マーガレットの話 3


夜中、マーガレットは短剣を手にクランの奥の柱の前に立っていた。
その柱には小さな傷がある。
目立たない、ともすれば見落としそうな傷だけれど、マーガレットにはその意味がわかる。

マーガレットは短剣を振り上げ、新たな傷を刻みつけた。

この行為に意味を持たせるつもりはあまり無い。
だけれども、慎重なマーガレットは先への備えを怠るつもりは無かった。
クランの色々な場所に、色々な形で印をつける。

揺蕩う記憶のようには簡単には消すことの出来ない傷を。

ふと気配を感じ、マーガレットはビクリと肩を揺らし振り上げた剣を止めた。
それから手を下ろし、静まり返ったクラン見回した。

気のせい、とは思わない。
マーガレットは自分の思考、論理を信じるのと同じくらいに直感、感覚を信じていた。
その感覚の鋭敏さこそが自分の本懐であるとさえ考える。
だから誰かが居るのだ。
もしそれがあの男なら、もういよいよ時が来た、ということになる。

マーガレットが暫く角の闇を睨みつけていると、人影が現れた。
その姿に、高まった緊張がスっと引く。
そこに幻のように儚く佇んでいたのはスノウだった。


「マーガレット…何をしているの」

「スノウ。これははしたない所を見られたわね」

マーガレットは笑みを浮かべ、短剣を収めた。
スノウは虚ろな表情のまま、マーガレットに歩み寄る。
その目が、何かを恐れるように、非難しているというように見えた。

二人の間に緊張の糸が張る。
今この瞬間、まるで敵同士だとでも言うように、マーガレットとスノウは対峙していた。

「竜胆や紫蘭じゃなくてよかったわ。
 あの二人だったら、どやされるだけじゃ済まなかったもの。
 それともスノウ、あなたが告げ口したりするかしら?」

マーガレットの、少しだけ皮肉を含んだ言葉にスノウは睨むような視線を返したあと、ゆっくりと首を振った。

「マーガレット…あなたは自分のしていることの意味が分かっているの?」

静かな声でスノウが言う。
マーガレットも、落ち着いた声で言葉を返した。

「もちろんよ。私が一番、私のことを知っているわ」

「あなたも知らないことはあるわ…」

「それはきっと私には関係の無いこと。スノウにとってはとても大事なことだとしてもね」

薄暗い深夜のクラン。
どこかから冷たい風が流れ込んできたように肌が冷まされる。
暫しの沈黙。
二人は見つめ合い、睨み合い向き合っていた。


「マーガレット、私は…」

ふとスノウの目に悲しみが宿る。

それを見て、マーガレットの中に不意に後悔が襲った。

スノウは敵じゃない。
大切な友達だというのに、今自分は何故こんなことを口にしているのか。
それは多分、スノウの心が揺れ惑っているからだ。
落ち着かない自分の心がそれに苛立っているのだとしたら、八つ当たりもいいところ。

マーガレットは思った。
スノウの目は、シルベチカと同じなのだ。
それは自分が未だ経験したことの無い感情。
そして最後まで、経験することは無いであろう気持ち。

それはとても美しく、眩しい。
だけどシルベチカもスノウも、とても悲しそうなのだ。
きっとそれは、そういうもの。


「スノウ、ごめんなさい」

緊張を緩め不意に告げたマーガレットに、スノウは訝しげに眉根を寄せた。

「なんのこと?」

「あなたが私のすることを気に入らないのは分かるわ」

「…私はただ」

「私は私のすべきことをする。そして変える」

言葉を遮りマーガレットが告げると
スノウの顔がまた深い悲しみに打ち沈む。
マーガレットはそれを申し訳ないと思った。
だけど尚、言葉を続ける。

「私はあなたにも、諦めて欲しくない。
 ねえ、スノウ、あなたはリリーのことが好き?」

不意に出た名前に、スノウが怯えたように肩を揺らし顔を上げた。
マーガレットが小さく笑う。

スノウには答えることが出来ない。
それもなんとなく、わかっていた。
マーガレットがジャスミンやミモザやクレマチスを好きだと、愛していると胸を張って言える。
大切な人を、好きだと言うことが
スノウには許されないのだとしたら、それはとても悲しいこと。


「スノウ、見ていて欲しいの」

「…いったい、何を?」

「私を。私のすることと、その結果を。
 あなたからすれば、私は馬鹿なことをするのかもしれない。
 だけどもし私が何かを変えることが出来たなら…あなたがそれを見届けたなら。
 あなたにも、何かをして欲しい。諦めて、閉じ込めてしまわず、幸せになるために何かを」

二人を覆う剣呑な空気はいつしか晴れていた。
そのかわりに、もうずっと昔に確かにあった、二人の間の親しげな雰囲気が生まれている。
それはスノウにとって酷く懐かしく、胸が苦しくなるようなそんな空気だった。

マーガレットはまた微笑を浮かべた。
それに釣られてスノウも、小さく笑う。


「マーガレット…。あなたはいつもそう。
 強引で、自分がいつも正しいと思って、行動して、後悔もしない。
 私は…あなたが羨ましい」

「それだけが私の取り柄だもの。
 そしてそれが私、プリンセス・マーガレットよ」


スノウが遠慮がちに笑う。
マーガレットはその顔に、僅かな希望の光を見た。
自分の言葉がスノウに希望を齎したのだとするならば、それはとても嬉しい。
そしてこれからの行動、その結果で、スノウの光を強くしたい。
例え自分が居なくなってしまうのだとしても、スノウの心の光を消してしまうことのないように。

「じゃあ、私は行くわ。
 またね、スノウ。あなたの心が闇に閉ざされてしまいませんように」

「マーガレット…。無茶はしないで、ね」

マーガレットはニコリと笑ってそれに応えた。
そして、その場を離れる。

スノウとの会話は、マーガレットに強さを取り戻してくれた。
躊躇したあの地下室へもう一度。
そこに大切な何かがある。それを期待して。




薄暗い照明。
相変わらず酷い臭気。
テーブルに置かれている薬。
古びたノート。
そこに書かれた名前。
挟まれている写真。

見覚えの無い名前、二人以外には見覚えの無い顔。
だけどマーガレットはそれらのうちの幾つかを見て、懐かしいという感覚に陥った。
マーガレットは自分の感覚を信じている。
だからそれは、覚えていないけれど間違いなく知っている人達。
今はクランに居ない少女たち。

バツを書き込まれた名簿の名前。
きっと死んでしまった。
あの男の手によって。

怒りと敵愾心、逸る気持ちが恐怖を押し込める。
前回長居することもままならなかった地下室でマーガレットは
新たな鍵を探し続けた。

と、薄闇の中に微かに響いた物音。
何か幽霊のような、ゾッとする気配。
気のせいなどでは無い。
そう感じた時、耳鳴りのするような静寂の地下室に、その声は響いた。



「やっぱり君か、マーガレット。君は本当に世話が焼けるね」

いやらしく響く、無機質な声。
明かりの中に浮かび上がったのは、美しく整ったファルスの、化物めいた立ち姿。

マーガレットは全身を襲う寒気と、足の震えを数秒じっと耐えてから
ファルスを強い目で睨みつけ、笑みを浮かべて言い放った。

「ごきげんよう、ファルス。こんな所で会うなんて思わなかったわ。
 暗くて薄暗い陰気な場所。こんな所を好むのなんてドブネズミくらいだもの」

ファルスはピクリと頬を動かした。
だけどそれだけ。
相変わらず薄ら笑いを浮かべて、舞うような足取りでマーガレットに近づいて来た。

「もう何度目になるかな。
 君がこうして、クランの真実に近づいたのは。
 不思議で仕方ないよ。
 どうして君だけがそんなに、気付くのかさ」

ファルスは、まるで楽しんでいるように、手振りをつけて歌うように口を回した。
マーガレットがそれを知ったことなど、別に大したことでは無いと殊更に主張しているようでもある。

マーガレットは、最初に感じた激しい動悸が漸く治まったのを感じ、胸を撫で思考を巡らせた。

ファルスは何故マーガレットが何度も真実に気付いたのかを知らない。
殆ど全ての事柄に於いて圧倒的にファルスが優位の状況で、この男がまだ知らないことがある。
それは数少ないマーガレットの手持ちのカード。

だけど駆け引きをする気にもなれなかった。


「今回は、いったいどこまで気付いたんだい?」

ファルスがニヤニヤと笑って言う。
恐怖とは別のおぞましさがマーガレットにこみ上げたけれど
あくまで表情は崩さない。
澄ました顔で。

「あなたの言う『どこまで』なんて私に分かるとでも?
 答え合わせをしてみようかしら」

そう言って、マーガレットは短剣を掲げた。
その切っ先を真っ直ぐにファルスの心臓へ向ける。
そしてファルスの表情を伺ったけれど、その顔は何も変わらず、相変わらずニヤついているだけだった。

「また僕を刺すのかい?
 いくら死なないとはいえ、あんまり気持ちいいものじゃないんだけどね。僕は刺されて喜ぶ趣味は無いんだ。
 それを君は何度も何度も。本当に懲りないお姫様だよ」

マーガレットはふっと笑って剣を下ろした。

「そう。じゃあやめておくわ。
 お洋服があなたの汚らわしい血で汚れるのも嫌だし、私が試していないわけがないものね」


ファルスは不死のヴァンプであること。
もうそんなことを確認する段階では無い。

痛い程に張り詰めた空気。
そこに漂う血の臭い。
マーガレットの背中に汗が伝う。

確実と言える鍵は、やはりまだ無い。
こうして後戻り出来ない段階を迎えてしまっても、まだ。

だけどこれ以上繰り返す気も無い。

ファルスの顔に張り付いた余裕の笑みを消す。
せめてそれだけでもしたい。

「ま、つまり今回もおおよそのことは分かってるってことだね。
 ほんとに、君は頭がいいってレベルじゃないね。
 僕は分かりやすくしてるつもりは無いんだよ。
 現に君以外、ま、スノウと紫蘭と竜胆、それと君以外だけど、滅多に気付く子なんて居ないんだ」

スノウと紫蘭と竜胆。
やはりファルスからその三人の名前が出た。
マーガレットは、三人が秘密を知っているらしいことは分かっていたけれど
いったい何が三人の身に起こったのかまでは知らない。
どうして三人ともが、悲しそうな顔をしているのか。
この男にどのようにして苦しめられているのか。

「あの子達から話が漏れた、とは考えないの?」

マーガレットがカマをかけたことに気付かず、ファルスが鼻で笑う。


「ふっ、ありえないね。
 彼女たちは僕の理解者だ。僕の気持ちをよく分かって、僕を受け入れてくれているんだからね」

憐れな男。
マーガレットはやっとの思いで、そう口にするのを堪えた。

理解者、とファルスは言う。
つまり真実を知り、ファルスに協力している。
紫蘭と竜胆の振る舞い、監督生となってクランを管理する姿を見ればなるほどと思える。
そして二人の気持ちも、全く理解出来ないわけではない。
それもまた、シルベチカやスノウと同じように、誰かを愛するが故の選択の一つだと。

でもスノウはまた二人とは立場が違う。
そのことについても、知りたいと思った。
だけど下手に出て尋ねるような真似は、ファルスの思う壺ではないだろうか。

「私がこうしてあなたの企みに気付く理由が気になるようね。
 もしそれが、勘だと言ったら?
 私は何故か凄く勘がいいから、何となく思い出してしまったのかもしれないわ」

ずっと隠し続けて来たこと。
それをファルスに告げることはまだ出来ない。
その気になればファルスはいつでも記憶を消すことが出来る。
マーガレットを殺すことも出来る。
もし殺されるのならば、それはファルスが敗北の為にそうするのでなければならない。

マーガレットの思惑とは別に、ファルスはその言葉を聞いてつと黙り込んだ。
それからポツリと、言葉を漏らす。

「まさか…君にもスノウと同じ現象が?」


マーガレットまた急に鼓動が速まるのを感じた。

「スノウと…同じ現象?」

スノウの身に、いったい何が起こったというのか。

ファルスは、またククと笑いだした。

「そうか。それはいい。
 スノウの次は当然リリーだろうと思ってたけれど、まさかマーガレットとはね。アハハ。
 どうやらかなり個人差があるみたいだ…でもまた貴重な実験サンプルになるよ。フフ」

何が可笑しいのかファルスが不気味に笑う。
マーガレットは、『スノウと同じ現象』の意味が気になり、焦れて声を上げた。

「いったい何だというの!」

「アハハ、いやあごめんごめん。
 フフ、さすがのマーガレットも、そこまでは分からないだろうね。
 スノウはね、記憶が消えないんだ。
 彼女はリリーと共にもう700年以上も薬を飲み続けている。
 僕の血から作り出したこの薬をね」

改めて確認させられたことに、またマーガレットの中に嘔吐感にも似た気持ち悪さが襲う。
その薬を、クランの全員が飲み続けているのだ。


「スノウの身体はどんどん僕に近づいている。
 そしてそれがやっと、はっきりと分かる形で顕れた。
 スノウはね、僕のイニシアチブの効果を受けなくなったんだ。
 君たちのように、記憶を失うことなく、彼女は記憶を保ち続けているんだよ」

ニヤリと笑ってファルスはそう告げた。

マーガレットの中で漸く、スノウに纏わる謎が解ける。
そして、幾多の悲しみが恐ろしい波濤のように胸に押し寄せた。
スノウは忘れることが出来ない。
他の全員が忘れてしまっても、ただ一人全てを覚えている。
どれ程恐ろしくどれ程の悲しみにスノウは耐えているというのか。
たった一人で。

親友と思い出を共有することも出来ず、打ち明けられる仲間もいない。
どうして強くなんてなれるというのか。

マーガレットは溢れそうになる涙を必死で堪え、ファルスを睨み付けた。
何故笑って居られるのか。
何故この男には、スノウの苦しみが分からないのか。

「きみもリリーやスノウほどじゃないにしても、もう随分と長い間このクランにいるからね。
 リリーやシルベチカより先に君にその兆候が顕れたとしても、それ程不思議は無いのかもしれない。
 アハハ、僕は嬉しいよ。マーガレット、僕の永遠の友よ。気高く美しく聡明な君がそうなってくれるなんて
 こんなに嬉しいことは無い」

一刻も早くその口を黙らせたい。
マーガレットは、笑みを浮かべることも忘れ、低い声で言い放った。


「残念ね。私はそんなモノになっていないわ」

「なに…?」

ファルスが高笑いを止めマーガレットを見る。

「先走って悦に入ってる滑稽な姿をもう少し眺めていてもよかったけれど、不快だから教えてあげるわ。
 私はあなたのイニシアチブの影響を受け、全てを忘れたわ。 そして、その効果が弱まったから思い出したというわけでもない。
 自分の力で思い出したのよ。この頭で、ね」

カードを切った。
もう、引き返すことは出来ない。

「自分の力で…?」

ファルスはますます怪訝な表情を浮かべ、マーガレットを見た。
まだ微かにその口元に薄ら笑いを浮かべている。
もうそれを消すくらいならば、間違いなく出来る。

「ふふふ、ファルス。あなたは皆の記憶を操作している。
 そして都合の悪い記憶は全て『消して』いるのでしょう?」

「…ああ、そうさ」

「でも『消して』なんていないわ。
 あなたはただ『忘れさせて』いるだけ。
 記憶を『消す』ことなんて出来ない。 私たちヴァンプも、人間もそう。記憶はその者の全て。
 記憶の連続性の中に私たちの人格は形成されるの。
 だから、完全に記憶を消し去ってしまえば人格そのものが崩壊する。
 あなたならそれも分かっている。違う?」

ファルスの薄ら笑いが完全に消えた。


やはりそのことも、この男は分かっている。
それはつまり過去に、記憶を「消して」しまい、壊してしまったヴァンプがいるのだ。
恐らく殺された、クランの生徒。

「あなたは記憶を忘れさせることしか出来なかった。
 勿論強力なイニシアチブで縛り、思い出すことが出来ないよう押さえ付けていたんでしょう。
 現に私も、殆どのあるはずの記憶を思い出すことが出来ない。
 だけど、断片的には思い出すことも出来るわ。きっかけや道標があれば」

「まさか…マーガレット、君は…」

「私はヒントを元に思い出し、それを元に推理した。
 以前真実を知った時に、私自身が残したヒントを使って、ね」

ファルスの目が大きく見開かれた。
それは、圧倒的な優位であるからこそ見逃していた盲点だろう。
いつでも記憶を消せる。行動も、感情すらも制限出来るというおごりが
細かな事柄を見落とさせる。

そして、それが些細なことだとしても
自分が作った箱庭のクランで、自分が作った人形に出し抜かれることは初めての経験に違いない。

「私はこのクラン中に、私だけに分かるヒントを散りばめた。私が私である限り、絶対に分かるヒントを。
 真実に近づく度に、新たな知識を得る度にね。あなたはそれに気付かなかった。
 それはそうでしょう。まさか記憶が消えることを見越して用意するなんて考えられなかったはずよ。
 どうせ忘れさせればいい、そう思っているから尚更ね」

ファルスのこめかみが蠢き、その顔が僅かに紅潮してきたことに
マーガレットは一つ、勝ちを取ったと感じた。
だけどこれは、一度ファルスに知られてしまった後では同じことは出来ない。
つまりもう、繰り返すことは出来ないのだ。




「…なるほどね」

また、ファルスの口元に笑みが浮かぶ。
だけどそれはさっき程の余裕の笑みではないと思えた。

「初めて君のことを恐ろしいと思ったよ、マーガレット。
 君は本当に頭がいい。そして慎重で、だけど大胆だ」

「お褒めの言葉、素直に頂戴しておくわ」

「だけど、それを僕が知ってしまったからには、もうそんな真似も出来ない。違うかい?」

その通りだった。
ファルスは実際まだまだ圧倒的優位にいる。
それはなんら変わらない。
だけどそれを気取らせる態度を取るわけにはいかない。
まだ、負けているわけではない。

「どうするのかしら?
 私の記憶を消した後、ヒントを消して回る?
 どれだけあると思うかしら。ふふ、いっそクランを燃やしてしまった方が早いと感じるはずよ」

マーガレットも、微笑を消さない。
だけどファルスの顔には、随分余裕が戻って来ていた。


「ふふふ、そんなことしないさ。
 君は何か勘違いしてるようだけどね、僕は君がそうやって真実に近づくのも別に構わないんだ。
 どうせ記憶を消せばいいんだからね。それに、それなりに退屈凌ぎにもなるよ。
 今の話も興味深く聞かせて貰ったさ。君はそうやって何度でも思い出せばいい。
 僕は君が、そんなことは無駄だと悟って、僕を理解してくれるのを待つことにするよ。
 君が退屈しのぎをさせてくれるその間にね。僕は気が長いんだ。待つことは得意でね」

「お生憎さま。
 私はもうあなたといたちごっこを続ける気は無いわ」

そしてファルスを理解することなど、永遠に無い。
この孤独な男に、永遠の孤独を。
偽りの愛を絶望へ。

例え誰かがこの男を愛することがあっても、ファルスはそれに気付くことは無い。永遠に。

マーガレットは、はっきりと一つ分かった。
ファルスを、絶望に突き落とす。それは出来ない。
何故なら、既にこの男は一片の光も見ていない。
ただ縋るように、孤独を埋める手段を求めて、その為に全てを蹂躙する。
このクランの意味が、たったそれだけのものならば
消えてしまえばいい。
だけどそれでも絶望はしないだろう。
失望して、そしてすぐに興味が失せる。
お気に入りのおもちゃが壊れ、すぐにゴミ箱に放り投げる子供のように。
ならば、このクランを存続させ、壊れていない人形が、大切な大切な人形が牙を向くとしたらどうだろう。


それは悪魔の囁きだった。

マーガレットは、偽りに塗り固められたクランで
それでも友を愛していた。
ジャスミンを、ミモザを、クレマチスを。
そしてリリーやスノウ、シルベチカ。チェリーや竜胆や紫蘭を。

もし、彼女たちを絶望に突き落とすことがファルスを失望に追い込む方法だとしたら。

いや、違う。
マーガレットが思い浮かべたのは、スノウだった。

スノウは、ファルスを愛している。
今それがはっきりと分かる。
だから彼女は選ぶことも、逃げることも出来ないのだ。
自分を恐ろしい悪夢の中に閉じ込め、苦しみを与え続ける張本人をあろうことか愛してしまったのだから。

ファルスがスノウに執着するのも、「スノウの身におきた現象」のせいばかりでは無い。
そのはずだった。
誰も愛することなど出来ないファルスが、スノウの中に自身の可能性を見出しているとするならば。
それを破壊することが、最大の復讐に―――


そこまで考えて、マーガレットは我に返った。

スノウの心を美しいと思った。
例え自分を愛することの無い悪魔が相手だとしても、その想いは美しい。
そしてスノウは、大切な友達。
彼女を復讐に利用し、絶望の淵に突き落とす、そんなことが出来るはずが無い。

悪魔に魂を売った復讐者になるわけにはいかない。
どんなに薄汚れ、こんなみじめな場所で最期を迎えるのだとしても
自分は誇り高きプリンセス・マーガレットだ。

「いたちごっこを続けるつもりはないって?
 じゃあどうするつもりなんだい?」

またファルスには勝ち誇った笑みが浮かんでいた。
出し抜かれたのは事実。
だけどそれが、クランにも、自分の身にも何の意味も無いことに気付いたのだろう。

もがくマーガレットを観察する。
そんな嗜虐心が、そのおぞましい笑みの中に浮かんでいた。


「ねえ、ファルス。あなたはいったい何人の少女達を殺してきたの?」

復讐の規模は、マーガレットの中で随分と小さなものになった。
それは今この瞬間のファルスに失望を与え、そして自分を殺させる。
この男が殺したくないと感じていたからこそ、今まで生きていたという自覚がある。
それが我慢ならない。

だから気持ちに逆らわせ、殺させるのだ。

「…なんだよ急に。忘れたさ」

「可哀想な子達。
 誰にも思い出しても貰えず、あなたにも忘れられ、ただ殺されたのね」

忘れているわけが無いと思った。
だからこそファルスは名簿を残し、700年以上も前の写真を後生大事にとっているのだ。
その頃には、まだこの男の胸にも僅かに希望があったのかもしれない。

「…何が言いたい」

「あなたは私の『方法』を聞いてすっかり安心しているのでしょう。
 だけど私は、まだもう一つ、あなたしか知らないはずのことを知っているの。
 これは紫蘭や竜胆、それにスノウも知らないはずのことよ」

またファルスの顔から笑みが消えた。
マーガレットが、強がってでまかせを言っている、という可能性も考えている。
だけどそうと断じれない、冷たく決然としたマーガレットの意思を感じたらしかった。


マーガレットの心が澄んでいく。
これから言うこと。
これも過去には間違いなく告げたことがない事実。
自分の性格からして、絶対に言ったりはしない。


「あなた、ダンピールよね?」


瞬間、ファルスの表情が鬼のそれに変わった。
その額から、こめかみから浮き上がった血管が脈動し、そこに汗が伝うのが見える。
顔がみるみると紅潮し、血走った目は、先ほどの薄ら笑いなど考えられないような
恐ろしい鋭さでマーガレットを見ていた。

「な、なにを…。何を、バカな…」

「ふふふ。惚けても無駄よ。
 私はそれを知っている。
 どうやって知ったかまでは、教えられないわ。
 だけど私だけがそれを知ることが出来る。何度忘れさせられようとね」


「マーガレット…」

「汚らわしい血を持つダンピールのあなたが、どうしてTRUMPなんてことがあるかしら。
 きっとあなたはTRUMPの偽物ね。
 きっとドブネズミがヴァンプに化けて、TRUMPの真似事をして少女達を弄んでいるんだわ。吐き気がする」

「だまれ…」

「ダンピールのあなたは誰にも愛されず、だから自分だけのお人形を欲したのね」

「だまれ!!!」

ファルスが叫び、マーガレットを突き飛ばした。
荒い息を吐き、胸に手をあてマーガレットを睨み付ける。
その怒りの形相を、ファルス自身が鎮めることが出来ないようだった。

マーガレットが倒れた拍子に、ファルスの足元に短剣が転がる。
ファルスがそれを拾い上げた。

マーガレットはその表情を見上げながら
ゆっくりと立ち上がりスカートの皺を伸ばした。

「愚かな嫌われ者。
 どうぞあたしの記憶を奪いなさい。
 私はすぐに思い出す。
 そしてその時に私がとる行動も、もう決まっているわ」

「…何をする気だ」

荒い呼気。
マーガレットはそれを優雅な佇まいで聴いていた。


「スノウ」

その言葉に、ファルスの肩がビクリと震える。

「あの子は、『忘れることが出来ない』のだったわね。
 可哀想に。あなたみたいな汚らわしい存在に弄ばれて。
 だから私、スノウに告げることにするわ。あなたがダンピールだって」

言葉を言い終わる刹那、マーガレットの身体の自由は奪われた。
見れば血走った目で、ファルスが手を掲げている。

これがファルスのイニシアチブ。
不快なそれを、マーガレットは落ち着いた心で感じていた。

今のファルスの顔、行動。
復讐というならば、その目的は果たせたといっていい。

そして、今ファルスに告げたことを、告げず、生き延びて実行することにならないという
そのことに安堵していた。
ファルスを愛しているスノウに、そんなことを言えるわけがない。
そんなことをして、ファルスを突き落とし、殺されて。
そんな死に様を選ぶくらいならば、今ここで、スノウを、友を愛したまま死ぬ。
それがプリンセス・マーガレットのなけなしのプライドだった。


ファルスは手を掲げたまま、唇を震わせ笑みを作った。

「マーガレット…君は、このクランには相応しくないらしい」

「そう、残念ね」

「残念だよ。僕は、君のことも愛していたんだ」

「あなたは、誰も愛していないわ。いつか…誰かを愛することが出来るようになればいいわね」

ファルスは歪んだ笑みを浮かべ、真っ赤になった額をピリピリと蠢かせた。

「お別れだ。美しく聡明なプリンセス・マーガレット」

「ごきげんよう、ファルス」

イニシアチブの発動を感じる。
マーガレットは、今まさに自分が死ぬのだと感じていた。
目を閉じると、ジャスミン、ミモザ、クレマチスの顔が浮かび上がった。

最期の瞬間、マーガレットは心の中で彼女たちに祈った。
私を忘れないで、と。

マーガレットの意識は、それを最後に閉じた。
その場に頽れ、動かなくなったマーガレットを、ファルスは荒い息を吐き見下ろしていた。




ファルスはクランの廊下を歩いていた。
腕にはマーガレットを抱き抱え、ゆっくり、ゆっくりと歩く。
渡り廊下に出ると、相変わらず暗い夜空から啜り泣きのような雨が降っていた。
マーガレットの身体が濡れてしまわないよう、抱きしめ歩く。

クランの女子寮に隣接する監督生の私室。
その前でファルスは立ち止まり、低い声を出した。

「竜胆、紫蘭、いるかい?」

程なく、扉が開かれる。
竜胆と紫蘭が顔をのぞかせた。

「御屋形様、いったい…」

「マーガレットお姉さま…?」

二人がファルスの腕に抱かれ、安らかに目を閉じ息をしているマーガレットの姿を見つける。
それからファルスの顔を見上げ、戸惑いの声を出した。

「少し休ませてあげてくれないかな。じき、目を覚ますはずだから」

そう言ったファルスの表情から
竜胆も紫蘭も、感情を読み取ることが出来なかった。
その口元は笑っているけれど、まるで泣いているような、そんな表情。

「はい…」


竜胆が短く返事をすると、ファルスがマーガレットを差し出した。
ずり落ちてしまわないように、ゆっくりとした動作でマーガレットを受け取った竜胆は
そのまま部屋の奥に向かい、ベッドの上にその体を寝かせた。

「いったい何があったのですか…?」

紫蘭が尋ねる。
その声を、竜胆も背中で聞いていた。

「マーガレットの記憶を消した」

その言葉に、紫蘭はハッとし、表情を翳らせた。
竜胆はファルスに目を向けないまま俯き、マーガレットの眠る髪にそっと触れた。

「マーガレットお姉さま…」

竜胆の小さな小さな呟きは、ドアの外の雨音に消された。

「彼女は知りすぎたんだ。それだけさ。
 すまないね、夜分にこんなことを頼んで。宜しく頼むよ」

ファルスは不自然に明るい声でそれだけ言うと踵を返し、小さな背中を二人の部屋から遠ざけていった。



ファルスは自室に戻り、机に向かって何をするでもなくぼんやりと腰掛けていた。
窓の外の雨の音をただ聞いて、考えることもせずじっとしている。

と、パタパタと廊下から足音が響いた。
続いて強く戸をノックする音。

「御屋形様!御屋形様、いらっしゃいますか…?」

それは竜胆の声。
ファルスはなんとなく、その訪問を予感していた。
彼女たちにマーガレットを預けてから、もう何時間経っただろうか。

「なんだい、竜胆。開いてるよ」

ファルスがそう言うと、扉が勢いよく開かれた。
足音も、その仕草も、さっきの声も、おおよそ普段の淑やかな竜胆らしくない。

ファルスは振り返ることをせず、背中で竜胆の入室を感じた。


「御屋形様…いったい、マーガレットお姉さまに何をなさったのですか…」

竜胆の声は震えていた。
涙に滲んでいるようにも思えるその声には、不信と疑念が混ざっている。


「マーガレットが目を覚ましたのか。どんな様子なんだい?」

ファルスは尚振り返らず、竜胆に声を掛けた。
いつもと同じように、軽く平坦な調子で。

竜胆はそんなファルスの様子に酷く戸惑ったらしく、何度か息を呑み言葉を探していた。

「目を覚まされてから、マーガレットお姉さまはずっと意味の分からないことを仰って…。
 私や紫蘭のことも何一つ思い出されず、ただ自分のことをプリンセスだと、子供のように喚いているんです…。
 あのお姉さまが、こんなことって…。御屋形様、いったいどういうことか」

「言っただろう。マーガレットの記憶を『消した』って」

竜胆の言葉を遮りファルスが言い放ったその声は
恐ろしく冷たい色を帯びていた。

「だって、それは…」

竜胆も、紫蘭も、ファルスの協力者となってから
クランの生徒たちの記憶を消す行為に立ち会ったことがあった。
だけどそれは、知るべきでない余計な記憶の消去や、クランでの生活に違和感を覚えないようにする為の最低限のもの。
マーガレットの変化は、そんなこれまでの事とは明らかに違っていた。


「マーガレットの記憶、このクランに入ってからの記憶はね、もうどこにもないんだ」

ファルスは、漸く向き直り、竜胆を見た。
口元には笑みを浮かべながら、それでも血走った目が竜胆に向けられている。

記憶の連続性を失い、空白に満たされたマーガレットの心は
もう形を保つことも出来はしない。
マーガレットは、その人格もろとも、壊れたのだ。

「文字通り、消したのさ。
 もう彼女の記憶が戻ることは無い。永久にね」

「そんな…」

「君たちの知るマーガレットは、もう居ない。
 優しい君たちのお姉さまは、死んだよ」

竜胆の両の目から、涙がこぼれた。
それが次々に溢れ、竜胆はそれを拭うことも出来なかった。

ファルスは、聞き分けの悪い子を嗜めるように
竜胆に強い視線と、不気味な微笑を注ぐ。

涙に暮れる竜胆は、それでも強い目でファルスを見返した。

「酷い…あんまりです…。なんでこんなこと」

「それも言ったじゃないか。
 彼女は知りすぎたんだ。このクランで永遠の時を過ごすには相応しくないくらいにね」

竜胆がファルスの言葉を聞いてなお、強く強く睨みつける。
これまでに見たことがない程に、竜胆は強く攻撃的な目をしていた。


「なんだよその目は」

「マーガレットお姉さまがもし知ってしまったのだとしても…
 あんな風にしてしまう理由があるわけは無い」

ファルスがギリと奥歯を噛む。
竜胆の低く震える声が、空虚なファルスの胸に木霊する。

「紫蘭を残してきてよかった…」

「どういう意味だ…?」

「あなたに何をするか分からなかったわ…」

ファルスは初めて、竜胆が自分に敵意を向けているのだと気付いた。
受け入れ、協力すると申し出たはずの竜胆が。
何故、こんなにも怒っているのかが分からない。
自分のことを、理解しているはずなのに。マーガレットの記憶を消したことだって、理解すべきなのに。
何故それが分からないのか。

ファルスの中に沸き立った苛立ちは、その形が判然としないままにチリチリと燻り膨らんでいった。
マーガレットと最後に言葉を交わした時から続く、言いようの無い苛立ち。
それは瞬く間にファルスの体に広がり全身を埋め尽くす。
竜胆の表情を見ていると、今にも爆発しそうになった。

「マーガレットお姉さま…」

竜胆が呟く。
その声が、ファルスを不安にする。
理解者の二人が、自分よりもマーガレットに気持ちを寄せることなどあってはならないのに。


「御屋形様。私も、紫蘭も、もうあなたに…」

「竜胆、君たちまで僕を否定するというのか…?」

竜胆はファルスの期待とは裏腹に、決然と言葉を紡ぎ始めた。

「もうあなたについていくことは…」

「やめろ!言うな!」

「でき」

言いかけた竜胆が、不意に頭を押さえ、その場に倒れ込んだ。
ファルスが手を掲げ、そして思わず振り上げたその手をまじまじと見た。
イニシアチブを発動したのだと、自分自身も遅れて気付いた。

ゆっくりと手を下ろす。
苛立ちも、怒りも、消えていた。
後には何も無い。
ファルスの中には、何も無くなっていた。


頭を抑え、竜胆が起き上がる。

「あれ…私はいったい…」

「竜胆、君も毎日クランのみんなの面倒を見て疲れているんだね」

ファルスが態とらしく声を掛ける。
その声に顔を上げた竜胆は恥ずかしそうに慌てて立ち上がり居住いを正した。

「御屋形様。私どうしたのかしら、涙が…」

「報告ご苦労様。早く戻って休むといい」

「は、はい。そうさせて頂きますわ。
 それでは、失礼します」


竜胆が踵を返す。
ファルスは歪んだ笑みを浮かべ、その背中に声を掛けた。

「ああ、そうそう。マーガレットの様子はどうだったかな?」

竜胆は振り返り、不思議そうに首を傾げた。

「マーガレットですか?
 彼女はもうずっと、繭期をこじらせて自分をどこかの国のお姫様と勘違いしたままですわ」

「あはは、そうだったね。
 だけど君たちはクランの皆の『お姉さま』だ。
 彼女のこともちゃんと見てやってくれよ。君と紫蘭以外にはそれが出来る者はいないんだから」

「勿論ですわ、御屋形様。では失礼します」

竜胆が部屋を後にする。
部屋からはファルスの笑い声が響いていた。
慟哭のような哄笑がいつまでもいつまでも響く。

竜胆は歩きながら、それを不思議そうに背中で聴いていた。



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最終更新:2014年12月15日 13:24