本編17 『大魔女のワガママ』


さゆみが数歩歩くと目の前の道路をトラックが横切った。
その側面に書かれたロゴに見覚えがある。
さゆみは振り返り、車が自宅の前に停まったのを見て引き返した。
それと同時に、その名前を思い出す。
家具屋さんだ。

車から見覚えのある中年の男性と若い男性が降り
門の前に立つさゆみに恐縮気味に頭を垂れた。

「どうも、遅くなってすみません。机をお届けに参りました。
…もしかしてお出かけでしたか?いや、どうもタイミングが悪くて」

「いえ、ピッタリのタイミングです。どうも有難うございます」

頭を下げるおじさんに、さゆみはニコリと微笑んだ。
後ろで若い男の人がさゆみの笑顔に見蕩れてポカンと口を開けている。

遥と優樹の為の勉強机が届くのをすっかり忘れていた。
それが今届いたことは、この上ないいいタイミング。
きっと遥がいるうちに届いていたら、また気にしてしまっていただろう。

そして今さゆみがまさに思いついて、やろうとしているワガママを
その机が来たことが、肯定してくれているように思えた。


さゆみはそのまま二人を家の中に案内し
無味乾燥な二人の部屋にこの間買った机と椅子を運んでもらった。

どういう向きで置くのがいいか、二人が気に入るか。
遥と優樹がそれを使う姿を思い浮かべワクワクしながら並べてもらう。

それがすむと、さゆみは冷蔵庫から里保の買い置きのサイダーを二本持って来て
お店の二人に渡し改めて礼を言った。
二人が恐縮しながら受け取り帰っていく。
また買い足しておかないと里保に怒られるな、なんて思いながらさゆみは一人笑った。

改めて家の中を見渡す。
昨日遥が一生懸命掃除してくれた室内は、
かえって伽藍としていて、少しだけ寂しくなった。

改めて出かけようと思い、時計を見る。
それから、時間なんて気にするのも変だなと思い直した。
さゆみがワガママをするのに、世間の時間も、誰の都合も関係は無い。

外出用にストールを一枚羽織り、さゆみは改めて家を出た。


ゆっくりのんびりと街を見ながら歩く。
曇天の下にも、季節が移り変わり夏が迫るのが分かった。
それから、街の人や、道や、家も少しずつ、目まぐるしく変化していることを感じる。

道行く人がさゆみに目を向け、ある人は会釈し、ある人は挨拶をして通り過ぎた。
さゆみがそんな街の人に笑顔で応える。

程なくさゆみは、衣梨奈と里保が通う学校に着いていた。

校門を潜り、来客用の入口から校舎に入ると
受付のおばさんがさゆみの顔をみて酷く驚いて、慌てて内線をかけ始める。
それからすぐに、学校の教頭先生と衣梨奈と里保の担任の先生が出迎えに来た。

「わざわざ来ていただいてすみません。
職員室の方に伺おうと思ってたんですが」

「いえ、そんなとんでもありません。
どうぞ、応接室にお越し下さい。
今校長が出払っていて不在なのですが…」

「そんな、お気になさらないでください」

焦り気味に言う先生たちに、さゆみが優雅に笑いかけた。
まだ要件も言っていないけれども、
先生達が慇懃に応接室まで案内してくれる。

さゆみはテスト中の、どこか張り詰めた空気の漏れ出る廊下を楽しげに歩いた。


通された応接室のソファーにゆっくりと腰を下ろしたさゆみは
担任の先生が慌ててお茶を淹れてくれているのを待ちながら
学校の空気を感じていた。

何となく、この空気が好きだ。
子供達の為の、特別な雰囲気を持った大きな建物。
子供達の中に色々な想いを生み、育てる場所。

先生がさゆみにお茶を出してくれる。
ニコリと笑って会釈すると、先生は顔を赤らめて
大仰に頭を下げた。

「すみません、突然押しかけてしまって。
試験がはじまったそうですし、お忙しいのに」

「いえ、とんでもありません。
試験中は、試験監督くらいしかすることはありませんし」

どうも先生方に緊張させてしまっているな、と内心で苦笑しながら
さゆみは本題を切り出した。

「うちの子達、生田衣梨奈と鞘師里保のことなんですが」

「…はい」

「すみません、試験まで休んでしまって。
すこし立て込んだ事情があるんですが、それがもう少しかかりそうで…。
再試験のようなものを受けさせて上げることは出来ないかと思って」


「それは、私共もそう考えています。
追試の生徒と一緒に受けるという形になりますが、
二人は勉強にもちゃんと取り組んでいますし、事情があるということも加味して
出来るだけ成績に響かないよう考慮するつもりでいます」

担任の先生が教頭先生と顔を見合わせ、頷き合いながら言う言葉を聞いて
さゆみはほっと胸をなで下ろした。
別に落第したって、それはそれで青春の一ベージ。悪いとは思わないけれど
二人はきっと落ち込むだろうから。

「有難うございます。
すみません、手前勝手な事情で禄に説明も出来ないのに
そんなに配慮していただいて」

さゆみが改めて頭を下げると教頭先生がバタバタと手を振った。

「二人の学校での様子はどうですか?」

「そうですね、生田さんはとても活発で人望もありますし
いつも友達に囲まれてます。
本当に人から好かれる才能があるのでしょうかね。
鞘師さんも、学校では大人しめですが生田さん達と楽しそうにしています。
今欠席していることも、他の生徒から心配されていて
特に譜久村さんや鈴木さんは凄く気にしています」

「そうですか。安心しました」


先生達がさゆみや衣梨奈達の立場を了解してくれて話しを進めてくれることが有難い。
魔道士では無いから、協会やこの街に関する詳しい事情については知らないだろう。
どうして協会から預かっている里保のこともさゆみが保護者であるかのように
口出しするのか疑問に感じているかもしれない。
それでも、さゆみのことを分からないながらも信頼し、大切な生徒の縁者であることを
認めてくれているのが嬉しかった。

もっともこの学校はこの街に昔からある学校なので
代々の生徒の中には何人も魔道士がいたし、さゆみも多少なりとも関わって来たから
その辺り、長く続く互いの信頼関係とも言える。

「あと、長くても数日で復学出来ると思います。
といっても試験が終わったら夏休みになりますけど。
どうぞよろしくお願いします」

さゆみが再び頭を下げると、先生達もようやく慣れたのか
少し笑みを浮かべて頭を下げ返した。

「それと、もう一つお願いしたいことがあるんです」

続けたさゆみの言葉に、些か弛緩していた先生達の背筋がまた伸びる。

「なんでしょう?」

教頭先生が鹿爪らしく促すと、さゆみはゆっくりと言葉を継いだ。


「あと二人、この学校に通わせてあげたい女の子がいるんです。
またうちに住むことになって。その子達も生田や鞘師と同じ魔道士なんですけど」

先生達はその言葉に驚いた様子で少しだけ身を乗り出した。

「その子達もちょっと複雑な事情があって。
個性的だけどとってもいい子達なので」

教頭先生と担任の先生が顔を見合わせる。
さゆみの頼みを無碍にする気など毛頭無いし、出来るはずもない。
それとは別に、ここ最近になってさゆみが子供達の面倒を見だし、
その数が増えることを不思議に思った。

直接会った印象で、美しく優しく品のいい女性としか思わないけれど、
街の歳を重ねた人ほど恭しく腰を落とすような、さゆみはそんな人物なのだ。

「勿論、大丈夫です。校長も道重さんからのお話と聞けば
喜んでお受けすると思います。
しかし…最近になって、随分熱心に子供達の面倒を見られるのですね」

教頭が言って、失礼では無かったかと慌てて口を噤む。
そんな様子を見てさゆみが苦笑した。

「ふふ。生田がうちに来てから、妙な縁で。
でも、それも楽しいかな、と思い始めているところです」

優雅に笑うさゆみを見て、教頭先生と担任の先生が胸を撫で下ろし笑う。


それから暫く世間話をして、チャイムの音を合図に
お暇することにした。

「それでは、生田と鞘師のこと、それと工藤遥と佐藤優樹のこと、
何卒よろしくお願いします。新学期に間に合うように、また必要な書類を揃えて伺います。
校長先生にもよろしくお伝え下さい」

さゆみの言葉に、まるで先生達が頼みごとをしているかのように深々と返礼し、
次の時間の試験監督をしなければならないという衣梨奈達の担任の先生を見送って、
教頭先生が玄関まで案内してくれた。

歩く道すがら、テストの合間の息抜きに廊下に出た生徒達が
教頭に先導されるさゆみを好奇と憧憬の眼差しで見送る。
さゆみはそれに笑顔を振りまいて、聖や香音がいないかと辺りを見回したけれど
二人の姿は見えなかった。


学校を出たさゆみは、一つ大きな伸びをした。

今は昼前。
衣梨奈達がどこに向かって、どれくらいの時間で優樹を救出しようとしているのかは知らない。
だけど、急ぐこともない。子供達はきっとうまくやる。
自分は自分のワガママをしに行くだけ。

少し準備がいるだろうかと考え暫し思案した後、小さく魔力を込める。
さゆみの背に、透明な大きな大きな羽が生え、それが小さく動くと
旋風が吹いて身体が浮き上がった。
それから大きく一つ羽ばたくと、その次の瞬間、さゆみの姿は空の彼方に見えなくなった。

 


里保たちは電車に乗って目的地に向かっていた。
いずれ追われる立場にはなるけれど、まだ協会に動きは察知されていないはずだから
出来るだけ魔力と体力を温存しておきたい。
里保は協会の携帯端末の電源を数日前から落としていた。
あるいは局長から連絡が入っていて、そのことを不審に思ったかもしれないが、
それでも優樹が捕まってまだ一日足らず、ここまでの行動が読めるわけはない。

結局、局長には今まで育てて貰った恩に報いるどころか、
最悪の形で後ろ足で砂をかけることになる。
そのことをいくら考えても、気持ちに整理はつかない。
たぶんこの先も、一生背負い続けることになるのだろう。
大好きな人の気持ちを裏切り、憎まれる。その苦痛は今の里保にはまだ到底想像できないことだった。

だからと言って、止まるわけにはいかない。

電車に揺られる4人の口数は少なく、いつしか車窓の外は雨模様になっていた。
通り過ぎる街を濡らす雨が次第に強くなっていく。
それぞれがぼんやりとそれを眺め、何か難しい顔で考え事をしていた。


「そういえばさ、はるなんの野望ってなんなの?」

不意に里保が呟いた。
視線が春菜に集まる。
春菜は少しばつが悪そうに苦笑して、口を開いた。

「野望というか何というか…。
ま、今となってはもうどうしようもないことですしね。大したことじゃないんですが」

「そういえば何か道重さん言ってたっちゃね」

里保と衣梨奈と遥が自分の話に関心を向けていることを感じ、
春菜は少し考えてから話し出した。

「私の目的は、あの街、協会風に言えばM13地区を一つにすることだったんです」

「ん、どういうこと?」

「私はあの街が好きです。そして、あの街に住んでる魔道士の皆さんにはものすごい力がある。
それは単純な武力ということだけ見てもそうです。鞘師さんも、それは感じていると思います」

里保は小さく頷いた。
協会の力が落ちているという話を聞いてから一度里保も考えたことがあった。
M13地区の魔道士のレベルは、母数を考えれば協会よりもはるかに高い。
執行局でも指折りの魔道士である里保も、M13地区ではさゆみを除いても決してトップというわけではない。

「今回の協会の行動、本当なら狗族では無くM13地区を狙いたかったのだと思います。
協会にとっての犯罪者が沢山いる街ですから、狗族を攻めるよりもよっぽど口実を作りやすいですし、
魔道士の数も狗族より遥かに多い。あの街を併呑して、その魔法を奪うことが出来れば
協会にとって物凄いプラスになります」


「確かに…」

衣梨奈の言葉に遥も頷いた。

「でもそうはしなかった。出来なかったんです」

「道重さんがいるからっちゃろ?」

「その通りです。道重さんの存在は大きい。
でも、街の魔道士の力自体も、今の協会の戦力に匹敵するものになってると私は思ってます。
狗族なら力で押し切れても、M13地区はそうはいかない。その上道重さんの逆鱗に触れて、その力が加算されれば
確実に力関係は逆転する。だから手出ししたくても出来ないんです」

里保は肯いた。

「今はあの街はバラバラです。魔道士の皆さんに共通の意識は殆どなくて、道重さんを通してほんの少しだけ繋がっている。
たとえば協会に攻められるとか、街の有事の際にはある程度協力すると思いますが、それでも持ってる力を全部発揮することは出来ません」

「うーん、そうかもね」

「私はあの街に、協会と対をなすもう一つの『魔道士の秩序』の形を期待してました。
あの街が一つの共同体として纏まって、主張出来るようになれば、協会一色の今の魔道士の世界が
もうすこしバランスがよくなるんじゃないかと思ったんです。
道重さんの話を聞いていると、バラバラだから強いという側面もあるのかもしれませんけど」

そう言って苦笑する春菜の言葉に、里保はまだ少し疑問を感じていた。
いまいち具体性も現実味も無い話のような気がしてしまう。

「みんなが緩く、小さく繋がってそれでも平和にやっていく。
それぞれがのびのびと魔法を研究して、大事なことは皆で話し合って決めて…そんな風にあの街がなればいい。
今は道重さんの影響で、道重さんの力で成り立ってる部分が多いので、道重さんが居なくても成立する共同体として
街の魔道士を繋ぎ、街を一つに出来ないかと思ってたんです」


「ん?でもそれって、道重さんが居るっちゃから、道重さんがやればすぐやないと?」

さゆみが街を纏め上げ、協会に対する第二勢力として君臨する。
もしそうなれば、現時点でもM13地区は協会を超える力を持つことになる。

「それはダメです。道重さんは動かない。いや、道重さんを動かしちゃいけないんです」

「どういうこと?」

「道重さんは、そういう存在とは別次元にいる魔道士なんです。
私も、街の高名な魔道士の方から伝え聞いただけの話ですが、あの人がもし野心を持って何かをしようと思えば、
協会も、魔道士の営みも、全部壊すことが出来る。三大魔道士というのは、そういう存在なんだそうです」

遥が小さく唾を飲み込んだ。

「道重さんは何もしない。ほかの三大魔道士も、世間のことに興味を示さない。
だから魔道士協会は存続できるし、魔道士の秩序は保たれている。そう言っていました」

「まさか、そこまで…」

「私もよくわかりません。
道重さんが形振り構わず何か目的を遂げようとして魔力を使うということが、どういうことか想像出来ません。
でも、道重さんにとって他の魔道士も、人も、居なくても関係ない。誰と関わらなくても生きていけるから
壊そうと思えば簡単に壊せる…のだそうです」


「そんな、酷い…」

里保の呟きに、衣梨奈と遥も肯いた。
でも誰に対して、何に対して『酷い』のか誰も分からなかった。
ただ、さゆみのことを思い、さゆみの笑顔を思い出し4人の中に同時に、悲しいイメージが湧いた。

「最初鞘師さんが街に来た時、協会が道重さんを挑発してるんだと思いました。
だから協会は道重さんのことを分かっていないのかと驚いたんですが、そんなことはありませんでしたね。
表向きはともかく、鞘師さんが来て何か道重さんの気分を損ねるようなことは無いと分かっていたみたいです」

「…うちは、ただ調査するように言われただけだけど」

「きっとそれは建前で、生田さんのお父さんの私情が大きかったんじゃないでしょうか。
鞘師さんも、生田さんと道重さんのそばに居させたいという」

里保は以前衣梨奈からも同じようなことを言われたのを思い出した。
自分をさゆみと合わせたい、そう思う局長の真意はわからない。
厄介払いなどとは思いたくない。

4人の間にまた沈黙が流れ、電車の揺れる音が大きくなった。

「そういえばさ、はるなんの目的は分かったけど、うちをずっとつけてたのは何で?」

また春菜が苦笑する。

「それは…鞘師さんに謝らないとですね。
私は鞘師さんを街に引き込もうと思ってました」

言葉の意味が分からず、里保と衣梨奈の頭上をハテナが舞う。


「協会の強い魔道士。でもまだ若い魔道士である鞘師さんに、あの街を好きになって貰って…
協会の黒い部分、まあどんな魔道士にも組織にも少なからずそういう部分はあるんですが
そういう所をさり気なく告げ口して、協会から気持ちを離してしまおうと思ってました。
鞘師さんほど強い魔道士が、協会を抜けM13地区の住人になれば、街の人たちも協会を意識する契機になりますし
街を纏め上げるための旗印になるかと思ったんです」

「……はるなんから協会の悪口なんて聞いたことないけど」

「いやあ、鞘師さん思いのほか協会への想いが強くて、なかなか言い出せませんでした。
それにどれくらい時間がかかるか分からない漠然とした目標だったので、気長にやろうと思いまして。
…まさかこんなことになるとは思ってもみなかったですが」

結局春菜に告げ口をされることもなく、里保は協会の裏側、後ろ暗い部分を見せつけられることになった。
そして今、協会を裏切ろうとしている。
それは春菜の当初の思惑通りなのだろうが、結局みんなあの街を離れるのだからもう意味もない。
どれも実現しなかった夢物語で、だから今更だと笑う春菜に納得もできた。

「はるなんもいろいろ考えてたっちゃね」

「…ごめんなさい、生田さん、鞘師さん、騙すようなことになって」

「いや、ぜんぜん。うちは何にも悪いことされてないし、助けて貰ったことの方がずっと多いから」

「そういって貰えると助かります」

会話はまた途切れ、4人の頭の中に様々な想念が流れた。
M13地区のこと、さゆみのこと。
今は思い出すべきでないと、無理やりそれらを頭から追い出す。
優樹を助ける。
もう一度そのことに気持ちを切り替え、また暫く電車の振動を感じていた。


電車に揺られて数時間、そこから徒歩で数時間の所に目的の建物はあった。

人里離れた森の中に、高い塀で切り取られた広い空間がある。
四角く切り取られた塀の中には数百メートルにわたって草原が続いていて、その中央に厳めしい建物が鎮座していた。

ここまで歩いてきた4人はすっかり雨に濡れてびしょびしょになっていた。
手持ちの傘は邪魔になるし、こんなことで『傘の魔法』を使って、僅かでも魔力を消費したくない。

里保は、任務でこういうことはあっても、生田家に帰れば
局長や衣梨奈の母に、傘を持ちなさいと、濡れては風邪をひいてしまうからと
叱られたことを思い出していた。
そういう日常には、もう帰ることは無いのだろう。

4人は塀の近くの高い樹に登り、身を隠しながら改めて状況を確認した。

「はるなんの調べてくれた通り、でも思ったより広いね」

里保の言葉に3人がうなずく。

高い塀の上には有刺鉄線のフェンスが立っていて
その塀自体も魔力がある人が触ると警報が鳴る仕組みになっている。
事前にはそれを飛んで超えればいいと考えていたけれど、
塀から建物への距離が想像していたよりもずっと遠い。


僅かな差ではあるけれど、せめて建物の入り口につくまで、察知されることは避けたい。
警報が鳴れば当然協会全体に情報は行きわたるだろうし、
近隣の協会支部から応援も駆けつける。
普通に移動すれば30分くらいはかかるはずだが、転移魔法や飛行魔法を使える魔道士がいないとも限らないから
悠長には構えていられない。
先に見つかって、扉を中から十重二十重に封鎖されて籠城されれば
それこそ優樹を助け出すことがかなり困難になってしまう。

「はるなん、見える?」

衣梨奈の言葉に、春菜は『千里眼の魔法』を使って目を凝らした。

「はい。南側の建物の門には守衛が二人。当直室みたいな場所にも二人魔道士がいます。
それから監視カメラが二台。あれは多分中からの監視用ですね。今あそこに収監されてるのは
まーちゃん一人のはずですが、結構ものものしいですね」

「ま、優樹ちゃん一人って言っても狗族やけんね」

春奈の言葉に、里保も意識を集中し、建物の外にある魔力が4つであることを確認した。
建物の中までは残念ながらよくわからない。
それは春菜にしても同じことだった。

「じゃあまずその4人を気絶させるか何かして、カメラもぶっ壊したほうがいいっすね」

「だね。どうせ中に入れば気付かれるけど、
それまで、ぎりぎりまでは静かにいけるのがベスト」

建物の正面扉は、大きな金属製のもので、里保の経験からも春菜の調べでも、
特定の魔道士の魔力に反応してしか開かないようになっている。
その他にも開く方法はあるのだろうが、そこまではわからなかった。
だから、扉は壊して入るしかないと結論付けている。
そこまでいったらもう後はひたすら時間との勝負だ。


「なるべく死角になる西か東からうちが入って、気付かれる前に4人気絶させるか…」

「里保、できる?」

「やってみる。でもカメラにまでは手が回らないかな。それと小屋の中にいる二人を何とか外に出させないと…」

どうせ身元もすぐばれる。それでも出来るだけ姿を記録されたくないという思いもあった。
それは逃げるための時間にも大きくかかわってくる。

「じゃあハルがやりますよ。鞘師さんはカメラ壊すだけでいいです。
小屋の中にいる二人も纏めて気絶させます」

「どぅーが?出来るの?」

「こんだけ雨が降ってたら余裕っすよ。ぶっちゃけこれだけ水があればハル無敵っすから。
なんだったら鞘師さん、今勝負します?」

「ん、いいよ?やる?」

「はいはいストップストップ。どぅーが出来るなら任せましょう。
4人が気絶したら生田さんと私が突入ということでいいですね」


「うん。えりが扉を壊すけん、そしたら中に。
でも全部うまくいくとは限らんから」

「うん、臨機応変に。それでいこう」

打ち合わせを終え、里保と遥はなるべく門衛の死角になる位置に移動いした。
衣梨奈と春菜はそのまま待機。
春菜は猫に変身して衣梨奈のスケボーに掴まって突入する手筈になった。

里保が遥を抱きかかえて塀を超えることになるため
一人で行くよりもスピードが落ちる。その分タイミングが重要になる。
門衛が真面目にお仕事をしていれば、猶予は数秒。

本当ならば夜に行動するのがセオリーなのだが
相手も夜を警戒しているだろうし、里保たちも夜を得意としているわけでもない。
それよりも、雨と霧に煙り、音も視界も通りにくい今が好機と思えた。

移動する里保と遥を見送って、衣梨奈が小さく笑う。

「どぅー何か元気やね」

「なんか、好きな漫画に『こういうシーン』があるみたいですよ」

春菜の言葉に、衣梨奈は「あーね」と独りごちた。
そういう風に、意識を何かに転化して緊張を紛らわせるのも悪くない。
ぐちゃぐちゃと悩むよりも、その方が上手くいくこともあるかもしれない。
後からいくらでも悩まなければならなくなるのだし。


門衛の死角に移動した里保と遥は再び樹に登り
タイミングを見計らっていた。

「50メートル、そんくらいまで近づいてもらえれば大丈夫です。
そこから4人とも気絶させられます。魔力を練る時間もほとんどかかりません」

「ほんとに?どぅーって凄いんだね」

素直に言われて、遥が頬を染める。

「雨の日限定っすけどね。でも私晴れ女だからなぁ」

「今日は良かったね。
じゃあ任せるよ。でも焦んなくていいからね。
うちも出来る限りフォローするから」

「…はい」

「じゃ、行こうか」

里保が魔力を込める。
といっても察知されないよう最小限に。
遥を抱きか抱えると、青々と茂った木々の葉を揺らし水滴を振り落して
滑るように門の内側に飛び降りた。
それから、早く静かに、草に潜るように飛ぶ。
まだ気づかれていない。


50メートル。
遥が地面に足をつけ、魔力を込める。
門衛の一人がこちらに気付いた。
その刹那、足元の水溜りから蛇のように水が這い上がり、
静かにキュウと二人の門衛の頸動脈を締め上げた。
音もなく崩れる二人に異変を察知した当直室の二人も、隙間から侵入した水に気付かず
同じように首を絞められ気絶した。

同時に魔力を込めていた里保の体から火花が散る。
足元の水を伝って放たれた高圧の電気が、カメラに届き
小さな音を立ててその動きを停止した。

再び里保が遥を抱いて飛び、扉の前に立つ。
4人は確かに気絶しており、カメラも止まっていた。

同じ協会の魔道士を、それも不意打ちで気絶させてしまったことに
里保は罪悪感を感じたけれど、すぐに気持ちを建て直し南側に構える衣梨奈に合図を送った。

「どぅー、器用だね」

「鞘師さんこそ…」

遥は、水を伝い正確にカメラだけを破壊した里保の電撃の魔法を思い出し一つ身震いした。
これも執行魔道士として『奪った』魔法だろうか。
風や炎の魔法以外にも、里保はまだまだ強力な魔法を隠し持っているようだ。


南側から派手な黄緑のスケボーが猛烈な勢いで飛んでくる。

扉に迫ると、衣梨奈がそのままスケボーから飛び降りた。
右足に猛烈な魔力を纏い、一気にそれを振り上げる。
建物全体を揺るがすような轟音が響き渡り、金属製の扉が粉々に砕け散った。

その様子をあっけにとられて見守っていた遥は
次の瞬間響き渡った警報アラームの音に我に返った。

「さ、行こう!こっからはスピード勝負っちゃよ!」

衣梨奈の掛け声と共に、建物内に飛び込む。
警戒を強めた幾つもの魔力が感じられた。

「生田さん、むっちゃ強いんすね…」

思わず呟いた遥に
里保が嬉しそうに言う。

「えりぽん、えりぽんね、意外と凄いんだよ。てかちゃんとコントロール出来るようになったんだね」

「任せといて」

衣梨奈も得意げに笑った。

春菜は改めてみんなを頼もしいと感じながら、猫の姿のまま走る3人を追いかけた。

 

 

大きな街の中の、大きな大きなビル。
その前に降り立ったさゆみを、道行く人達は驚愕を持って見た。

中にはさゆみのことを知らない人もいるのだろう。
そんな人は、ただ美しいさゆみを不思議そうに見る。
だけれども、『三大魔道士』を知っている人達の心の中では、ある種の恐慌を来していた。

魔道士協会本部。
その建物を見上げたさゆみは、回りの魔道士たちのざわめきを気にせず入り口に足を踏み入れた。
誰もさゆみの前に立ちはだかることも出来ず、自然に道が開ける。

さゆみが受付の前に立つ。
それに一瞬気付くのが遅れた受付の魔道士は、その顔を見上げて血の気を引かせ言葉を失った。

「会長、いるかな?道重さゆみがお話があると伝えてくれない?」

周囲に異様な雰囲気が広がる。
何十もの視線の先で、さゆみは優雅に、ギラついた微笑を浮かべていた。

「は、はい。少々お待ち下さい」

受付魔道士が慌てて奥に下がり手を電話に押し当てる。
それから震える手で内線のボタンを押した。

通話が繋がるや否や、応答も待たず受付魔道士が低く震える声を出す。

「か、会長、今受付に、三大魔道士が…」


『なんだと?』

「三大魔道士、”大魔女”道重さゆみが、会長にお話があると…」

『な…』

慌てた受付魔道士の様子にただ事では無いと感じていた会長も、その言葉を聞いて暫し言葉を失った。

「ど、どうしましょう…」

遠巻きに見る魔道士たちの喧騒が大きくなっている。
さゆみは待ちながら、一度辺りを見回した。
射竦められたように、魔道士たちが後ずさる。

『…俺の所に案内するように』

会長は重々しく受付に告げた。


「はい…」

『それから、全職員に通達して欲しい。
4階以上で業務に当たっている職員は、業務を中止し3階以下に降りるように。
何か異変を感じたら、全員速やかに建物の外に退避すること。
それと副会長にこのことを伝えておいて貰いたい…』

「会長…」

『なるべく刺激しないように。話が終わったら事務方の端末に連絡するから
それまでは出来るだけ静かに待機しておいてくれ』

「分かりました…」


受付がさゆみの前に戻り恐る恐る口を開く。

「会長の執務室にご案内します。どうぞ…」

「どうも」


会長は自室の椅子に腰かけ待っていた。
深く畳まれた皺の間に薄らと汗を浮かべ、頭の中を整理する。
しかし何も纏まらないうち、部屋の戸が叩かれた。

「会長、お連れしました…」

受付の声に、会長が答える。

「どうぞ…」

通され、部屋に入ったさゆみの顔を見て
何かの間違いではないかという会長の淡い期待が砕かれた。

受付が会釈をしてさゆみを残し戸を閉める。
さゆみは、ゆっくりと会長の座る椅子に歩み寄った。

「驚きました。本当に、お久しぶりですな。突然、どうなさったのです?」

いくらか顔を作って会長が言う。
さゆみは、どこか剣呑な笑みを浮かべた。

「私が来た理由、想像もつかない?」

「……なんとなく」

さゆみの姿を見たのは、何十年ぶりか。
変わらない姿ではある。
けれども、その表情を見て、会長は決して愉快な話でないことを悟った。


「面倒くさいことは省いて聞くけど、狗族を攻める計画、
結局どうするつもりなの?」

やはりその話か、と会長は内心で深いため息をついた。
生田局長から、佐藤優樹がM13地区に逃げ込んだという報告を受けた時から
嫌な予感はしていた。
”大魔女”が関わってしまうという嫌な予感が。

会長はさゆみが今回のことの全貌を知っていると確信した。
だからそのつもりで、説明を省き言葉を紡ぐ。

「事の発端となった『佐藤優樹』が協会の手に渡りました。
だから、もう狗族を攻めることは出来ない。
これからのことは、今協議中ですが…」

「そう。じゃあ、協会の作戦は大失敗だったのね」

さゆみがニヤリと笑う。
協会が仕組んで、狗族を併呑しようと画策したことも知っている。
そして、それを面白く思っていないことも分かった。
M13地区も関係しない世事に、さゆみが関わろうとすることは無いと考えていたけれど
すべてが悪い方向に転がった。
結局、強引に推し進めた計画は失敗で、現時点では何一つ協会にとって得るものもない。

「そういうことになります…。しかし、何故あなたがそれを…」


「佐藤優樹。あんたの言う発端になった狗族の女の子ね、私の物なの。
返して貰おうと思って」

会長はさゆみの笑顔の中に狂気を見出していた。

「どうせ、もう関係ないでしょ?
狗族を攻められないんじゃ、佐藤を捕まえてたって何の意味もない。
計画失敗の腹いせに、幹部たちの溜飲を下すくらい?
だったらさ、いいじゃない。捕まったことにして、こっそり出しなよ。
いくらあんたが無能でも、それくらいは出来るでしょ?」

会長が眉根を寄せ、苦悶の表情を浮かべる。
暫しの沈黙の後、徐に口を開いた。

「それは…いくらあなたの頼みと言えど、出来ません」

「ふーん」

「我々協会は、魔道士の秩序を担っている。
その長である私が、それを犯すことなど出来るはずもない。
それに、佐藤優樹が協会員を傷つけたことは事実です。
それは狗族と戦うということとは別の問題です」

息苦しそうに途切れがちに紡がれた会長の言葉を聞いて、さゆみはすっと目を細めた。
それから、手を掲げ、指先を会長の額に向ける。
会長には、その行動の意味が分かった。


「そう。ならいいわ。死になさい」

さゆみの魔力に変化はない。
しかし、その言葉には冗談めいた雰囲気は微塵も無かった。
そもそも、相手は”大魔女”。躊躇することなど、無いと思えた。

会長は深く息を吸い込み、強く言い放った。

「私を殺すというなら、そうすればよかろう。
しかし、それで協会があなたの思い通りになることはない」

「そうかしら?」

「あなたは組織というものに否定的のようだが、組織には組織の強さがある。
私が死んでも、後を継ぐものはいるし、意志も継いでくれる。
協会を害し魔道士の平穏を脅かすあなたを、全ての魔道士が許しはしないだろう。
そして私も、老いても魔道士協会の会長だ。ただ殺されるつもりは無い」

会長が、徐々に魔力を高める。
さゆみの魔力に変化はない。その表情にも。

会長も、まともに戦って勝てると思っているわけではない。
もはや意地になっていた。

協会の力の下落。
それを憂う部下たちの強引な計画を承認し、結果失敗した。
自分が会長を任された今になって、協会の凋落に拍車がかかっている気がしてならない。
それは全て自分の責任。
その上、自らが協会の掟を破り、大魔道士に屈することなど、その矜持が決して許してはくれない。
ここで殺されるのなら、まだその方がいい。
後任にこんな状態の協会を任せることは心苦しいけれど、協会に新しい風が吹くかもしれない。


さゆみは、手を翳したまま
魔力を高める会長の姿をじっと見ていた。

「組織の強さね…」

呟いてさゆみが手をおろす。
会長は少しだけ強張っていた魔力を緩めた。
しかしまだ、さゆみが納得したとは到底思えない。

「じゃあ、こういうのはどうかな」

さゆみの笑みが、一層恐ろしい物に感じて会長は背筋を震わせた。
さゆみが徐ろに手を払う。
空中に、幾つものスクリーンが現れた。

その一つに一人ずつ、人物が映っている。
それは動いていて、たった今の、リアルタイムの映像であることを会長が直観する。
それと同時に、そこに映し出された人物達の顔に強い戦慄を覚えた。

「副会長、理事会、各局局長…ざっと、あんたの跡継ぎ候補ってこれくらい?
ふふ。この子達が今、あんたと同時に一斉に死ぬの。どうなるかな?」

「……正気か?」

「あんた『三大魔道士』が正気だとでも思ってたの?」


会長が映像に映る部下たちを一人一人見つめる。
額には大量の汗を浮かべていた。

「この子達がいっぺんに死んで、協会はどうなるかしらね。
誰がトップに立ちたいと思う?そんなのが居たとして、みんなはついていく?
指揮系統は?各局の動きを纏めることが出来る?協会に恨みのある魔道士も大喜びで活動始めるだろうね。
少なくとも大混乱になるだろうけど、一度火がついた混乱を収める力があるかしら?
ふふふ。面白そうね。あんたの言う、組織の強さ。私の知ってる組織の脆さ。どっちが表に出るかしら」

「やめろ…」

「ま、どうせあんたは死ぬし、私にも何の関係もないし、どうでもいいことかもね。
どっちにしろ混乱すれば佐藤を悠々と私の街に連れて帰ることは出来そうだし。
それとさっき私の『頼み』って言ってたけど、これは温情よ?
いちいち話さなくたってすればいいだけのこと、だけど知り合いのよしみで、先に話してあげたの」


会長が口を真一文字に結び、俯き目を閉じる。
額に玉の汗を浮かべ、苦悶に苛まれながら頭を巡らせた。

二つの魔力が押混ぜる異様な空気の執務室に、長い沈黙が訪れる。
そして、会長がその沈黙を破った。


「……わかりました。佐藤優樹を、解放します」


 

 

さゆみを覆っていた剣呑な雰囲気が解かれる。
さゆみはニコリと、今までとは違う種類の笑みを浮かべて手を払い、
中空にあったスクリーンを消した。

部屋を覆っていた緊張が一気にほぐれた。
会長も、大きく深く息を吐き出し、纏っていた魔力を消す。
それから深く椅子に腰かけなおした。

「協会の力を信じていないわけではない、が。
私のケチなプライドと天秤にかけるにはあまりにも代償が大きいようですな…」

疲れ切った笑みを浮かべて会長が言う。

「そうそう。それと、プライドと、自分の心に悖る何かをするための言い訳とは違うからね」

さゆみが言いながら、近くにあった椅子を引き寄せ腰かけた。

「おっしゃる通りです」

すっかり弛緩した空気の中で、会長がパタパタと顔を扇ぐ。
それから、また一つ大きく息を吐き出し口を開いた。

「一つ伺いたいのですが」

「なに?」

「もし私が、イエスと言わなければ、あなたは本当に部下たちを一度に殺したのでしょうか」


それを聞き、さゆみが可笑しそうに笑った。

「まさか。いくらさゆみでもそんなこと出来るわけないじゃない」

「……」

「さっきの言葉、撤回したくなった?」

悪戯に笑うさゆみの顔を見て、会長は諦念の息を吐き苦笑した。

「いえ。あなたは嘘もつきますからな。
出来ないことを出来ると言ったり、出来ることを出来ないと言ったりも…」

「ふふふ」

さっきまでも空気とは一変して、何か親しげな雰囲気が生まれる。
でもそれを会長は変だとは思わなかった。
結局、自分如きの魔道士では”大魔女”には適わない。
それを思い知らされ、いっそ清々した気持ちすらあった。

「焦っていました。
確かに、今回の計画、私の気持ちに悖る部分もあった。
それでも、協会のために、ひいては全ての魔道士の為に動き出したことだ。
止まることは出来ないと思っていた。
…ふぅ。しかし、大山鳴動して鼠一匹も出ず、か…。
いよいよ私も退き時かもしれません。本当に耄碌してしまったようです」

自嘲気味に話す言葉をさゆみは笑いながら聞いていた。
その笑みが、とても優しいものだと感じたのは会長の気の迷いだっただろうか。


「頭が固いのは、あんたは昔っからだけどね。
でもま、その歳で無理に頑張りすぎることもないかもね」

「ははは。あなたにそう言われてしまうのもお恥ずかしい話ですな」

会長は徐ろに立ち上がり
部屋の横の給湯室に入っていった。

暫くして、湯気の立つカップをお盆にのせ戻り、さゆみと自分の前に置いた。
コーヒーの香ばしいかおりが鼻腔をくすぐる。

「今回のことで何も得ることが出来なかった。
逆に、協会内に不和や不信の種をばら撒いてしまったようです。
損ばかりですよ。佐藤優樹や、協会員工藤遥に倒された会員の治療費とかね。
やはり、私は責任を取るべきでしょう。辞めることで、どんな責任が取れるのかも分かりませんが」

さゆみは出されたコーヒーに一口つけ、苦さに顔を顰めて
慌てて添えられた砂糖を溶かし込んだ。
それから、事もなげに言葉を発する。

「治療費といえば、今頃佐藤がいる仮拘置所が子供たちに襲撃されてるはずだから、
そこの職員の治療費もだね。あ、そっちも見逃してあげてね」

「な…」

すっかり緩んでいた会長の顔に再び驚きの色が戻った。
それから暫し考えて、言った。

「まさか、生田の子供たちが…?」

「ふふ、誰とは言わないけど」


「……何故そんなことをさせたのです。あなたがこうしてここに来た。
私の返答も分かっていたのなら、そんな危険なことをさせる意味は無いはずです」

「さゆみがさせたんじゃないもの。
それにね、謎の魔道士に協会施設を襲われてまんまと佐藤を連れ出された、
協会の威信に関わるからそれを隠ぺいする、って方があんたもまだ恰好がつくでしょ」

「…しかし」

「あんたが変なプライドと仲良く踏ん反り返っている間に、
自分達の全部を掛けて戦おうとした子達がいるの。一人の女の子と狗族の両方を救うためにね。
あんたのプライドは、その子達の未来と比べれば重い?」

さゆみに見据えられ、暫くの沈黙の後
会長は大仰に息を吐いて笑った。

「いえ。ふふふ、私の最後の仕事は協会への裏切り、というわけですな。
しかし、その子達が万が一その場で捕まってしまったら、いくら私といえど工作することは出来ませんぞ」

「それで十分。強いからね」

言いながらさゆみが指を組み覗き込む。
施設に突入し、優樹の元に向かう4人の姿が見えた。
誰も欠けていないし、怪我をしている様子もない。
気付かれないようにほっと息を吐き、視線を会長に戻す。


「あなたはまだ『人』なのですね」

「ふふ、変なこと言うね。あんた達からすれば異常に見えるだろうけど、相変わらずさゆみは人間だよ」

二人が笑い合う。
それから、会長がまた神妙な顔になった。

「今回のこと、あなたは面白くないと考えておいでだったのでしょうが、協会の抱える問題についてもご存知でしょう。
……正直に伺います。我々はどうすべきだと思いますか。どうすれば、協会は、魔道士たちはこれからも共存していけるのでしょう」

「さあ。自分で考えなよ」

にべもない言葉に、また会長が笑う。

「でもま、真面目すぎるからダメなんじゃない?
人の気持ちを一つにするなんて難しいよ。ましてや、自分勝手な魔道士を纏めるなんてね。
もっと遊び心があったほうが楽しいでしょ。協会だって今日明日無くなるわけじゃないんだから、ドンと構えなさい」

「遊び心、ですか…」

「そ。あんたが本当に退くんなら、後任はもっと不真面目なのにしなさい。執行局の局長なんて最悪ね」

「はは、生田ですか。あれは魔道士としては本当に優秀なんですがな、私に似たところがあるのが玉に瑕です。
しかし、何となく光が見えたような気もします」

「気のせいでしょ」

「ふふふ。初めから、あなたに教えを乞うていれば良かったのかもしれませんな。
協会内に、変なしこりを残さず、狗族やほかの部族との軋轢を深めず、それでも協会を発展させる道もあったのかもしれない。
あなたは協会を設立した先達のこともご存知でしょう。その中に、協会のこのような未来を予見した方はいらっしゃらなかったのでしょうか?」


「ああ、いたよ」

会長は少し驚き、身を乗り出した。

「いったいどのように考えておられたのですか?」

「その時代の子達が、なんとかするだろうって」

「ははは、それはいい。私がこんな協会を後に託すのに、実に心強い言葉だ」


コーヒーを飲み、すっかり二人は落ち着いていた。
さゆみは、時々指を組んで覗き込む。
優樹が無事、衣梨奈達と合流出来たのを見届け、満足げに息を吐いた。

話してすぐに帰るつもりだったのに、随分長居をしてしまっていた。
何だかんだと言っても、会長との付き合いは長い。
数十年前に会ったばかり、そう思っていたけれど、すっかり老いたその姿を見ていると
これで最後のような気もした。

会長も、もう少しさゆみと話したいと思っていた。
けれども、自分がやるべきこともある。本部内の職員を緊急待機させていることもある。
さゆみにもしたいことがあるだろう。
これ以上は、引き止めるわけにもいかない。

「最後に、もう一つ聞きたいことがあるのですが」

ずっと穏やかだった会長の顔が、また険しいものに変わった。
それをさゆみが訝る。
今までの話以上に大きな話でもあるのだろうか。

「あなたと同じ、三大魔道士。”西の大魔道士”について何かご存知ではありませんか?」


「西の?確か島に引きこもってずーっと研究してるんじゃないの?」

「……ご存知ありませんでしたか。
実はここ十数年の間に、島の外で何度かあの方の姿が目撃されているのです。
トラブルにまではなっていませんが、接触したという協会員もいます」

さゆみは、それを聞いて急にいろいろなことに合点がいった。

「なるほどね。それで焦ってたのね」

「…はい。もし仮に協会があの方と接触するような事態になった場合
どんなことが起こるか想像もつきません」

「ま、確かにアイツなら『暇だから協会潰そう』とか言い出しそうだしね」

「話し合いが出来る相手とは我々も考えていない。
しかし、協会にはあの方を止められる力を持った魔道士も居ない。
……何か起こる前に、少しでも力が欲しかった」

「気にしすぎじゃない?
何か言われたとかじゃ無いんでしょ。ま、アイツがわざわざ協会に言ってから何かするとも思えないけどさ」

「そうですね…。何事もなければいいが…不安ばかりが募る、そんなここ十数年。
我々も少しおかしくなっていたようです」

「…西の大魔道士、ねぇ」


さゆみが何も知らないことは事実だったから、その話は続かなかった。
会長も、もし協会と”西の大魔道士”の間に何かあった場合、さゆみに助けてほしいとは言えなかった。
断ることは目に見えていたし、
三大魔道士二人の争いになれば、それこそどんなことが起こるか想像も出来ない。

二人の会談は不思議な途切れ方で終わった。
窓から差し込む光が、すっかり夕暮れのそれに変わっている。
さゆみは、飲み干したコーヒーのカップの底をゆらゆらと揺らした後、立ち上がった。

「じゃあ、帰るね。いろいろ、お願いね」

「はい。…お願い、ではなく温情でしょう?」

「うん、そう」

二人は親しい友人のように笑い合った。
さゆみが退室する。

会長は、受付に連絡し、さゆみを見送るように指示した。
それから、幹部たちに連絡を入れ、緊急の会議をしたいと告げる。
自分の進退についても、電話口でそれぞれに告げた。

 

 

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最終更新:2015年02月16日 19:22