことがあるらしい。
さゆみは顎に手を当て、思案している。

「あの、道重…さん、聞いていいっすか?」

「ん?」

「何でまーちゃんがやったら、あんな協会魔道士が出てきたのか分かりますか?
本当に、あんなことだけで10年も独房に入らなきゃいけないんですか?」

「あー。そうだね。狗族と協会の関係は微妙だからねぇ」

遥は優樹から聞いた断片から、その一族の情報を思い出していた。
狗族とか人狼族と呼ばれる一族は、先天的に犬や狼に変身することが出来る魔道士集団で
ごく少数の血族で暮らしている。
優樹のように、村を離れて暮らしている者も含めても100人に満たないらしい。
でも、独特の高度な魔法を使い、一人一人が大きな魔力を持っていることが特徴で
協会の会員にはなれないが、協会に認められて市井で暮らしていると聞いた。


「そもそも狗族ってね、まあ狗族以外の部族もだいたいそうだけど、
もともと協会と敵対してて、喧嘩に負けて従属した歴史があるの。
それに一人一人の魔力が凄いから、『狗族が協会員に手を出したら重罰』
みたいな特別ルールがあるんでしょうね。たぶん」

「そんな…。だってまーちゃんだけが悪いわけじゃないのに」

「仕組んだ…か」

不意にさゆみから漏れた呟きに、遥が目を上げる。
さゆみは何か続ける代わりに、質問した。

「いっぱい追いかけてきたみたいだけど、その中に執行局の魔道士が何人くらいいたか分かる?」

遥が昨日から接触した魔道士達を思い返す。
執行局魔道士と思しき魔道士は居なかった。里保以外には。

「…執行局員と名乗ったのは、アイツだけです」

優樹の寝ている部屋に視線を投げながら、忌々しげに遥が言った。

「他には、多分居なかった。弱っちかったし」

「ふーん、変ね…」

さゆみがまた、何か考えるように黙り込んだ。


「ちちんぷいぷい、美味しくなーれ!」

不意に台所から聞こえて来た声に、気が抜けてそちらを見る。

「なんすか、アレ…」

「ふふ。ご飯出来たみたいね。取り敢えず先に頂こう。さゆみももうお腹ペコペコ」

遥は、納得も出来ないし、さゆみが考えていたことも気になったけれど
ともかく自分もお腹が空いていることを思い出した。
衣梨奈の変な声で少し熱が下がって、それは良かったと思う。
それにしても、変なのが大魔道士の弟子をしているものだ。


 

 

食卓に料理が並ぶ。
どれも美味しそうな匂いを放っていて
遥のお腹はもう鳴りっぱなしだった。

「里保呼んでこんと」

そう言って優樹の寝ている部屋に衣梨奈が向かう。
それをさゆみが制した。

「りほりほ、今集中してるみたいだし。お腹が空いたら来るでしょ。
今はそっとしといてやりなよ」

「……わかりました」

さゆみの言葉に衣梨奈がしぶしぶ従い、席に着く。
ようやく、遅い夕餉が始まった。

遥が、始め遠慮がちに箸をつける。
でもその美味しさに、箸が止まらなくなった。


「どう、美味しい?」

笑いかける衣梨奈に、遥は口いっぱいに頬張りながら返す。

「ちょーおいひいっす!」

「よかったー」

微笑ましい光景に、さゆみも衣梨奈も自然に笑顔がこぼれた。

衣梨奈が暫く里保のことを気にしていたけれど
来る気配も無いので、里保の分を取り分けて冷蔵庫に仕舞う。

暫く一心不乱にごはんを食べ、取り敢えずの空腹が収まった遥は
がっついたことに些かの恥ずかしさを覚えつつ、話の続きに戻った。

「あの、それで、さっき言ってたことなんですけど」

「さっき言ってたこと?」

遥が言葉を切り出す。
すると衣梨奈が疑問の声を上げた。
さゆみは、いちいち質問されるのも面倒くさいと、さっきの遥の話を掻い摘んで衣梨奈に伝えた。
協会に関わること、優樹にとって酷く理不尽な話。衣梨奈は神妙な面持ちでそれを聞いた。


「ごめんね、工藤ちゃん。それで?」

「あ、はい。さっきなんか考えてたみたいですけど、何かあるんすか?
仕組んだって、どういうことですか?」

「あ、うん、それね。ちょっと変だなぁと思って。
ねえ、生田。今日りほりほって、朝から様子違ってた?」

「ん、どういうことですか?」

「朝から、工藤とまーちゃんを捕まえるための準備してた感じあったの?」

「あ、それは無いです。放課後に里保の端末が鳴って慌てて出て行ったんで
多分その時、緊急で出動したんだと思います」

「……やっぱり、そうだよね」

さゆみは、何かしら自分の嫌な予感が
確信に近づいている気がして溜息を吐いた。


「協会がどうしてもまーちゃんを捕まえたかったら、すぐ執行魔道士を寄越すでしょ。
りほりほだって緊急出動で二人が街に入る直前だったんだから、対応が後手過ぎるよね」

「…確かに」

「一晩あれば、執行魔道士を先回りさせることだって簡単なはずだし」

「あれですかね、二人が予想以上に強くて、見積もりを誤ったんですかね」

「それも変。工藤ちゃんの実力は分からなくても、まーちゃんが狗族と分かってるなら
普通の魔道士じゃ手に負えないことくらい承知してるはずよ」

遥はその話を聞いて、確かにそうだ、と思った。
逃げている途中は無我夢中だったけれど、協会がその気になれば
自分達はすぐ捕まっていたかもしれない。
執行魔道士に複数で囲まれていたら、今頃ここには居なかっただろう。

「それって、つまりどういうことですか?」

まだ読めない話の先を、衣梨奈が促した。


「生田、あんたのパパがよっぽどの間抜けってことじゃなければ」

そこでさゆみが一度言葉を切る。
遥が、その言葉の意味に驚いて衣梨奈を見た。

さゆみが少し沈鬱な面持ちで言葉を続ける。

「わざと、逃がした……かもね」

「なんでそんなこと。じゃあ里保は、何のために優樹ちゃんを傷つけたと…」

疑問と混乱が遥の頭にも舞っていた。
さゆみの話を聞くとなるほど、そうかもしれないとも思える。
でも、それにしたって不自然だし、そもそもそんなことをする理由が思い浮かばなかった。

「ここから先はさゆみの想像でしかないから言わないでおくね。でも、ちょっとヤな予感。
ま、二人が逃げ込めて、めでたしめでたしならそれでいいんだけど、さ」

さゆみはそれ以上は何も言わないという風に話を締めくくった。
遥の中で、その言葉が不安の影を落とす。
これからのこと、それでなくても不安だらけだというのに。


衣梨奈も何か納得出来ないというように眉を顰めたが、口を噤んだ。
里保は何か知っているだろうかとも思ったが
今の里保が少し不安定になっていることも分かっていたので、出来れば落ち着くのを待ちたい。

「それより、工藤ちゃんはこれからどうするつもりとか、ある?」

不意に明るく言うさゆみの言葉に、遥はハッとした。
具体的には何も、これからのことを考えていない。
そのことを思い出させられた。
どう答えることも出来ず、遥が俯く。

「まあまーちゃんがちゃんと治るまでは勿論だけど
これからのこと、ちゃんと決まるまで、ここに住む?」

「……いいんですか?」

「さゆみは可愛い子達が居てくれるのは大歓迎だよ。生田もいいよね?」

「もちろんです!」


それは遥にとっては願ってもない申し出だった。
でも、逆に不安にもなる。
ここに来てから、さゆみや衣梨奈の世話になりっぱなしで
その上これからも世話になって本当にいいのだろうか。
今の自分達は何も返すことが出来ない。
そこまで親切にして貰える理由が、まるで思い浮かばない。


「あ、でもここに住むなら、りほりほとも仲良くしてもらわないと」

さゆみがニヤニヤしながら言う。

「……それは、嫌です」

「えー、残念。でもま、きっと工藤もまーちゃんも
りほりほとは仲良くなれると思うよ。いい子だから」

複雑な表情で遥が俯く。
里保のことを、もう憎んではいない。
嫌いだけれど。
そして、里保はともかく、さゆみと衣梨奈には、好意らしきものも湧いている。
聖にも改めてお礼を言いたいし、ここを出たところで、本当に行く宛がない。

なかなか返事を返せない遥に変わって
さゆみが話を纏める。

「じゃ、決定ね。生田、遥ちゃんとまーちゃんに部屋用意してあげてね」

「はーい。んふふ、なんか賑やかになりそう」


半ば強引に取り決められたけれども、遥は二人に感謝していた。
こんなに幸運なことがあっていいのか。
何か大きな不運の前触れでなければいいけれど。


食事が終わり、衣梨奈が片付けを行う。
遥も手伝うべきだと思い立ち上がると、さゆみに呼び止められた。

「ここ、座って」

さゆみの隣を示され、素直に従う。
すっと、さゆみに頭を抱き寄せられた。
咄嗟のことに身を固くした遥を、暖かい光が包む。
さゆみが柔らかい光を纏った手を、遥のお腹に宛てがった。

遥は、そこが里保の拳を受けて自分が意識を失った傷だと思い出した。
優樹のことばかり考えていてすっかり忘れていたけれど。

「ずっと気を張ってたんだね。頑張ったね」

さゆみが優しく遥の頭を撫でる。
癒しの光が身体に染み渡り、一気に緊張が解れ、思い出しかけた痛みが引いた。
遥が頭をさゆみの胸に預ける。安心して、何だか泣きたい気持ちになった。

疲れが溶け出し、遥はいつしかさゆみの胸で小さな寝息を立てていた。


 

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最終更新:2014年07月14日 23:00