本編4 『襲撃』

 

 

里保がM13地区に赴任してから1週間程経った。
結局里保は、二日に一度くらいの割合で道重家に訪れ
衣梨奈と料理してさゆみと三人で話し、衣梨奈一緒に寝る生活に落ち着いていた。

春菜は、里保が衣梨奈といる間は姿を見せず
里保が自分の家に帰った時に現れ話をしていった。
さゆみや衣梨奈に自分のことを告げても構わないと春菜は言うが
里保はそんな気になれなかった。

里保はこの数日の間で、すっかりさゆみのことを好きになっていた。
自分にはまだまだ本来の姿を見せていないことは分かっている。
探らなければならないし、本人にもそのことを告げているのに
中々踏み込めないのは、無理に踏み込んで
嫌われてしまったら、という感情によるものだと
里保自信も薄々感付いていた。

だからこそ、これ以上何も出来なくなる前に
さゆみとの間に一線を引くべきだと考える。
小さなことでも、さゆみには秘密にすること、そんな思惑があった。

その為にある程度、衣梨奈に対しても同じ態度をとることになる。
里保は衣梨奈がさゆみに絶大な信頼を寄せていることにも気付いていた。
自分とさゆみがもし敵対した場合に、衣梨奈が迷わず自分の側に
来てくれるという自信は、今となってはもう無い。


友達として、家族として、どれだけ衣梨奈を好きでも
やはり自分は協会魔道士であり衣梨奈は違うのだ。


自室に帰り、一人宿題をしていると
窓を猫がノックする。

開けてあげると、「お邪魔します」と丁寧に礼をして
春菜が部屋に上がり込んだ。
物が増えて、散らかりだした部屋も、春菜はあまり気にしないようで
自前の布巾で手足をしっかりと拭うと
ベッドの脇のテーブルの上に腰を下ろす。

未だ猫の姿しか見せていない春菜。
里保は春菜のことは信用はしていなかった。
それだけに、かえって気安く話すことが出来る。

「人間の姿で玄関から入ってきなよ」

「いやーそれだと、鞘師さん私のこと誰かわかりませんよ。
それにブサイクな元の姿だと、心象が悪くなりそうで」

食えない物言いは変わらない。


数度の対話で
春菜の口からは様々な情報を得ることが出来た。
それを全て鵜呑みにしているわけでは無いが
自分の知識と照らし合わせても、何か嘘を教えようとしているのでは無い
ということは分かる。

まずこの街にいる魔道士の数。
700人以上にのぼり、今も増え続け正確な数字は割り出せないらしい。
人口数万の街に700人というのは、ちょっと恐ろしい率と言える。

それから、この街の魔道士の性質。
勿論千差万別と言えるのだが、共通の意識として
協会の定める魔道士のルールは完全に無視する、ということがある。
『勝負』をする場合は1対1という原則も、この街では無いに等しい。
奇襲、不意打ちも有り。
魔道士間で何をしてもさゆみは関与しない。
時には魔道士間で殺し合いになる場合もある。
この街の外、協会の勢力下でなら魔道士殺しは最も重い犯罪だし
魔道士の常識としてもそのはずなのに、殺人者が街にのうのうとしている
という事実に里保は耳を疑った。
そして、街のトップであるさゆみが、それを野放しにしていることにも。


「ただし、一般の方にご迷惑をかける魔道士がいた場合
道重さんが怒ります」

「どんな風に?」

「その時々ですが、勝負がヒートアップして
一般の方を巻き込んで怪我をさせたり、建物を壊した
魔道士双方が、道重さんに『奪われ』て
北の海の真ん中に捨てられたのを知ってます」

「それ、普通に死ぬんじゃ…」

「まあ、運次第ってところですね。だから基本的にこの街の魔道士は
魔道士に対しては何でもしますが、一般の方にはご迷惑をおかけしない
というのを念頭に置いてます」

協会でも勿論同じような思想はあるが
実際はそこまで見張りきれていなく、またそこまでの厳罰を与えるようにもなっていない。
どちらかといえば、協会は魔道士間の争いを抑制するための組織としての色が強い。


コップに注いだオレンジジュースを器用に飲む春菜を見ながら、
里保は浮かんだ疑問を一つ一つぶつけていった。

「結局道重さんってどういう存在なの?
えりぽんは、道重さんを狙う魔道士もいるって言ってたけど…」

「道重さんを狙う魔道士はいます。
多分この街に住む、殆どの魔道士が道重さんを狙っています」

事も無げに言う春菜に、里保は驚いて鉛筆を取り落とした。

「どういうこと…?」

「魔道士なら、凄い魔法が欲しくなるのは普通ですよね?
道重さんの魔法を『奪う』ことが出来たら、そう考えるのはごく自然です」

「そりゃ、そうだけど…」

「組織的に道重さんを狙ってるグループもいくつもありますよ。
襲撃も過去何度もあります。まあ、結果は今を見れば分かると思いますが」

街の殆どの魔道士に狙われても、さゆみはのんびりと暮らしている。
それだけ、圧倒的な力があるからだろうか。


「はるなんも狙ってるってこと?」

「いや、私なんかがそんな……。でもまあ正直に言えばそうですね。
私だって出来るものなら道重さんの魔法が欲しい。でも、とても無理なのは
分かっていますし、殆どの魔道士も同じです。今は無理、でもいつかはって感じで
魔法の研究に励んでるんですよ」

「なるほどね……。ねえ、はるなん。道重さんって何者なの?
何であんなに若くて、あれだけの魔法が使えるの?一つの魔法研究するだけでも
物凄く時間かかるのに……」

里保の言葉に、春菜は少し笑った。

「若いと思います?道重さん、いくつくらいに見えますか?」

春菜の言葉に訝しみながら、里保が答える。

「どう多めに見ても20代前半。あの雰囲気が無ければ、見た目だけだったら
普通に10代に見えるよ」

「道重さんは、魔道士協会の会長さんより年上ですよ」


里保は、唖然として春菜を凝視した。
協会の会長といえば、もう60を超えているわけで。

「……あの姿、魔法で変身した姿ってこと?」

確かに普通じゃ無い美しさだけど
正直、ちょっとショックだ。
しかしその考えは春菜の言葉に打ち消される。

「違います。道重さんの美しさは天然ものです。ほんと、溜息が出るくらい綺麗ですよね」

「……つまりどういうこと。よくわかんない」

「道重さんの魔法です。たった三人しか使えない魔法。その魔法を持っている人達が
いわゆる『三大魔道士』です」

 

里保は一つ、息を呑んだ。
ようやく、さゆみの秘密に触れられる気がした。

「失われた魔法。不老長寿の魔法。魔道士の間ではそう呼ばれています。
殆どの魔道士が道重さんから奪いたいと考えているのもその魔法です。
半永久的に、魔法の研究ができ、いつまでも若く美しくいられる魔法です」

里保の中で、辻褄があった。
確かにそんな魔法が存在するのなら『三大魔道士』と呼ばれることにもなるだろう。

「これは道重さんから直接聞いた話ですが、道重さんは今の会長さんどころか
魔道士協会そのものが出来る前から魔道士だったそうです」

「俄かには信じがたいけど…」

それでも道重さゆみという存在を思えば、そのことを認めざるをえない。


「だから道重さんは、協会のことにもお詳しいですし、生田さんのお父さん。
鞘師さんの上司にあたる方ですよね?のことも、子供の頃から知っているそうですよ」

それは確かに、逆らえない。
それどころか、協会がうかつに手出し出来ないというのも頷ける話だ。
三大魔道士が三人とも、そういう存在ならば、尚更。

「失われた魔法っていうのはどういうこと?昔は、不老不死の魔道士が他にもいたの?」

「私も同じことを疑問に思って道重さんに質問したことがあります。
『不老不死』じゃなく『不老長寿』の魔法。歴史の中のある時期に開発され
多くの魔道士が体得したそうです。協会が出来る遥か前の話です」

「それなら」


「普通に生きていれば死にませんが、皆死んでしまったそうです。
奪い合いと殺し合いで。今残っている三人以外は皆」

「そんな…」

「魔道士の歴史は、結構血なまぐさいんですよ」

またもう一つ、疑問が浮かぶ。

「皆が狙ってるのは道重さんのその『不老長寿の魔法』なんだよね?
もし奪われたら、道重さんはどうなるの?」

「それも聞きました。
『その場で死ぬよ』って、笑って言われました」

里保はさっと血の気が引く思いがして
頭を垂れた。
春菜がオレンジジュースのグラスを傾ける音が、部屋の中にやけに響いた。

 

 


様々なことが頭を巡り、寝付けない夜を過ごした里保だったが
翌朝は自分でも驚く程に早く目が覚めた。
しかしやはり気分はすぐれず、ノロノロと身支度をする間も
さゆみのことが頭から離れなかった。

長い長い時を生きてきたさゆみが、いったいどんな事を思い暮らしているのか
いくら考えても想像がつかない。
いつも落ち着いていて優しく綺麗な人。里保の中のそんなイメージと
得体の知れない不気味な人というイメージが引き合う。

心許ない里保の心を映したように、空は曇り
今にも泣き出しそうだった。

さゆみから貰った赤い傘を手に家を出て暫く行くと
衣梨奈が里保を待っていた。


「おはよ。早いね、今日はちゃんと起きれたっちゃね」

「だから起きれるってば。……おはよう」

衣梨奈は里保のぶっきらぼうな物言いにも笑顔で応じると
隣に並んで歩き出した。


衣梨奈はさゆみのことをどこまで知っているのだろうか。
ふとそんな疑問が頭を過ぎる。

『不老長寿の魔法』を持つさゆみと衣梨奈では、生きる時間が違うといっていい。
さゆみを慕い師事する衣梨奈も、さゆみより先に老い
さゆみより先に居なくなってしまうのではないだろうか。
そんなことを考えると、途端に悲しさがこみ上げてきた。
それでは、さゆみが衣梨奈を弟子として、人として、愛することなんで出来るだろうか。

もし自分がさゆみの立場なら、きっと誰も愛することなんて出来ない。
悲しすぎるし、辛すぎる。


「うーん、嫌な天気やね。里保、顔が怖いとよ。眠いならそう言えばいいっちゃん」

能天気に笑う衣梨奈に、いっそ問い詰めようかとも思ったが、出来なかった。
里保の口からはその代わりに、別の疑問がついてでる。

「ねえ、えりぽん。こないだ、道重さんやえりぽんを狙う魔道士がいるって言ったじゃん」

「え?うん、言ったけど」

「えりぽんの周りにいる人、例えばフクちゃんとか香音ちゃんが
巻き込まれたり、危ない目にあったりしたことは無いの?」

春菜によれば魔道士でない一般人に危害を及ぼす魔道士はいない。
だけれどもそれは『大魔女』の介入を恐れてのこと。
ならば、その『大魔女』や弟子に対して直接手を出そうとする魔道士は
手段など選ばないのではないだろうか。

里保の質問に、衣梨奈は神妙な面持ちになって歩を止めた。
里保も立ち止まり返事を待つ。


「うん、今のところは」

「可能性はあるんだ」

「わからん。でも、聖と香音ちゃんは衣梨奈が守る。
聖と香音ちゃんのことはえりが守りって、道重さんに言われたけん」

どういう意味だろうか。
里保にはその言葉が酷く奇妙に聞こえた。

「なんで、二人だけ?」

「わかんない」

衣梨奈が少し寂しそうに目を伏せ、また歩き出す。

「道重さん、あんまりちゃんと説明してくれんけん。
でも間違ったことは絶対言わんし
それに、言われなくても、聖と香音ちゃんと……の二人は、えりが守ると」

急に歩を早めた衣梨奈の背中しか見えなくて
どんな表情をしているのかは分からなかった。
里保も、何か告げる言葉も見つからず、ただその背中を追った。



学校への行程を半分過ぎたあたり
細い路地を曲がった所で不意に強い魔力を感じた。
攻撃的な魔力に、里保と衣梨奈が身構える。

後ろだ、と思った瞬間
路地の角を高速で旋回しながら迫る光の矢が見えた。

「危ない!」

衣梨奈が叫ぶと同時に、その矢が里保に直撃する。
両腕でガードした里保の身体が衝撃に弾き飛ばされ民家の塀に叩きつけられた。

「里保!」

衣梨奈が里保に駆け寄る。
里保は、つとめて何事も無かったかのように立ち上がった。

「大丈夫」

「腰ぶつけたっちゃろ!?」

「衝撃はガードしたから」


言って里保が風の魔法を発動させる。
実際は完全には衝撃を吸収しきれず、少し腰が痛かったが
衣梨奈の手前、何でもない風を取り繕う。
実際、この程度のことでどうこうなる身体ではない。

衣梨奈は取り敢えず里保に怪我が無いことに安堵したらしかった。

「まだ気配があるっちゃん。何者やろ…」

気配の方向に向かって行こうとする衣梨奈を、里保が制する。

「明らかにうちを狙ってたみたいだから。
えりぽん、先学校行ってて。うちもすぐ行くから」

「なに言いようと!里保が狙われたのに……」

「もしちょっと遅れそうだったら、先生に腹痛でちょっと遅刻するって言っといて」

「里保!」

「大丈夫だから」

「大丈夫やなか!えりも一緒に戦うけん」

「いらない。うちはえりぽんの手を借りるほど弱くない。さっさと行って」

梨奈の顔が歪む。言葉を詰まらせた衣梨奈が、唇を強く噛み締めた。
警戒する里保は、そんな衣梨奈の顔を見ていない。
里保の魔力が徐々に高まり、曇天の下、樹々が葉先を揺らした。


 


「生田さん、ここは鞘師さんの言葉通り先に学校に向かってください!」

突然の第三者の声に里保と衣梨奈が驚いて目を向ける。
どこから現れたのか、黒猫姿の春菜が電線から飛び降りていた。

「はるなん!?」

衣梨奈が叫んだ言葉を聞き、面識があったことを改めて知る。
衣梨奈は突然の春菜の登場に驚き、戸惑っていた。

「なんではるなんがここに?里保と知り合いやったと?」

未だ攻撃的な気配の衰えない場で
混乱する衣梨奈を春菜が促す。

「とりあえず生田さん、どこの誰か知りませんが、今生田さんが
関係のない魔道士と交戦すると道重さんにも迷惑がかかります」

「それは…」

「大丈夫です。鞘師さんは私が守ります。生田さんは、私のこと信用できませんか?」

衣梨奈が春菜の言葉に逡巡している。

 

二人の会話を背中で聞く間も、里保は前方を警戒していた。
春菜が上手く衣梨奈をこの場から離してくれれば。
自分でも何故これほど、衣梨奈にいて欲しくないのか、分からなかった。
危険に巻き込みたくないのか、戦う自分を見られたくないのか。
とにかく、衣梨奈には一秒もこの場にいて欲しくなかった。


「はやく行って」


衣梨奈は里保の低い言葉に声を詰まらせ
突き出されるように、その場を駆け出した。


衣梨奈の背が見えなくなって暫く、里保と共に警戒していた春菜が口を開く。

「さ、鞘師さんも行きましょう。追撃は多分来ないです」

「追撃は、確かにもう無さそうだね」

「はい。昨日も言いましたが、こんないつ散歩のご老人が通るか分からない場所で
本格的に仕掛けてくる魔道士はそうそう居ません。多分、鞘師さんを挑発して
自分のフィールドまでおびき寄せようとしてるんです。
無視して大丈夫です。学校でならもっと手出し出来ないはずですから」

春菜が、自分とこの街の魔道士との接触を極力回避しようとしているのが分かる。
でも、もうそそれに準ずる気にもなれなかった。

「残念ながら無理。なんか付けられてる」

里保が挙げた腕には、白く光る糸のような物が絡みついていた。
そして目を凝らすと、光の矢が走った軌道にも、その糸が束になって道を作っている。

腕に絡みついた部分がジンジンとしびれていた。

「それと、うちは売られた喧嘩は買うタイプじゃけ」

里保の目を見た春菜の背がぶるりと震える。
既に里保の顔は、戦う時のそれに変わっていた。


空から耐え切れなくなったように雨粒が落ちてきた。



 

腕に付けられた糸から続く道を辿り歩く。
パラパラと雨が落ちていたけれど、
里保は手に持った傘をぶらぶらさせるだけで差そうとはしなかった。

「鞘師さん、やっぱりやめときませんか?」

諦めきれない春菜が里保に声を掛けるが、返事は無かった。
仕様が無く、項垂れて里保の後に続く。

「鞘師さん、後で生田さんに謝っといたほうがいいですよ。
生田さんだって心配して下さってたんですから……」

「なに?」

振り返った里保の眼光に、春菜はすっかり萎縮して
雨粒の浮かんだ髭をブルブルと震った。

「何でもないです」


暫く歩いていると、街の外れの寂れた景色が見えだした。
糸はうっすらと光を放ちながら、壊れたビルの中へ続いている。
解体が途中で投げ出されたのだろうか、壁が半分近くめくれ上がり
コンクリートの破片がゴロゴロと辺りに転がっていて
爆撃の後のように無残な姿のまま、そのビルはひっそりと雨を受けていた。

「ここだ」

「建物の中ですし、罠がある確率かなり高いですよ。
少し様子を見たほうが」

「大丈夫だよ」

言うと里保はスタスタと中に入って行った。
慌てて春菜も後に続く。

ビルの中は、階を仕切る床が無くなっていて
広いホール状になっていた。
壁や床の名残と思われるコンクリートや鉄筋が八方からせり出していて
足場の状態は酷く悪い。ガラス片やゴミなども散乱していた。
天井付近の壁は破れ、白い光の筋の中を雨がパラパラと注いでいる。

探すまでも無く、入口正面の、3階くらいの場所、
せり出した支柱に男が腰掛けていた。


派手な柄のパーカー、フードを被った若い男が
里保の姿をみとめて口を開いた。

里保も春菜も、さっき仕掛けた魔道士がこの男で間違いないと確信する。
睨みつける里保に、男も不敵に笑みを浮かべ視線を返した。
暫時、睨み合う。

「うちを攻撃した理由は?」

「他に先を越されたく無かったからかな。
それと、今日は朝の占いでいい目が出たからね」

「わかった。始めよう」


春菜が二人を交互に見る。
ここに来ても、何とか戦闘を回避できないかと考えるが
もう二人の間で戦うことへの合意が成っていた。

男が立ち上がる。
建物内をうっすらと包んでいた男の魔力が、はっきりと色を帯びた。

里保が手に持った荷物と赤い傘を壁際にそっと置き
男に向き合い、長い髪に手を滑らせる。
髪をサラリと流し離れた手の中にはひと振の刀が握られていた。

刀を軽く振り回し、改めて構えを取る。
里保の周りに、激しい魔力の奔流が起こった。

春菜が息を呑む。
一瞬の静寂。

里保が男にめがけて一気に踏み込んだ刹那
その里保めがけて部屋の四方から光の矢が飛んだ。


上手く回避した里保は、更に向かって来る矢を避けるために突進を中断する。

見れば建物の端、隅々まで白い糸が張り巡らされていて
そこから糸が矢になって飛んで来ていた。
里保に当たらなかった矢は、そのまま筋を残し
次々と部屋を埋めていく。
回避に専念するうち、部屋がどんどんと白い糸に埋め尽くされる。
まるで蜘蛛の巣のように、新たな糸が次々と張り巡らされていった。

「これは、ヤバイですよ鞘師さん。
ここは完全に『蜘蛛の巣』です!」

春菜が叫び後退しようとすると入ってきた入口も、既に糸に塞がれていた。

矢の攻撃を全て交わした里保は、
それとは別に密かに身体に纏わりついていた糸の存在に気付く。
手や足に薄く絡みついていた糸が急に太さを増し、間接の自由を奪っていた。


次々と張り巡らされ、視界を奪う糸を刀で両断するも
糸はパラパラ千切れ絡みつき、どんどんとその量を増していく。

足を取られたと思った瞬間、一気に糸が里保の身体を襲い
手足を拘束された。
糸は弾力がありながら恐ろしい力で里保の体を締め付ける。

動きを止めた里保の身体に、蜘蛛の巣を縫って容赦なく矢が襲う。
里保の身体がまた弾き飛ばされ、コンクリートの壁に叩きつけられた。

「ひぃぃ。あの、私はその、お暇してもいいですかね?」

ガラガラと崩れるコンクリート片と、張り巡らされた糸から逃げ回りながら
春菜が情けない声を上げる。

「情報屋はそこで見ときなよ。手出ししないからさ」

いつの間にか完成していた『蜘蛛の巣』の中央に腰掛け
男が春菜に告げた。


里保も身体を糸に拘束されたまま、立ち上がり
春菜に言う。

「はぁ。さっきえりぽんに、ウチのこと守るとか言ってなかったっけ」

「あ、いえそれはですね」

「まあ、いいよ。大丈夫だからそこで見てて」

春菜には、この状況を打開する方法がまるで浮かばなかった。
建物の中は既に完全に男の領域となっている。
里保が風の魔法や刀を駆使して戦うにしても
攻防に優れた魔法の糸を掻い潜れる気がまるでしない。

「もう少し、あんたの魔法見せて欲しいな。このまんまじゃ、奪うに奪えない」

男の言葉に、里保が再び睨みつける。

「うちはもういいよ。終わらせる」

男が里保の言葉に警戒し、身構えた。
不意に里保の持つ刀が、赤い光を放つ。

 

次の瞬間、里保の身体から炎が湧き出た。
身体を覆っていた糸を焼き尽くした炎が、そのまま一気に
部屋中を埋め尽くす糸に伝線していく。

一瞬の出来事だった。
糸を伝った炎が、その糸の密集する場所に鎮座していた男を包み込む。
男は何か発する間も無く、火達磨になった。
焼かれ足場を失い、ぼとりと床に落ちる。
そのまま、男の身体は燃え続けた。

あまりにも一瞬の出来事に、春菜はただ口を開けてその様子を見ていた。
部屋は既に一片の糸も残らず、男の魔力は消えていた。

602 名前:名無し募集中。。。[] 投稿日:2013/10/13(日) 02:34:22.88 0
静けさの戻った廃墟の中で、男の身体の燃え続ける嫌な音だけが響いたが
男の肉体から魔力を焼き尽くすと、やがてその炎も収まり、消えた。
里保と春菜がゆっくりとそこに近づく。

春菜が恐る恐るのぞき見る。
意外なことに、男は元の姿のまま倒れていた。
髪や服はまるで変化が無いが、露出した肌は黒く煤け、火傷痕のような傷も浮いている。

雨が強くなったのか
サアサアと壁を鳴らす音が木霊した。

「うちの勝ちでいいね?」

里保の声に、男が目を開ける。

「そうだね、残念ながら」

「別に『蜘蛛の糸の魔法』なんて欲しくないけど。気持ち悪い」

「そう言うなよ。大事に使え」

里保は小さく頷いた。
そしてまた魔力を込め、『奪う魔法』を発動させる。
男の身体と里保の身体が淡い光に包まれ、それが収まると
男の身体から魔力が消えた。


 

建物を後にし、学校へ向かう里保の傍らを歩きながら、春菜は先の戦いを思い返していた。
終わってみれば一方的、それも殆ど一瞬の決着だったように思う。
実際それほど一歩的な展開では無かったのかもしれないが、里保の魔法の
印象が強すぎた。

無表情で歩く里保に、春菜は声を掛けることが出来なかった。


里保は『奪う魔法』を律儀に使用した。
そのことについて、じっと考えていた。


この魔法は、全ての魔道士が体得している、一種の基礎魔法だ。
いつからあるのかは知らないが、いわば魔道士の争いを抑制する為のもの。
ある意味では助長しているとも言えるのだが。

勝負を行い、勝った方が負けた方から任意の魔法を奪う。
発動の条件は、両者に勝敗の意識があること。
敗者は負けを口にするか、或いは気絶していたとしても潜在意識に敗北の思いがあれば
発動条件を満たす。
そして奪われたらその魔法は二度と習得できない。
またその時に魔力も失い、元に戻るには数ヶ月から数年の時間を必要とする。
仮に一方的に襲撃したとしても、相手に戦意が無ければ奪うことは出来ない。

勝者が大きな力を手にし、敗者が多くを失う。
この魔法の存在によって、勝負の連鎖が回避される。
ふつう敗者は二度と勝者に勝てなくなるからだ。

この多大なリスクによって、魔道士達の争いは抑制されている。

一度敗ければ、長い時間を掛けて研究した魔法を失い、二度と習得できなくなるリスク。
協会魔道士間でも届け出れば勝負を行うことが出来るが
この魔法の発動を持って勝敗とする為、義務付けられている。
また、犯罪を犯した魔道士の制圧にも用いられる。
魔力を残した魔道士を、拘束することも捕縛することも極めて難しいからだ。


里保は、多くの魔道士から奪ってきた。
まだ奪われたことは一度も無い。

勝負をする以上、奪われる覚悟は常に持っている。
そのつもりでも、やはり負けた時のことを考えることもある。

例えば自分の『風の魔法』が奪われ、二度と空を飛ぶことが出来なくなったら。
苦しい。
自分は、そんな苦しみを多くの魔道士に与えてきたのだということを思い知る。
さっきの男の『蜘蛛の糸の魔法』も、かなりの時間を掛けて完成させた
有用な魔法だということは分かる。
それを失った相手が今後どうするのか、里保はなるべく考えないようにしていた。
魔道士は常に時間と戦っている。
その時間と想いを根こそぎ『奪って』いるのだ。

奪った魔法も、使いこなすにはそれなりの研究が必要だが
里保は、誰かから奪った魔法を使うことは殆ど無かった。
それは、ただの自己満足なのだろうか。
考えても結論は出ない。


「あの、鞘師さん。傘差さないんですか?」

春菜の声に、ふと思考が途切れる。
身体を濡らす冷たい雨が、急に現実の薄暗い空を思い出させた。

「あ、忘れてた」

慌てて赤い傘を差す。
少しだけ、その色を見て落ち着いた。
雨から、嫌な想いから、さゆみが守ってくれているようだ。
そんなことがふと過ぎった自分に苦笑する。

綺麗に舗装された道路をゆっくりと歩いていた里保が突然、つまずきつんのめった。
それを見て春菜が笑う。足元には何もない。

「さっきあんなぐちゃぐちゃしてた所で戦ってたのに
何にもない所で転ぶんですね」

「ほっといてよ」

恥ずかしそうに頬を膨らます里保を見て
春菜はほっとして微笑んだ。

 


学校についた。
時刻を見れば、遅刻には違いないが
一時間目の授業の開始にはなんとか間に合いそう。
ちょうどHRをしている時間だろうか。
衣梨奈が先生にちゃんと告げていてくれれば、多分問題なさそうだ。
里保はそこまで考えて、不意に先ほどの自分の態度を思い出した。
敵を前に緊張していたとはいえ
かなりぶっきらぼうにあしらってしまったかもしれない。
また、悪い癖が出た。

急に足が重くなる。
そもそも、あの時衣梨奈を先に行かせた自分の判断を
間違っていたとは思わない。
結果的に、勝負は難なく終わったのだし。
謝らなければいけない。謝る必要なんかない。


衣梨奈に見られたくなかった、という自分の感情に根拠がないことを理由に
言い訳めいた思考を巡らせた。
昔から何故か、里保は衣梨奈に素直に謝ることが出来ない。

「じゃあ、うちは学校行くから。流石に学校の中までついてこないよね?」

「はい。あ、でもちょっと待って下さい。ちょっとじっとしてください」

校門を潜ろうとする里保を春菜が呼び止めた。
何か、と歩を止めると、春菜が里保に向け柔らかい魔力を放つ。
暖かい魔力に包まれた里保の服から、次第に濡れた嫌な感触が消えていく。
光が収まると、里保の制服が新品同様の綺麗さに戻っていた。

「『ドライクリーニングの魔法』です。鞘師さん、泥だらけでしたよ。
お友達が何事かって心配しちゃいます」

言って笑う春菜に、すっかりそのことを忘れていた里保は照れて頬を掻いた。


「ありがと」

「いえいえ。じゃあ、私はこれで」

「うん、またね。ねえはるなん、うちはもうはるなんのこと疑ったりしてないからさ
そろそろ本当の姿見せてよ」

「有難うございます。それじゃ、今度晴れた日には是非本当の姿で」

相変わらず食えない。
里保は苦笑した。

「それと、『情報屋』ってなに?」

「そ、それは…それも次の機会にお話します」

少し慌てる春菜に、里保が笑う。
そのまま二人は別れ、里保は教室に向かった。


結果的に里保が教室に入った時間は、HRが終わり
1時間目の授業が開始される幕間で、ちょうどいいタイミングだった。
静かな教室に一人入るのは気まずいが、今はざわついている。

里保が入室すると、聖と香音が寄ってきてくれた。

「里保ちゃん大丈夫?」

「体調悪いんだったら、無理しないほうがいいよ?」

二人の言葉に、衣梨奈がちゃんと話してくれたことを知る。
その衣梨奈を探すと、二人よりも遅れて、ゆっくりと里保の方に歩いてきていた。

「うん大丈夫。その、ちょっとお腹痛かったけど、もう治ったから」

「それならいいけど…」

「無理しないでね」

「うん、ありがと」

二人とのやり取りの間に、衣梨奈も里保の所まで来る。


「里保……」

「えりぽん」

衣梨奈の声や表情が心なし暗く、少し、気まずい。

「大丈夫なん?」

「見ての通りだよ」

衣梨奈が里保の頭からつま先までをゆっくり見てから
また里保の目を真っ直ぐ見つめた。

「それなら、いいっちゃけど……」

「だから、えりぽんに心配してもらう必要無いって」

ああ、まただ。謝らなければいけないと考えていたのに
結局こんな言い方をしてしまう。
もうこうなると、謝る切っ掛けが掴めなかった。

「うん、そうっちゃね……」

里保の態度に怒るでも無く、衣梨奈が静かに言う。
聖と香音はそんな微妙な二人のやり取りを訝しげに見ていた。

一時間目開始のチャイムが鳴ったことで
それぞれが席に戻る。
里保は会話が中断されたことにホッとしていた。


その後は比較的普段通り、里保、衣梨奈、聖、香音の四人で
休み時間を過ごした。
タライを返したような雨が降り続き、
激しい音に会話が遠くなったのは
幾分皆声が静かだったせいだろうか。
蛍光灯に浮かび上げられた教室は、どこか不思議な気怠さを醸していた。

「里保、今日はうち来るっちゃろ?」

6時間目が終わり帰り支度をする里保に
衣梨奈が近づき声をかける。
里保は少し考え込んだ。
さゆみのこと。春菜から話を聞いた後で、どんな顔をして会えばいいのか分からない。
また、自分がどんな言葉を発すればいいのかも。
聞きたいことは沢山あった。でも、聞くのが怖いとも思う。


衣梨奈とも、少し気まずい。
今日戦った相手のことや、奪ったことについても尋ねられるだろうか。
そもそも衣梨奈は怒っていないのだろうか。

「うんと、今日もやめとくよ。協会に報告とかしなきゃだし」

それも事実だった。
M13地区に赴任してから始めての戦闘。
勿論ここでの戦いに関して、申告するのは自分の判断で構わないのだが
そもそもの任務が監視、調査、報告であるため、真面目な里保は
その報告をあまり怠りたくなかった。

「……そっか」

衣梨奈が呟く。
怒っていないのだろうか。里保はもう一度、そのことを考えた。
笑顔で言う衣梨奈の表情がどこか寂しそうなことに
里保は気付かなかった。

 


家に帰るなり、研究すると言って部屋に飛び込んだ衣梨奈を
不思議そうに見送ったさゆみの元に、また春菜から通信が入った。

『結局、止められませんでした……』

落ち込んでいるような、そうでもないような春菜にさゆみが苦笑する。

「残念だったね。ま、遅かれ早かれこうなったでしょ」

『そうですね。今日の人は協会に因縁があるとかでも無かったので
まだ良かったです。ある程度、他の魔道士さん達も落ち着いているというか』

「そんな気にしてないよみんな。魔道士は大抵神経質だけど大雑把だから」

『上手いこと言いますね』

「はるなんくらい慎重な方がいいのかもしれないけどね」

『あはは。それにしても、鞘師さんは本当に、なんというか、強いですね』

 

春菜は、朝の里保の戦いについて掻い摘んで話した。
風や炎の魔法を同時に、高レベルで修得していること、
そして何より、未知の敵の魔法に対して、常に冷静に対応し
余裕と自信を持って戦う姿。
まだまだ実力の一端しか見せていないような戦いぶりだった。
そして躊躇なく奪って見せたこと。

『相当、戦いの経験があるんでしょうね。あの若さで。
顔つきもかなり変わっていた気がします』

「うーん…」

『今日の人も、決して弱い魔道士では無かったと思います。
これで中途半端な魔道士だと、かえって手出ししてこなくなるかも。
ただ、今度はもっと大物の標的になるかもしれないし、心配です…』

「まあ、別に負けたって大したことないけど。りほりほって
多分まだ負けたこと無いんじゃないかな。それがちょっと、心配っちゃ心配だね」

春菜はさゆみの言葉に驚いた。


『道重さんでも他人の心配したりするんですね』

「どういう意味?ま、でもね、協会的に『強い魔道士』って
この街じゃ生きにくいからね。せっかくの才能も、死んじゃったら意味ないし」

『鞘師さんが死んでしまう……そんな状況になり得るってことですか?』

「人間いつ死ぬか分からないものよ」

はぐらかされた、とは分かったが
どことなく憂いを孕んだ珍しいさゆみの表情に、春菜は続く言葉を出しあぐねた。

『やっぱり、道重さんが鞘師さんを守って頂くことは出来ませんか?』

「別にりほりほが死なないようにするなら出来るけど。さゆみはね、人を守れるほど強くないのよ。
あの子達の気持ちを守ってあげられる程はね」

さゆみの言葉はいつもどこか迂遠で、謎めいていると春菜は感じている。
誰よりも強いさゆみの言葉なのに、どこか自虐めいた響きもあるその言葉の意味が
春菜には理解出来なかった。
多分、さゆみにしか分からない気持ちなのだろう。


『生田さんだけで手一杯ですか?』

冗談めかして言った言葉に、さゆみがつと黙った。
妙な間の後、溜息が溢れる。

「はぁ……生田の相手も、ただの暇潰しだったのになぁ」

言葉とは裏腹に、さゆみの目は優しく口元は微かに笑っていた。
やはりさゆみにとって衣梨奈、そして里保も大切な存在になりつつあるのかもしれない。
そう思うと春菜の中で嫉妬心にも似た気持ちが湧き上がってきた。
そんな自分に苦笑する。
衣梨奈と里保に才能があるとすれば、こんな大魔道士の心を動かす程の
魅力こそが、それだと思った。

「ま、面倒くさいからさゆみは何もしないけど。はるなんは頑張ってね」

急に雰囲気を変え言い放つさゆみに、春菜は笑顔を返した。

『はい、頑張ります。それでは』

「うん、またね」

『道重さん、今日も美しかったです』

そんな言葉を残して、春菜からの通信が切断された。


「無理に毎回褒めなくてもいいのに」

さゆみが苦笑しながら一人ごちる。

さゆみが誂えた衣梨奈の研究部屋から、強い魔力が漏れていた。
我武者羅な、荒々しい魔力。

「しゃべり過ぎたわ。それにしても荒れちゃってまあ」


夕食の支度に降りてきた衣梨奈は随分と憔悴していた。
言葉少なにご飯を作り、さゆみに料理を提供する。

とても美味しいことには変わりない。
でも今日は愛情の魔法が足りていないな、と思った。
食事が終わると衣梨奈はまた一目散に部屋に駆け込んでいく。

テレビでも見ようと思ったさゆみの元に
またさっきより一層無茶な魔力が届いた。
さゆみが溜息を吐き立ち上がる。


衣梨奈の研究部屋の戸を開けると、猛烈な魔力が肌を襲った。
魔力漏れを防ぎ様々な力に耐えられるようにした特別仕様の部屋。
その外にいても相当の魔力を感じられたのだから、よっぽどだ。

「生田、今日はもうやめときな」

「道重さん……」

「何、戦い用の魔法研究してるなんてどういう風の吹き回し?
全然さまになってないし、そんなんじゃいくらやっても上達なんかしないよ?」

「だって……今日里保が」

さゆみの来訪と共に魔力を抑え、肩で息をする衣梨奈に近づく。
怒られると思ったのか、衣梨奈が身体を竦めた。


そんな衣梨奈の頭をさゆみが優しく撫でる。
ふと緩んだ衣梨奈の目から一筋の涙がこぼれた。

「話してみなよ」

優しいさゆみの言葉に糸が切れたように、衣梨奈の目から次々と涙が落ちる。

「……えり、弱いけん。聖のことも香音ちゃんのことも、里保のことも……守りたいのに
ちゃんと守れるだけの力が無いかもしれないって。ちっちゃい頃から里保の方がえりより
ずっと凄くて。早く、もっと魔法使えるようになりたくて」

途切れ途切れの言葉を、さゆみは衣梨奈の頭を撫ぜながらじっと聞いていた。
口元には、小さく笑みが浮かんでいる。

「そうだね、あんたは戦うのが下手。別に弱くは無いけどね。
でも生田が目指してるのは何?」

「……世界一の魔法使いです」

「でしょ。焦ったってしょうがないよ。なんせ世界一なんだから。
りほりほを超える、くらいの目標じゃないんだから、ね?」

「……でも」

言いかけた衣梨奈の身体が、ふわりとさゆみに包まれた。


さゆみの肩に顔を預けた衣梨奈の声がくぐもり、小さな嗚咽だけが残る。
衣梨奈は暫くさゆみに身体を預け、泣いていた。

「今日はもう寝るよ」

「…はい」


まだ目の赤い衣梨奈がさゆみから離れ、散らかった部屋に『お片付けの魔法』を掛ける。
それから部屋を出て、自室に向かう衣梨奈の後にさゆみも続いた。

就寝準備をする衣梨奈の部屋に、当然のようにさゆみがいる。

「あの、一緒に寝るんですか?」

「なによ、嫌なの?」

「嬉しいです」

衣梨奈のベッドに二人で潜り込む。
ごくごくたまに、こうして一緒に眠ることがあった。
いつも衣梨奈の心が沈んでいる時だったことを思い出す。

衣梨奈は温もりが嬉しくて
さゆみにしがみついた。
さゆみも優しく衣梨奈の肩に手を回し引き寄せる。


「道重さん、ありがとうございます」

「何に対して?」

「わかんないです。あ、一緒に寝てくれて」

さゆみはクスリと笑った。

「生田、一回しか言わないから聞きなさい」

「はい?」

「さゆみはね、生田なら『世界一の魔法使い』になれると思ったから弟子にしたんだよ」

「……なりたいです」

「頑張りなよ」

「はい!……道重さんのことも守れるくらいに、なります」

「生意気言うんじゃないの」

コツリとおでこを合わせたさゆみに、くしゃりと衣梨奈が笑う。
少しだけ笑い合い、温まる。


「おやすみなさい」

「おやすみ」

やがて、衣梨奈の小さな寝息が聞こえだした。
土砂降りだった雨も今は上がっていて、夏の虫の遠慮がちな音が響いてくる。
さゆみはスヤスヤと眠る衣梨奈の額をかきあげ、そっと口付けた。
小さな魔力が一瞬衣梨奈を包む。

「いい夢見なよ。起きたら忘れるだろうけどね」

衣梨奈の寝顔をもう一度見つめ、さゆみも目を閉じた。

 

 

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最終更新:2014年07月14日 22:58
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