本編14 『狗族の郷へ』


物凄いスピードで顔にぶつかる風に目も開けられずにいた衣梨奈は、
それでも里保を信じ、全力で魔力を注いでいた。
そうしているうち、だんだんと慣れ、目が開けられるようになる。
眼下には月明かりに照らされた美しい雲海が見えた。

「えりぽん、大丈夫?」

「うん、だいぶ慣れてきた」

少し肌寒かったけれど、半身でしがみついた里保の身体と
繋いだ手が暖かく、それが頼もしい。

小さい頃からずっと、こんな風に飛んでみたかった。
まだ自分の力で飛べたとは言えないけれど、それでも嬉しい。
それに、里保の魔法で落ち無いという安心感があるおかげで
自身でもバランスを取るコツが何となく分かってきた。
ちょうど、補助輪のついた自転車に乗る感じだろうか。


「凄いね。やっぱえりぽんってセンスあるんだね」

「なに、ちょー上から目線」

「や、違うよ。違うって」

軽口を言って笑い合う。
優樹と遥と初めて会った日から、里保の様子はずっとおかしくて、
衣梨奈はそれを心配しつつも中々踏み込めないでいた。
色々な事情がいっぺんに紐解けて
全部では無いにしろ、里保の苦しみが少しずつ見える。
多分それは何も解決していないけれど、少しでも知れたことが嬉しい。
優樹と遥のことも含めて、物凄く難しいことだけれども、
一緒に考えて、一緒に行動出来る。

衣梨奈は今更、一人で行こうとしたことを猛省していた。
また、同じように里保と離れてしまうところだった。
気持ちが離れてしまう。それはもう、絶対に嫌だ。


二人で飛ぶスピードは想像よりもずっと早くて
どんどんと雲が後ろに流れていく。
そしていつしか眼下の雲が晴れ、灯りが点々と連なる夜の街が広がっていた。


「りほ」

「うん?」

「えり、間違ってるかな?間違ってると思う?」

「うん」

即座に返された頷きに、衣梨奈が苦笑する。
頭に血が上って、考えなしに行動してしまうのは
何年経っても治らない悪い癖だと自覚している。
そんな時、冷静で慎重な里保が側に居てくれることが本当に有難い。

「『正解』じゃないと思う。でも、やっぱりえりぽんは凄い。
うち、あのままだったら本当に何も出来なかったかもしれない。
ずっと考えて考えて、道重さんの家で、何も出来ずにじっとしてたかも。
だから、こうして動けるのが嬉しい。えりぽんに感謝してる。ある意味」

「里保…」

何だかんだいって、自分達はうまくバランスが取れているのかもしれない。
得意な分野も全然違う。性格も全然違う。
魔法だって、相性がいいとは言えない。
でも、何故だか昔から、二人でなら何でも出来る気がした。
一人一人よりも、ずっと大きな力が出せる。

二人共まだ子供。
でも、それでも随分と成長した。
これからももっももっと成長出来る気がする。
世界一の魔法使いと、世界二の魔法使いになれたら、
そんな二人が一緒なら無敵だ。


「でもうちを置いてこうとしたことは絶対許さないからね」

「ごめんってば。反省しとーとよ」

「本当に反省してる?」

「うん、してる」

「信用出来ない」

「えー」

「だからもう、絶対離さないから。覚悟しといてよ。ウチしつこいからね」

少し照れたように言う里保に、衣梨奈が笑う。
頼もしかったり、頼りなかったり、可愛らしかったり。
本当に面白い。
改めて、大好きな友人。

「うん!えりも里保のこと離さんけん!」


不意にバランスが崩れて、スケボーと衣梨奈と里保の身体が大きく揺れる。
それからきりもみして落下し、何とか体勢を立て直した。

「ちょ、ちょっとー里保。怖いっちゃん」

「ご、ごめん…だってえりぽんが…」

「信じとーけんね。頼むよ」

「う、うん」

そのまま真逆さまに落ちそうになっても衣梨奈は随分余裕で、
それは空中での動きにもう随分慣れたことと、里保への絶対の信頼のおかげだった。


夜の街の灯りも、北に向かうにつれ疎らになっていった。

里保は、出発前にさゆみと交わした話を衣梨奈に告げていた。
協会の目的のこと。それに、さゆみが目指す『正解』の話。


「誰もが幸せになる、誰も悲しまないですむ『正解』か…」

優樹が、遥が、悲しまないですむ方法だって難しい。
それに狗族の人達。さゆみの言葉は、協会だって幸せにしなければならない。
到底そんな方法がある気がしない。
でも、多分それは衣梨奈自身が目指すことでもあると感じた。

さゆみの元で魔法の研究をして、『世界一の魔法使い』に今一番近いのはさゆみだと思っている。
きっと、『世界一の魔法使い』は、そんな『正解』を選べる人。
みんなを幸せに出来る魔法使い。
改めて、そこまでの道のりは果てしなく遠い。
今は、目に映る人、里保や聖や香音、それに遥や優樹や春菜を守り幸せにすることだってままならない。
きっと、さゆみの寂しさを埋めることなんて今の自分には到底できやしない。
でも、目指す。
真っ直ぐにそれを目指している限り、少しでも近づけるはずだから。


「ウチには分かんない。
てか、多分そんな『正解』に、あと数日のあいだに辿り着けるとは思えない。
けれどやっぱり、少しでも納得出来る方法を選びたい」

「そうやね」

「狗族と一緒に戦うのも選択の一つだと思うけどさ…。ちゃんと、もっと知って、
もうちょっと考えたい」

「……うん」

戦うのが、一番簡単な選択。
多分誰の得にもならない。
狗族が勝てるならいいけれど、相手は全国の協会員だから。
協会が諦めない限り、勝てない。諦めないなら、狗族が負けるか、いつまでも戦いが続くか。
執行局長の娘という立場もが何か役に立たないかとも思っていたけれど、
里保の話を聞く限りそれも無い。
それどころか、協会内での父の立場をますます悪くするだけかもしれない。

どうするのがいいのか。
考えは纏まらない。
里保も、ずっと考えているんだろう。

眼下に街灯りが殆ど見当たらなくなった頃、やおら空が白みはじめた。
風が随分と冷たくなり、高度を下げる。
スピードを落として荷物の中から地図を確認すると、
もう目的地付近についていた。


「この辺りだね」

「もう少しやね」

森と草原が連なる平野に、街から伸びる細い道が一つ。
その先に地図の上では狗族の郷がある。

郷の手前で、二人は一度道に降りた。
柔らかい匂い。草原に広がる朝の匂いが二人を包む。

「えりぽん、大丈夫?」

「ん、何が?」

「いや、ずっと何時間も全力で飛ばして来たじゃん」

「ああ、全然、まだまだいけるとよ」

「……凄いね」

夜明け前に目的地に辿りつけた。
二人でなければ到底無理だっただろう。

衣梨奈と里保は白む細道を歩き、狗族の郷へと向かった。

 

 

「りほ」

歩く道すがら、衣梨奈が思い出したように里保を呼び止めた。
立ち止まった里保は衣梨奈の視線が自分の腕に注がれていることに気付く。

「それ…」

「うん」

里保の腕には協会の紋章。
これをつけて狗族の郷に入ることが、どういうことを意味するかくらい
里保にも充分わかっていた。

里保は暫しそれを見つめた後、スッと取り外し
ポケットの中に押し込んだ。
今まで、どんな時もそれを外すことはしなかった。
それが無くなった腕がやけに軽い。
そして、心許なくて、寂しくなった。
自分のことを、自分で決めなければならない。
協会のせいにして、局長の責任にして生きることは辞める。
それでも、寂しい。

軽くなった腕を見て佇む里保の肩に、そっと衣梨奈が触れた。
少し不安気なその顔を見上げる。

里保はもう一度強く頷いて、再び歩を進めた。


狗族の郷は、何か想像していたよりも随分普通の町だった。
公道に町の入口の道路看板があって、門のような物もなく奥に続いている。
民家はまばらで広大な土地に田畑が広がっているけれど、道の脇には自動販売機もあるし、
まだ開店していない煙草屋さんも目に入った。

それでも町を覆う魔力は、その外とは全然違っている。
それはM13地区のような無秩序ではなく、一つの色を持っていた。
その魔力が、町独特の匂いのように二人を優しく包む。

「そういや、めっちゃ朝早いっちゃんね」

「そうだね。まだ誰も居ないかも」

夜が明けたばかりの早朝。
太陽はもう出ているけれど、風は少し冷たい。
柔らかい風が、畑に生い茂った知らない作物の葉を撫ぜ
さらさらと心地いい音楽を奏でていた。
鳥の囀りが美しく、空気が美味しい。

来てはみたものの、どこをどう目指し誰の元へ行けばいいのか
まるで考えていなかったことに気付いた。
仕方がないので、人が起き出す時間まで町を散策して、
出会った人に用件を話そうと相談する。
でも、そんな考えはすぐに要らなくなった。


町に入っていくらも歩かないうちに人影が見えた。
前から、中年の男性が歩いてきている。
ラフな格好で、散歩という風だけれど、その身に纏う魔力が
魔道士だということを知らせてくれる。
里保は、仄かに男性から優樹と似た雰囲気を感じ取っていた。
狗族に違いない。

男性は二人の前で立ち止まると
どこか強ばった、それでも人のいい笑顔で声を出した。

「おはよう」

里保と衣梨奈も慌てて返事をする。

「お、おはようございます」

よくよく顔を見ると、中年というよりずっと若い男の人だった。

「こんな所にお客さんなんて珍しいね。
それも可愛らしい魔道士が二人。どんな用だい?
特に見るものも無い場所だが、もしかして道に迷ったんかい?」

「いえ…」


少し身構え、返事に窮していた里保の横で
衣梨奈が一つ大きく息を吸い、声を出す。

「あの、ここは『狗族の郷』ですよね?」

「そうだが…?」

「えりたち、皆さんの力になりたくて来たんです。
魔道士協会が、この町を狙ってるんです」

男性の顔が不意に険しくなった。

「帰りな」

「え?でも…」

「それは君らには関係ない。俺らの問題だ。
余計なお世話って奴だよ」

威嚇するように、諭すように男性が告げる。
真正面からの拒絶に面食らって、衣梨奈が口を噤んだ。

「君らを町に入れるわけにはいかん。さあ、早く帰れ」

なおも畳み掛ける言葉に、衣梨奈はすっかり萎縮している。


まるで取り付く島もない。
里保は何とか話だけでも聞いて貰えないかと頭を巡らし、
咄嗟に浮かんだ名前を口に出した。

「優樹ちゃん、佐藤優樹ちゃんのことご存知ですか?
私たち、優樹ちゃんの友達なんです。お話だけでも聞いて貰えませんか?」

優樹の名前を聞いて、男性の表情は変わった。
険しい顔の中に、悲しい色が浮かび上がる。

「そうか、優樹の…」

暫しの沈黙。
東の空から伸びた光が平原を突き抜け、3人の横顔を強く照りつけた。

「話だけ、だな。族長の所に案内する。ついて来なさい」

男が踵を返し歩き始める。
里保と衣梨奈は一度顔を見合わせ頷き合い、それから慌ててその後に続いた。


案内された家は、古民家風の大きなお家だった。
男性はそのまま家に上がり込み、二人に少し待つように言って和室に通した。
促されるまま、遠慮がちに部屋に入る。

暫く待っていると襖が開き、柔和な中年の女性が入ってきた。
軽く会釈をして、二人にお茶を出してくれる。
里保と衣梨奈は遠慮しいしい受け取り頭を下げた。
この女性からも、やはり同じような魔力を感じる。

女性が下がり、気まずい静寂の中で
里保と衣梨奈は少しずつお茶を啜った。

程なく、また襖が開き、今度は大柄な男性が入ってきた。
先の男性よりいくらか歳が上の、どこか威厳のある魔力を纏った男性。
里保と衣梨奈は、すぐにこの人物が狗族の族長だと直感した。

「待たせたな。
俺がこの町の長だ。そして狗族の族長でもある」

予想通り。
族長は、強く張った眉の間にどこか疲労と憔悴を残しながらも
磊落そうな大きな声で言った。


「生田衣梨奈です」

「鞘師里保です」

緊張含みに名乗ると、族長は少し気を緩めたようにふっと笑った。

「優樹の友達だってな。今どうしてるのか俺らも気にしてた。
知っているんだな?」

「はい」

里保と衣梨奈が視線を交わし、里保が頷いた。

「優樹ちゃんは今、M13地区…”大魔女”道重さゆみの所にいます」

「ふむ…間違いないのか?」

「はい、間違いありません。昨夜ここに向かうまで、私たちも一緒にいました」

「なるほど、そうか……」

族長の顔から、少し力が抜け、その表情は子を思う親のようなそれに変わった。
まだ緊張の抜けきらなかった里保と衣梨奈も、一瞬見えた顔貌に
どこかほっとして肩の力を抜く。


「有難う。いや、俺らもM13地区に入ったというのは聞き及んではいたんだが。
何せ情報に確証は無いし、”大魔女”の膝下だから安全だとも言えんし、
やっぱり心配でな。でも、君らが『友達』というからには、
辛い目に合っているわけじゃないと考えていいんだな」

里保は、昨夜一連の話を聞き蒼白になって倒れた優樹の姿を思い出した。
辛い思いをしていないといえば嘘になる。
でも、少なくともさゆみに庇護されている限り安全であることは間違い無い。

「…はい。道重さんは、優樹ちゃんと、一緒に街に入った工藤遥のことを気に入って
暫く自分の家に住むよう取り計らってくれました。少なくとも協会が手出し出来る状況にはありません」


「……よかった。本当に良かった」

族長がますます表情を崩し、浮かび上がる疲労の色もより濃くなった。
それでも、心底から安堵し、気持ちが晴れているのが伝わってくる。


「それだけ聞ければ充分だ。本当に有難うお二人さん」

「いえ…」

「そうそう、その工藤という少年のことも聞いてるよ。
あっちで優樹と親しくなって、今回のことでは身を張って優樹を助けてくれたとか」

嬉しそうに族長が言った。
衣梨奈がそれを受け口を開く。

「そうです。どぅー…工藤ちゃんは、本当に優樹ちゃんのこと大切に思ってるみたいで、
優樹ちゃんも凄い信頼してるのが見てて分かりました。
だから二人共無事に道重さんの家にこれて本当に良かったです」

「うんうん。優樹と同じ年頃の少年だってな。
それで協会を敵に回して惚れた女を助けようってんだから、たいした男だ。
一度会ってみたいもんだな。その少年になら、優樹を嫁にやってもいいかもしれん」

気分が高揚しているのか、族長は嬉しそうに捲し立てる。
流石にここで遥は女の子だと告げることも出来ず、里保と衣梨奈は曖昧に笑い返した。


 


「だが、残念ながら優樹の嫁入り姿は見れんだろうな…」

不意に声のトーンを下げ、族長は自嘲気味に言葉をこぼした。

狗族達は一体どんな気持ちで居るのか、里保はそれが気になっていた。
ここに来て三人狗族に会ったけれど、それがまだ読み取れない。
緊張感は伝わる。
でも、朝早いとはいえ来る戦いの準備を進めているようにも思えない。

「君らはどこまで知っているんだ?聞けば、『狗族の力になる為に来た』なんて言ったらしいが」

障子の奥から仄かに風が吹き込み
どこかで風鈴の揺れる音が聞こえた。
しんとしていた家の中にも、少しずつ人の気配が増し始める。

どう話したものかと思案する衣梨奈の膝に手を乗せ、里保は口を開いた。

「優樹ちゃんが協会員と揉め事を起こしたことを理由に、
協会が狗族に対し制裁を加えようとしていること。それに応じない場合
強制的に武力を行使しようとしていること。
……その本当の目的が、狗族の魔法を『奪う』為だということです」

まだ幼い容姿の里保の口からはっきりと放たれた言葉に
族長は少し驚き、しかしすぐに険しい顔に戻った。


「……俺たちの認識と同じだな。
何でそんなことを知っているのか…。
愚問だな。大魔女の元に居るんだ、それくらいは分かるか」

里保は、尋ねられれば自分が協会員であることも
上司が執行局の局長であることも告げるつもりだったけれど、
族長が独り合点してくれたことにどこかほっとしていた。

「ということは優樹の耳にも…」

「はい…」

「そうか……」

族長の眉間に浮かぶ苦悶が、一層深くなったと感じる。


「あの子にも辛い思いをさせてしまうな…」

族長はどこか遠くを見つめ、独り言のように呟いた。
それから視線を二人に戻し、言葉を繋ぐ。

「俺たちの取るべき道は変わらん。
協会が攻めてくるというなら戦うだけだ」

「勝てるんですか…?」

衣梨奈が思わず漏らし、それからはっとして口を噤んだ。
バツの悪そうな表情を浮かべた衣梨奈を見て、族長が小さく笑う。


「それは分からんさ。
まだ戦ってもない。まあ戦力で言えばかなり分は悪いがね。
しかし俺らも『狗族』だ。戦う為の魔道士として、引くわけにもいかん」

「それなら…えりも、えりも手伝います!
全然納得出来ないんです、こんなこと…」

「嬢ちゃんも協会と戦うって…?」

「…はい」

里保は衣梨奈の言葉を黙って聞いていた。
今衣梨奈が勢いで口にした言葉は、短絡的ではあっても本心だろう。
勿論衣梨奈を戦わせたくは無い。
でも、前に座る族長の顔を見ていると、そんなことにはならないと思えた。

「嬢ちゃんも協会と何かあったのかい?」

「…いえ」

「じゃあ、巻き込むわけにはいかん」

「でも…」

「気持ちは嬉しいよ。俺らの為に、優樹の為に言ってくれてるんだろう。
でもな、やっぱりこれは俺たちと協会の問題なんだ。
人事に首を突っ込むなとは言わんが、人の事で何かを憎むのはいかん。
そういう風にして生まれた憎しみは、消えることなくどんどん広がってしまう」

族長は優しい口調で語り始めた。


「優しいお嬢ちゃん。もし、納得出来なくてもどかしい気持ちが消えないなら、
それを怒りにするんじゃなくて、ぐっと我慢して、優しい気持ちに変えてみてくれんか?」

「優しい気持ちに…?」

「優樹は、辛い思いをしてるだろう。これからも、その思いを引きずるかもしれん。
怒りや憎しみに身をやつして戦うのは俺たちだけで充分。それ以外に道は無いしな。
でも嬢ちゃん達には、優樹の側に居ることも、優樹を幸せにしてやることも
出来るかもしれんだろ?」

隙間を吹き抜ける夏のそよ風と共に注がれた言葉は
衣梨奈の勢いを冷まし、穏やかにその心に届いた。

少し目元を潤ませ俯いた衣梨奈の横顔を、里保は暫く眺めていた。

族長の言葉は優しく、優樹のことは勿論、さっき会ったばかりの衣梨奈にも暖かい。
優樹を育んだ狗族の大きな心。それが里保には好ましく、
それだけに協会への憤りは消えてくれない。
怒りを優しさに。それはとても難しいことだと感じた。
けれど、族長から語られたその言葉は、切実な彼らの願いでもあると感じる。
きっと優樹にも優しく幸せに育って欲しいと思っているのだ。

暫く沈黙が続いた。
里保がそれを破る。

「本当に、他に選択肢は無いんでしょうか…?」

「というと?」

「例えば逃げるとか、戦うこと以外に皆さんが選択出来る道が何か…」


族長は今度は里保に視線を固定し、変わらぬ優しい表情を見せた。

「勿論いろんな選択肢がある。俺たちの中でも意見はいくつか出たよ。
戦うのだって、町の全員じゃない。まだ幼い子供だっている。
その子らを育てる為の大人も必要だしな。
だから何人かは逃げることを選択する。そうさせた」

「ならば、いっそ…」

皆で逃げてしまえばいいのではないか。
それは、協会の制裁の一部、郷の土地や建物を没収するということを
受け入れることにもなるけれど、それでも人が傷付き、
奪われるよりはいくらかマシ。里保はそう考えた。

族長は少し言葉を溜め、一つ息を吐いてから続けた。

「狗族のことを優樹から詳しく聞いているかい?」

「いえ…」

「ふふ。あの子もあんまり知らんかもしれんがな。
この町が無くなったら、やっぱり俺たち狗族は滅びるんだよ」

「…え?」

「他の魔道士からしたら変な話かもしれんが、
俺たちの力は血によって受け継がれる。
それも、三代で完全に途絶えるような、薄い血なんだ。
優樹のように郷を離れて暮らす狗族も沢山いる。
でもそいつらが一族以外の人と結婚して子供を作ったとして
その子供には殆どの場合『狗族の力』は受け継がれないんだ」


遺伝の話、だろうか。
たしか学校で習ったような気もする。
里保と衣梨奈は、何となくそれを思い出した。

「勿論そういう子らも大切な親戚には違いないが、やはり『狗族』では無い。
この郷が『狗族』としての血と力を保存していなければ、すぐに無くなってしまうんだ。
別に郷から出ることも一族以外と結ばれることも禁止してはいないが、
本能というのかな、いつの時代も一定の仲間がこの郷にとどまって力を継いできた。
だから遡れば狗族の血が混ざってる人間も結構沢山いるんだよ。
ただ、やはり変身できなければただの人と同じだからね」

里保は今更ながら、局長が『狗族が滅びる』と言った意味を知った。
どこかで、狗族が離散を受け入れさえすれば戦いが避けられると思っていた。
でもそれが本当に、狗族が途絶えてしまうことを意味するのだとしたら
それを受け入れることは到底出来ない。
協会が過去から引き継がれた組織を維持する為に動くように、
狗族だって代々引き継いだ血を、ここで失うわけにはいかないはず。
さゆみの言葉を借りるなら「そういうもの」なのだと思えた。

族長は変わらず穏やかに言葉を継いだ。


「俺たちだって戦いたいわけじゃない。
勝てる見込みなんてない。
だが、戦うための力として受け継いだこの力を
戦わずに途絶えさせるなんて、やっぱり出来んなぁ。
先祖に顔向け出来ん。
…そういうことなんだ。嬢ちゃんが言うことも分かるし
俺の言ってることは分からんかもしれんが、俺たちは逃げることは出来ない」

「……いえ、分かります」

ますます、回避する方法が分からなくなる。
やっぱりもう戦うしか無いのだろうか。

こうして言葉を交わすにつけ、里保は狗族のことが好きになっていた。
戦う為の力を守る、それでも優しい民族。
優樹の優しさの源でもあるこの人達が、理不尽に奪われることがどうしても嫌だ。
実際に会って、ますますその気持ちが膨らむ。

「かといって、優樹を差し出すなんてありえないからな。
それだけは町の連中、全会一致だったよ」

族長が笑う。

「他のことは我慢出来ても、そんなことは絶対に無理だ。
優樹にだけは、幸せになって貰いたいが…」

衣梨奈はその呟きを聞きじっと何かを考え始めた。


里保は未だどうすればいいのか考えが纏まらず
族長の呟きを最後に、それ以上の言葉をぶつけることが出来なくなった。

話はそこで途切れ、族長は一区切りとばかりに話題を変えた。
今朝押しかけたばかりの里保達に親しみを込め、よもやま話を語りかけてくれる。
里保も一度肩の力を抜き、それに応じた。
魔法のことやさゆみのこと。
会話の中で、里保は自分が協会魔道士であり執行局局長の直属の部下であることも話した。
族長はさして驚きもせず、穏やかにその話を聞いてくれた。

すっかり打ち解け、日も高くなった頃
二人は朝ごはんをご馳走になり、他の狗族達とも対面した。
みな感じのいい人達で、招かれざる客である里保と衣梨奈を随分ともてなし、
口々に優樹の安否を尋ねてきた。

後に、通された家が町の集会所のような場所だということも知った。

「すみません、すっかりお世話になってしまって…」

「なに、気にすんな。
町の連中も優樹の話が聞けて喜んでるよ。
町が明るいのも久しぶりだからね」


いつまでもこうして世話になっているわけにも行かない。
衣梨奈の協力は頑として受け入れられなかったし、
衣梨奈自身も族長の言葉に迷っているから、ここに留まるのも悪い。

さゆみにも言われたことだし、一度戻ろうと思う。
そう切り出すと、町の人達が名残惜しむように見送りに集まってくれた。

「また来てくれと言えんのが辛いが…」

族長が苦笑しながら言う。

「まだ、考えてみます。
ギリギリまで。それと、優樹ちゃんのことは私たちが守ります」

「ああ、頼むよ」

別れの刻。
それまで口数を減らしていた衣梨奈が言った。

「族長さん、あの…」

「ん?」


「えり達に、優樹ちゃんを幸せにすることが出来ると思いますか…?」

どこか恐る恐る発せられた言葉。
里保にはその意図が分からなかった。

「そうだな…。信じられるよ。君たちなら」

「優樹ちゃんが幸せになる。それと、狗族が滅びない。
もしそんな方法があったら……他の事、他に色んな辛いことがあっても我慢できますか?」

謎かけのような衣梨奈の言葉が、取り囲む人達の中に小さなざわめきを起こした。
族長もその意味は分からなかっただろう。それでも真っ直ぐに衣梨奈を見て答えた。

「……俺が我慢するだけでいいんなら、そんなに幸せなことはない」

「わかりました。本当に有難うございました」

二人はもう一度族長と狗族の皆に深く礼を告げ
町を後にした。


 

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最終更新:2014年07月14日 23:03
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