本編10 『おとなの階段』

 

遥は窓から差し込む強い日差しに瞼を擽られて目を覚ました。
どこだかも分からない部屋の、知らないベッドの上で自分が寝ていることを
夢現の中でぼんやりと受け入れる。
楽しい夢を見ていた。
目が覚めてから、どんどんと楽しくない想念が流れ込む。
どちらが現実で、どちらが夢。それも時間が経つにつれ、ちょっとずつ頭が受け入れた。
楽しくない方が現実だ。

夢の内容は殆ど覚えていないけれど、少し懐かしい気がする。
ようやくはっきりと目覚め、取り敢えず身体を起こした遥は、仲間のことを思い出していた。

遥は協会の施設で魔道士の卵として育った。
別に大層な目的があったわけでもなく、ただ身寄りのない魔道士の子供が
寄せ集められて育つ孤児院のような場所だったけれど、遥にとっては大切な家。
そこで一緒に育った仲間とは、掴み合いの喧嘩も数え切れないほどした。
大好きな友達だった。
でも多分、もう会うことは出来ない。


優樹は家族に会うことが出来るだろうか。
狗族は少し特殊で、一族全体が家族みたいなものらしい。
優樹は故郷からは離れて暮らしていたけれど、
今回のことは狗族の村にも伝わって、きっと心配しているに違いない。

自分達はこれからどう生きていけばいいのか。
その答えは、一晩寝ても浮かんできてくれなかった。
今は”大魔女”に甘え、世話になるしかない。

遥は改めて自分が寝ていたベッドと部屋を見回した。
壁にポスターが貼ってあり、さっぱりと整った勉強机に
教科書類が積んである。

本当に今自分は道重さゆみの家にいるんだろうか。
寝てる間に、別の、魔法なんて無い世界に飛ばされたんじゃないだろうか。
そんなことを思って苦笑する。
現実逃避を続けるには目が冴えてしまった。


道重さゆみという人について考える。
三大魔道士といえば、たった一人で協会を相手に出来る魔道士。
少なくとも、身近な魔道士からは想像もつかない、非常識な化け物だと思っていた。

ところがさゆみは、確かに威厳のようなものはあるけれど、
飛び切り綺麗な優しいお姉さんという感じで
とても協会が怯えるような相手とは思えなかった。

話が大きくなりすぎたのか。それともまだ、力を隠しているだけか。

窓の外から蝉の声が響く。
ひらひらと綺麗な蝶が窓を横切った。
外はとても暑そうだ。

遥は、色々ともつれる考えをばっさりと千切って、ベッドから飛び出した。
いつまでもベッドの上で考え事をしていても何も進まない。
ごちゃごちゃ考えるより、動いた方がいい。
その方が、自分の性に合っている。

部屋を出て階段を降りると、やっぱりそこが変テコな道重さゆみの家だと分かった。


ぼんやりと憶えのある部屋の戸を開ける。
そこは、昨日食事をしたリビングだった。


「おはよう、よく眠れた?」

座ってパソコンを見ていたさゆみが振り返り、遥に微笑みかける。
遥はその笑顔を見て何故だか少し、ほっとしていた。

「はい。あの、道重さん、本当に有難うございました」

「うんうん。ちゃんとお礼が言えるのはいいことだよ」

さゆみがパソコンを閉じ立ち上がる。
優雅な仕草だなと、遥はぼんやりと思った。

「取り敢えず、顔洗ってシャワー浴びといで?
生田とりほりほはもう学校行っちゃったけど、ちゃんと工藤の分も
朝ごはん作って行ったから」

「あ、はい。ありがとうございます…」

言われて、自分が一昨日から着たままの泥だらけの服で寝ていたことを思い出す。
部屋に沢山ある時計を見ると、朝と言える時間をもう過ぎていた。


「あ、でもその前に、まーちゃんの様子見とく?」

「はい」

思い出したようなさゆみの問いに、遥は条件反射のように素早く返事をした。


さゆみと一緒に恐る恐る優樹の寝ている部屋に入る。
窓が開け放たれていて、柔らかい風がカーテンを揺らしていた。
その向こうから、喧しい蝉の声が響いてくる。

「まーちゃん…」

穏やかに眠るその姿を見て、遥は一つ胸をなで下ろした。
少なくとも里保に、酷いことをされてはいない。
万に一つもそんなことがあるとは思って居なかったけれど。

顔色も昨日より幾分良く見えるのは、太陽の光があるからだろうか。

遥が眠る優樹の頬にそっと触れた。
柔らかく冷たい頬が、遥の手を冷まして、胸を熱くする。

遥は苦々しく笑いながら、その寝顔を慈しんだ。

この子に出会わなければこんなことにはならなかったのに。


最初は嫌いだった。冷たくあしらったりもした。
それなのに、気がつけば後ろにひょこひょことついて来て、慕ってくれた。
自分の生まれのこと、魔法のことを、まるで当たり前のように無邪気に語ってくれた。

考えても仕方ないことだけれど
優樹と出会って無かったら、今頃何をしていたんだろうと思う。
想像もつかないし、別に考える必要も無いと思い直した。

出会ってから、もう優樹に振り回されっぱなしで、それが楽しかった。
こうなったらもう腐れ縁、離れ離れになるまでは意地でも一緒に居ようと思った。
何だかんだあっても、今こうして側に居られているんだから。

「ん」

遥に頬を擽られて、優樹が小さく息を漏らした。
慌てて手を引いたけれど、優樹はそのままもぞもぞと身じろぎする。
そして、ゆっくりと目を開いた。

遥は何故だか緊張して、一つ唾を飲み込んだ。

「……どぅー?」


「おはよ。まーちゃん」

何だか久しぶりに聞く優樹の声に、照れくさくなって遥が笑った。
釣られるように優樹も口角を僅かに上げて
それから、目を二三度瞬かせ、改めて遥を見つめた。

不意に、優樹が起き上がる。
ベッドから勢いよく飛び出そうとして、足から力が抜けつんのめった。
慌てて手を差し出す遥に、優樹が倒れこむ勢いのまま、思い切り抱きつく。

「どぅー!どぅー!」

掠れた声で、優樹が何度も遥の名前を呼ぶ。
その目からは止めどなく涙が溢れていた。

遥は突然起き上がった優樹にびっくりして
突然目の前に現れた優樹の裸身と、その温もりに顔を真っ赤にして固まっていた。
でも、優樹の声を聞くうち、気持ちが溶けていく。
そっと優樹の背に手を回した遥の目からも、涙が幾筋も伝っていった。

 

さゆみは、眼前に広がる光景に思わず指を構えそうになり、ぐっとこらえた。
流石にこの場面を写真に収めて、もし万が一衣梨奈に見られでもしたら誤解される。

さゆみは優しい笑みを湛えながら二人を見つめ、
その様子を心のアルバムに丁寧に仕舞いこんだ。

 

 

いろいろな考えが頭をめぐって聖は夜なかなか寝付けなかった。
遥たちのことやさゆみの話のこと。
それらはやはり、関わり合っているのだろうか。
自分には一体どんな関係があって、どのように「大人になる」んだろう。

想像と妄想が膨らみすぎて、
勉強なんて手につかず、寝不足気味で登校した聖は
衣梨奈と里保の姿を見つけて一目散に駆け寄った。

「おはよう!えりぽん、里保ちゃん!ねえ、あの子、どうだったの?」

食い気味に迫る聖に気圧され、衣梨奈と里保が顔を見合わせて苦笑する。


「おはよう、ふくちゃん」

「おはよ、聖。優樹ちゃんなら大丈夫。まだ寝てるけど、だんだんよくなりようけん」

優樹という名前を始めて知った聖だったけれど
すぐにあの少女のことだと分かって、胸をなで下ろした。

「そっか、良かった…遥ちゃんも、道重さんの家に泊まったの?」

「うん。昨日大分疲れてたみたいやし。てかこれからは暫く二人共うちに住むことになったとよ」

「そうなんだ!いいなぁ」

何も分からないけれど、二人が暫く道重家に居てくれることは嬉しい。
衣梨奈達が二人を気持ちよく迎え入れてくれたことも嬉しかった。
最初に二人を連れて行ったのは自分だから。

三人が話していると程なく香音も教室に姿を見せた。
挨拶を交わして話に加わる。


「そうだ、それでね、えりぽん、例の話なんだけど…」

聖が頬を染めて切り出した言葉に、香音が首を傾げた。
衣梨奈と里保は、聖が昨日さゆみに揶揄われていたのを思い出す。
それですぐ、聖が些か勘違いしている話のことだと分かった。

何を想像したのか思い出したのか、聖がもじもじと恥ずかしそうに言葉を続ける。

「道重さんのお話…いつ…?」


「なに?なんかあたし置いてけぼりなんですけど」

途中から加わった上に昨日の顛末を知らない香音が
面白くなさそうに割り込む。
衣梨奈が、そんな香音に笑いかけた。

「香音ちゃんも一緒に、って言いよったけん。
なんか、聖がテストに集中出来ないと困るから早いほうがいいって。
今日でも、二人が大丈夫ならうちに来ん?」

里保はその言葉を聞きながら、少しだけ黙考した。


話を聞いたら聞いたでいろいろと考えてしまって、集中出来ないんじゃないかとも思う。
さゆみのこと、衣梨奈のこと、魔法のこと、魔道士のこと。
今までに見ていた世界が一変するような話だ。
聖や香音の気持ちを考えれば、それを伝えるのに慎重になるのも分かる。

でも、タイミングとしては今が一番いいのだろうと思った。
新しい道重家の住人になった遥と優樹について、魔法のことを抜きに説明するのも難しい。

「何か全然話が見えないんだけど」

香音が一人ついて行けなくて、不平の声を漏らした。
そんな香音に、里保が説明する。

「道重さんがね、ふくちゃんと香音ちゃんに話したいことがあるって。
昨日ちょっと色々あって、それも関係してくる話なんだけどね」

「へぇ、道重さんが改まって…なんだろ、想像つかない」

「大人の階段……」

「ん?何、聖ちゃん」


どこか焦点の合っていないような聖の様子に里保と衣梨奈が苦笑する。
いい加減可哀相だと思って里保が声を掛けた。

「あれね、ふくちゃん。道重さんの…」

冗談、と続けようとして、聖がはたと思い出したように言葉を被せた。

「そういえば、えりぽんと里保ちゃん、その話知ってるんだよね!?」

「え、うん」

「てことはさ、二人はもう大人に、なっちゃったの…?」

どこか悲壮感さえ漂う聖の顔に、衣梨奈は吹き出しそうになるのを必死で堪えて一歩下がった。
香音も、そんな三人の様子に、また聖が何か勘違いをしていると考えて
生暖かい視線を送りつつ一歩下がる。

聖の迫力を正面で受けた里保だけが、その言葉につと黙り考え込んだ。

魔道士とそうでない人の立場は違う。
さゆみは、『自分達魔道士はずっと子供みたいなもの』と言った。
物心がついた時から魔法を知っていた自分は、大人になったとは言えない。
魔道士が大人になるというのはどういうことなんだろうと、ふと思った。


「ううん、ふくちゃん。確かにウチとえりぽんは話は知ってるけど、
大人になったわけじゃないよ。大人に、なりたいけどさ」

「え、それって耳年増ってこと…?」

「耳年増?よく分かんないけど……」

二人の会話を聞いて衣梨奈は堪えきれずクスクスと笑い出した。
香音も呆れ気味にその様子を見て、それから笑う衣梨奈に尋ねる。

「あれ、会話噛み合ってないよね?」

「噛み合ってないね。うけるー」

ちぐはぐな会話をする聖と里保を
笑いながら見守りつつ話す。

「で、道重さんの話って何なの?わざわざ道重さんが
あたしと聖ちゃん呼び出してするって、結構大事な話なんだよね?」

「うん、大事な話。えりも里保も関係してるし、多分香音ちゃん達びっくりすると思う。
やけん、今えりの口からは言えんと。ごめんね」

「うんにゃ、いいけど」


「今日、大丈夫?聖はあの感じやと意地でも来そう」

「そだね。ダメって言っても聖ちゃんに引っ張ってかれそう。
うん、お邪魔するよ」

香音は聖達の方を一瞥して苦笑しながら衣梨奈に告げた。

なんとなく、想像がつかないわけじゃない。
さゆみや衣梨奈、そして里保には謎めいたことが多いと感じていた。
多分、そんな様なことを話してくれるんだろう。
それが具体的にどんなことかは分からないけれど、里保と衣梨奈の表情を見る限り心配することは無さそう。
それに、二人やさゆみにどんな秘密があっても、大好きな気持ちが揺らぐとは到底思えなかった。

「ありがと、香音ちゃん。あと、一緒に香音ちゃん達に紹介したい子達もおると」

「何?新しい友達?」

「ううん、まだ友達じゃない。でも、友達になりたい。友達になれると思う。
やけん、香音ちゃん達も、一緒に友達になろ?」

人懐こく笑う衣梨奈を見て、香音も思わず笑みを返した。


衣梨奈のこの笑顔はずるいと思う。
誰だって、友達になりたいと思ってしまうはずだ。
まあ、自分は仲良くなるのにちょっと時間が掛かったけれど。
そんなことを思い出し、香音はまた苦笑した。

自分はあまり人付き合いの得意な方ではないと思うけれど、
衣梨奈がこんな風に笑って言う『紹介したい子達』に会うのが、少し楽しみだと思う。
自分もちょっと変わった。衣梨奈に変えられたと思うと、照れくさくなって
意味も無く衣梨奈の肩をポンポンと叩いた。

結局聖と里保の会話は噛み合わないままチャイムが鳴り、授業へと向かう。
それぞれ気になることがあって、気もそぞろにテスト前の重苦しい教室に溶け込む。

まるで関係がないというように、夏の太陽がカンカンと街に照りつけていた。



暫く抱き合う遥と優樹の姿を堪能したさゆみは、真面目な顔を取り繕って声を掛けた。

「さ、そろそろいい?まーちゃんに服着せてやんなよ」

それまでさゆみの存在を忘れていた遥がハッとなって
優樹をベッドへ座らせた。
それから、ベッドサイドに畳んであった優樹の服を慌てて着せる。
優樹はそれをぼんやりと受け入れながら、じっとさゆみの顔を見ていた。

「誰ですか?」

赤い目のまま神妙な顔つきで、問いかける優樹に、
テキパキと恥ずかしさを誤魔化すように動いていた遥が答える。

「道重さん。昨日から、ずっごいお世話になってんの」

「道重さん…?」

「うん、私道重さゆみ。よろしくね、まーちゃん」

飛び切りの笑顔で笑いかけるさゆみ。
でも優樹はまだどこか不思議そうな目を向けていた。
大抵これで男の子も女の子も骨抜きにしちゃえるんだけど、と内心で苦笑しながら
その真っ直ぐな視線を受け止める。

数秒、よく分からない睨めっこが続いた後、優樹は曖昧に頷いた。


「もう、まーちゃん。ちゃんとお礼言わなきゃダメでしょ」

さっきから遥一人バタバタと慌てているのが可笑しくて、さゆみが柔らかく笑う。

「いいよ。まだ状況飲み込めてないんでしょ。
二人ともそのままお風呂入ってきちゃいなよ」

「えっと…まーちゃんもう起き上がって大丈夫なんですかね…?」

「そうだね。安静にしとくに越したことはないけど。
目が覚めちゃったら寝てるのも嫌でしょ。魔法使ったりとか、無茶しなきゃ大丈夫だよ」

遥とさゆみが会話する間、優樹は交互に二人の顔を見返していた。

「じゃ、まーちゃん先にお風呂、入れる?」

「一緒に入ってあげなよ。まだ力入らないだろうし」

「え……一緒にですか?」

遥が露骨に嫌そうな顔をする。
でもその顔はまだ赤くて、照れているだけだとすぐに分かった。

「風呂場でまた倒れちゃったら困るでしょ。それに二人で話したいこともあるんじゃないの?」

「う…はい、まあ。じゃ、すんません、お風呂お借りします」

優樹を立たせ肩を支えながら風呂場に向かう遥の背を見ながら
ニヤニヤと一頻り笑ってさゆみもリビングに戻った。
いちいち顔を赤くして慌てる遥が面白くて仕方がない。
さゆみはすっかり遥のことも気に入っていた。


さて、優樹が目を覚ますとは思っていなかったから、衣梨奈は朝ごはんを一人分しか用意していない。
さゆみは冷蔵庫に仕舞ってあった朝食を取り出しテーブルに並べた。
サラダもスープも一人分。パンも一つ。
でも別に、構わないだろう。二人で食べればいい。パンも一つなら分け分け。
優樹だって急に沢山お腹にいれるのはかえって良くないし。

窓を開けると、蝉の大合唱が雪崩込んで来た。
暑い暑い。もう昼近く。
サンダルを履いて庭に降りると、強い日差しを一身に浴びて青々と繁る庭木達が見えた。

さゆみの家の庭には、魔法の薬になる植物や綺麗な花と一緒に沢山のハーブが植わっている。
さゆみが調子外れの鼻歌を歌いながら指を振るうと、よく茂ったハーブ達の若葉が
風に乗ってさゆみの元に舞い降りた。
セージ、ローズヒップ、タイム、エルダーフラワー。
美味しいハーブティーを作ろう。
体調の悪い時は、これが一番。それから甘い物も少々。

優樹の傷をさゆみの魔法でたちどころに直すことは出来た。
魔力と体力を、完全に回復させることも出来る。
でも、魔法で無理やり身体を治すことには、反動も副作用もある。
すぐに動けるようになる必要があるならばともかく、
今の優樹にはゆっくりと治せる時間があるのだから、自然に、自分の力で回復するのが一番だと考えた。

自分が優樹の身体から里保の魔力を吸い出さず、里保自身に任せたのも
将来的にはそれが一番優樹の身体への負担が少ないから。
結局、傷の手当をするのは、ただ手を当てる、それだけのことが一番いいというのが
さゆみの経験から得た一つの答えだった。


ノリノリで二人の食卓を整えて二人が上がるのを待つ。
ふと我に還ったさゆみは、あまりにらしくない自分の行動に自嘲気味な笑みを漏らした。

まるで母親のように二人に手を焼いてしまっている。
まったくもって、らしくないと思った。

もう随分と、人と深く関わることをしていなかった。

それもこれも、衣梨奈を弟子になんかしたせいだ。
本当に世話の焼ける、出来の悪い弟子。
けれど側にいると飽きなくて、気がつけばペースに巻き込まれていることもしばしば。
そして人との関係を築いて、その輪にさゆみを巻き込んでいった。

今までならば、遥や優樹のように逃げ込んできた魔道士が居ても門前払いしていただろう。
現に頼られて、冷たくあしらったことも何度もあった。本当に面倒くさい。
協会がどうなろうと、どうでも良かった。
さゆみが変に関わって、かえって事態がややこしくなることだってある。


よくよく思い返してみれば、昨日聖が連れてきた優樹たちを
すぐに受け入れる気になったのは、里保のせいだった。

帰宅してから様子のおかしかった里保と協会に追われてきた狗族の少女を見て
すぐにおおよその推測がたった。
里保の翳った心に、その子達が側にいることは大きな意味がある。
目を逸らさず、ちゃんと向き合うことでしか進めない場合もあるのだ。

まあ二人が美少女だったから、というのも少しはあるけれど。

やはり、らしく無いなと思う。
里保だって衣梨奈と同じように暇つぶしの相手のはずだったのに。

今は慕ってくれていても、もう何年かすればそれぞれの道を見つけ離れていく。
そしてあと何十年かすればさゆみを置いていなくなってしまう。

誰かと深く関われば関わるほど、好きになればなるほど、
後で嫌な思いをするのは自分だと分かっているのに。
刹那、過去に触れ合った今は居ない人達の顔が、閃光のように脳裏を横切った。


「はぁ、さゆみってほんと、学習能力無いなぁ」

重く息を吐く。
あの子達もいずれ、その思い出の中に加わるのだと思うと、
途端に虚しさが胸を襲った。

温めたスープの湯気がゆらゆらと目の前を漂う。
それを指でくるくるとかき混ぜると
湯気は色んな思い出に姿を変えて、すぐに消えた。

少し浮かれていたのかな、と思う。
衣梨奈が来てから、やけに楽しくて、里保が来てからもっと楽しくなって。

もう少し、遠くから見守っているべきかもしれない。
調子に乗って偉そうに喋ったって、実のところ自分が教えられることなんて殆ど無いと感じていた。


衣梨奈や里保の顔を思い浮かべる。
少し落ち込んでいた気持ちが、ふっと軽く、楽になった。
結局、自分の方が甘えているのかもしれないな、と苦笑する。

こうやって、今この瞬間を思って、楽しい気持ちになれてしまうから
自分はまだ性懲りも無く魔法使いをしているのだと思った。

もう少し威厳とか、そんな物を持ちたいけれど、
つくづく自分の本質は大昔から変わっていないと思い知る。


二人の足音が聞こえ、さゆみはポットからハーブティーを注いだ。
熱いので、氷を二つずつ。

風呂上がり、遥が優樹を支え、その髪をタオルで拭いながらリビングに戻って来た。
さゆみが用意した可愛らしい着替えがまた二人共似合っていて
その姿に思わず笑みが溢れる。
これじゃダメだなぁ、と心の中で苦笑いして、さゆみは二人を食卓に促した。


 

 

二人で勢いよく、仲良く食事する遥と優樹をさゆみ微笑みながら見ていた。
お腹が空いているだろうに、一人分しかないことに気付いた遥は
優樹にしっかり食べさせようと幾分遠慮している。
優樹もそれを分かっているのかどうなのか、遥と何度も目を合わせて微笑み合った。

「みにしげさん、ありがとうございました」

お風呂でおおよその事情を聞いたのだろう。
優樹が口の横にドレッシングをつけながらニコニコとさゆみに告げる。
すぐに遥の突っ込みが入った。

「ばか、道重さんだってば」

「ふふふ、どういたしまして」

優樹の表情は本当に無邪気で、柔らかくて
その仕草もいちいち可愛らしい。
さゆみはこの狗族の少女のこともすっかり気に入ってしまった。


窓から流れ込む風が、灼けた陽気を部屋の中へ運び込む。
時刻はもうすっかり昼を回っていた。

遥と優樹が慎ましいブランチを終えて、
夏の緩やかな昼時、改めて三人が向かい合って腰掛けた。
チョコレートやクッキーを真ん中に置いて、三人でハーブティーを楽しむ。

「さ、二人がこれから住む部屋、生田が選んでったからね。
まずはお掃除しなきゃ。それから、いろいろと必要なもの揃えないとだね」

楽しそうにさゆみが告げる。
すると、遥の表情がまた不安に翳った。
優樹も敏感にそれを読み取ったようで、遥の顔をじっと見つめる。

「その…道重さん、本当に、いいんですか?」

「どうして?」

「だってハルたち、何にもお返し出来ないのに…。こんなに、親切にして貰える理由がない…」

さゆみには遥のその不安がよく分かった。
自分がまだ彼女達にとって得体の知れない存在であることも重々承知している。
意味や意図が理解出来ないことは怖いこと。それに身を委ねてしまうと
気がついた時には取り返しがつかなくなることだってある。
まだ子供の遥でも、それは充分わかっているようだった。


「理由ねぇ。ま、確かに工藤の言うことは分かるよ」

さゆみは変わらぬ笑顔で答えた。

「さゆみね、一人弟子がいるの。生田っていう子ね。その子と凄く仲のいい友達が
譜久村聖ちゃんって子。昨日の子だよ。覚えてる?」

遥は深く頷いた。
忘れる訳もない恩人だ。

「その子が助けてあげてってさゆみに頼んだのが
工藤ちゃんとまーちゃん。だから助けたの。
あと、二人が凄い可愛かったから。それが理由。納得出来ない?」

遥は複雑な表情を崩せないまま僅かに頷いた。

理由は本当にそれだけなのだけれど、到底納得は出来ないだろう。

正直に淡々と本当のことを言うと、かえって裏側を邪推されて信じて貰えないことがある。
もちろんさゆみは、分かっていてそんな言い方をした。
引っ掛かりや緊張感を、まだまだ持っていた方がいい。

遥は思惑通りの反応だったけれど、隣に座る優樹は、まるで遥の煩悶が理解出来ない
というように、不思議そうな顔をしていた。
こちらは言葉の駆け引きなんて意味を持たず、直感で判断するタイプらしい。
どちらの反応も可愛らしい。


「せめて何か…。何か出来ることはありませんか?条件でもいいんです」

条件を求めたい気持ちもよく分かった。
無償の情がありえないとは言わないけれど、殆ど無いことを遥は分かっている。
さゆみにとっては情でも何でもなく、ただの長い人生の暇つぶしの一環だと言っても
多分理解出来ないだろう。

もう数え切れない人の生き死にを見てきた。
本当ならばもう、人と一切関わらなくたって生きられる。
誰がどうなろうと、世界の人口が半分になろうと無関係と割り切れるさゆみの感覚を
理解しろという方が無理がある。

さゆみはまた少し自嘲した。
だったら関わらなければいいのに、そう思うこともあるけれど。
本当に、自分は中途半端だなと思った。

「条件、そうね…。ま、欲しいよね」

さゆみが一度二人を見回す。
優樹がぼんやりと話を聞いている横で、遥が息を一つ飲み込んでいるのが見えた。

暫し考えて、近い未来のことを思い返す。


「じゃあ、絶対に勝手に居なくならないこと。
黙って出て行くなんて言語道断。約束出来る?」

さゆみの言葉に、遥の目が揺れる。
それは微かな不安と、僅かな恐怖の所為。
始め優しくしてくれた魔女が言質をとって、後になって豹変する、
そんな御伽噺も沢山ある。遥はそんなイメージを持っているのだろう。
それでいい。
今の二人には心身共に余裕が無く先も見えない。
切迫した状態で心から信頼してしまうと、その相手に依存して何も出来なくなる。
子供に対して酷だとは思うけれど。

「……はい」

意を決したように遥が答えた。
結局考えても、今他に行く場所も無く、疑いきることも出来ない。
さゆみは、遥の様子が可愛いなと思うけれど、滑稽とは思わなかった。
まだ子供だけれど、生きる為の強さはちゃんと持っている。


「まーちゃんも、約束出来る?」

「はい、みちしげさん!」

こちらは元気のいい返事。
本当に対照的で、面白いコンビだと思う。

「あとね、家のこと殆ど生田に任せちゃってるから、
それを手伝ってくれると助かるかな。出来る範囲でいいからね」

「はい、勿論です」

「はい、わかりましたー」

「それともう一人…」

さゆみが里保の話も続けようとして、ふと言葉を止めた。


里保の話が出ることを感じて顔を顰めた遥も、さゆみの様子に首を傾げる。

「生田たち帰ってきたみたい。そっか、今日半ドンだったっけ」

遠くに視線を投げて言うさゆみに、遥と優樹が顔を見合わせた。

「フクちゃんと香音ちゃんもいるわ。
お話はまた後だね。皆に、改めて二人のこと紹介しないと。
それに約束もあるから」

「…はい」

立ち上がるさゆみを追って、遥と優樹も立ち上がる。
玄関に向かうと同じタイミングで外から人の気配がした。
戸が開かれる。

「ただいまー」

衣梨奈の明るい声と共に
衣梨奈、里保、聖、香音の四人が顔を出した。

「こんにちは、道重さん。お邪魔します」

「お邪魔しまーす」

「いらっしゃい、ふくちゃん、香音ちゃん。生田とりほりほも、お帰り」


4人を玄関でさゆみが迎える。
そのさゆみの後ろに、些か緊張した面持ちの遥。
その後ろに隠れるように優樹がいた。

それぞれの視線が交差して、なんとも言い難い空気が流れる。

そんな中、聖が、遥と優樹の姿を見て明るく微笑んだ。
聖と目があった遥が、その笑みに頬を染めて軽く目礼する。
香音は、衣梨奈の話を思い出し、始めて見る二人を観察していた。


急に現れた4人に戸惑っていた優樹が
その中に里保の姿を見つけパッと表情を輝かせる。
それから、勢いよく飛び出した。

「さやしさーん!」

寄せられた視線を気にせず、優樹が里保に抱きつく。
突然のことに、辺りが驚きと包まれた。
続いて、それぞれが唖然としてその様子を見やる。

「ば、まーちゃん何してんの!」

思わず呟いた遥の声が、言葉を失った空気の中に漂った。


抱きつかれた当の里保も、驚き固まっていた。

けれど、優樹の体温を感じているうち、次第に心が温まってきた。
傷つけた張本人である自分に抱きついて来てくれたこと。
夢現の中で交わした短い会話をしっかりと覚えていてくれたこと。
その傷が、幾分癒えて今元気そうにしていること。
とても嬉しくて、里保も優樹の背に腕を回した。

「おはよう、優樹ちゃん。元気になって、よかった」

「はい!」

子犬のように里保にじゃれつく優樹の姿を、それぞれが複雑な面持ちで眺める。
特に遥は、納得が出来ないというように仏頂面をしていたけれど
聖の手前、口に出すことは謹んだ。

さゆみはそんな様子を一歩後ろから眺め

「りほりほ、なかなかやるわね…」

と呟いた。


優樹と里保の抱擁も程なく解かれ、聖達は促されて家に上がり込んだ。
二人の抱擁にいくらか和やかな空気になったものの
この場にいる大半にはそれの意味が分からず、困惑が後を引く。
特に、香音と聖のそれは大きかった。

聖は改めて昨日、遥と優樹と出会ってからの一つ一つを思い出していた。
様々な出来事が、どれも少しづつ自分の知る常識的なこととはズレていて
それでも自分以外の人たちが了解しているように振舞うのが不思議で仕方なかった。

そうして考えているうち、自分が子供だから知らず、皆が大人だから知っているのだと思い至る。
さゆみが告げた『大人の階段』も、そういうことなのだろうか。
だとすると、昨晩ベッドで身悶えた様々な想像が、全くの的外れな勘違いということになって
それを思うと火が出るように恥ずかしかった。
けれども、まださゆみの話が始まるまでは、何とも断言しづらい。

そぞろに後に続く香音の横顔を盗み見る。
その表情からはいくらか真剣で、いくらか気楽な心構えが見てとれた。


いつもの居間に通され、さゆみに好きに寛ぐよう促される。
遠慮がちに席にかけると、さゆみお手製という冷たいハーブティーを振舞われた。

丸いテーブルの周りに七人。
流石に少し窮屈な感じがする。

聖はハーブティーに口をつけ、その清涼が身体に染み渡るにつけ
鼓動が落ち着き、身体が冷まされるのを感じた。
そこではたと、暑い外を歩いて汗ばんだ身体が、
家に入った途端心地よく癒されたことにも気付く。
さゆみはいつも不思議だと改めて感じた。

「さて、ごめんねふくちゃん、香音ちゃん。テストも近くて大変なのに来て貰っちゃって」

「いえ、ぜんぜん、とんでもないです」

さゆみの言葉に聖は慌てて首を振った。
そもそも、お話をせがんだのは自分自身だ。

「えりちゃんから、大切なお話だって聞きましたけど」

香音も首を振って笑いながら、さゆみに問いかけた。

「どうだろう。それは二人次第、かもね」

思わせぶりなさゆみの言葉に、聖と香音が顔を見合わせる。


「工藤と佐藤も、ごめんね。ちょっと付き合ってね。ちゃんと紹介もしたいし」

さゆみが今度は遥と優樹の方を向き、声を掛けた。
二人共、首肯して、黙って話に参加する意思を見せる。
聖はそんな様子に、二人には分かっているのだろうかと疑問を抱いた。

「じゃ、先に軽く紹介しとくね。
初めましての子もいるもんね。改めて自己紹介はまた後、ってことで」

聖は今一度、一同を見回した。
自分は知らない子は居ない。
けれど何も知らないのと同じだと思った。
衣梨奈と里保の表情を覗うと、二人ともいつになく生真面目な面持ちで口を結んでいる。

「私は道重さゆみ。隣から、生田衣梨奈。鞘師里保ちゃん。鈴木香音ちゃん。譜久村聖ちゃん。
工藤遥ちゃん。佐藤優樹ちゃん」

順に視線を追ってさゆみが名前を呼ぶ。
聖もそれに従って、確認するように目で追い、一つずつ頷いた。

「工藤ちゃんと佐藤ちゃんは、暫くここに住むことになったから、
フクちゃんと香音ちゃんも仲良くしてあげてね」

さゆみの微笑みに合わせて遥が軽く頭を下げる。
聖と香音は小さく「はい」と声を揃えた。


「さて、じゃあふくちゃんに昨日話すって約束した話だけど」

いよいよお話が始まる空気を感じて、聖は一つ息を呑んだ。
さゆみの表情はいつもと変わらず柔らかく優しいけれども
部屋には妙な緊張感が漂っている。
それは、衣梨奈と里保の緊張でもあると感じた。

静かな部屋に、優樹がクッキーを齧るサクリという音が小気味よく響く。


「まず、そうね。二人ともいつも生田と仲良くしてくれて有難う。
勿論りほりほとも。ちゃんと言ったこと無かったから、一度お礼を言わせてね」

「いえ、そんな…」

さゆみの言葉に、また聖の鼓動が早まった。
まるで何か、お別れを控えたような、意味深な言葉。
急に、次を聞くのが怖くなった。

「こっちこそ、えりちゃんと里保ちゃんに有難うです。いつも凄く楽しいんです」

言葉の尾が消え入った聖とは反対に、香音はハキハキと笑顔で答える。
照れるようなことも、必要な場面ではっきりと言葉に出来る香音のことが羨ましいと思った。

さゆみは、そんな二人の様子に一度満足そうに頷いてから
再び口を開いた。


「いろいろと、変だと思ったことあったでしょ?生田は元々変な子だけど。
生田だけじゃなくて、りほりほとかさゆみのことも」

聖は、今更話の方向性が少しだけ分かった。
ずっと感じていた衣梨奈やさゆみへのちょっとした疑問。
それは、はっきりとしたものでは無く、漠然と感じる、でも手の届かないような違和感。
例えばさゆみと衣梨奈がどういう関係で、何故一緒に暮らしているのか。
さゆみはどういう人で、何をして生活しているのか。
これまでふと疑問をぶつけても何となく躱されて、それ以上踏み込めなかった部分。

知りたいけれど、知るのが怖いと思っていた部分だ。


「それはね、さゆみ達が二人に…というかみんなにだね、隠し事してたからなの」

ゆっくりと紡がれるさゆみの言葉に、聖の鼓動がどんどんと早まる。
吸い込まれるようにさゆみの唇を見つめ、次の言葉が出るのを
早く、とも、待って、とも思った。

「何を隠してたかって言うとね……生田、あと宜しく」

「えぇ?」


高まった緊張が、衣梨奈の素っ頓狂な声で一瞬緩んだ。
予想外の振りに、里保もまた驚いて衣梨奈とさゆみを交互に見ている。

暫くさゆみの顔を困惑した顔で見ていた衣梨奈が
さゆみの柔らかい笑みに押し返されて、小さく頷いた。

今度は部屋の視線が衣梨奈に集まる。

窓の外からは、遠く蝉の唸りが聞こえてくる。
息を呑む音も聞こえる静かな部屋で
優樹がお茶を啜るズズズという音だけが響いた。

「えりたち…」

聖は衣梨奈の唇を強く見つめた。
一度緊張が弛緩したせいか、頭が上手く働かなくて
次の言葉を予想することも出来ず、ただその唇をセクシーだと感じていた。

「えりたち、実は魔法使いなんよ」

また部屋の空気が固まった。

聖の耳からも音が遠くなって、蝉の声が聞こえなくなる。
優樹がお煎餅を咀嚼するバリバリという音だけがやけに響いた。


どう反応していいかも分からず、沈黙は数秒続いた。
いつもの冗談ならば、誰かしらが突っ込んで空気をほどいてくれるはずなのに
さゆみも里保も、香音も黙っている。

「あの、ごめんね。聖、香音ちゃん。今までずっと黙ってて」

沈黙に一番に耐えられなくなった衣梨奈が、眉を八の字に垂れて言った。

「あの、うちらどうしたらいいの?」

何とか絞り出した香音の言葉に、聖も小さく震えながら頷く。
真面目な空気の方がおかしくて、やはり話だけ見れば突飛な冗談以外の何物でもない。
香音の言葉で、その思考に自信を持った聖は
早く冗談の空気にならないか、笑って衣梨奈が取り下げないかと期待した。

「あ、えっとごめん。急に言われてもやっぱ信じれんよね…」

しかし期待とは裏腹に、衣梨奈はあくまでも真面目に言葉を繋ぐ。
さゆみや里保の表情も、一向に崩れなかった。


聖と香音の反応が芳しく無かったことに焦ったのか
衣梨奈の口調が速くなる。

「じゃあ今からえりが魔法見せるけん。何がいいとかいな…じゃあ、紅茶の魔法」

言いかけた衣梨奈の言葉を、今まで黙っていた里保が遮った。

「それじゃ分かんないでしょ。うちが見せるよ」

今度はそんな里保の言葉を、さゆみが遮る。

「ダメ。家の中でりほりほの魔法使ったら大変でしょ。
佐藤と工藤は体調的に使えないしね」

不意に名前を呼ばれて、手遊びをしていた優樹がはっと顔を上げた。
遥がそんな優樹の手をピシャリと叩いて、さゆみの言葉に頷く。

聖には、まるで分からなかった。
5人とも結託して、自分と香音にドッキリを仕掛けているんじゃないか。


「生田、あんたの言葉って親友にも実演しないと信じて貰えないくらい軽いの?」

さゆみが衣梨奈に向かって言った。


その言葉に、揺らぎ身じろいでいた空気がまたピンと張る。

その言葉には、何か有無を言わせない説得力があった。
衣梨奈はもう一度さゆみの方に視線を向け、今度は真っ直ぐに聖と香音に向き直った。

聖は真っ直ぐに向けられた衣梨奈の目を、綺麗だと思いながら見返した。
昔から、衣梨奈はこうして真っ直ぐに目を見て話す。
それは何にも後ろめたいことの無い証で、だからこそ眩しくて、憧れたのを思い出した。

吸い寄せるような視線を見ていると、不意に自分のさっきまでの思考が恥ずかしくなった。

大切な友達や憧れの人から、騙されているかもしれないとか、からかわれているんじゃないかとか
疑ったって何一ついいことは無い。疑ったことへの後ろめたさは残るけれど。
そして仮にからかわれていたって、何も悪いことは無い。ただ笑い話になるだけ。
親友の言葉を、真っ直ぐに発しようとしている言葉を、
真っ直ぐに受け止めようとしない態度。それが一番恥ずかしいんじゃないかと思う。
どんなに突飛な話でも、まずは気持ちをさらにして、聞く姿勢が無いようでどうするのか。

「ごめん。多分だいぶ変な話やけん、信じれんと思う。無理に信じろとも言えんちゃけど、
聞くだけ聞いてね。えりのことと里保のこと、それから道重さんのこと」

聖にはもう、衣梨奈の言葉を疑う気持ちは微塵も無かった。
大好きは人の言葉を、何の疑いも持たず聞けることが嬉しかった。
ちらりと横に座る香音を窺う。
同じ気持ちだ、と思った。

二人は衣梨奈の口からたどたどしく語られる魔法の話、魔法使いの話に
深く耳を傾けた。


 

聖は衣梨奈の話をじっと聞いていた。
それは、魔法や魔法使いの話だけれども、いまいち取り留めがなくて
それらの世界の仕組みが分かるという話ではなかった。
どちらかと言えば、衣梨奈の家のことや里保との思い出話。
三年前にお父さんと喧嘩をして家出をした。
その先で出会ったさゆみに、紆余曲折あって弟子入りした。
さゆみは、3本の指に入るという大魔法使いで、この街の魔道士の長だということ。

聖には疑う気持ちは無かった。
自分がまるで知らない世界が確かに存在する。
纏まりは無いながら、衣梨奈の話には破綻するような所も無い。

けれど何故か話が進むうち、胸の奥がチリチリと疼いた。
知らないこと、今まで気になっていた衣梨奈のことが
知れるのは嬉しいはずなのに。
ずっと知りたいと思っていたのに。

知ればもっと衣梨奈に近づけると思っていた。
でも、聞けば聞くほど、違和感が埋まって、視界が開けて
衣梨奈との距離を思い知らされる。
その距離は途方もない物に思えた。
別の世界の住人。そう言ってしまえるくらいに、
衣梨奈がどんどんと遠のいていく。

里保の表情が気になったけれど、見られなかった。
衣梨奈と同じ世界にいる。衣梨奈と隣同士で歩ける。
そんな里保が今している表情を知るのが怖かった。


「聖……?」

ふと言葉を止め、衣梨奈が聖に問いかける。
不安そうな表情で見つめられ、何事かと思ったけれど
すぐに衣梨奈の表情の意味が分かった。

聖の頬を、いつからか涙が伝っていた。
聖は慌てて手の甲でそれを拭って、出来るだけ明るい笑顔を作った。

「聖、ごめん…」

「ううん。何でもないよ、ごめん」

自分がどうして泣いているのか分からなかった。
そして衣梨奈が何を謝っているのかも。

自分の泣いている理由、自分でも分からない理由を、
誰にも分かられたく無いと思った。
だけど衣梨奈だけには、分かって欲しいとも思う。
衣梨奈は、決して分からないだろう。


聖の涙によって止められた衣梨奈の話は続かなかった。
取り留めがなくて、終点が見えなくなっていたお話が、聖の涙に終着する。

何故だか分からないけれども、悲しいことのようにお話が途切れた。

「生田、もういいの?」

話を続けようとしない衣梨奈にさゆみが問いかける。
衣梨奈は少し悲しそうに、さゆみを見返し、小さく頷いた。

「フクちゃん、そんな手で擦ったら腫れちゃうよ」

衣梨奈の返事からも大きく間をあけて、さゆみが聖に笑いかけた。
それからすっと手を差し出す。
くるりと手首を返すと、その中に可愛らしい刺繍のハンカチが収まっていた。

手品のような、可愛らしい魔法。
聖にはそれが魔法だと分かった。
ごく自然に、そこに魔法が存在することが受け入れられた。
さゆみが魔法使いなのも、当たり前の事実のような気がする。

差し出されたハンカチを目礼して受け取り、目に押し当てると
柔らかい感触が、現実感を呼び戻す。
それは「魔法が存在する現実」という、今までとは違う現実。


さゆみは聖に微笑み、それから視線を香音にずらした。

「香音ちゃん、どう?生田の話、信じられる?」

「正直全くえりちゃんの話は分かんないんですけど。
でも、えりちゃんの目が、あーほんとなんだなって感じです。別に最初から疑って無いんですけどね」

聖は香音の落ち着いた声をじっと聞いていた。
それは普段よりもいくらか深刻で、でも決して揺らいでいない。
大人な香音が羨ましいと思った。
自分は、自身の涙の意味すら分からす泣いている。小さな子供のよう。

「そっか。確かに生田は話下手だもんね。
何か聞きたいことはある?さゆみもりほりほも答えるよ」

さゆみの言葉に、里保が小さく頷いた。

「じゃあ、その…魔法のことは、皆には秘密なんですか?
知ってる人もいるんですよね?」

「そうだね。いっぱいいるよ。でも大っぴらにはみんな話さないと思うよ。
知らなくても何も困らないし、知ってても別に得することも無いしね」

「秘密にしておいた方がいいんですか?」

「どう?りほりほ、生田」

「出来れば」

「えりも、そうやね。今は出来れば秘密にしといて貰いたいかな」


香音とさゆみ達のあいだで進行する会話を、聖はまだ瞼を抑えながらぼんやりと聞いていた。
もう涙は止まっているけれど、会話も時間も止まらず流れていく。
戸惑った気持ちを整理することも出来なくて、ただ現実に置いていかれるような感覚に
心細くなった。

「ちなみに」

唐突にさゆみが声を発する。
ちらりと聖の方を視た気がしたけれど、香音に向けて言ったような
衣梨奈や里保に向けて言ったような。

「生田もりほりほも馴染み過ぎててすっかり忘れてるみたいだけれど、
生田のお母さんは魔法使いじゃないからね」

どこか驚いたように衣梨奈と里保が顔を見合わせた。

「そういえばそうやった…」
「うん…うちも完全に忘れてたかも」

さゆみがそれだけ言うと一つお煎餅を摘んで齧る。
また、聖とさゆみの目が合った気がした。

聖はそれが、まるで自分に向けられた言葉のような気がした。


聖は衣梨奈の両親を知らない。
だけれど、魔道士協会という組織の幹部であり、立派な魔法使いである衣梨奈のお父さんと結婚して
衣梨奈を生んだ、その女性は魔法使いでは無い。
その単なる事実が、聖の心を魔法のように軽くした。

自分の心がどういう経緯を辿ってそうなったのか、道程はまるで分からないけれど
何となく、それがどんな意味なのかは分かってしまった。

聖はようやく、自分の中に宿っていた気持ちに気付きかけていた。
それに名前を付けるのはまだ怖い。
でも、もしその気持ちが間違いで無いのだとしたら
さゆみの言う「大人の階段」を登ったのは、たった今、なのかもしれない。

「道重さん…」

聖は恐る恐る声を出した。
胸の中が蟠るような熱いような不思議な感覚で
衣梨奈の方を向くことが恥ずかしい。

「うん?どうしたの?」

「あの、今道重さんは、聖に、その…」

「ん、なんのこと?」

言いながらニヤリと笑うさゆみを見て、確信する。
少なくとも、さゆみはさっきのことを自分に教えてくれたのだろうということ。


衣梨奈も里保も、会話の意味が分からず不思議な顔をしていた。

「聖やっぱり、そうなんでしょうか…」

どう言葉にしていいかも分からなかったけれど、さゆみになら伝わる気がした。
何せ、相手は大魔法使いだから。

「さあ。それはフクちゃん自信の気持ちと相談しないと。
さすがのさゆみも無責任なことは言えないなぁ」

伝わった。
そしてその返事は、自分の考えがさゆみをしてもそれほどズレてはいない、
ということだと思った。

聖はさゆみのその言葉に深く頷き、頭を下げた。
ちゃんと自分の気持ちと相談しなければ。
これから、きちんと。


「なん?何の話か全くわからんっちゃけど…」

衣梨奈が不満の声を出す。
里保もそれに同意するように数度頷いた。

「お子ちゃまには分からない話よ。ね、香音ちゃん」

「そうですね」

さゆみが香音に振ると、香音は苦笑いしながら頷いた。
聖はそんなやり取りを、少し面映ゆい心持ちで聞いた。
もしかしたら、香音はずっと自分の気持ちを知っていたのかもしれない。
そう思うと恥ずかしいような、頼もしいような気がした。

「えー、ちょっと何ですか。気になるっちゃけど」

衣梨奈がいつもの調子で言う。
聖の涙でおかしくなった空気は、衣梨奈の情けない声と
それに釣られたみんなの笑い声とで、随分と明るいものに変わっていた。

「はいはい、生田にはまだ早いから、もうちょっと大人になってから出直してきなさい。
まだ佐藤と工藤の話もしなきゃいけないんだから、ほら、話すすめるよ」

いくらか緩んだ空気の中、不意に自分の名前を聞いた優樹が閉じかけていた瞼をハッと押し上げた。
遥も、いくらか居住まいを正して、改めて一同に視線を配った。


 


「さてと、こっちの二人だけど。
うーんと、話の流れから分かると思うけど、この子達も魔法使いなの」

さゆみの言葉に一同が頷く。
聖も香音もそれはなんとなく予想していて、驚きはしなかった。

聖は改めて二人を見つめ、昨日の様子を思い返していた。

「えっと、優樹ちゃん。怪我はもう大丈夫?」

聖が少し不安気に尋ねる。
優樹は、キョトンとして聖を見返した。

「譜久村さんだよ。さっき言ったでしょ。ハル達をここに連れてきてくれた人だよ」

遥が慌てて説明すると、一拍間があってから優樹が笑顔で答える。

「ハイ!もうバリバリ元気です!」

「適当なこと言うんじゃないの。暫く安静だし、まだ痛みもあるでしょ?」

さゆみの言葉に、優樹がそちらに顔を向けニヒヒと笑った。
聖の微かな「可愛い」という呟きを、隣に座る香音だけが聞いた。


「譜久村さん、昨日は本当に有難うございました」

改めて告げる遥。
優樹もそれを受けて続ける。

「むくぬらさん、ありがとうございました!」

「馬鹿!譜久村さんだってば!」

可愛らしいやり取りに一同が微笑む。
聖も嬉しくなって、二人に満面の笑みを返した。

「ううん、聖は何も出来なかったから。でも二人共元気で本当によかった」

窓辺のカーテンをふわりと揺らし、涼やかな風が舞い込んでくる。
午後の一室は、夏色の爽やかな香りに包まれていた。

「でも、どうしてあんな怪我をしていたの?」

何気なく聖が続ける。
また風が凪ぎ、誰かのグラスの氷がカランと崩れた。


言葉が止まり、視線が何となく一方に集まる。
聖はその視線の先に里保がいることに、程なく気付いた。

「うちがやった」

里保の言葉が、静かに響く。
聖と香音から同時に、吐息のような戸惑いの声が漏れた。

里保が普段と変わらない真面目で平坦な話し方で言葉を続ける。

「さっきえりぽんの話にもちらっと出てきたけど、
この中ではうちだけ魔道士協会っていう組織に所属してる。
二人は、その組織と……敵対関係にあるから、昨日、うちと戦った」

聖はゴクリと唾を飲み込んだ。
何か夢心地のようだった午後の空気が、剣呑なそれに変わった気がした。
ちらりと伺い見ると、遥が強い視線で里保を睨みつけている。

一方で、話の中心人物であるはずの優樹は
またお煎餅に手を伸ばしていた。
場違いなバリバリという咀嚼音が再び部屋に響く。

「やった本人のうちから言わせて貰えば
優樹ちゃんの傷はそんなすぐ治るものじゃない。
ちゃんとした治療も出来てないし、まだ全然魔力も戻ってない」

聖は、努めて平坦に紡がれる里保の言葉に
どこか悲しそうな色が含まれていることに気付いた。


改めて里保のことを考える。
どこか大人びていて、それでもたまに熱くなったり
急に子供らしくはしゃいでみせたり。
いつも何かを押し殺しているように感じていた。
無理に大人ぶっているような、何か大きな責任を一人で抱え込んでいるような。
優樹を傷付けたことを悲しんでいるのだと思った。
事情は詳しくは分からないけれど、
それを表に出してはいけないのだと、我慢している。

不器用だな、と思う。
人のことは言えないけれど。
聖は、そんな里保のことを愛おしいと思った。

始めに感じた里保の印象。
衣梨奈と再会したときに見せた心からの笑顔。
優しい子なんだと思った。
そして、優樹を傷付けたという告白を聞いた今でも
里保の印象は変わらない。
里保はとても優しくて、不器用な女の子だ。


「えー、でも昨日より全然大丈夫ですよ。さやしさんのおかげです」

どこか沈鬱な空気を蹴散らすように、
口の中をもぐもぐと動かしながら優樹が言った。
すぐにそれに反応を示したのは遥だった。

「ちょっと、まーちゃん!何でさっきからコイツにそんな好意的なんだよ!」

その声には怒気と苛立ちとが多分に含まれている。
聖は昨日、意識を失って倒れていた優樹に縋って、取り乱し泣いていた遥を思い出した。
もし里保があの原因なのだとしたら、遥の気持ちは尤もだと思う。
優樹の態度の方がおかしいと言いたげな遥の様子も。

「コイツが、まーちゃんを斬ったんだぞ。
本当にハルは、まーちゃんが死んじゃうかと思ったんだから…」

歯噛みする遥に、優樹が子犬のようなのどかな目を向ける。
それから手についたお煎餅のカスを舐め取りながら事も無げに言った。

「でもさやしさんの肩の所のきずはまさがやったから。おあいこ」

その言葉に、視線がまた里保に集まる。
里保は思わず自分肩に手を当て、聖や香音の視線を感じてその手を下ろした。

遥も一瞬里保の方を見て、少し驚いたような顔をした。
里保に優樹から受けた傷があることを知らなかったらしい。

「そういう問題じゃ…」


いくらかトーンを落としながらも、向き直り詰め寄る遥に
優樹が言葉を被せる。

「だいじょうぶだよ、どぅー。さやしさんはやさしいよ。
それに、さっきどぅー言ってたじゃん。
ここに居たらさやしさんは戦えないから、けんかする必要ないって」

優樹の立て続けの言葉に
さしもの遥も気勢が削がれたのか、続く言葉を無くしていた。
納得出来ないと苛立っているようにも見えたけれど
優樹本人がもうすっかり里保のことを許していることで
遥が里保に対して殊更憤る理由が薄れているらしかった。

「ま、そういうこと」

遥の勢いが落ちたのを見計らって、さゆみが告げる。

「でもまーちゃんとは一撃同士、おあいこだけど、
工藤はお腹にいいの貰ったっきりやられっぱなしだね。
どうする?今りほりほのこと一発殴っとく?」

ニコニコと笑いながら、物騒なことを言うものだと皆が思ったけれど
遥はさゆみを強く見返しながら首を振った。

「いや、いいっす。いずれ、ちゃんと魔力が回復したら、
今度こそ一対一の『勝負』でぶっとばしてやります」


聖は一連のやりとりで、また『魔法使い』の実情がよくわからなくなった。
でも遥の宣言を聞いて、里保の気持ちがいくらか楽になっているように感じる。

「もちろん、受けて立つよ」

里保の声の調子は変わらない。
でも、さっきまでと違ってどこか沈んだ調子は無くなっていた。

「改めて、これから宜しくね。優樹ちゃん、それと『どぅー』」

少し笑いながら言う里保を遥がまた睨む。

「馴れ馴れしく呼ぶなっつーの……」

「やったー、どぅーもさやしさんと仲直りだね」

「してないってば」

思わず遥が苦笑したことで、また部屋の空気は随分と穏やかになった。


もう7人が顔を突き合わせて話し始めてから随分と時間が経っている。
用意していたお菓子やお煎餅も、殆ど優樹が平らげて無くなっていた。

「だめだわ。あたしまた完全に置いてけぼりだわ」

香音が笑いながら呟いた。
聖もそれを隣で聞きながら笑う。

「聖も。でも、なんだか楽しくなりそう」

更に横から衣梨奈も続いた。

「えりも…。完全に香音ちゃん達の側っちゃん。魔法使いやのに…」


「いいかな。じゃあお話はこんなところで。
いろいろあるけど、またこれからも宜しくね」

さゆみが話纏める。
座りっぱなしだった皆が肩を伸ばし、身体をほぐし始めた。

「さて、これからだけど、二人が住む部屋がまだ片付いてないのよ。
みんな、手伝ってあげてくれる?」

そんな言葉に「はい!」と元気な返事が響き、
夏の午後の『お話』とお茶会は終宴となった。

 

本編9 本編11

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最終更新:2014年07月14日 23:01